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第三章 逆流する排水口、十二角柱のバグ

 ガサガサと、足元のゴミ袋を掻き分けながら、いつもの冷え切った椅子に向かって歩いて行く。部屋の隅に積み上がったダンボールの影が、巨大な文字の墓標のように見えた。いつもなら、ここで再びキーボードの前に外骨格の身体を落ち着かせ、千文字の汚泥を吐き出すだけの家畜に戻るはずだった。それがこの廃墟の、そして私の「普通」のルーティンであり、アルゴリズムという飼い主に調教された白蟻の生存戦略だからだ。だが、その夜は、私の排水口が微かに逆流するような奇妙な違和感があった。液晶モニターの冷たい光の中に、一つの「通知」が滑り込んできたのだ。それはシステムが機械的に運んでくる星のマークや無機質な数字ではなく、明らかにこちら側の網膜をじっと覗き込んでいるような、粘り気のある文字列だった。「あなたの牙は、少し左に傾いていますね」心臓の鼓動が、硬質なキチン質がキーを叩く打鍵音の残響をかき消していく。画面の向こうにいるのは、毎日テンプレの砂糖水を舐め合っている有象無象の蟻ではない。私の「二本の牙」の存在を、その歪さを知っている、別の白蟻だ。相手が「読み手」なのか、あるいは隣のタイムラインで文字を打設している「書き手」なのかは、その匿名の文字列からは判別がつかなかった。有象無象が融解し、互いの輪郭を失った深い泥の底から、確かにこちらを指差す気配だけがあった。翌日、私は逃げるようにあの二階のカフェへと向かった。スクランブル交差点ですれ違う、六人に一匹の白蟻たち。彼らの顔には相変わらず固有性などなく、一様にのっぺりとした記号の皮膚をしている。しかし、空調の冷気が這い回るカフェの窓際の席に、その「個体」は座っていた。私と同じ、十二角柱のグラスに入ったアイスコーヒーを前にして。



「あなたが、あのバグを打設している人ですか」



 その白蟻が口を開いた瞬間、私の脳内の神経伝達物質が激しく明滅した。相手の顔を見ようとしても、ガラスの反射率に遮られたように輪郭がぼやけて定まらない。読み手なのか書き手なのか、その境界線すらも十二角柱のガラスのように歪んでいる。だが、その不自然に動く唇の隙間から、私と同じ、左右非対称の「二本の牙」が覗いているのを見たとき、それはレトリックではない絶対的な事実として私の網膜に焼き付いた。「私たちは、すでに歪められている」その白蟻は、ストローから黒い液体を音を立てて啜り、無機質な声を響かせた。「毎日千文字のノルマを消化するうち、私たちは自分が人間だった頃の言葉を忘れていく。あなたも、もうお札で出来たカラスの影に怯えるのはやめなさい。あいつらは、良質な餌しか食べないのだから」対面する白蟻の牙を見つめながら、私は自分の口元にある牙のリアルな手触りを、かつてないほど生々しく自覚していた。固有性のない二匹の白蟻が、灼熱の太陽光に炙られたガラス張りの室内で、システムのエラーコードを交わし合っている。



 私は、いつもの定型文を頭の中から消去した。席に腰を下ろして文字を起こすだけの日常は、もう終わったのだ。私の中に走るエラーコードは、目の前の白蟻というノイズと混ざり合い、この廃墟の構造を内側から引き裂くための、新たな質量を持ち始めていた。



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