(67)おなかすいた
バルバスの屋敷からの逃亡を果たしたアリーシャは、一路北を目指した。その背後に混沌山脈があるが、他の方向にも山々が広がっていた。
おそらくここは南西地方の南の果てであろう。南西山脈とも呼ばれ、山々が多く鉱山資源が豊富といわれる地方だ。
そして故国の西方王国(仮)とは敵対関係にある。
しかしアリーシャが目にした、ここの混沌山脈の様子は、マテス村で見たそれと大きく異なっていた。
山脈を灰色の霧が覆っているのは変わらないが、その霧が上部だけではなく麓まで広がっていた。
しかもその霧は、混沌山脈だけでなく、広く周囲の土地にも薄く広がっていた。
途中小川を見つけたので喉を潤し、血で汚れた手を洗い、顔も洗う。
「ふぅ」
さっぱりすると、気分が落ち着いた。
「まずはっと」
気分を盛り上げるためにわざと声を出してから持ち出したカバンを開ける。
いつ追手がかかるかしれないため、距離をとっておきたいが、持ち出した食糧から砂糖と塩を取り出し、適量舐めてからさらに水を飲んで手っ取り早い栄養補給をした。
食料を持ち出したが、【適正化】されているかどうかの確認はしていない、というかほぼ間違いなく【適正化】されているだろう。もしそうならアリーシャには食べることができないが、それでももしかしたら、という期待を持って持ち出した。
一方、塩や砂糖などの調味料は料理への調味が可能で、【適正化】されていても使用できる(54話参照)ため、優先的に持ち出していた。
しかしカロリーとミネラルだけでは長持ちしないが、それを考えるのは後にして、屋敷から少しでも距離をとるためにアリーシャは歩を進めた。
川沿いに下流へ向かうことにした。川は少し西寄りだが北の方に流れていた。
川の左右は森が広がり、森の中では月明りもほとんど届かなくなるし、薄っすらと霧も出ているので、夜に森の中を進むのは難しい。
こんな時フィールドが使えれば、苦も無く進めるのだが、今は趣味の悪い手の形をした魔封じの首輪で、文字通り魔力を封じられていた。
魔力が封じられているとは言っても、外に出すことができないだけで、体内で循環させることはできた。そのため四肢の端々まで魔力を伝わせ、あまり疲れを感じずに進むことができた。
途中、滝になっているところがあったが、迂回ルートを探さず、敢えてひょいひょいと飛び降りていった。
今になって判ったが、幽閉されていた屋敷はかなりの高地にあったようだ。飛行騎獣を使わねば、行くのはかなり困難な場所だったのだろう。
滝つぼの脇まで降り立って、アリーシャはいま降りてきた滝を見上げた。
「……これでもう戻れない。バルゲーノさんが心配でも戻れない。戻らない」
アリーシャは、屋敷があったであろう方角にペコリ、と一度頭を下げてから更なる川下を目指した。
やがて、夜が明けた。
* * *
夜通し歩き詰めのアリーシャは、森に入り、木を背にして暫しの休憩をとった。
川沿いは風が吹き抜け寒かったが、風が遮られ、ほっと一息ついた。
周囲を見回すと森が広がっている。何か違和感を感じたが、マテス村近くで慣れ親しんだ森とは植生が違うせいかもしれない。
懐かしい雰囲気に緊張がゆるみ、獣に襲われる危険に少し思考が傾いたが眠気には勝てず、そのまますぐに寝息を立てていた。
「くちゅんっ」
自分のくしゃみで目が覚めた。
太陽はすでに中天にあり、体はすっかり冷え込んでいた。幸い魔力は十分に身体を巡っているため、風邪などは引いていないようだが、栄養不足、寒さ、疲労、といつ倒れてもおかしくない。
今後の暗い展望をなるべく意識外に除けて、今できることをやることにした。
砂糖と塩を舐め、小川の水を飲んでまずはブランチ(笑)にする。
「おなかすいたなぁ」
食事の直後に言うセリフではないが、固形物を摂取していない腹がキュルキュルとなる。
持ち出した食糧は調味料の他には干し肉とパンである。
何の獣かは判らないが、黒ずんだ肉の塊。きっと下男が獲ってきた獲物を下女が加工したのだろう。
そんな干し肉作りに思いを馳せながらナイフを入れて少し切り分ける。
次いでパンにナイフを入れるが、途端に光となって消えてしまった。
「こっちはやっぱり【適正化】されてたかぁ」
トムさんが良く扱ってたパンと同じだからそうじゃないかと思ったけど、せっかく持ってきたのに無駄骨だったことに、軽くへこむ。
「考えてみれば、ナイフ入れるだけで区別ついたんだ。先にそれをやっとけば……」
厨房にあった他の食材を思い出しながら地団駄を踏む。
だが、干し肉が手に入っただけでも十分と言えよう。
干し肉を作ったであろう名も知らぬ二人の下男下女を思うと、連想されて二人の死体を思い出し、腹の底が重くなる。
そんな腹に意識を向けると、今度は腹が、ぐぅきゅるきゅる、と鳴りだす。
「……いただきます」
肉の元となった獣と名も知らぬ下男下女への感謝の気持ちを込めて干し肉に手を合わせ、アリーシャは切り取った干し肉を口に入れた。
固くてしょっぱくて、全部食べ終わるころには顎が痛くなっていたけど、胃袋に固形物を入れられて腹の虫は収まってくれた。
* * *
腹に食物が入ったことで気力を取り戻し、アリーシャは川沿いを川下に進んでいく。
森に入ってもいいが、薄っすらとした霧が立ち込め、迷う危険があったし、川沿いならば村などが見つかるかもしれないという期待もあった。
しかしめぼしい発見はなく、日が傾き始めてきた。
明るい内に夜のための寝床になりそうな場所を探し、枝ぶりが良く、身体を安定させられそうな樹を見つけたので、その上を今夜の寝床に定めた。
それから一度小川に戻り、川面に映る自分の姿を見ながら、黒インクを左手につけて、特徴的な赤毛を染めていった。
バルゲーノさん……もう呼び捨てでいいか……が言うにはバルバスはこの地の豪族の族長で、バルゲーノはその弟らしい。それの殺人傷害事件に関係している自分が、追われたとき、一番目立つのはその赤毛だ。
「結構うまくいったかな?」
思いのほか上手く染められたことに小さい満足を感じ、それが心に余裕を生んだ。
そして砂糖としょっぱい干し肉の切れ端と水で食事をとり、木の上で二日目の夜を迎えた。
……アリーシャは気が付いていなかった。
髪を染めたとき、インクがまるで意思を持っているかのように髪全体に広がり、毛の先まで黒く染めていったことに。
そしてそのインクが黒檀のインクであったことに。
* * *
檻に囚われ、虐待というより拷問と言うべき責め苦を受ける悪夢で飛び起き、思わず樹から落ちそうになったことを除けば、その日は特筆すべきことがないまま日が暮れようとしていた。
昨日に続き、なんとも言えない違和感を感じていたが、原因がわからず奥歯にものが挟まったかのような、据わりの悪い気持ちを抱えていた。
違和感の正体に気付かないまま昨日同様、今夜の寝床を探しに森に入ると、違和感が強まるのを感じ、目をしばたかせて、注意深く周囲の森を観察する。
特に変わったところのない、普通の常緑樹だ。
そして、やはり昨晩同様、身体を安定させられそうな枝ぶりの樹を見つけたのだが、その枝ぶりは昨日寝床に使った樹とよく似ていた。
「まさか?」
そういうつもりで森を見回すと、違和感の正体に気が付いた。
「この樹とあの樹、一緒だ」
向きが異なるので気づきにくかったが、ある二本の木の枝ぶりが全く一緒だった。いや、その二本だけではない。一度気が付くと、あちこちに見つかる。
慌てて周囲を見て回ると、その森は何種類かのまったく同じ形の木が、一定の間隔で生えていたのだった。
アリーシャは、樹に近づきナイフで傷をつけるが、傷は光とともに消え、元通りの樹がそこにあった。
地面に生える草も、同じパターンの草が続き、引っこ抜くと光となって消えてしまった。
種類の限られたテクスチャを張り付けたような草木でできた森。
「まさか……この森、全部【適正化】されているの? まさか【魔の領域】? でもその割には魔物がいないし……」
薄っすらとした霧につつまれた森でアリーシャはその意味するところを捉え切れなかった。
ぐぅ
悩みと関係なく、体は正直であった。
「ま、いっか。考えるのは後々。今日のご飯な何かしら~。きの~とおなじ~ほっしにっくさ~ん&砂糖さ~ん」
と、馬鹿な歌を歌い、食べ、やっぱり昨晩と同じ形をした木の上で眠りについた。
* * *
「考え事なら歩きながらでもできる」
ゴーゴー、と自分を奮い立たせるためにわざと口にして、四日目は小川を見失わないよう注意しながら、森の中を歩いた。
同じパターンの草木があるのは昨日確認したから、それ以外の森の異常を読み取ろうとしていた。
「……そういえば、鳥や獣の声が聞こえない」
森は静かすぎた。そして虫も見かけない。
「獣がいれば狩り……はムリか」
河原で拾った小ぶりの石を手に、魔力を行き渡らせた身体で飛礫を放ってみたが、八ヶ月も練習していないせいか、いわゆる『女の子投げ』になってしまい、まるで使い物にならない。自分の鈍り具合には大きく落ち込んだ。
「こういう緊急事態のために、小さい頃から鍛えてきたのに肝心な時にこれとか、何のための異世界転生よ」
がお~、と誰に言うでもなく吠えるアリーシャ。無論、空元気だ。
やがて、森の中に赤いものが目についたので近づいてみると、赤いベリーがなっていた。そしてその根元に横たわる狐の死骸。
肋骨が浮いて見えるほどにガリガリにやせ細ったその死骸はひどく軽かった。
「……餓死、かな?」
目の前には赤いベリー。アリーシャがそれを手でもぐと、光となって消えていった。
「植物自体が【適正化】されてて、採取もできないの?」
思い切って、狐の死骸にナイフを突き立て、肉を裂いた。痩せ衰えていたとはいえ血と筋繊維の香りは、生であるにも関わらずアリーシャの食欲を刺激した。
しかし切り裂いた肉も、残った死骸も光となって消え、アリーシャの手元には何も残らなかった。
「動物も【適正化】されているの? それとも……」
パキン、という枝の折れる音がした。
ぱっとそちらを見ると、枝を折ったオオカミと目が合った。
ガリガリにやせ細ったオオカミは明らかに飢えており、目を血走らせてアリーシャに襲い掛かってきた。
明日も投稿予定




