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どんぐりの実

 目の前の景色が歪んで見えた。足もとが崩れていくような感覚に囚われ、真っ直ぐ歩くことができない。

 数日前まで確かにリンダはいた。レクリエーションルームで積み木の城を壊し、癇癪を起こし、職員にどこかへ連れ去られていった。マリーはその一部始終を鮮明に憶えている。なのに、キララを含めた他の生徒たちは、あの出来事も、リンダのことも憶えていない。まるでその部分だけ消しゴムで消されてしまったかのように、リンダの記憶が、みんなの中からすっぽりと抜け落ちている。

 リンダはどこに消えてしまったのだ?

 なぜ、ほかの生徒はリンダのことを憶えていないのだ?

 いや……

 本当にリンダという女の子はいたのか?

 間違っているのは自分なのではないのか?

 リンダなんて子は最初から存在していなくて、自分の頭の中にだけいるのではないか?

 そんな考えにとらわれそうになる。

 が、マリーは懸命にその考えを打ち消した。

 そんなはずがない。

 リンダは確かにいた。

 間違いなく存在していた。

 入園初日、窓の下にいてどんぐりを投げつけてきた。そして、翌日には食堂でいきなりぶつかってきた……

 と、そこまで考えマリーは思い出した。

 どんぐりの実だ。

 あのどんぐりの実はまだ部屋にあるはずだ。リンダの行為は許しがたいものだったけれど、どんぐりには罪はないし、思いの外綺麗だったので、取っておいたのだ。

 マリーは急いで自室に向かった。

 あのどんぐりがリンダの存在を証明してくれるはずだ。自分は間違っていなくて、狂っているのは世界のほうだと教えてくれるはずだ。

 息を切らせ部屋に戻ったマリーはまっすぐに机に向かい、引き出しを開けた。

 どんぐりの実が……

 あった。

 細長いその実は、ジェリービーンズにように艶やかな光沢を放っていた。何が起こっているのかわからない不安定な世界の中で、このどんぐりだけが確かな存在のように思え、マリーは胸の前で強く握りしめた。

 自分は間違っていなかった。

 間違っているのは、ほかの生徒たちだ。

 おかしいのは、世界のほうだ。

 その確信を得たマリーは、もう一度気を落ち着かせて考え直した。

 リンダは存在していた。それは疑いようがない。手の中のどんぐりがそれを証明してくれている。

 なのにリンダは、突然、影も形もなく消えてしまった。

 そして、生徒たちはそのことを気にかけない。

 いや、リンダの存在そのものを忘れている。

 何が起こっているのだ?

 みんなして、入園間もない自分をからっているのだろうか。娯楽の少ない学園生活だ。そんな悪趣味な遊びが流行ってもおかしくはない。けれど、あのキララまでそれに加わるだろうか。キララは大切な友だちだし、向こうもそう思ってくれていると信じている。そんな彼女がくだらない悪戯に加わるとは思えない。それに、リンダのことを訊ねたときの反応は、キララだけでなくほかの生徒たちも、嘘をついたり悪戯をしているようには見えなかった。

 では、自分以外の生徒たちが、何か集団催眠のようなものにかかっているのだろうか。だが、仮にそうだとして、いったい誰がそんなことをするのだ。何を目的にそんなことをするのだ。なぜ自分だけはかからないのだ。

 そこで、マリーは、はたと立ち止まった。

 リンダのことを憶えているのは、本当に自分だけなのだろうか。彼女のことを訊ねた相手は、キララと数人の生徒だけだ。それだけで、生徒みんながリンダのことを忘れている判断するのは早計ではないだろうか。他にもリンダのことを憶えている人がいるかもしれない。あるいは、リンダのことを忘れているのはキララと数人の生徒だけで、ほかはみんな憶えているかもしれない。まずは、それを確かめるべきだ。

 そう思い至ったマリーは、どんぐりを握り締め、部屋を飛び出した。

 レクリエーションルームに戻ると、さきほどと変わらず、たくさんの生徒たちが、それぞれチェスやボードゲームなどで遊んでいた。

 キララの姿は見えない。どこに行ったのだろうと、気にはなったが、いまはそれどころではない。キララのことはひとまず置いておいて、マリーは聞き込みを始めた。

 まずは、入り口近くでコミックを読んでいた男子生徒にリンダのことを訊く。

 知らない、とその子は答えた。

 続けてオセロに熱中しているふたり組に近寄った。

 その子たちの答えも一緒だった。

 それから、本を読んでいた女子生徒に訊いた。

 無言で首を横に振るだけだった。

 誰に訊いても、リンダなんて女子生徒は知らないと答える。その答えを聞く度にマリーはやはり自分がおかしくなったのではないかと不安になった。そしてその度に、ポケットの中のどんぐりの実を握り締め、気を確かにした。

 レクリエーションルームにいる数十人にリンダのことを訊ねた。

 全員、憶えていなかった。

 次にマリーは図書室に向かった。

 席に座って書き物や読み物をしている生徒に、順々に声をかける。

 みな作業を中断させられ鬱陶しそうに、知らない、と答えるだけだった。中には、うるさい、あっちに行け、と暴言を吐く子もいた。

 だが、マリーは挫けなかった。いや、そうではない。このまま何もわからなければ、自分自身がどうにかなってしまいそうで、引くに引けなかったのだ。

 マリーは運動場へ出た。

 運動場では軽く身体を動かしている生徒や、ボール遊びをしている子がいた。

 マリーは全員にリンダのことを訊いて回った。

 ここでもおなじだった。

 マリーの質問に困惑の表情を浮かべるだけだった。

 ここまで来ると、さすがに泣きそうになった。自分ひとりが世界から取り残されてしまったような、あるいはひとり知らない世界に迷いこんでしまったような、そんな錯覚に陥った。酷く心細かった。絶望的な孤独に心が凍り付きそうになった。

 だが、諦めるわけにはいかなかった。

 諦めるということは、つまり、自分がまともでないと認めることになる。

 そんなことはできない、いや、そんなことあるはずがないのだ。ポケットの中のどんぐりがそれを教えてくれている。

 おかしいのは世界だ。

 何かが狂っている。

 何かが起こっている。

 自分の知らないところで想像もつかない何かが起こっているのだ。

 マリーは学習棟に戻った。

 もう一カ所、残されている場所がある。

 できることなら行きたくない。追い詰められたいまでさえ、足を向けるのが躊躇われる。

 しかし、行かなければならない。いま起こっているこの異様な現象が何か確かめるためには、そこへ行くしかないのだ。


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