第6話 届かない間合い
新しい大剣は、前のものよりわずかに重かった。
ローディスが振り下ろすたび、鈍い風切り音が旧演習場に響く。
兵学府の北端にある、今はほとんど使われていない石造りの演習場だった。外壁には蔦が這い、床のあちこちに古い亀裂が走っている。早朝を選んだのは、リュカの戦い方を他の学生に見られないためだ。
刀身には厚い革の覆いを巻き、刃が直接触れないよう固定してある。それでも、まともに打たれれば骨は折れる。
「振り出しは前より遅い。でも、止めやすいな」
横薙ぎにした剣を、ローディスは身体の正面でぴたりと止めた。
「峰が厚いぶん、重心が手元に近いんだろうね」
演習場の端で、セイルが杖を回す。
頬の傷はもう布を貼る必要もないほど閉じていた。昨夜、薬を飲んで眠ったことでマナも戻っている。ただし、味を思い出すたびに機嫌が悪くなった。
「九枚も払ったんだ。前より悪くては困る」
「まだ僕への借金があることも忘れないでくれ」
「覚えている」
「利子も?」
「今、増えたのか?」
「二人とも、準備はいい?」
演習場の中央から、リュカが声をかけた。
武器は持っていない。いつもの短剣すら壁際へ置き、身軽な訓練着で立っている。
ローディスより頭一つ以上小さい。腕も脚も細く、制服姿なら戦士より書記官の見習いに見えただろう。
二日前の夜、その身体が魔術で強化された大男を一方的に打ち倒した。
「本当に、二人がかりでいいのか」
ローディスが尋ねる。
「一人ずつだと、訓練にならないから」
セイルが杖を握り直した。
「その言葉、あとで後悔させてやる」
「そうしてくれると助かるよ」
リュカは笑い、右手を軽く上げた。
「僕の胸か背中に一撃入れたら、二人の勝ち。僕はどちらか一人の首に触れたら勝ち。精霊術は自由。ただし、演習場を壊すような大技は禁止」
「すでに床を壊した人が言う台詞かな」
「何のこと?」
先日の紋章式実習で残した亀裂を思い出したのだろう。リュカは笑顔のまま首を傾げた。
「始めよう」
上げていた手が下りる。
ローディスは大剣を正面に構えた。
先に出ない。
あの夜は、相手の力へ自分の力をぶつけた。今日は違う。セイルの前から動かず、リュカが踏み込んだ瞬間だけを狙う。
背後で、セイルが杖の紋章へマナを流した。
杖に刻まれた線が青白く光る。
発声式より伝えられる願いは短い。代わりに、完成した紋章なら言葉を発するより早く精霊へ届く。
ローディスの左右に、薄い氷の板が立ち上がった。
壁ではない。
リュカが横へ回り込む道を狭め、正面へ誘い込むための仕切りだ。
「考えたね」
リュカが一歩、前へ出る。
その姿が揺らいだ。
「右だ!」
セイルの声より先に、ローディスは大剣を振った。
右の氷板が砕ける。
リュカはその手前で急停止し、身体を沈めていた。踏み込むと見せかけ、ローディスに道を開けさせたのだ。
すぐに剣を返す。
だが、リュカはもう正面にいない。
砕けた氷の隙間を抜け、小さな身体がセイルへ迫っていた。
杖に刻まれた別の紋章が光る。
セイルの足元から氷柱が斜めに伸びた。
発声はない。
紋章へマナを通すだけの、最短の術だ。
リュカは首を傾けるだけで氷柱を避ける。二本目は肩を沈め、三本目は片足で床を蹴って飛び越えた。
セイルが後ろへ下がりながら、次の紋章へ指を滑らせる。
遅い。
氷が形を得る頃には、リュカはその狙いから外れている。
杖を横にして、迫る腕を受け止めた。
「捕まえた」
セイルが杖をひねる。
接触した箇所から凍らせるつもりだった。
しかし、杖に触れたのはリュカの腕ではない。
つま先だった。
軽く蹴り上げられた杖が、セイルの手から浮く。
リュカの指が、その喉元へ伸びた。
「させん!」
ローディスが間へ割り込んだ。
リュカの身体へ向けて、大剣の腹を押し出す。
打ち倒すのではなく、進路を塞いでセイルから引き離す一撃。
リュカは床を蹴り、後ろへ跳んだ。
「今のはいいね」
「まだ終わっていない」
ローディスが追う。
新しい剣の重さに任せて振らない。踏み込みを小さくし、いつでも戻せる幅だけで斬る。
リュカは一撃目をかわした。
二撃目は、身体を沈める。
三撃目。
横薙ぎを避けたリュカの足が、刀身の腹を蹴った。
衝撃が腕へ伝わる。
ローディスは踏ん張らなかった。
剣先を下げ、蹴りの力を地面へ逃がす。
大剣は折れない。腕も痺れない。
ガルドに教えられた通り、受けて、流した。
「どうだ」
「剣は大事にできそうだね」
声は背後から聞こえた。
「でも、僕を見失った」
振り返るより早く、リュカは間合いの外へ離れていた。
首へ手を伸ばすことすらしていない。
いつでも触れられたと、動きだけで示された。
そこへ、セイルの杖が向く。
三つの紋章が続けて光った。
床を氷が走る。
正面、左、そして背後。
三方向から薄い氷壁が立ち上がり、リュカを囲む。残る右側にはローディスがいる。
「今度こそ捕まえた」
セイルが右手を握る。
氷壁から無数の細い氷の枝が伸びた。
リュカの腕と脚へ絡みつく。
その直前、小さな身体が真上へ跳んだ。
人の跳躍ではない。
リュカは氷壁より高く舞い上がり、空中で身を翻した。
「上だ、ローディス!」
分かっている。
大剣を盾のように掲げかけ、やめた。
半歩下がり、落ちてくる踵を斜めに受け流す。
刃を覆う革と靴底がぶつかった。
石床が鳴る。
今度も、剣は耐えた。
リュカは流された勢いのまま床へ片手をつき、身体を回転させる。
低い足払い。
ローディスの両足が浮いた。
倒れる身体の向こうに、セイルが見える。
リュカが一直線に駆けていく。
セイルは杖を拾い直していた。
紋章へマナを流す。
光る。
氷が生まれる。
そのすべてが、間に合わない。
リュカの指がセイルの喉へ触れた。
「二人とも、終わり」
◇
「納得がいかない」
セイルは石床へ座り込み、苦々しく言った。
「発声は使ってない。紋章も、短い願いだけを刻んだものだ。これ以上、術の発動を早くするのは難しい」
「術は十分に早かったよ」
リュカは平然と答えた。
「僕が、それより早く動いただけ」
「それが納得いかないと言ってるんだ」
セイルはリュカの身体を上から下まで眺めた。
「その細い身体のどこから、あの力と速さが出る? 筋肉の量で説明できる動きじゃない」
ローディスも立ち上がり、土埃を払った。
「俺も前から気になっていた。身体の使い方だけではないだろう」
「二人が大きすぎるんじゃない?」
リュカは自分の腕を眺める。
「小さい方が、風の抵抗も少ないし」
「それで人が氷壁を飛び越えられるなら、兵学府は全員の食事を減らすよ」
「それは困るなあ」
笑っている。
だが、答える気がないことだけは分かった。
ローディスはさらに問おうとして、やめた。
リュカにも、まだ話せないことがある。
今は、それだけ覚えておけばいい。
「そういえば、聞いたことがなかったな」
ローディスは大剣を肩へ担いだ。
「なぜ、俺たちを宵衛へ誘った?」
「今さら?」
「誘われたときは、任務の説明を聞くだけで精一杯だった」
「僕は報酬額を聞くので精一杯だったよ」
セイルが言う。
リュカは二人の顔を見比べ、石床へ腰を下ろした。
「ローディスに声をかけたのは、見捨てないと思ったから」
「俺が?」
「入学したばかりの頃、訓練用ゴーレムが制御を外れたことがあったでしょ。みんなが教員を呼びに走ったのに、君だけは転んだ生徒の前に残った」
ローディスは記憶を探った。
片腕の崩れた、小さな人型ゴーレム。武器を取りに戻る暇もなく、木製の長椅子を盾にして殴り倒した。
「あれを見ていたのか」
「うん。強い人は他にもいたけど、危ないときに前へ出る人は少なかったから」
「俺は、強くなれるならと思って入った」
ローディスは素直に答えた。
「学園の訓練だけでは、試験に勝つための強さしか身につかん。父と母は、試験の点では止まらない相手と戦ってきた。俺も、そういう相手を止められる力が欲しかった」
「それであの夜、相手の力まで正面から止めようとしたわけだ」
「反省していると言っただろう」
セイルが喉の奥で笑った。
「僕を選んだのは、氷が便利だったからか?」
「それもあるよ。でも、一番は追い詰められても考えるのをやめなかったから」
「どのときの話だ」
「去年の対抗実習。杖を折られて、マナも残り少なかったのに、霜で相手の靴底だけを滑らせて勝った」
「よく見てるね」
「仲間を選ぶんだから、見るよ」
リュカは当然のように言った。
「誘ったら、報酬はいくらかって聞き返されたけど」
「危険な仕事を無償で受けるほど、僕は酔狂じゃない」
「なぜ、そこまで金が要る?」
ローディスが尋ねる。
セイルは一瞬だけ黙り、空になった薬瓶を鞄の中へ押し込んだ。
「必要だからだよ。君が強さを欲しがるのと、大して変わらない」
それ以上は話す気がないらしい。
「それで、リュカは?」
今度はセイルが問い返した。
「君はどうやって宵衛へ入った。僕たちを誘う前からいたんだろう?」
リュカの笑みが、わずかに薄くなった。
「行く場所がなくなったとき、ある人に拾われたんだ」
「ある人?」
「宵衛へ僕を誘った人。それ以上は、その人との約束で言えない」
組織の誰か。
ローディスとセイルに分かるのは、それだけだった。
「最初は、別の二人と組んでた」
リュカは自分の足元を見る。
「二人とも、もういない。だから次に組むなら、危ないときに誰かを見捨てない人と、最後まで考えるのをやめない人がいいと思った」
早朝の風が、崩れかけた壁の隙間を抜けた。
普段なら軽口を返すセイルも、何も言わない。
「僕が宵衛にいるのは、探している相手がいるから」
リュカが顔を上げる。
いつもの柔らかな笑みは、もうなかった。
「僕から全部奪った相手だ。誰なのかを突き止めて、この手で終わらせる。そのためなら、表の道だけを歩いているわけにはいかない」
ローディスは、リュカが二人を誘った理由を初めて理解した。
必要だったのは、ただ強い人間ではない。
今度こそ、最後まで一緒に立っていられる仲間だったのだ。
「だったら、なおさら強くならねばならんな」
「借金を返してからにしてくれ」
「それとこれとは別だ」
「僕にとっては同じだよ」
いつもの調子で言い合う二人を見て、リュカの顔にも小さく笑みが戻った。
「それより、セイル」
リュカの声から笑いが消えた。
「今みたいに懐へ入られたら、どうする?」
「距離を取り直す」
「どうやって?」
セイルは答えられなかった。
氷柱も、氷壁も間に合わなかった。杖で受ければ、蹴り上げられた。距離を作るための術を使うには、その術を使うための時間と距離がいる。
「俺が近づかせない」
ローディスが言った。
「俺が前に立っている限り、セイルの間合いまでは通さん」
「さっき、二回通ったよ」
リュカが即座に指摘した。
「一度目は剣で押し返した」
「そのあと、ローディスが僕を追ったから、セイルの前が空いた」
「二度目は――」
「ローディスを転ばせて、そのまま触った」
「……次は止める」
「うん。止めてほしい。でも、実現できていないことを前提にするのは、対処とは言わないよ」
言葉は静かだった。
あの夜と同じだ。
自分なら受けられる。
厚い氷なら壊されない。
ローディスが守ってくれる。
そうなるはずだという思い込みは、敵にとって都合のいい隙になる。
「戦う場所を選べるなら、狭い場所へ入らない。敵が速いと分かった時点で、壁際に立たない。近づかれる前に退路を作る」
リュカは、落ちていたセイルの杖を拾った。
「それでも懐へ入られたら、逃げる。ローディスのところまで生きて戻る。それが一番」
「逃げられない場合は?」
「術を使うことより、自分を守ることを優先する。杖で急所を守って、一呼吸でも稼ぐ」
リュカは杖を両手で持ち、身体の正面へ斜めに構えた。
単なる棒として、相手との間へ置く。
「でも、この杖で君の蹴りを受けたら折れる」
「受け止めるんじゃなくて、逸らすんだよ。ローディスがさっきやったみたいに」
セイルは新しい大剣を見た。
力を受けるための武器。
精霊へ願いを伝えるための道具。
同じ長物でも、役割はまるで違う。
だが、違うままでなければならない理由はなかった。
◇
その夜。
旧演習場に、青白い光が灯っていた。
セイルは一人、杖を構えている。
杖に刻まれた紋章へマナを流す。
水の精霊が空気中の水を集め、杖の先へまとわせた。
続けて、火の精霊へ熱を退けるよう伝える。
水が凍る。
杖の先から、半月状の氷刃が伸びた。
細く、長く、鋭い。
杖は、大鎌のような形へ変わっていた。
セイルは両手で握り、横へ振る。
氷刃の重みに引かれ、身体がわずかに流れた。
「重いな」
呟き、刃を薄くする。
もう一度。
今度は速い。だが、振り切った瞬間に氷刃の根元へ亀裂が入り、半分が床へ落ちて砕けた。
「薄すぎる」
砕けた氷を水へ戻し、再び杖へ集める。
重くすれば振り遅れる。
軽くすれば砕ける。
刃を作るだけなら簡単だった。接近した相手へ届かせ、相手の一撃に耐え、次の術を使う時間を作れる形にしなければ意味がない。
セイルは紋章の線を指でなぞった。
発動の速さでは、リュカに追いつけなかった。
ならば、追いつこうとすること自体が間違いなのかもしれない。
精霊術を放つための杖ではなく。
精霊術そのものを、手の中の武器にする。
水が集まり、熱が退く。
新しい氷刃が、静かに形を成す。
誰もいない演習場で、青白い大鎌が幾度も夜を切り裂いた。




