(68)隠者の洞
アリーシャは飛び掛かってきた飢えたオオカミをさっと避けた……つもりだったが、足がもつれて無様にひっくり返る。オオカミも飢えのためにまともな思考ができていないのか、避けたアリーシャの背後にあった木に頭からぶつかり、フラフラとよろける。
その隙にアリーシャは四つん這いになって離れ、立ち上がる。その頃にはオオカミも復活し、アリーシャに向き直った。
--倒す? 無理
--逃げる? 無理!
アリーシャは四肢に十分な魔力を行き渡らせ、素早く飛び上がり、近くの木の枝に乗った。そしてその枝からさらに高い枝を目指して飛び、何とか乗り移ることに成功した。
「この高さなら、大丈夫かな?」
オオカミが吠え、枝に飛び乗ろうとするが、体力が尽きかけているのか、その動きに精彩がない。
四肢に魔力を込め、不安定な姿勢ながらオオカミに向けて飛礫を放つが、まるで見当違いのほうに飛んでしまい、勢いもない。
これでは下の狼がいなくなるまで身動きが取れない。少しでも体力を温存しておきたいが、気を抜くと枝から落ちてしまいそうなので、気を張りながらオオカミとの我慢比べを続ける。
三十分ほどオオカミとのにらみ合いが続いたころ、もう一匹オオカミが現れた。
「……最悪」
一か八か別の樹に飛び移るか、ダメ元で走って逃げるか、絶望的な二択を迫られたが、下では予想外の事態に発展していた。
新たに現れたオオカミに、最初のオオカミが襲い掛かったのだ。
二匹目も一匹目に負けず劣らずやせ細っていたが、まさか同族に襲われるとは思っていなかったらしく、不意を打たれて傷を負う。
その血を舐めて勢いを増した一匹目が、二匹目の首に噛みつき、地に押し付ける。二匹目も必死に抵抗するが、その力もだんだん弱くなり、やがて力尽きた。
一匹目は、まだわずかに動く倒れ伏した二匹目の腹に食いつき、食いちぎり、慌てて飲み込む。
うぉぉぉぉぉぉぉぉん。
まるで歓喜を歌うように遠吠えし、ようやく仕留めた獲物に、更に食らいつく一匹目。
すると今度は食いちぎった筈の肉が光となって消え、残った二匹目の死骸も同じように消えていった。
オオカミは暫し呆然とした後、ゴフッゴフッと苦し気にむせ返り、げぇげぇと先ほど食った肉を吐き戻した。
暫しそうやってむせた後、吐き戻した胃液交じりの肉に食いつくと、それもまた光となって消えてしまった。
そして、戦いに勝利した筈の餓狼は遂に力尽き、そのまま動かなくなってしまった。
哀れなオオカミの死骸を、薄く、灰色の霧が覆っていった。
* * *
一連の攻防を余すところなく見ていたアリーシャは、その意味するところに思い至り、事態の重大さに戦慄していた。
「……違う。動物が【適正化】してたんじゃない。死んで【適正化】したんだ」
これまで草食動物たちは、【適正化】されていない森の恵みを糧に生き、それを食べて肉食動物たちが生きていた。
しかし自然の恵みが【適正化】されてしまったら……、
「魔法の使えない動物が絶滅する……」
アリーシャは樹から降り、力尽きた一匹目のオオカミに近づいた。既に事切れており、その体はみるみる冷たくなっていく。
なんとなく手を合わせて、オオカミに祈ってから、アリーシャは川下を目指す。
「魔法やインベントリを通さなくても全部【適正化】されたら、魔法無しじゃ、本当に何にもできなくなっちゃう」
こんな現象はマテス村でも王都でもなかった。違いがあるとしたら……
アリーシャは森を覆う薄っすらとした霧と、混沌山脈を覆う灰色の霧をしばし睨み、踵を返し川下を目指した。
* * *
オオカミたちの攻防を見た二日後、アリーシャがバルバスの屋敷から逃亡して六日目の昼頃。
アリーシャは川の近くに洞になった場所を見つけた。
洞の前には古い焚火の跡と錆びて穴の開いた鍋があることから、以前誰かが住んでいたのかもしれない。
ナイフを手にし、警戒しながら中を覗くと、5mほどで奥に行き当たり、そこに白骨化した一体の死骸が横たわっていた。
「この人も魔法を使えないものだったのかな?」
外の焚火の跡やいかにも手製の道具類を見ると、この世界で一般的な魔法を用いていた様子が感じられなかった。
ゴライゴウの街や王都でも『鍋』の使い方を知らない人たちばかりだった。でも魔法を使えないサイレント達は、使えないからこそ、こうした工夫をしていたのだろう。
むしろそれは、アリーシャの前世の世界で当たり前だった『普通の工夫』であった。
魔法以外を認めず、サイレント達のそんな『普通の工夫』を差別し、彼らを不幸な境遇に追いやっているのは秩序神の教えだ。
なんとなく、秩序神ではなく、前世の宗教に出てきた神や仏に死者の冥福を祈ってから、アリーシャは家探しを始める。
不謹慎だって?
節約しながらだが、干し肉は三分の一ほど減っている。このペースではあと十日ほどで尽きるだろう。
砂糖はまだあるが、それだって無限ではないし、万が一雨にでも降られたら、全部台無しになってしまうかもしれない。
今のアリーシャには、道徳に配慮している余裕はなかった。
川の近くだが、洞の方向の関係かあまり湿度が高くなく、腐食せずに物が残っていたのが幸いだった。
木で作られた長持ちの中に毛皮のコートを見つけたときは歓喜の叫びをあげ、骸骨にキスしたくなった(しないけど)。
土を掘り返すのは大変なので、死骸の骨は外の一か所に集め、一番上にしゃれこうべを置いて、その上からできる限り土をかけて、再度ご冥福をお祈りした。
「くすっ」
前世では宗教なんて全然関係なかった、むしろお兄様の仕事からすると障害となることが多く、なんでこんな無駄なものがあるのかと憤ることもあった。
しかし今は、祈りを捧げる気持ち、死者を悼む気持ちが、なんとなく理解できる気がした。
火口箱があり火打石もあったため、暖が取れると喜んだが、枯れ枝を拾ってきても全て【適正化】されており、燃料とはならなかった。
幸い洞の中に【適正化】されていない薪が少し残っており、火を点けることができたため、アリーシャは毛皮のコートに包まり、火のそばで久しぶりの温かさを満喫しながら眠りについた。
* * *
夢も見ずに眠り、目覚めた七日目の朝。
火は消えてしまっていたが、火種が残っていたため、そこから火をおこしなおし、暖を取る。
燃料はもう一日分あるため、今日一日は休息に充てることにした。
砂糖と干し肉と水の朝食をとってから、干し肉を更に少し切り取り、一部を森に、一部を川のそばに置いた。
続いて洞にあった物を全て引っ張り出して確認していく。
毛皮のコートはアリーシャが着て辛うじて裾が地面につかない程度だった。フード付きで、フードを被ると熊の上顎が頭にくるという、なかなか野趣あふれるファッションだった。
また、いま使っているカバンよりずっと頑丈そうな革のリュックがあり、その中に宝石?やまとまった量のマナ貨、それにペンや空のインク壺、そして一冊の絵本が収められていた。
絵本のタイトルは『ばるばろい』といい法歴4800年中ごろ。今から150年ぐらい前に書かれた本であった。
* * *
『ばるばろい』
王冠を被った仮面の人物と立派そうな神官。仮面の男の背後には黒い穴、神官の背後には鎖が絡まった槍の聖印が描かれた表紙。
『むかしむかし、ある山々の広がるあたりに、わるい男がいました
男は、まほうの使えない【ばるばろい】でした』
醜く、汚れて、ぼろをまとった男が暴れている絵。
『男は【こんとん】の力で神さまのしもべをたくさんだましました
なんと、神さまにおいのりする、神官さままでだましたのです』
醜い男が綺麗な仮面をかぶり、ぼろの上にきれいな服を着て、人々と話している絵。
神官の服には金床のシルエットが描かれている。
男の言葉を表している吹き出しには、綺麗な服や装飾品、美味しそうな料理などが描かれている。
『そうやって、【ばるばろい】の国をつくり、そこの王さまになったのです』
王城を背に王冠を被った仮面の男の絵。
足跡は黒く汚れて描かれ、綺麗な服の端からぼろが見える。
『そして、神さまの恩恵を【ばるばろい】のために使わせました』
ぼろをまとったたくさんの者たちに魔法をかけて、服や食べ物を与える人々。その顔はいやらしい笑みを浮かべている。
『神さまはとても悲しみました
【こんとん】に勝って、神さまの国に帰るためのお力を、【こんとん】のために使っているのですから
そして一人のけいけんな神官に予言をあたえました』
後光を放つ鎖と槍が組み合わさった聖印。そして祈りを捧げる立派な神官。
『けいけんな神官さまは、【ばるばろい】の国の人々に言いました
神の恩恵を【こんとん】のために使っていいけません。でないと、あなたたちも【こんとん】になってしまいます
【ばるばろい】は、【こんとん】に染まったゆがんだ口をとじ、しずかでなければなりません。それを守るなら食べ物をあげましょう
しかし【ばるばろい】の国の人たちは、それを信じませんでした』
立派な神官がたくさんの人やわるい王さまに説教している絵。しかし聴衆や金床のシンボルをつけた神官はみな指をさして笑っている。
絵の隅で冷や汗を垂らす、わるい王さま。
『ある日、【ばるばろい】の国の人たちがマモノにかわり、ほかの人たちをおそいはじめました
そして【ばるばろい】の国はぜんぶ【こんとん】にのみこまれてしまいました』
汚れた人、神官服の人、綺麗な服を着た人が魔物に変わり、人々を襲っている絵。
背景には空に浮かぶ大きな黒い穴と、それに飲み込まれる人々や王城などの建物。
『正しい人は【こんとん】のことばを聞いてはいけません
【ばるばろい】はしずかでなければいけません
【ばるばろい】がしずかなら食べ物を与えましょう
そうしないと、わたしたちみんな、【こんとん】になってしまいます』
礼儀正しい人、敬虔な祈りを捧げる人。
口に手を当て沈黙を表現した汚い人と、それに食物を与える神官。
左下に大きな黒い穴(?)とその横に王冠をかぶり、ぼろをまとった醜い男。
「バルバロイって、魔法を使えないもののことだよね? これって寓話? それとも実話ベース? 確かな情報は……」
神官に描かれた金床のマーク。
「金床神殿、行ってみたい理由がまた増えた」
久しぶりの読書と新たな謎に好奇心を大きく刺激されたアリーシャは楽しそうに本を閉じた。
* * *
日が暮れる前に、アリーシャは森の中と川辺に置いた干し肉を回収してきた。
まず森の中に置いたものに噛り付くと、光となって消えてしまった。
川辺に置いたものも同様だった。
一方、アリーシャが身に着けていたカバンに入った干し肉は問題なく切り取り、食すことができた。
「アイテムを【適正化】させる力が働いているのは間違いない」
そしてそれがあの灰色の霧であろうことも。
「でもどうして自分の荷物は大丈夫なんだろう?」
今日の実験結果を考えると、森の中で眠っている間に干し肉が【適正化】されてもおかしくないが、実際はそうはなっていない。
またこの洞の中の薪などが【適正化】されていないという不思議もある。
風向きとかによる偶然の可能性もあるが、それなら風通しの良い川辺の干し肉が【適正化】されたことも説明がつかなくなってくる。
「どっちにしろ、サンプルが少なすぎて答えは出せないか、でも」
座り込んでなんとなく空を仰ぎ見る。
「混沌山脈から下る灰色の霧、それが始まった理由、【適正化】、【混沌】に飲まれたバルバロイの国。答えって本当にあるのかな? 【混沌】だから何でもあり……ってことはないよね?」
現状ではこれ以上考えても答えは出そうにないので、そこで思考を打ち切ることにした。
そして八日目の朝。土を被せただけのお墓に穴の開いた鍋で水をお供えし、
「遺品は使わせていただきます。ありがとうございました」
とお礼を言って、更に川下を目指して出発した。
第68話終了時点のアリーシャの装備
服一着、靴一足、熊の毛皮のコート一着、魔封じの首輪、カバン、革のリュック、干し肉九日分、塩、砂糖、小さいナイフ、黒檀のインク壺(少1、空1)、羽ペン一本、絵本『ばるばろい』、火口箱、火打石、宝石(?)3個、マナ貨若干量
明日も投稿予定




