異変
暗い。
ここはどこだろう。
空気は冷たく、湿っている。
暗くてはっきりとは見えないのだけれど、大勢の人がひしめきあっているのはわかる。
隣にはお母さんがいる。
お母さんはマリーの手を握っている。
その手はひどく冷たい。
遠くで轟音が鳴り響く。
轟音はゆっくりとこちらに近づいてくる。
マリーは目を覚ました。
また、いつもの夢を見ていた。けれど、どこか違う。同じ世界、同じ時代なのだけれど、物語が進行するように夢が先に進んでいる。暗く憂鬱な夢には変わりはない。だが、場面や登場人物が微妙に変わっている。
夢が展開するなんてことがあるのだろうか。マリーはちょっと考えてみたが、正確なところがわかるはずもなく、まあ、そんなこともあるかもしれない、というありきたりな答えに落ち着いただけだった。
また、昨日と同じ今日が始まる。朝食を食べ、午前の授業を受ける。昼食を取り、午後の授業を受ける。夕飯を済ませ入浴を終えると、ベッドに戻り、一日が終わる。朝、目を覚ましたこの瞬間から、今日一日の出来事を寸分違わず思い描くことができる。読み終わった絵本をもう一度なぞるように、最初から最後まですべてわかっている。
毎日があまりに単調で、学園生活には思いのほか早く慣れた。今では、入園当初の不安はまるでない。その代わり、めりはりのない日々に少なからず退屈を感じるようになっていた。
マリーはベッドから抜け出した。朝になったから。もうすぐ朝食だから。それが規則だから。ただそれだけのために、マリーはベッドを出て、服に着替え髪を梳かす。淡々と朝の支度をしていると、自分が、春になったから花を咲かせる、そんな植物にでもなったような気分だった。
身支度を済ませ、食堂に向かって廊下を歩く。
長い廊下を進みながら、マリーはふと思う。
この廊下は、こんなに長かっただろうか?
昨日よりも廊下が伸びている気がする。
そんな考えが一瞬頭をよぎった。
が、すぐに、そんなことがおこるわけがないと、マリーはひとり苦笑した。
階段を下りる。
その途中で、またおなじ感覚にとらわれた。
段数が増えているような気がする。
まさか、とマリーは足を止め振り返った。突然振り返るマリーに、後ろを歩いていた男子生徒が怪訝な表情を浮かべた。
マリーは慌てて向き直り、何事もなかったかのように階段を降りた。
気のせいだ。
廊下が伸びる。
階段が増える。
お化け屋敷じゃあるまいし、そんなことが起こるはずがない。
マリーは馬鹿げた考えを振り払い、食堂に急いだ。
食堂に入ると、大半の生徒がすでに席についていた。
キララも座っている。隣には青い目の人形、ミチルもいる。
昨日と同じ。
「おはよう、キララ」
マリーはキララに声をかけ、着席する。
「おはよう、マリー」とキララが、とびっきりの笑顔で返す。
これも昨日と同じ。
全員が席に着くと、朝食が運ばれてくる。
園長先生の合図で食事が始まる。
これも変わらない。
今朝の献立は、ライ麦パンにソーセージ、コーンフレークに果物。それにいつもの棒砂糖。味はともかく、バランスは取れているし、彩りも悪くない。なのに、やっぱり食欲は湧いてこない。
それはたぶん、ここでの食事がただの栄養摂取だからだ。料理を味わうとか会話を楽しむとか、食事に付随する楽しい要素が一切ないからだ。生徒たちはただ生きるために栄養を取っている。エネルギーが必要だからカロリーを摂取している。そんな光景を目にすると、自分だけでなくここにいる全員が植物のようだとマリーは思った。
マリーは食べる手を止めた。これ以上、この飼育用の餌のような食べ物を口に運ぶ気にはなれない。
「どうしたの、マリー?」
フォークを置いたマリーにキララが心配そうに訊く。
「お腹がいっぱいになっちゃったの」
「具合が悪いの?」
「いいえ、そうではないわ。今朝はちょっと食欲がないだけよ」
マリーがそう答えても、キララはまだ心配そうだ。
「そうだ、キララ。棒砂糖、食べる?」
棒砂糖を食べる気にもなれない。キララを安心させようとそう言ったら、キララは瞳を輝かせた。
「いいの?」
「ええ、わたしはもうお腹いっぱい。だから、キララが食べてちょうだい」
「本当? うれしいわ、マリー。それじゃ、いただくわ」
キララはマリーのお皿から棒砂糖をつまみ上げると、そのまま口に運んで、むしゃむしゃと食べ始めた。
キララがご機嫌になったことを確かめると、マリーは顔を正面に戻した。
何気なく食堂内を見渡す。
みな黙々と食べている。誰一人として言葉を発しない。
昨日とおなじ朝食風景。
昨日とおなじ顔ぶれ。
昨日とおなじ音。
昨日と同じにおい。
どこを切ってもおなじ景色。
そんな判で押した寸分の狂いもないその風景。
……その中にマリーは小さなひっかかりを覚えた。
おかしい。
どこか変だ。
昨日と違う。
何かが昨日と違っている。
何だ?
何が違うんだ?
「早く食べろ」
マリーが考え込んでいると、背後からいきなり声をかけられた。巨体の職員だった。マリーは驚き、身体をビクッとさせた。その拍子に、肘がトレイに当たり、スプーンが跳ね上がって床に落ちた。
鋭い金属音が静まりかえった食堂に響く。
「何をしている!」
男性職員が怒鳴り声を上げた。
「な、何でもありません。スプーンを床に落としてしまっただけです」
マリーは慌てて釈明した。
男性職員が大きな舌打ちをした。
叱られる。
そう覚悟し身を固くしたが、男性職員は「早く拾って、さっさと食べろ」と低い声で命じただけで持ち場に戻っていた。
マリーはふっと安堵の息を吐き、床に落ちたスプーンに手を伸ばす。
よかった。
リンダと同じようにどこかに連れて行かれるかと思った。
そう思った瞬間、マリーははっとした。
そうだ。
リンダだ。
リンダがいない。
あの問題ばかり起こすリンダの姿が食堂のどこにも見当たらない。どうして気づかなかったのだろう。いや、気づかなかったというより、リンダの存在そのものが記憶から抜け落ちていたような感じだった。
マリーは床に落ちたスプーンも拾わず、身を起こした。
もう一度、食堂内を見回す。
パンを食べる子。
スープを飲む子。
食べ終わってぼんやりしている子。
見慣れた顔ぶれの中に、やはりリンダの姿はない。
「どうしたの、マリー?」
棒砂糖を食べ終えたキララが、唇の端に白い粉をつけたまま訊ねる。
「ねえ、キララ……」とリンダのことを口にしかけて、マリーは思いとどまった。
リンダがいないからといって、それがどうしたというのだ?
寝坊しているだけかもしれないし、体調が悪くて朝食を抜いているだけかもしれない。
何も驚くことはない。
騒ぎ立てるほどのことでもない。
すぐに、そう思い直し、「いいえ、何でもないわ」とマリーは言った。
キララはとくに気にする様子もなく「そう」とだけ答え、口の端についた砂糖をペロリと舐めた。
マリーはもう一度屈んでスプーンを拾った。けれど、それ以上、朝食を食べる気にはなれないから、スプーンをテーブルに置いた。




