第10話 大地の楔
「侵攻路です」
エレオノーラ・ヴァイスの言葉に応じるように、穿界孔の奥で何体もの魔族が蠢いた。
穴から出ている太い腕へ、石の帯が食い込んでいる。
黒い棘が石を削り、細かな破片が床へ落ちる。巨大な紋章へ流れ込むマナが揺れるたび、帯は砕かれた箇所を大地から補っていた。
「第三班は工房の外を封鎖。住民を水路の向こうまで下げなさい。第二班は負傷者の収容」
エレオノーラは穿界孔から目を離さず、帝国兵へ命令を飛ばす。
「あの青年の右腕には触れないこと。人の肉ではありません」
「はっ!」
兵士たちは一切問い返さず動いた。
半数が崩れた壁から外へ出て、残る者たちは大盾を構えて穿界孔を囲む。二人の衛生兵が意識のないイヴォへ近づいたが、氷漬けの右腕を見て足を止めた。
「あなたたち」
エレオノーラが三人を呼ぶ。
「その青年を穴から離しなさい。腕は床へ置いたままで構いません」
「肩からつながっている」
ローディスはイヴォのそばで大剣を握っていた。
「切り離せば、出血する」
「つなげたままなら、身体ごと向こうへ引き込まれます」
イヴォの異形の右腕は、厚い氷の内側でも穴へ向かって指を伸ばしている。
凍りついた爪が床板を掻くたび、穿界孔がわずかに脈打った。
「あの腕が足場になってるんだ」
リュカが言う。
「先に切るしかない」
ローディスは奥歯を噛んだ。
イヴォは、人を傷つけるために力を求めたのではない。
もう一度働ける手が欲しかっただけだ。
その願いの果てに得た腕を、自分が切り落とそうとしている。
「迷う時間はありません」
エレオノーラが黒石の杖で床を打った。
土の精霊へ短い願いを伝える。
床下から細い石の輪が現れ、イヴォの右肩へ巻きついた。人の肌と、異形の筋肉が侵食した境目を正確に囲んでいる。
「その輪より先を切りなさい。人の肉を傷つけずに済みます」
「切ったあとは?」
「私の衛生兵が生かします」
ローディスは二人の衛生兵を見た。
一人は止血帯を広げ、もう一人は薬と清潔な布を用意している。
任せるしかない。
「セイル。氷を緩めてくれ」
「一瞬だけだよ」
セイルが杖を向ける。
肩の周囲だけ、氷が水へ戻った。
異形の筋肉が露わになり、穴へ向かって大きく脈打つ。
ローディスは大剣を振り上げた。
「イヴォ。生きろ」
一撃。
刃が石の輪の外側を通り、異形の右腕を断った。
黒い血と、人の赤い血が同時に散る。
衛生兵がイヴォの身体を引き寄せ、肩を止血帯で締めた。薬を塗り込んだ布を傷口へ押し当て、そのまま二人がかりで担架へ載せる。
切り離された右腕は、死ななかった。
五本の長い指を床へ突き立て、穿界孔へ這い始める。
「戻させない!」
リュカの蹴りが腕を横から打ち飛ばした。
宙へ浮いた腕を、セイルの水が包む。
再び凍結。
氷塊となった腕が、穴から離れた壁際へ転がった。
穿界孔が大きく揺れた。
人の背丈を越えていた亀裂が、わずかに縮む。
「効いてる!」
セイルが言う。
「足場の一つを失っただけです。まだ閉じてはいません」
エレオノーラは杖を掲げた。
「ここから封じます。私は紋章を維持したまま、四本の封界杭を打ち込みます。その間、穿界孔から出るものを一体たりとも工房へ通さないでください」
兵士たちが大盾を床へ立てる。
「我々が受け持ちます」
隊長らしき男が答えた。
エレオノーラの目が、首を断たれた低位魔族へ向いた。
続いて、偽装衣服の三人を見る。
「あなた方にも残ってもらいます」
「もとより、そのつもりだ」
ローディスは大剣の血を振り払った。
「命令を聞く立場ではないけどね」
セイルが言う。
「でも、報酬の交渉は封じてからにしよう」
「頼もしいことです」
エレオノーラの口元が、ごくわずかに緩んだ。
次の瞬間、石の帯が一本砕けた。
黒い棘に覆われた腕が、穿界孔から工房側へ突き出る。
続いて、角張った頭部が穴を越えた。
一体目より大きい。
額には縦に並んだ三つの目。口の代わりに、顎から胸元まで細い亀裂が走っている。
亀裂が開いた。
無数の黒い棘が、体内から射出される。
「盾!」
帝国兵が一斉に大盾を上げた。
棘が鉄板へ突き刺さる。
一本が盾の隙間を抜け、エレオノーラへ向かった。
ローディスが大剣の腹で弾く。
棘は軽い。
だが、刃へ触れた箇所から黒い煙が上がった。
「毒か?」
「腐食性の体液です!」
エレオノーラは振り返らない。
長い精霊語を唱え始めている。
巨大な紋章の四方で、石が盛り上がった。
一本目の封界杭が姿を現す。
人の背丈ほどある、先端の尖った石柱。その全面へ、細かな精霊語が刻まれていた。
「右から来る!」
リュカが叫ぶ。
三眼の魔族が、穴から片脚を出した。
ローディスへ向けて腕を振ると見せかけ、床へ爪を突き立てる。
石の紋章を壊すつもりだ。
リュカが爪先を蹴り上げた。
太い腕が浮く。
その下へセイルの氷が滑り込み、床との間に厚い楔を作った。
「壊させないよ」
魔族が腕を引く。
氷の楔に亀裂が走った。
ローディスは大剣を横から叩き込み、腕を穿界孔の内側へ押し戻す。
「一つ!」
エレオノーラの声と同時に、最初の封界杭が床へ沈んだ。
工房全体が揺れる。
穿界孔の右端が、見えない力に引かれたように狭まった。
二本目の石柱が隆起を始める。
三眼の魔族が咆哮した。
胸まで工房側へ乗り出し、全身から棘を放つ。
兵士たちの盾へ、雨のように黒い棘が降り注ぐ。
「ぐっ……!」
一人の盾が割れた。
次の棘が、兵士の胸へ向かう。
セイルは杖を振った。
空中へ薄い水壁が立ち上がる。
棘は水を貫くが、勢いを失う。
兵士が身を伏せ、その頭上を通り過ぎた。
「助かった!」
「礼はあとで!」
水壁を氷へ変え、次の棘を受け止める。
何本も刺さり、氷に黒い染みが広がった。
「二つ!」
二本目の封界杭が打ち込まれる。
穴がさらに狭まった。
三眼の魔族の肩が縁へ挟まる。
向こう側へ戻されまいと、両腕で床を掴んだ。
「今なら押し返せる!」
リュカが床を蹴る。
正面から胸へ蹴りを入れた。
魔族の身体がわずかに沈む。
だが、戻らない。
「重い……!」
「一人でやるな!」
ローディスが隣へ踏み込んだ。
大剣の腹を魔族の胸へ当て、両腕で押す。
帝国兵も盾を並べ、その背を支えた。
人の力が一つに重なる。
三眼の魔族の爪が、床板を削りながら後退した。
「セイル!」
「近接戦闘に期待しすぎじゃないか?」
文句を言いながらも、セイルは杖を両手で構えた。
水が集まり、熱が退く。
杖の先に生まれた氷刃を、魔族の左手首へ引っかける。
大鎌を引き、床から爪を剥がした。
「今だ!」
ローディスとリュカ、兵士たちが同時に力を込める。
三眼の魔族の身体が、穿界孔の向こうへ押し戻された。
長い腕だけが縁へ残る。
リュカが右腕を蹴り外し、ローディスが左腕の指を大剣で叩き落とした。
魔族が完全に穴の向こうへ消える。
「三つ!」
三本目の杭が沈む。
穿界孔は、人の肩幅ほどまで狭まった。
向こう側に浮かんでいた黄色い目が、次々と遠ざかっていく。
最後の一本が、エレオノーラの背後で隆起した。
彼女の額には汗が浮かんでいる。
膨大なマナを注ぎ続けながら、長い精霊語を一度も途切れさせていない。
黒石の杖を握る指だけが、わずかに震えていた。
穿界孔の奥から、何かがこちらを見た。
魔族の目ではない。
形も、輪郭もない。
ただ、黒い穴そのものが意思を持ち、こちらを覗き返したようにローディスは感じた。
イヴォから切り離された右腕が、氷塊の中で激しく暴れる。
最後の足場を失うまいとしている。
「セイル、腕を!」
リュカが叫んだ。
「分かってる!」
セイルは右腕を閉じ込めた氷へ、残るマナを注いだ。
氷が厚くなる。
内側から爪が突き出し、表面へ亀裂が走る。
ローディスは氷塊の前へ移動し、大剣を構えた。
割れれば、その場で腕を斬り刻む。
リュカは穿界孔と氷塊の間に立つ。
誰も声に出さず、それぞれの役目を選んだ。
「四つ!」
最後の封界杭が、床深くへ打ち込まれた。
四本の杭を結ぶ石の線が、一斉に立ち上がる。
穿界孔を四方から囲み、縫い合わせるように黒い亀裂へ食い込んだ。
穴の向こうから、幾つもの咆哮が重なる。
石の線が閉じる。
黒い空間が細い筋となる。
最後に単眼が一つ、隙間から三人を見た。
亀裂が消えた。
同時に、氷の中の右腕から力が抜ける。
伸びていた指が床へ落ち、二度と動かなかった。
工房に静寂が戻る。
残ったのは、四本の封界杭と、その中央で黒く変色した石の傷だけだった。
◇
帝国兵が魔族の死体と異形の右腕を回収し、イヴォを治療所へ運び出した頃には、空が白み始めていた。
工房の外では、避難した参加者たちが一人ずつ事情を聞かれている。
マティアスは逃げず、帝国兵の質問へ答えていた。
「あなた方は、こちらへ」
エレオノーラは三人を、半壊した工房の奥へ呼んだ。
兵士たちへ視線を向ける。
「ここから先は、私一人で確認します。全員、外の警戒へ」
「しかし、素性の分からない者を閣下と残すわけには」
隊長が反対する。
「命令です」
短い一言だった。
隊長は三人を警戒したまま敬礼し、兵士たちを連れて外へ出た。
足音が遠ざかる。
エレオノーラは土の精霊へ呼びかけ、崩れた壁の一部をせり上げた。石壁が外からの視線を遮る。
「顔を隠したままで構いません」
三人は動かなかった。
「あなた方は、宵衛ですね」
ローディスの手が大剣の柄へ動く。
セイルも杖を握り直した。
リュカだけが、表情を変えない。
「なぜ、その名を知っている」
ローディスが問う。
「帝国軍が一枚岩だと思っていますか?」
エレオノーラは黒石の杖を床へ立てた。
「軍には、将軍、貴族、目的を同じくする者を中心に、いくつもの軍閥があります。国外への拡大を望む者。皇帝直属の軍へ統一しようとする者。魔族との戦争を利用し、地位を得ようとする者」
鉄色の外套の胸元へ触れる。
「私は〈石環派〉に属しています。帝都と領民を守り、帝国内へ入り込んだ魔族の根を断つことを優先する軍閥です」
「その軍閥が、宵衛とつながっている?」
セイルが尋ねる。
「協力関係にあります。情報と、表立って動かせない任務を交換している」
「では、宵衛の頭が誰かも知っているのか」
ローディスの問いに、エレオノーラは首を横へ振った。
「知りません。向こうも〈石環派〉の全員を知らない。印のない小型ゴーレムを介し、必要な情報だけを渡す。それが協力の条件です」
ローディスとセイルは、わずかに緊張を解いた。
リュカは何も言わない。
「今夜の集会についても、事前に情報を?」
「断片だけです。マナを持たない人々の間で、力を与える声の噂が広がっていると。穿界孔が開くことまでは、どちらも予測していなかった」
エレオノーラは封じた跡へ目を向けた。
「地脈の不自然な揺れを感じ、部隊を動かしました。到着が遅れていれば、職人街の一角が魔族の侵入口になっていたでしょう」
「公式には、俺たちはどうなる」
ローディスが尋ねる。
「工房へ先に入り、住民を避難させた正体不明の協力者。軍の到着前に立ち去ったことにします」
「まだ立ち去ってないけどね」
「今から立ち去るのです」
セイルは口元を緩めた。
「話が早くて助かる」
「その代わり、今夜見聞きしたすべてを、あなた方の伝令へ報告してください。イヴォへ声が届いた順序、腕の変化、魔族の発言。一語も省かずに」
「魔族の死体と腕は?」
「〈石環派〉が管理します。調査結果は、同じ経路で共有する」
エレオノーラは三人を順に見た。
最後に、袖の裂けたリュカへ目を止める。
「低位とはいえ、魔族一体を三人で討ち取った。よい連携でした」
「見ていたのか」
「死体と工房の痕跡を見れば分かります」
その目は、リュカが残した踏み跡まで見抜いているようだった。
「ですが、次も勝てるとは思わないことです。今夜出たのは、穴を広げるために先行した低位個体にすぎません」
エレオノーラは黒く変色した石の傷へ杖を向けた。
「これほど小さな穿界孔へ、複数の魔族を送り込む仕組みが完成しかけている。〈黒淵〉だけを守ればよかった戦争は、もう終わったのかもしれません」
朝の鐘が、遠くで鳴った。
いつもなら、兵学府で一日が始まる時刻だった。
三人の足元では、封じられた大地が一度だけ低く震えた。




