第7話 選ばれなかった者たち
青白い氷刃が、明け方の薄闇を薙いだ。
セイルは振り抜いた杖を止め、息を吐く。
半月状の刃には細かな亀裂が走っていたが、今度は砕けなかった。
「昨日よりはましだね」
旧演習場の壁際から声がした。
振り返ると、リュカが崩れた石柱へ腰かけている。隣にはローディスもいた。新しい大剣を背負い、まだ眠そうな顔で氷の大鎌を見ている。
「いつから見てた?」
「三本目を折ったところから」
「五本目だよ」
「もっと前から見てたみたいだね」
セイルは紋章へのマナを切った。
氷刃が水へ戻り、杖の先から石床へ落ちる。
「強度を保つと重い。軽くすると根元から割れる。実戦で何度も振るものじゃないな」
「何度も振る必要はないよ」
リュカが石柱から下りた。
「一度防いで、一度だけ相手を遠ざける。それでローディスのところまで戻れれば十分」
「俺が迎えに行く」
「昨日、二回間に合わなかった人が?」
「今日は間に合わせる」
「なら、僕の術は要らないね」
「そうは言っていない」
言い合う二人の間を、小さな足音が横切った。
三人が同時に黙る。
演習場の入口に、土でできた小型ゴーレムが立っていた。
いつからいたのか分からない。丸い頭を三人へ向け、両腕で細長い木箱を抱えている。
「朝から仕事か」
ローディスが大剣を下ろした。
「報酬次第だね」
セイルの顔から、鍛錬の疲れが消える。
小型ゴーレムは旧演習場の中央まで歩き、箱を石床へ置いた。蓋を開くと、中には一枚の報告書と、三人分の粗末な衣服が畳まれていた。
リュカが報告書を開く。
――帝都東部の職人街において、マナを必要としない力に関する噂を確認。
――噂の内容は「夜、心から力を望めば、選ばれなかった者にも声が届く」というもの。
――明日の夜、閉鎖された染色工房にて、契約希望者を集めた会合が予定されている。
――三名は参加者に偽装して潜入。勧誘者、契約方法、背後関係を調査せよ。
――契約の成立が確認されるまで、主催者および参加者の拘束を禁ずる。参加者は現時点では犯罪者にあらず。
――身元の露見を避け、可能であれば証拠を持ち帰ること。
報告書の最後には、会合へ入るための合言葉が記されていた。
「ただの噂ではないな」
ローディスが言う。
「野盗首領が聞いた声と似すぎてる」
「今回は、向こうから一人ずつ声をかけるんじゃない」
セイルは報告書を覗き込んだ。
「人を集めて、まとめて契約者を作るつもりかもしれない」
「だから僕たちに、集会へ潜り込めって指令が来た」
リュカは箱の中の服を一着取り出した。
色褪せた上着と、煤の染みた頭巾。黒いローブでは職人街で目立ちすぎるため、現地の労働者に紛れる服が用意されたのだろう。
「契約する前なら、止められるな」
「全員を説得できればね」
セイルが冷静に返す。
「力を欲しがって集まる人たちだ。危険だから帰れと言って、素直に帰ると思う?」
「危険だと知らないから集まるんだろう」
「知っても欲しがる人はいるよ」
リュカの言葉に、二人は黙った。
力を得た代わりに、自分の身体を壊した野盗首領。
頭の中から殺せと命じ続ける声。
それでも最後まで、男は力そのものを手放そうとはしなかった。
◇
翌日の夜。
三人は帝都東部の職人街を歩いていた。
昼には染料や革、炭の匂いが入り混じる通りも、今はほとんどの工房が戸を閉ざしている。酔客の声が遠く聞こえるだけで、人通りは少ない。
兵学府の制服も、宵衛の黒いローブも身につけていない。
ローディスは煤けた作業着の上から、大剣を細長い麻布で包んで背負っている。職人街では大きな荷物を運ぶ者も珍しくない。
セイルは杖を古布で巻き、歩行用の棒に見せかけていた。
リュカは深く被った頭巾の下に顔を隠し、短剣を上着の内側へ収めている。
三人は互いを知らない参加者として、少しずつ間を空けて歩いた。
目的の染色工房は、細い水路のそばにあった。
二階の窓は板で塞がれ、色の剥げた看板が風に揺れている。裏手の扉の前には、肩幅の広い男が一人立っていた。
「何を探してる」
男が低く問う。
最初に着いたローディスは、指令書にあった言葉を答えた。
「選ばれなかった者にも、夜は来る」
男はローディスの顔と、背中の包みを順に見る。
「中へ。武器は抜くな」
扉が開く。
ローディスは一人で中へ入り、積み上げられた空の染料樽の陰へ腰を下ろした。
しばらくしてセイルが入ってくる。
さらに数人を挟み、リュカも現れた。
三人は視線を交わさない。
工房の中には、すでに三十人近い人間が集まっていた。
若い者も、年老いた者もいる。衣服の多くは擦り切れ、指には仕事でできた傷や染料の染みが残っていた。
右脚を引きずる老人。
咳をする子供を抱いた母親。
片目を布で覆った元兵士らしい男。
右手を胸へ抱え込んでいる青年。その手は指が不自然に曲がり、作業事故で潰されたまま固まっている。
人を傷つけるための力を欲しがっているようには見えなかった。
「また増えたな」
「北通りでも話が広がってる。精霊に頼らなくてもいいんだろ?」
「俺にも声が聞こえるかな」
「精霊に三度断られた。今度こそ選ばれるかもしれない」
小声が、工房のあちこちで交わされている。
ローディスは麻布の下の大剣を握りそうになり、指を止めた。
まだ誰も罪を犯していない。
指令書の一文を、頭の中で繰り返す。
やがて正面の作業台へ、一人の男が上がった。
五十代ほどだろう。痩せた身体に古い職人服をまとい、左脚を木の杖で支えている。
「今夜、初めて来た者もいるな。私はマティアス・レンツ。この工房で染色職人をしていた」
男――マティアスは、集まった人々を見回した。
「十五年前、仕事中の事故で脚を潰した。精霊術師の治療を受ける金はなかった。命の精霊に契約を願ったが、返事はなかった」
自嘲するように、曲がった左脚を杖で叩く。
「私は働けなくなり、この工房も閉じた。精霊に選ばれなかった。それだけで、すべてを失った」
参加者の何人かが俯いた。
同じ経験を持つのだろう。
「だが、ひと月前。夜中に声を聞いた」
工房が静まり返る。
「耳からではない。胸の奥へ、直接届く声だった。力が欲しいかと問われた。精霊に拒まれた者も、マナを持たない者も、望むだけでいいと言われた」
野盗首領と同じだ。
ローディスは樽の陰から、セイルの位置を確かめた。
セイルもこちらを見ていた。
「あなたは、何と答えたんですか」
咳をする子供を抱いた女が尋ねた。
「欲しいと答えた」
マティアスは静かに言った。
「だが、私にはまだ力は与えられていない。代わりに、同じ苦しみを持つ者を集めろと言われた。願いが十分に集まれば、声は再び届くと」
セイルの表情が険しくなる。
契約者ではない。
少なくとも、今の言葉が事実なら、マティアスは力を借りていない。契約を餌に、人を集める役目だけを与えられている。
「その声が、魔族のものではないと証明できるのか」
集会の後方から声が上がった。
顔を隠した女性だった。
マティアスはすぐには答えない。
「できない」
ざわめきが広がる。
「だが、精霊は我々を選ばなかった。国はマナを持つ者を兵士にし、術師にし、よい仕事へ就ける。選ばれなかった我々に、危険だから何も望むなと言うだけだ」
杖を握る手へ力が入る。
「危険かもしれない。それでも、何もせず失い続けるより、自分で選びたい」
反対の声は続かなかった。
ローディスは立ち上がりかけた。
危険だ。
あの声は力だけを与えるのではない。契約した者へ、人族を傷つけろと命じる。
だが、今ここでそれを訴えるには、なぜ自分が知っているのかを話さなければならない。
宵衛の素性を明かせば、勧誘者の背後へたどり着く機会を失う。
リュカが膝の上で指を二本立てた。
待て。
事前に決めた合図だった。
マティアスは作業台から下り、工房の中央に置かれた古い染料桶の前へ立った。
「声から教えられた手順はない。唱える言葉も、描く紋章もない」
参加者たちが、ゆっくりと桶を囲む。
「目を閉じ、自分がなぜ力を欲しいのかを思い浮かべる。そして、もし声が届いたなら、自分の意思で答える。それだけだ」
あまりにも簡単だった。
精霊語を学ぶ必要もない。
紋章を正しく描く必要もない。
体内にマナを持つ必要すらない。
願うだけ。
欲しいと答えるだけ。
三十人近い人々が目を閉じる。
ローディスは閉じなかった。
セイルも、リュカも同じだった。
しばらくは、何も起きない。
水路を流れる水の音。
誰かの浅い呼吸。
咳をこらえる子供の声。
「誰だ」
震える声がした。
右手の潰れた青年が、目を開いている。
二十歳をいくらか過ぎた頃だろう。伸び放題の栗色の髪が痩せた頬へかかり、古い作業着の右袖だけが、手首を覆う包帯の上から不自然に細く萎んでいた。
何もない空間を見回し、左手で自分の胸を押さえていた。
「どこにいる。今のは、誰だ」
マティアスが青年へ駆け寄る。
「聞こえたのか」
「頭の中に……いや、胸の奥にいる。俺の手を、元に戻せるって」
工房中の視線が、青年へ集まった。
「イヴォ」
隣にいた男が、その肩を掴む。
「待て。何を求められるか聞け」
「もう聞いた」
イヴォと呼ばれた青年の目から、涙がこぼれた。
「人のために力を使えって。それだけだ」
人のため。
野盗首領へ届いた声は、人を殺せと命じていた。
同じ存在ではないのか。
それとも、最初だけ都合のいい言葉を使っているのか。
「答えるな!」
ローディスは立ち上がった。
全員の顔がこちらを向く。
リュカの合図を無視した。それでも、黙って見てはいられなかった。
「その声は、代償を話していない。力だけを渡す相手などいない」
「精霊は、契約を結んでもマナしか求めないだろ」
参加者の一人が言い返す。
「それと同じかもしれない」
「違う。そいつは――」
「あんたには分からない!」
イヴォが叫んだ。
曲がった右手を突き出す。
「この手じゃ、荷物を持てない。字も書けない。治療を受ける金もない。毎日、働けないなら出ていけって言われてる!」
ローディスの背中にある大剣を睨む。
「そんな立派な剣を持てるあんたに、俺の何が分かる!」
言葉が詰まった。
銀貨九枚を一度に使い、新しい剣を買った。
イヴォにとっては、その銀貨があれば手の治療を受けられたかもしれない。
「俺は答える」
イヴォは涙を拭わなかった。
「力が欲しい。もう一度、働ける手が欲しい!」
紋章はない。
精霊語もない。
マナの流れすら感じられない。
それでも、変化は起きた。
イヴォの右手が大きく痙攣する。
曲がった指の骨が、皮膚の下で鳴った。
「あ――」
イヴォが膝をつく。
潰れて固まっていた指が、一本ずつ伸びていく。裂けた皮膚から血が滲み、次の瞬間には傷口が内側から盛り上がって塞がった。
古い爪が剥がれ落ち、その下から新しい爪が伸びる。
ほんの数呼吸だった。
イヴォは震える右手を開き、閉じた。
もう一度。
五本の指が、本人の意思どおりに動いている。
「治った」
誰かが呟いた。
「本当に、治った……」
イヴォは右手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
歓声が爆発した。
参加者たちが押し寄せる。手を握らせてくれと叫ぶ者。自分にも声が届くのかとマティアスへ詰め寄る者。咳をする子を抱いた女は、もう一度全員で願おうと声を上げた。
「待ってくれ!」
ローディスの声は、熱狂に飲み込まれた。
「精霊に選ばれた奴には分からない!」
「俺たちは、今度こそ自分で選べるんだ!」
「もう一度だ! 声を呼んでくれ!」
誰も、ローディスの言葉を聞こうとはしない。
セイルが人波を抜け、ローディスのそばへ来た。
「まずいね」
「ああ。全員が契約を望み始めた」
「それだけじゃない」
リュカが、二人の間へ滑り込んだ。
その目は、泣きながら自分の手を見つめるイヴォへ向けられている。
「あれは治ってない」
「動いているぞ」
「動くように、別のものへ作り替えられてる」
イヴォの右手の甲で、太い筋が脈打った。
一度。
二度。
心臓の鼓動とは合っていない。
皮膚の下を、細長い何かが指先から腕へ向かって這い上がっていく。
だが、それに気づいている者はいない。
工房を満たすのは、救いを求める声だった。
そして、人々の胸の奥へ呼びかける何者かは、そのすべてを聞いていた。




