↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒淵のアストラ  作者: 咢
第2章 侵蝕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/90

第11話 三つの種族と一つの敵

 教室の窓から差し込む昼の光が、ひどく眩しかった。


 ローディスは目を細め、欠伸を噛み殺した。


 閉鎖された染色工房から寮へ戻ったのは、朝の鐘が鳴った後だった。労働者の服を脱ぎ、身体についた煤と魔族の体液を洗い流し、報告を書き終えた頃には、午前の授業が半分終わっていた。


 幸い、三人には午前中の休養が認められた。


 それでも、昼から授業へ出られるほど回復したかと問われれば、ローディスは首を横へ振りたかった。


「起きてる?」


 隣からリュカが囁く。


「起きている」


「目を閉じてたけど」


「光が眩しかっただけだ」


「では、今から質問します」


 教壇から声が飛んできた。


 ローディスは背筋を伸ばした。


 マレーネ・ハルトマン教員が、細い銀縁眼鏡の奥からこちらを見ている。


「ベルグ。この世界に存在する、三つの主要な知的種族を答えなさい」


「精霊、竜族、人族です」


「正解です。眠っていても答えられる程度には復習したようですね」


「ですから、眠っていません」


 教室に笑いが広がる。


 マレーネが白墨を持つと、笑いはすぐに収まった。


 黒板には、三つの円が描かれていた。


 精霊。


 竜族。


 人族。


「以前、精霊学祖エルヴィン・ノアと原初契約について扱いました。本日は、その続きです」


 三つの円の上へ、それぞれ王冠が描き加えられる。


「精霊は世界の至るところに存在し、自然へ干渉する力を持ちます。個々の意思は希薄ですが、すべての精霊を統べる精霊王には明確な意思がある」


 次に、竜族の円が白墨で叩かれた。


「竜族は北方の山岳地帯を主な縄張りとする、長寿の種族です。強靭な身体と翼を持ち、同族の間では固有の〈竜語(りゅうご)〉を用います」


 マレーネは、竜族の円の内側へ複雑にうねる線を描いた。


「竜語は、咆哮の高低と、人族の耳には捉えにくい低い響きを組み合わせて意味を伝えます。そのため、人族には正確に聞き分けることも、発音することも困難です。ただし、竜族は竜語だけでなく、人語と精霊語も習得します」


「三つも言葉を使えるんですか?」


 ニナが目を丸くする。


「長い寿命と高い知性を持つ種族です。もっとも、人語を学ぼうとする竜が、人族と言葉を交わしたがるとは限りません。個体数は少なく、同族同士で争うことはないとされています」


「精霊語を話せるなら、竜族も精霊術を使えるんですか?」


「いいえ。言葉を理解することと、力を借りられることは別です。原初契約は精霊王と人族の間で結ばれた取り決めであり、竜族はその対象ではありません。精霊と話すことはできても、個別の契約を結んで精霊術を使うことはできません」


 ニナが続けて手を上げた。


「竜族は、本当に一度も争ったことがないんですか?」


「少なくとも、人族が確認できる記録にはありません。意見の違いがない、という意味ではないでしょう。彼らには、それを同族殺しで解決しないだけの時間と掟があると考えられています」


「人族にはないものですね」


 セイルが小さく言った。


「クローデン。先を答えたいのであれば、代わりに授業をしますか?」


「先生ほど人族へ厳しい評価はできません」


「結構。自覚があるなら黙って聞きなさい」


 最後に、人族の円へ白墨が移る。


「人族は三種族の中で最も寿命が短く、身体能力でも竜族に及びません。精霊のように自然へ直接干渉することもできない」


 マレーネは言葉を切り、教室を見回した。


「では、人族の特徴は何でしょう。フェルナー」


 指名されたニナは少し考えた。


「数が多いこと。道具を作ること。精霊と契約し、その力を借りられることです」


「よろしい。そして、異なる土地や環境へ適応し、集団を作ることです」


 人族の円から、何本もの線が外へ伸ばされる。


「エルヴィン以前、人族は一つのまとまりとして扱えるほど少数でした。精霊との原初契約によって生活は豊かになり、人は増え、住める土地も広がった」


 線の先へ、小さな円が次々と描かれる。


「しかし、広がった人々は、いつまでも一つではありませんでした」


 山に住む者と、平野に住む者。


 川の上流に住む者と、下流に住む者。


 異なる言葉を使い、異なる習慣を持ち、異なる者を指導者として仰ぐ者。


 人族は集落を作り、都市を作り、やがて国を作った。


「国が生まれたこと自体を、誤りと考えてはいけません。法を整え、大勢で土地を耕し、災害や病へ対処するには、国家という仕組みが必要でした」


 マレーネは小さな円同士の間へ境界線を引いた。


「問題は、境界の両側で同じものを欲したときです」


 土地。


 水。


 鉱物。


 交易路。


 信仰。


「話し合いで分けられなかった人族は、力で奪いました。精霊術によって築かれた都市を、精霊術で攻めた。収穫を増やした火と水で、他国の畑を焼き、押し流した」


 教室の空気が重くなる。


 ローディスは、腰にない大剣の重さを思い出していた。


 同じ鉄でも、畑を耕す鋤にも、人を斬る剣にもなる。


「先生」


 ニナが手を上げる。


「人の王は、戦争を止めなかったんですか?」


「止められなくなった、という方が正確です」


 マレーネは、人族の円の上に描いた王冠へ斜線を引いた。


「かつての人の王は、まとまっていた人族全体を代表しました。しかし国家が増え、それぞれに王や統治者が立てば、誰も一人の王へ従おうとはしない。敵国の王を、人族すべての代表と認める者はいません」


「それで、三王定衡会から外された」


 ニナの言葉に、マレーネが頷く。


「精霊王と竜王は、人族すべてに関わる約束を結べる相手を求めました。ところが、その約束を全国家へ守らせられる者が、人族側にはいなくなった」


 三つの王冠のうち、一つが消される。


「加えて竜族は、同族間で殺し合いを続ける人族を強く嫌悪しました。人族は世界の均衡を話し合う席から離れ、現在の会合は精霊王と竜王による双王定衡会(そうおうていこうかい)となっています」


「人族が、一つの国になれば戻れるんですか?」


 今度は別の生徒が尋ねた。


「分かりません」


 マレーネは即答した。


「一つの国であることと、一人の王に支配されていることは同じではない。力で全国家を従えた者を、精霊王と竜王が人族の代表として認めるかも不明です」


 ローディスは、帝国軍が一枚岩ではないと語ったエレオノーラを思い出した。


 一つの国、一つの軍、その内側にいくつもの目的がある。


 国境線を消しただけで、人の考えまで一つになるはずがなかった。


「ここまでが、人族の戦争の歴史です」


 マレーネは黒板の端へ、太い一本の線を引いた。


「そして現在、人族同士の戦争は停止しています」


「終わった、ではなく?」


 セイルが問う。


「停止です」


 マレーネの白墨が、黒板を強く打った。


 黒淵。


「黒淵は、海上に存在する巨大な穴です」


 マレーネは太い線の周囲へ波を描き加えた。


「穴と呼ばれていますが、海底が陥没したものではありません。島一つが収まるほどの範囲から、海水も、その下にあるはずの大地も消えている。縁から覗いても底は見えず、光の届かない黒だけが広がっています」


「海の水は、流れ込まないんですか?」


 ニナが尋ねる。


「流れ込もうとはします。しかし、黒淵の上を覆う精霊の障壁に阻まれる。人族の目にも、巨大な薄い膜を伏せたように見えるそうです」


「先生は見たことがないんですか」


「ありません。黒淵周辺は現在、人族諸国が共同で管理する戦地です。見物へ行ける場所ではありません」


 マレーネは波の上へ、半円形の線を重ねた。


「障壁は、黒淵を通じて二つの世界が自由に行き来することを防いでいます。ですが、完全に閉ざせてはいない。障壁の一部が破られ、向こう側から魔族や魔物が現れるたび、人族はそれを押し戻してきました」


「それなら、黒淵を埋めることは?」


 別の生徒が問う。


「土や石を投じて埋まるような、地形上の穴ではありません。黒淵がいつ、なぜ生まれたのか。向こう側の世界がどのような場所なのか。それさえ、人族は正確に把握していません」


 分かっているのは、そこが異なる世界との境界であること。


「その黒淵を通じて、魔族は別の世界から侵略を続けています。この侵攻こそが、人族同士の戦争を停止させた理由です」


 黒淵を示す線から、人族の国々へ矢印が伸びる。


「魔族は人族を大きく上回る身体能力と回復力を持ち、精霊術とは異なる〈魔術〉を使います。その下には魔物も従えている。さらに、魔族の中には人語を話し、明確な意思を持って兵を指揮する個体も確認されています。単独の国家だけで防げる相手ではありません」


「先生。魔族は、どうして人語を話せるんですか」


 ニナの問いに、マレーネは白墨を止めた。


「分かっていません。人族と同じ言葉を使う個体がいることは、戦地からの報告で確認されています。しかし、どこで、どのように人語を習得したのかを示す資料はありません」


「話せるなら、殺さずに捕らえて、侵略の目的を聞き出せないんですか?」


 教室の後ろから、別の生徒が尋ねた。


「少なくとも、諸国共同戦線が共有している記録に、魔族の捕縛成功例はありません」


「一度も?」


「一度もです。遭遇する個体の多くは、負傷しても人族を上回る力で抵抗を続けます。こちらが生け捕りにする余裕を持てなければ、目的を問い質すこともできません」


 言葉が通じることと、話を聞けることは同じではない。


「侵略の目的も、人語を使う理由も分からない。それでも、彼らが黒淵を越えて人族の領域へ攻め込んでいる事実は変わりません」


 マレーネは黒淵から伸びる矢印を、白墨で一本ずつなぞった。


「敵の正体を解き明かすより先に、人族は生き残るための対応を迫られました」


 敵対していた国々は戦を止めた。


 国境へ向けていた兵を黒淵へ送り、物資を融通し、得られた情報を共有した。


 それが諸国共同戦線の始まりだった。


「共同戦線は、全人族が心を一つにした証ではありません。共通の敵を前に、互いへ向けていた刃を一時的に下ろしただけです」


 未解決の国境問題がある。


 返されていない捕虜がいる。


 賠償を求める国と、それを拒む国がある。


 昨日まで家族を殺し合っていた兵が、今日は同じ陣地を守っている。


「その相手を、本当に信じられるでしょうか」


 誰も答えなかった。


「信じられないから協力しない、では人族が滅びます。信じたふりをして背中を預ければ、古い恨みにつけ込まれる。現在の対魔族戦争が難しいのは、敵が強いからだけではありません」


 ローディスの脳裏に、穿界孔の向こうで重なっていた影が蘇る。


 あの穴から出ようとしていたものが、あと一体でも多ければ。


 エレオノーラと帝国兵の到着が、もう少し遅ければ。


 職人街で起きたことを、教室の誰も知らない。


 黒淵から遠く離れた帝都だから安全だと、昨日までは三人もどこかで思っていた。


「先生」


 気づけば、ローディスは手を上げていた。


「何です、ベルグ」


「もし、魔族が黒淵ではない場所から現れたら、共同戦線は対応できるんでしょうか」


 セイルが横目でローディスを見る。


 リュカは微笑んだまま、机の下で彼の脛を軽く蹴った。


「仮定の質問ですか?」


「……はい」


 マレーネはすぐには答えなかった。


「現在の防衛体制は、黒淵から侵入する敵を想定しています。別の場所へ大規模な侵攻路を作れるなら、兵站も要塞も国境も、すべて見直さなければなりません」


「では、備えていない」


「確認されていない脅威すべてへ軍を割けば、確認されている戦場が崩れます。ですが、想定していないことと、考えなくてよいことは違う」


 マレーネの視線が、一瞬だけ三人を順に通った。


「近頃、帝都では不穏な噂も増えています。根拠のない流言へ怯える必要はありません。しかし、兵を志す者が『あり得ない』という言葉へ逃げることも許されない。覚えておきなさい」


 ローディスは頷いた。


 マレーネが黒板へ向き直る。


「魔族は、力だけで攻めてくるとは限りません」


 黒淵から伸びた矢印の一本が、人族の円の内側へ突き刺さる。


「不満、貧困、差別、戦争で残った憎しみ。人族が自ら作った傷は、敵が内側へ入り込むための隙になります」


 声に救いを求めたイヴォ。


 精霊に選ばれなかった者を集めたマティアス。


 彼らを責めるだけでは、次の穿界孔を防げない。


「精霊は世界を支え、竜族は同族で争わず、人族は国を作って争った。ここだけを暗記すれば、この授業の意味を取り違えます」


 マレーネは三つの円を、さらに大きな円で囲った。


「三種族は、同じ世界で生きています。人族の戦争が世界を傷つければ、他種族にも影響する。魔族の侵略を人族だけの問題と考えてもいけない。そして、人族の弱さを知ることは、人族に価値がないと結論づけることでもありません」


 終業の鐘が鳴った。


 マレーネは白墨を置いた。


「次回までの課題です。諸国共同戦線が崩壊する要因を三つ挙げ、それぞれに対策を記しなさい」


 教室のあちこちから呻き声が漏れる。


「枚数は?」


 ローディスが恐る恐る尋ねた。


「三枚以上です」


「要因を三つ、各一行では」


「ベルグだけ五枚にしますか?」


「三枚で共同戦線を守ります」


 笑いが起きる中、セイルが教本を閉じた。


「一つ目は、兵の疲労」


「課題の話?」


「僕たちの話だ。今日はもう寝る」


「賛成だよ」


 リュカも立ち上がる。


 だが、その笑顔はすぐに消えた。


 教室の後方。三人の鞄が置かれた床を、小さな土の指が内側から二度叩いた。


 ほかの生徒の声に紛れるほど、かすかな音だった。


 三人は顔を見合わせる。


 休息を求める身体とは関係なく、宵(・)衛(・)の(・)伝(・)令(・)は彼らを見つけていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。