(66)逃亡
誘拐されてきたアリーシャは何処とも知れぬ屋敷に連れてこられ、そこで生活を送っていた。
最初の二ヶ月の扱いは酷く、檻に捕らわれていたが、それ以降は檻から出され、首輪がされているとはいえ、拘束されていなかったし、屋敷にはほとんど人がいなかった。
そこでアリーシャを監視するご主人様の使い魔を破壊し、アリーシャは脱走を試みた。
「【命令の言葉】【締まれ】」
しかし使い魔を破壊した途端、アリーシャの首輪は締まり、またどこに隠れていても、何らかの【探知】の効果があるのか、すぐに見つけられてしまった。
どうやら魔封じの首輪の効果は離れていてもご主人様の命令で効果を発揮するらしい。
そして、その後に待っているのは、最初と同じ、いやそれ以上の屈辱と責め苦であり、その時はバルゲーノも庇いはしなかった。
そしてその責め苦がある程度続くと、バルゲーノに救い出され、主への忠誠を諭され、穏やかな生活に戻る。
二度の脱走と三度に渡る責め苦の後、アリーシャは屋敷の外に、いや部屋の外に出ることに怖れるようになっていた。
しかしそうした自分の感情を、チャンスを待つため、と自分に言い訳しながら、屋敷での生活に慣れ、時にはバルゲーノとお喋りをして笑うようにもなっていた。
誘拐された自分が、その犯人一味と笑いあう異常さに違和感を感じ、家族を想う寂しさに胸を締め付けられ、ニナのことを想うと悲しみに押しつぶされそうになりながらも、刻み込まれた責め苦への恐怖と、日々の穏やかさに、深く考えることを止めていた。
いつの間にか、小人さんの幻影を見ることも無くなり、心の中で兄さまとお喋りすることも無くなっていた。
アリーシャの屋敷での生活は八ヶ月目を迎えていた。
* * *
屋敷は小さく、人はほとんどいない。
バルバスは他所に住んでいるが、毎日屋敷にやって来てはアリーシャから魔力を受け取り、それを財に変えて帰っていく。
一方、バルゲーノはバルバスの執事でありながらほとんど常駐し、週の半分は屋敷に泊まっている。
屋敷には下男と下女が一人づつ住み込んでいるが、部屋からほとんど出ないアリーシャは、彼らを数度しか見かけたことがなかった。
いま、アリーシャに与えられた部屋には彼女と、監視用のフクロウの使い魔だけ。バルゲーノだってずっとアリーシャについているわけではない。
大きな屋敷ではない。探しに行けばすぐに見つかると思うが、迷惑がられるかもしれないと思うと、それもできないでいた。
『おつとめ』は一日一度、長くても一時間程度しかかからないため、それ以外の時間は、この窓のない部屋で何もせず、ぼーっ、としているのが最近のアリーシャの日常であった。
退屈を紛らわすため(実際は情動を刺激するため)に置かれたお話の本などをバルゲーノが準備してくれていたが、ほとんど手を付けることがなかった。
あれほど好奇心が強かったにも関わらず、今は外の世界、部屋の外、屋敷の外を思うことで思い出される責め苦への恐怖が勝っていた。
--そういえば今日の『おつとめ』はまだだったかな?
窓がないため、時間がよくわからない。しばらくお日さまを見ていないし、外の景色も見ていない。魔法の明かりが照らし出す時計はもう夜を示していたが、記憶がハッキリしない。
以前の食いしん坊にあるまじきことだが、空腹を感じても動くモチベーションにつながらず、部屋で動こうとしない。
責め苦を受けていた時は、痛みから逃げるために考えることを止めていたが、今は恐怖から目を背けるために考えることを止めていた。
アリーシャは部屋の扉と、その脇に止まる使い魔のフクロウをぼうっと見ながら、ただ時間が経つを待っていた。
突然、フクロウの使い魔が光となって消えた。
「?」
効果時間はまだあったはずだが?
そう疑問に思い、ご主人様の使い魔が消えた当たりをじっと見つめる。
やがて、廊下から、カツン、カツン、と杖を突く音が聞こえてきた
「バルゲーノさんだ!」
アリーシャはパッとベッドから立ち上がり、少しよろける。
部屋とバルバスの部屋を行き来する以外、もう何か月もまともに動いていないアリーシャの体力は以前よりずっと落ちていた。
「おっとっとっとっと」
よろけてアリーシャが床に手をつくのと、扉が開くのは同時だった。
「バルゲーノさん」
喜色を浮かべ、床に手をついた状態からクラウチングスタートを切って扉を開けた影に抱き着くアリーシャ。
「今日はどうしたの? 遅かったね? 『おつとめ』は? ご主人様は? 今日のご飯はなに?」
矢継ぎ早に問うが、アリーシャの鼻孔は嗅ぎ慣れない匂いを感じ、訝しげに見上げた。
見慣れたバルゲーノの微笑みにほっとしたが、その口元は哄笑を浮かべ、その顔も、身体も、赤いもので汚れていた。
「さ、おいで、アリーシャ」
いつものようにアリーシャの手を引いて、バルバスの部屋に向かう。
「バルゲーノさん。その赤いの、血? もしかして怪我したの?」
「……優しいのですね、アリーシャは。大丈夫ですよ、心配いりません。私のことも、あなたのことも……」
バルバスの部屋の扉は開いたままだった。中は明るく、部屋の中をよく見通すことができた。
--ご主人様がねてる
--体中に槍が刺さってる
バルバスの首がカクンと落ち、その視線がアリーシャを向く。
どんよりと濁った死者のそれ。
「いやああああああああああああああああ」
初めて見る人の死体。
しかも明らかに殺された死体。
--人を殺すのは悪いこと。絶対にいけない
--殺してやる、殺してやる、殺してやる
「だいじょうぶです。それはもう死んでいます。あなたを苛むものはもうありませんよ」
優しく、そして楽しそうなウキウキとした声音のバルゲーノに対し、アリーシャは恐怖を覚える。
「さ、あなたがとどめを刺しなさい。兄に引導を渡すのです」
--おにいさん? おにいさま?
バルゲーノはアリーシャに短刀を、生贄の短刀を握らせ、嫌がるアリーシャを引きずるようにバルバスの死体に近づいていく。
アリーシャは抵抗するが、それは弱々しくなす術がない。
「さあ、二人の初めての共同作業だよ」
そしてバルバスの死体に短刀が入刀される。
ザラザラザラザラザラァ
バルバスの死体が光となって消え、インベントリに収納されていた多くのアイテム類と、大量のマナ貨が山をなし、周囲に転がった。
死体とはいえ、人を刺した感触にアリーシャはバルゲーノの手を振り払い、部屋の隅でゲーゲーと吐き戻し、胃液しか出てこなくなっても吐き気が止まらなかった。
その背後でバルゲーノは鼻歌を歌いながら大量のマナ貨を自分のインベントリに収納し、アイテム類を漁っていった。
「あった、あった、これだ。これですべて私のものだ」
バルゲーノは魔封じの首輪によく似た手の形の指輪を見つけ出し、自らの指に嵌めた。
「【命令の言葉】【解放】。さあ、アリーシャ。僕と一緒に楽しく暮らそう。君は財を、僕は安全をあげるよ。私に魔力を与えなさい。さあ」
テンションが上がり、芝居がかった仕草でバルゲーノが言うが、アリーシャは消えてしまったバルバスの死体のあった辺りと、その周りに広がる血の跡、そして嬉しそうに笑う優しかった人をぼんやりと見つめた。
「何をしている、早くしなさい」
ねじり上げるように手を取られ、アリーシャは苦悶の表情を浮かべる。
「……ま…ん」
「なんだと?」
「できません。魔封じの首輪がわたしの魔力を封じています」
自らの体の外に魔力を出すことができなくなる魔封じの効果。それは今も解除されていない。
「ばかな……【命令の言葉】【締まれ】」
アリーシャを苦しめる命令を躊躇なく命ずる。しかし首輪は反応せず、アリーシャの首が絞められることもなかった。
「【命令の言葉】【捜索】。【命令の言葉】【解放】。【命令の言葉】【締まれ】、【締まれ】、【締まれ】!」
しかしどの命令の言葉も反応しない。
「まさか、最初の登録者以外の命令は受け付けないのか?」
呆然とするバルゲーノと、それを呆然と見返すアリーシャ。
「ば、バルゲーノさん」
黙り込んだバルゲーノを窺うように見上げていると、突然蹴られた。
「……かく、せっかく兄さんを殺してすべて奪えたと思ったのに、肝心なのが手に入らないじゃないか。つかえねぇな」
振り下ろされた杖がアリーシャを打つ。
「やだ、バルゲーノさん、バルゲーノさん……」
何度も打ち付けられる杖に、アリーシャは丸くなって耐える。優しかった人からの理不尽な暴力にアリーシャは涙を流し、ただそれに耐えていた。
呪文の詠唱が聞こえた。
思わず振り仰ぐと、天井の明かりを背に立つバルゲーノの周りに、何本もの槍が浮いていた。
バルゲーノの目は血走り、まともな判断力を残しているとは思えなかった。
「バルゲーノ……さん」
数秒の間にいくつものことが起きた。
バルゲーノが呪文を完成させ、槍を放とうとした瞬間、何かに驚いたように振り返り、槍の狙いがそれる。
アリーシャちゃん! 何者かの叫びがアリーシャの耳朶を打ち、弾かれたように飛び出すアリーシャ。
ほのかに光るアリーシャの右手が握るのは生贄の短刀。
身体ごとぶつかりバルゲーノの腹に突き刺さる短刀。
腹を抑え、のたうち回るバルゲーノを見下ろし、はぁはぁ、と荒い息を吐くアリーシャ。彼女の背後には幾本もの槍が突き刺さり、部屋を破壊していた。 その威力は一本でも当たっていたら致命傷を免れなかっただろう。殺されかけた恐怖と、生き残った安堵にアリーシャの心はひどく興奮していた。
だが優しかった人の苦悶の声に我に返り、走り寄ろうとするが、彼の憎悪を湛えた視線にその歩みが止まる。
「この、底抜けの、ごみくずの癖しやがって、魔法を使えるもの様に歯向かうとはいい料簡だ。殺してやる。飼って、苛んで、貪り尽くして、殺してやる。兄なき今、私はこの地の族長だ。思い知らせてやる、思い知らせてやる」
--ころせ。禍根を残すな、コロセ!
--殺しちゃダメ。人を殺しちゃダメ。殺したいと考えることもダメ
右手の重さに視線を向けると手には血に染まった短刀。
「いやぁ」
思わず短刀を投げ捨て、踵を返し、アリーシャは逃げ出した。
* * *
自分の部屋に帰って、引きこもりたいという欲求を無理やり抑え込む。そんなことはもうできない。
バルゲーノに捕まれば、また責め苦を受ける。そして救ってくれる人はもういない。その恐怖を糧に、アリーシャは屋敷の外を目指した。
途中、バルバスと同じ傷を受けた下男と下女の死体を見つけ、更に吐いたが、もう胃液も出ない。
--見つかったら殺される
戻ってバルゲーノを殺すのが最適解だ。冷めた思考がそう告げるが、どうしてもその選択をとる気になれなかった。
でもただ逃げても捕まってしまうかもしれない。
書庫でインクを見つけたアリーシャはそれを手に持ち、さらに厨房で食料と小ぶりのナイフを手に入れる。
バルゲーノはまだ追ってこない。
--もしかして、あのまま死んじゃった?
そう考えることは、安心する反面、とても恐ろしかった。
誘拐犯の一味だ、やっぱり騙していた、嘘つきだった、と憤る気持ちもあるが、優しくしてくれた人を傷つけたことを後悔し、もし殺してしまったらと思うと、足が震え座り込んでしまいたくなる。
そんな自分に叱咤し、ようやく屋敷の外扉に取りついた。
ノブに手をかけると恐怖がぶり返す。
--大丈夫。首輪の効果を使える人はもういない
怖い、出たくない、もどりたい、という怠惰な欲求を、高揚した理性がそれ以上の恐怖を煽って、駆り立て、押し切り、アリーシャは大きく深呼吸して扉を開け放った。
真夜中の空気は冷たく、冬の到来を思わせた。
真正面に見える赤い右目と青い左目、秩序神の瞳と謂われる二つの月。しかしアリーシャはその背後にかつて見たセーラー服のコミックヒロインの楽しそうな表情を思い浮かべ、キッと睨み返した。
そしてその瞳が浮かぶ南の空、その同じ方向にある別のものに気が付いた。
「混沌山脈……」
灰色の霧が覆う混沌山脈が南にそびえていた。
かつてアリーシャが暮らしたマテス村は西に混沌山脈がそびえる西の果てであった。そしてここは……
「南の果て……」
アリーシャは家との距離の隔たりに泣きそうになりながら、月を背に北を目指し、夜の森に足を踏み入れた。
次回投稿は来週末の予定です




