第9話 穴より来るもの
「見つけた」
裂けた口から、人の言葉が漏れた。
額に黄色い単眼を持つ魔族は、黒い穴の縁へ長い指をかけ、細長い頭を左右へ動かした。
逃げ惑う人々。
床に横たわるイヴォ。
武器を構える三人。
一つしかない目が、それらを順に映す。
「たくさん、いる」
裂けた口から涎が垂れた。
床へ落ちた雫が、染料の染みを黒く焦がす。
「全員、裏口から出ろ!」
ローディスが叫んだ。
参加者たちは立ち尽くしている。
魔族との戦争が続いていても、帝都の内側で実物を見る機会などない。まして、何もなかった空間を裂いて現れる姿を想像していた者はいなかった。
「動いて!」
リュカの鋭い声が、呆然としていた人々を揺り起こす。
一斉に裏口へ押し寄せた。
「一人ずつだ! 子供と歩けない者を先にしろ!」
マティアスが杖を拾い、逃げる人々を誘導する。
「押すな! こっちだ!」
自分が集めた者たちを、今度は外へ逃がそうとしていた。
魔族の単眼が、咳をする子供を抱いた女へ止まる。
穴から上半身を乗り出した。
肩は人間より狭い。肋骨の浮いた胴は枯れ枝のように細く、両腕だけが異様に長い。
右腕を伸ばす。
母親まで、まだ数歩ある。
届くはずのない距離だった。
肘から先が、さらに伸びた。
「させるか!」
ローディスの大剣が、四本の指をまとめて打ち払う。
魔族の腕は軽かった。
軽いのに、押し返せない。
細い腕の内側に、見た目からは考えられない力が詰まっている。
ローディスは力を正面から受けず、刀身の上を滑らせるように腕の軌道を変えた。
爪が床板を裂く。
「ローディス、そのまま右へ寄せて!」
セイルが杖を振る。
床に散っていた水が魔族の腕へ絡みつき、瞬時に凍った。
氷の重みが腕を床へ引く。
魔族は単眼をセイルへ向けた。
「それ、知ってる」
「光栄だね」
セイルの顔に笑みはない。
「なら、対処法も知っているかな」
杖の紋章へマナを流す。
凍りついた腕から無数の氷柱が生まれ、穴の周囲の床へ食い込んだ。
魔族の腕を、工房側へ固定する。
「引っ張れ、ローディス!」
「任せろ!」
ローディスは大剣を魔族の脇へ差し込み、刀身を梃子のように使った。
穴の向こうに残っていた下半身が、こちら側へ引き出される。
黒い亀裂から、逆向きに曲がった二本の脚が現れた。
魔族の全身が工房の床へ落ちる。
穴の内側へ逃げられるより、こちらへ出して倒す。
だが、魔族は床へ着く前に身体をひねった。
逆向きの脚が壁を蹴る。
氷で固定された右腕の肘が、自ら引きちぎれた。
黒い血が飛び散る。
魔族は天井近くの梁へ張りついた。
三本の手足だけで、虫のように身体を支えている。
切れた右腕の根元から肉が盛り上がり、短い指が生え始めていた。
「こいつも再生するのか」
「イヴォの腕より遅い」
リュカは魔族を見上げていた。
「生え切る前に落とす」
床を蹴る。
小さな身体が、梁へ向かって跳び上がった。
魔族の単眼が見開かれる。
「お前――」
リュカの踵が、細い顎を打ち抜いた。
魔族の頭が跳ね上がる。
梁から手足が離れ、床へ落ちた。
だがリュカも、空中では方向を変えられない。
再生しかけた右腕が鞭のように伸び、その脇腹を捉えた。
リュカの身体が壁へ叩きつけられる。
「リュカ!」
ローディスが駆け出しかける。
「来ないで!」
壁際から声が返った。
リュカは片膝をついているが、意識はある。
「そいつを穴から離して! 次が来る!」
黒い穴の内側で、別の何かが動いていた。
長い指が縁へかかり、こちら側へ押し広げようとしている。
一体目の魔族は床から起き上がった。
単眼が、リュカだけを見ている。
「お前、変だ」
裂けた口が動く。
「人の中に、こちらの――」
「喋りすぎ」
リュカの姿が消えた。
次の瞬間には、魔族の懐へ潜り込んでいる。
低い蹴りが逆向きの膝を横から砕く。
魔族の身体が傾いた。
リュカは踏み込まない。
一撃だけで横へ抜ける。
その動きに合わせ、セイルが精霊語を発した。
床を走った氷が、砕けた脚へ絡みつく。
魔族は残った脚で跳ぼうとした。
ローディスの大剣が、その肩へ振り下ろされる。
刃を爪で受け止めた。
甲高い音が鳴る。
細い身体が床へ沈み、板が割れた。
「重い」
魔族が笑う。
「だが、遅い」
残った左腕がローディスの首へ伸びた。
ローディスは剣を押し込まない。
手首を返し、刃を爪から滑らせる。
力の支えを失った魔族の身体が前へ崩れた。
そこへ、リュカの踵が背中から叩き込まれる。
魔族の胸が床へ落ちた。
「セイル!」
「もうやってる!」
杖の先に水が集まり、熱が退く。
半月状の氷刃が伸びた。
セイルは大鎌を振り上げるのではなく、倒れた魔族の首へ引っかけた。
氷刃が喉へ食い込む。
魔族が暴れ、刃に亀裂が走る。
「長くは持たない!」
「一呼吸でいい!」
ローディスが大剣を上段へ構えた。
セイルが氷の大鎌を引く。
首が伸び、額の単眼が上を向く。
露わになった喉へ、大剣が落ちた。
一撃。
細長い首が断たれる。
黄色い単眼が見開かれたまま、頭部が床を転がった。
胴体はなおも起き上がろうとした。
リュカが背骨を踏み砕き、セイルが切断面を凍らせる。
ようやく、長い手足から力が抜けた。
「倒した……?」
裏口の近くで、誰かが呟いた。
「見てないで、早く出ろ!」
ローディスが怒鳴る。
残っていた参加者たちが、我に返って外へ走り出した。
マティアスは咳をする子供を抱いた女を先に通し、最後尾で人数を数えている。
「イヴォが残っている!」
「僕たちが運ぶ!」
リュカは脇腹を押さえながら答えた。
「あなたも出て!」
マティアスは一瞬ためらい、頭を下げて裏口をくぐった。
工房に残ったのは、三人と、意識を失ったイヴォだけになる。
「怪我は?」
ローディスがリュカを見る。
「骨は大丈夫。たぶん痣になるくらい」
「あれだけの勢いで壁へぶつかってか?」
「受け身を取ったからね」
リュカは笑った。
その割に、呼吸は乱れていない。
ローディスは先ほど魔族が言いかけた言葉を思い出した。
――人の中に、こちらの。
「リュカ。あいつは、お前を見て何を――」
「あとにして」
セイルが黒い穴を指した。
「一体倒して終わりじゃない」
二体目の魔族が、穴から片腕を出していた。
一体目より太い。
灰色の皮膚には、黒い棘がいくつも生えている。
その後ろにも、黄色い目が二つ、三つと浮かんでいた。
「穴が広がってる」
最初は人一人が通れる幅だった亀裂が、今は染料桶より大きく口を開けている。
向こう側から魔族が縁を押すたび、空間が軋み、黒い亀裂が上下へ伸びた。
「イヴォの腕を切る」
ローディスは凍りついた異形の右腕へ向き直った。
「穴を支えているなら、足場を壊せば閉じるかもしれん」
「やって」
リュカが穴の前に立つ。
「セイルと僕で、次を押し返す」
ローディスはイヴォの肩と異形の腕の境目へ刃を当てた。
「イヴォ。すまん」
大剣を振り上げる。
穴から出た太い腕が、イヴォへ伸びた。
リュカが横から蹴る。
軌道は逸れたが、棘の一本がリュカの袖を裂いた。
セイルは杖を向け、腕の周囲へ氷をまとわせる。
凍った箇所が内側から砕けた。
「一体目より力が強い!」
「三呼吸だけ持たせて!」
ローディスが大剣を振り下ろした。
刃が、イヴォの肩へ届く直前。
工房の床一面が、下から突き上げられた。
床板を割り、細い石の隆起が幾重もの円と精霊語の線を描きながら、工房全体へ広がっていく。
巨大な紋章が、大地そのものから浮かび上がっていた。
工房の中にいる誰も、描いてはいない。
壁の向こうから、長い精霊語の詠唱が聞こえた。
発声式の願いを受けた土の精霊が、床下の石を押し上げて紋章を刻んでいる。石の線は一本の乱れもなくつながり、最後の円を閉じた。
「全員、その場を動かないで」
女の声が、崩れかけた工房へ響いた。
黒い穴の周囲から石の帯が伸び、外へ出ていた魔族の腕へ巻きつく。
一本。
二本。
三本。
腕を穴の内側へ押し戻し、亀裂の縁を縫い止める。
穴の拡大が止まった。
裏口とは反対側の壁が、外から吹き飛んだ。
瓦礫が工房へ入るより早く、床から石壁がせり上がって受け止める。
開いた壁の向こうに、鉄色の外套をまとった女が立っていた。
四十歳前後。長い銀髪を高く結い、右手には人の背丈ほどある黒石の杖を持っている。
外套の胸元には、ヴァルグレン帝国の紋章。
その周囲には帝国軍の兵士たちが並んでいた。
セイルが息を呑む。
「宮廷精霊術師……」
女は三人へ一瞥を向けた。
労働者の衣服で顔を隠した、正体不明の三人。
床には首を断たれた魔族。
氷で固定された異形の腕。
そして、空間を裂いて開いた黒い穴。
驚きは見せなかった。
「帝国宮廷精霊術師、エレオノーラ・ヴァイスです」
黒石の杖の先を、穴へ向ける。
「その人を連れて、穿界孔から離れなさい」
「せんかいこう?」
ローディスが聞き返す。
「異界からこちら側へ穿たれた穴のことです」
石の帯が軋む。
穴の向こうで、何体もの魔族が同時に縁を押している。
エレオノーラの表情が、初めて険しくなった。
「説明は封じてからにします。これは入口ではありません」
杖を両手で握り、膨大なマナを紋章へ注ぎ込む。
「侵攻路です」




