第8話 人のための力
「もう一度だ! 声を呼んでくれ!」
閉鎖された染色工房を、救いを求める声が満たしていた。
イヴォの右手が動く。
ただそれだけの光景が、集まった人々から恐れを奪っている。
皮膚の下で心臓とは異なる脈動が続いていることにも、何かが腕へ向かって這い上がっていることにも、誰も目を向けない。
「静かにしてくれ!」
マティアスが杖で床を叩く。
「声が届くように、もう一度、願いを一つにする。皆、桶を囲んで――」
「駄目だ」
ローディスは麻布の包みを背から下ろした。
リュカが人波を抜け、その横へ並ぶ。
「調査は終わり。これ以上、契約者を増やさせない」
小さな声は、セイルとローディスにだけ届いた。
「だが、どうやって止める」
「まず声を聞くのをやめさせる。全員、工房の外へ出すよ」
「素直に従うとは思えないね」
セイルも二人へ合流する。
三人が固まって動いたことで、周囲の視線が集まった。
「何者だ、あんたたちは」
入口を守っていた男が進路を塞ぐ。
「力が欲しくて来た人間じゃないな」
「今は説明できない」
ローディスが答える。
「だが、その力は人を救わない。ここにいれば、全員が危険だ」
「またそれか!」
参加者の一人が怒鳴った。
「イヴォの手を見ろ。お前たちが何を言おうと、あれは動いている!」
「動くことと、治ることは同じじゃない」
セイルがイヴォの右腕を指した。
「袖をまくってみろ。手だけでは済んでいないはずだ」
イヴォが反射的に右腕を胸へ抱える。
その顔から、歓喜がわずかに薄れた。
「イヴォ」
マティアスが呼びかける。
「皆に見せてくれ。何も危険などないと――」
「黙って」
イヴォが呟いた。
「何?」
「今、声が話してる」
工房が静まる。
イヴォは何もない空間へ顔を向けていた。
目の焦点が合っていない。
「あいつらは、皆から救いを奪う者だって」
右手の指が、本人の意思とは無関係に開いていく。
「皆を救いたければ、邪魔をする者を退けろって」
「イヴォ。聞くな!」
ローディスが一歩踏み出す。
「最初に言われたんだろう。人のために力を使えと」
イヴォは涙の跡が残る顔で頷いた。
「だから使う」
右腕が膨れ上がった。
作業着の袖が内側から裂ける。
手の甲を走っていた太い筋が肘を越え、肩へ食い込む。指の関節が一つ、二つと増え、五本の指が鞭のように伸びた。
参加者たちの歓声が、悲鳴へ変わる。
「下がれ!」
ローディスは大剣を包んでいた麻布を引き剥がした。
露わになった刀身を見て、人々が左右へ逃げる。
その中央を、異形の指が突き抜けた。
狙いはローディス。
だが、伸びた指の一本が、逃げ遅れた老人の背中へ向かっている。
ローディスは老人の前へ踏み込んだ。
大剣を斜めに構える。
正面から止めない。
異形の指が刀身の腹へぶつかる瞬間、手首と肘を落とす。衝撃を剣先から床へ流し、その向きを横へ逸らす。
伸びた指が染料樽を薙ぎ払い、木片を撒き散らした。
大剣は折れない。
ローディスの足も動いていない。
「今度は、折らん」
「剣の心配をしてる場合?」
リュカが人々の頭上を跳び越えた。
空中で身体をひねり、イヴォの右肩へ踵を落とす。
骨が砕ける音がした。
異形の腕が床へ垂れ下がる。
だが、次の瞬間には肩の筋肉が盛り上がり、砕けた骨を内側から押し戻した。
「再生してる」
リュカは着地と同時に距離を取る。
「手だけじゃない。変わった場所は全部、壊れても戻るみたいだ」
「本人の身体は?」
セイルが尋ねる。
「まだ人間のまま。右肩より先だけだ」
「なら、腕を止めて本人を眠らせる」
セイルは杖を構えた。
だが、逃げ惑う人々が三人の間へ流れ込む。
「押すな!」
「出口はどこだ!」
「子供がいるの、通して!」
ローディスの姿が、人波の向こうへ消えた。
セイルは舌打ちする。
壁際へ寄れば、人に押し潰される。
中央へ出れば、イヴォの腕に狙われる。
戦う場所を選べるなら、狭い場所へ入らない。
敵が速いと分かった時点で、壁際に立たない。
近づかれる前に、退路を作る。
すべて、リュカから教えられたばかりだった。
だが、任務では望んだ場所だけを選べない。
イヴォの顔がセイルへ向く。
「お前が、治ってないと言った」
「実際、治ってはいないよ」
「この手は動く!」
異形の腕が伸びる。
紋章へマナを流し、氷壁を作る。
間に合わない。
それはもう、分かっている。
セイルは杖を両手で握った。
水の精霊が、杖の先へ水を集める。
火の精霊が、そこから熱を退ける。
青白い氷刃が、半月を描いて伸びた。
大鎌となった杖を、身体の前へ斜めに構える。
異形の指が氷刃へぶつかった。
重い。
腕ごと押し潰されそうな衝撃。
受け止めない。
刃の曲面を滑らせ、脇へ流す。
異形の指が床を抉った。
同時に、氷刃の根元へ亀裂が走る。
それでいい。
セイルは大鎌を横へ振った。
砕けかけた氷刃がイヴォの腕へ食い込み、その動きを一瞬だけ押し返す。
「一度で十分だ」
氷刃が砕け散る。
生まれた間合いへ水を撒き、足元を凍らせる。滑る氷の上を後方へ移動し、人波の切れ目を抜けた。
その先に、ローディスがいる。
セイルは大剣の背後へ戻った。
「遅かったな」
「君が迎えに来なかったからね」
「人を守っていた」
「知ってる。だから自分で戻った」
異形の腕が再び迫る。
ローディスは大剣で受け流した。
腕が横へ逸れ、イヴォの右脇が開く。
「リュカ!」
「見えてる!」
小さな影が、床すれすれを駆けた。
一撃目。
リュカの踵がイヴォの右膝裏を刈る。
巨体ではない。鍛えられてもいない青年の身体が、簡単に崩れる。
二撃目。
倒れ込むイヴォの顎へ、掌底が突き上がった。
イヴォの目から力が抜ける。
その身体が床へ落ちる前に、ローディスが受け止めた。
気を失っている。
だが、異形の右腕は止まらなかった。
長い指が床を掻き、ローディスの脚へ絡みつこうとする。
「本人が動かしてるんじゃない」
リュカが腕を蹴り払う。
「意識がなくても、向こうから動かせるんだ」
「凍らせる!」
セイルが精霊語を発した。
床に撒かれた水が異形の腕へ集まり、肩から指先までを包む。
凍結。
厚い氷が、腕を床へ縫いつけた。
内側から筋肉が膨らみ、氷に細かな亀裂が入る。
「長くは持たない」
「その前に全員を外へ出す」
ローディスはイヴォの身体を抱え上げた。
「待ってくれ」
マティアスが、よろめきながら近づいてくる。
曲がった左脚を支える杖が震えていた。
「あの声は、皆を救うと……選ばれなかった者へ、力を与えると」
「あれを見ても、まだ信じるのか」
ローディスが問う。
マティアスは氷の中でもがく右腕を見た。
答えられない。
工房の隅では、咳をする子供を抱いた母親が、怯えた顔でこちらを見ている。
それでも、別の誰かが小さく呟いた。
「動かない手よりは、ましだ」
一人だけではない。
「俺なら、もっと上手く使える」
「声は人のために使えと言ったんだ。あの青年が制御できなかっただけかもしれない」
「やめろ!」
マティアスが叫んだ。
参加者たちが黙る。
「もう願うな。私が間違っていた。皆を集めれば、声がもう一度届くと言われて……」
その顔が、突然強張った。
「マティアス?」
「聞こえる」
杖が手から落ちた。
マティアスは両手で頭を抱える。
「違う。私はもう、力を望んでいない。皆も帰る。だから――」
返事を聞くように、息を止める。
「道は、もうつながった?」
リュカが顔を上げた。
「全員、伏せて!」
古い染料桶の上で、空間が裂けた。
音はなかった。
光も、マナの流れもない。
何もない宙に、髪の毛ほど細い黒い線が現れる。
線は縦に伸び、人の背丈ほどの亀裂となった。
その向こうには、工房の壁も、夜の街も見えない。
光を一切返さない、底のない黒だけがあった。
「〈黒淵〉……?」
ローディスが呟く。
「違う。黒淵は海の上だ。こんな場所に現れるはずがない」
セイルは杖を向けたまま、後ずさった。
「なら、これは何だ」
「分からない。でも、あの腕が反応してる」
氷の中で、イヴォの右腕が激しく脈打った。
亀裂も、それに応えるように広がる。
集められた人々の胸をつないでいた声。
イヴォへ埋め込まれた異形の肉。
その二つが、異界からこちら側を探すための目印になっている。
「あの腕が穴を支えてる」
リュカが言った。
「セイル、凍らせたままにして。ローディスはイヴォを腕から離して!」
「切るのか?」
「今はそれしかない!」
ローディスはイヴォを床へ横たえ、大剣を構えた。
人間の肩と、異形へ変わった腕の境目。
一撃で断つために、刃を振り上げる。
その瞬間、黒い亀裂の内側から指が伸びた。
灰色の皮膚。
人の倍はある、長い四本の指。
亀裂の縁を内側から掴み、左右へ押し広げる。
空間が軋んだ。
穴の向こうから、生温かく腐った風が吹き込む。
次に現れたのは、毛のない細長い頭だった。
口は耳の位置まで裂け、黄色い目が一つだけ額に埋まっている。
人ではない。
契約を通じて力だけを貸す、姿の見えない何者かでもない。
一体の魔族が、自らこちら側へ這い出そうとしていた。
黄色い目が、工房に集まった人々を映す。
裂けた口が笑みの形に歪んだ。
「見つけた」
低位の魔族が、初めて人族の街へ足をかけた。




