第12話 奪い合う証人
鞄の中で、土の指がもう一度鳴った。
こつ、こつ。
「ベルグ、まだ何か質問が?」
教卓で教材をまとめていたマレーネが顔を上げる。
立ちかけていたローディスは、慌てて鞄を持ち上げた。
「いえ。ありません」
「では、課題を忘れないうちに帰りなさい」
「はい」
三人は教室を出た。
廊下には、次の授業へ向かう生徒たちが溢れている。ここで鞄を開くわけにはいかない。
リュカが何も言わずに階段を下り、二人も後を追った。
向かったのは、校舎一階の端にある教材保管室だった。リュカが扉を開け、ローディスとセイルが中へ入る。最後に廊下を確かめてから、内側の鍵を掛けた。
「いつ入ったんだ」
ローディスは鞄を机へ置いた。
「授業前じゃないかな」
「鞄は閉じていたぞ」
「隙間はあったよ。あれに鍵を開ける指があるなら、留め具くらい外せる」
リュカが鞄の口を開く。
教本と筆記具の間から、掌ほどの土人形が這い出した。
いつもの伝令よりも小さい。丸い胴体に短い手足。顔も印もなく、背中に細長い箱を負っている。
土人形は机の上へ立つと、背中の箱から三つの革袋を取り出した。
じゃらり、と銀貨が鳴る。
「生き返った」
セイルの目から疲労が消える。
「寝るんじゃなかったのか」
「報酬を数えてから寝る」
三つの袋には、それぞれ銀貨十二枚が入っていた。
「潜入、住民の避難、魔族一体の討伐。危険手当を含む」
セイルは袋の重さを確かめる。
「命の値段としては安いが、前よりは理解がある」
「俺の借りを返す」
ローディスが自分の袋へ手を入れた。
「今でなくていい」
「なぜだ」
「数え直す道具がない」
「銅貨十四枚だろう」
「だから、あとで正確に返せ」
「君たち、続きがあるよ」
リュカが土人形の背へ手を伸ばした。
箱の底から、封蝋のない細い筒が出てくる。
中には、小さく折り畳まれた紙が一枚。
リュカは内容を読み、笑みを消した。
「今夜、任務」
「断る」
セイルが即答した。
「報酬を受け取った直後だぞ」
「今のは前回分だ。次まで僕の体力を買った覚えはない」
「でも、急ぎみたいだ」
リュカが紙を机へ置く。
命令は短かった。
――穿界孔事件の生存者を移送する。
――本日深夜、帝都東部、鐘鋳通りの旧施療所へ集合。
――対象は右腕を失った青年一名。
――帝国軍内から身柄の引き渡し要求あり。命令系統への情報漏洩を警戒せよ。
「イヴォか」
ローディスが呟く。
「生きていたんだね」
セイルは命令書を取り上げた。
「エレオノーラは軍医に止血させていた。助けるつもりだったはずだ」
「問題は、その生存を知っている人間がいることだよ」
リュカが紙の最後を指で叩く。
命令系統への情報漏洩。
エレオノーラは、三人の存在を公式記録から隠すと言った。穿界孔やイヴォについても、詳細を知る者は絞ったはずだ。
それでも、別の誰かが青年の身柄を求めている。
「軍閥同士で、証人の奪い合いか」
「授業の続きとしては、分かりやすいね」
リュカが小さく笑う。
セイルはしばらく命令書を睨んでいたが、やがて銀貨の袋を懐へ入れた。
「今から夕刻まで寝る」
「任務は?」
「寝てから考える」
「来るってことだね」
「寝過ごしたら諦めろ」
小型ゴーレムは、三人が読み終えたのを確かめるように両腕を上げた。
リュカが命令書を筒へ戻すと、土人形はそれを背中の箱へ収めた。空になった革袋も回収し、扉の下の隙間へ身体を崩しながら潜り込む。
向こう側で土が集まり、硬い足音が遠ざかっていく。
「便利だな」
「いつか、鞄の中へ入る前に声を掛けてほしいけどね」
「顔も口もないぞ」
「では、入室前に二回叩くことを覚えさせよう」
リュカが鍵を開ける。
「二人とも、今夜までちゃんと休んで。次は魔族より面倒な相手かもしれないから」
「何だ」
「正しい命令を持った人族」
◇
鐘鋳通りの旧施療所は、表通りから二本入った場所にあった。
窓は板で塞がれ、看板も外されている。かつて白かったらしい外壁は煤と雨で灰色に汚れ、薬草の枯れた匂いだけが残っていた。
三人は黒い外套と覆面で顔を隠し、裏口から中へ入った。
月の位置から、深夜の鐘まで四半刻ほど。
「遅刻ではありませんね」
暗い廊下の先で、女の声がした。
エレオノーラ・ヴァイスが立っていた。
長い銀髪は低い位置で束ねられ、帝国の紋章がある鉄色の外套ではなく、飾りのない灰色の外套をまとっている。黒石の杖も布で包まれていた。
その後ろに、担架が置かれている。
イヴォは薄い毛布を掛けられ、眠っていた。
失った右腕は肩口から厚く包帯を巻かれている。顔から血の気は失われていたが、胸はゆっくり上下していた。
「容体は」
ローディスが尋ねる。
「安定しています。切断面から異形化が広がる様子もない」
「では、なぜ移す?」
「軍務監察局から、身柄と押収物を引き渡せという命令が来ました」
エレオノーラは一枚の命令書を取り出した。
帝国軍の公印と、複数の署名がある。
「偽物ですか?」
セイルが紙を見ながら問う。
「本物です」
「なら、従わない方が罪になる」
「命令書が発行された時刻は、穿界孔を封じてから二刻後です」
エレオノーラの声が硬くなる。
「私は工房の兵を選び、報告を口頭に限定しました。穿界孔、魔族の死体、異形化した腕、生存者。そのすべてを二刻で把握し、正規の引き渡し命令を整えられる者が軍内部にいる」
「〈石環派〉の中から漏れた可能性は?」
ローディスが尋ねる。
「否定はしません。だからこそ、私の部下も同行させない」
エレオノーラは命令書を畳んだ。
「この青年と押収物を同じ場所へ置くべきではありません。死体と右腕はすでに別々の保管所へ移しました。あなた方には、青年を帝都北部の協力者のもとへ運んでもらいます」
「軍閥の人間にも知らせず、身元の分からない僕たちへ預ける?」
「身元が分からないからです」
セイルとエレオノーラの視線が合う。
「軍の名簿にない。命令系統にも属さない。誰かが情報を盗んでも、あなた方の移動までは追えない」
「それで、移送先は?」
「今は伝えません。途中で案内します」
リュカが口元だけで笑った。
「僕たちのことも信用していないんだ」
「協力と信用は別です」
「セイルと話が合いそうだね」
「僕はもっと金払いのいい相手が好きだ」
セイルが答えると、エレオノーラは小さな革袋を差し出した。
「前金です」
「信用できます」
「早いな」
ローディスが呆れたとき、担架から掠れた声がした。
「……ここは」
イヴォの目が、わずかに開いていた。
ローディスは担架の脇へ膝をつく。
「施療所だ。お前は生きている」
「腕……」
青年の視線が、毛布の右側へ向かう。
そこにあるはずの膨らみがない。
「切った。あのままでは、お前ごと穴につながれていた」
「俺は……誰かを」
イヴォの唇が震える。
「殺したのか」
「殺していない」
ローディスは即座に答えた。
「怪我人は出た。だが、集まっていた人間は全員、生きて工房を出た」
イヴォは目を閉じた。
安堵したのか、苦しんでいるのかは分からない。
「声は聞こえる?」
リュカが尋ねた。
エレオノーラが彼を見る。
「もう、聞こえない」
イヴォは答えた。
だが、その左手が毛布を強く握った。
「聞こえない、けど……いる」
「どこに?」
「分からない。胸の奥に、糸が残ってる。引かれてないだけで、まだ向こうへつながってる」
部屋が静まり返る。
セイルがイヴォの胸元を見た。
紋章はない。傷もない。
それでも青年には、魂へ結ばれた感覚が残っている。
「だから、身柄を欲しがっているのかもしれません」
エレオノーラが言った。
「契約が切れていないなら、この青年は証人であると同時に、異界へ通じる道にもなり得る」
「また穴が開く可能性は?」
「分かりません」
エレオノーラは否定しなかった。
ローディスは担架の取っ手を握る。
「なら、急ごう」
◇
旧施療所の裏には、一台の小さな幌馬車が用意されていた。
御者台にはエレオノーラが座り、イヴォを乗せた担架を荷台へ固定する。ローディスは荷台で彼を守り、セイルは馬車の後方を歩いた。
リュカの姿はない。
先行して屋根へ上がり、進路を探っている。
馬車は灯りの少ない道を北へ進んだ。
車輪が石畳の継ぎ目を越すたび、幌の内側に小さな振動が走る。
「眠っていていい」
ローディスが言った。
「眠ると、また声が来そうで」
イヴォは青ざめた顔で天井を見ていた。
「俺は、救われたと思った」
「……ああ」
「手が動いた。明日も働ける。誰にも迷惑を掛けずに済む。あのときは、本当にそう思ったんだ」
ローディスには、責める言葉が見つからなかった。
力を求めたことが誤りだったと、簡単に言うことはできる。
だが、右手を失い、仕事を失いかけたイヴォへ、別の道を渡した者はいなかった。
「次に声がしたら、答えるな」
結局、口から出たのはそれだけだった。
「答えなくても、動かされたら?」
「そのときは止める」
「また、腕を切るのか」
「必要なら」
イヴォの顔が強張る。
ローディスは担架の横へ座り直した。
「だが、今度は切らずに止める方法を探す。そのために、お前を運んでいる」
イヴォはしばらく黙り、小さく頷いた。
馬車が角を曲がる。
直後、御者台のエレオノーラが手綱を引いた。
馬が低く嘶き、車輪が止まる。
「どうした」
ローディスが幌を開けかける。
「そのまま」
外から、エレオノーラの鋭い声が返った。
前方に、いくつもの松明が並んでいる。
「帝国軍務監察局である!」
男の声が夜道へ響いた。
「この一帯で、軍の管理下にある負傷者を不当に移送する馬車があるとの通報を受けた。御者は馬車を下り、積み荷を示せ!」
鎧の擦れる音。
少なくとも十人。
馬車の後方では、セイルが足を止めているはずだ。
リュカからの合図はない。
監察局の男が、命令書を掲げた。
松明の光の中でも、帝国軍の公印が見える。
「正規の捜索命令である! 抵抗は帝国への反逆と見なす!」
ローディスは大剣の柄へ手を伸ばし、途中で止めた。
相手は魔族ではない。
野盗でもない。
帝国の紋章を身につけ、正しい命令を持つ帝国兵だ。
イヴォの呼吸が速くなる。
「静かに」
ローディスが囁いた。
「まだ、何もするな」
そのときだった。
イヴォの左手が、ローディスの腕を掴んだ。
異様に強い力だった。
「来る」
「何が」
イヴォの両目が見開かれる。
瞳はローディスではなく、何もない暗闇を映していた。
「声が、戻ってくる」
胸の奥から、別人の声が重なった。
「――見つけた」




