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黒淵のアストラ  作者: 咢
第2章 侵蝕

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第13話 切れない糸

「――見つけた」


 イヴォの口から、二つの声が響いた。


 一つは、怯えに掠れた青年の声。


 もう一つは、喉よりも深い場所から這い出す、低く濁った声だった。


 ローディスは掴まれた腕を振りほどかなかった。


「イヴォ。俺を見ろ」


 見開かれた目は、幌の中にない何かを追っている。


「聞こえるか」


「ちがう」


 イヴォの歯が鳴る。


「前の声じゃない」


 毛布の下で身体が跳ねた。


 右肩の包帯へ、じわりと赤い染みが広がる。


「器を返せ」


 別の声が言った。


「切り落とした枝を返せ。穿った道を返せ」


 ローディスはイヴォの左肩を担架へ押さえた。


「セイル!」


 馬車の後方にいる仲間へ呼びかける。


 返事より先に、外から命令が飛んだ。


「馬車の中にいる者も姿を見せろ! 直ちに積み荷を確認する!」


 複数の足音が近づいてくる。


「止まりなさい」


 御者台から、エレオノーラの声がした。


 静かな声だったが、兵士たちの足が止まった。


「その声は……」


 監察局の男が呟く。


 エレオノーラが灰色の外套の頭巾を外した。


 月明かりの下へ、束ねた銀髪が現れる。


「ヴァルグレン帝国宮廷精霊術師、エレオノーラ・ヴァイスです。この馬車と負傷者は、私の管理下にあります」


 鎧が一斉に鳴った。


 兵士たちが姿勢を正したのだろう。


「ヴァイス宮廷精霊術師……失礼いたしました」


 監察局の男はそう答えたが、道を開ける気配はない。


「しかし、我々は軍務監察局の命令により、軍管理下から不当に移された負傷者を捜索しております。身分にかかわらず、確認を省くことはできません」


「誰の許可で発行された命令ですか」


「命令書にある以上のことは、自分も知らされておりません」


「積み荷が何かも知らない?」


「負傷した重要参考人とだけ」


 男の声には迷いがあった。


 少なくとも、穿界孔も、魔族との契約も知らない。


 命令を出した者と、道を塞ぐ兵士たちは同じではない。


 ローディスは大剣から手を離した。


 だが、イヴォを押さえる腕へ、さらに力を込める。


「小さな声は消えた」


 青年の口が歪んだ。


「だが、糸は根へ続いている」


「お前は誰だ」


 ローディスが問う。


 低い笑いが返った。


「枝に、森の名を教えるものか」


 イヴォの左腕に、黒い筋が浮かんだ。


 手首から肘へ。


 血管とは違う細い線が、皮膚の下を這い上がってくる。


 切断した右腕に起きていた変化と同じだった。


「ローディス、幌を開けるな」


 馬車の外から、セイルが言った。


「何が起きてる」


「腕に広がっている」


「分かった。少し下がれ」


 直後、荷台の下から冷気が立ち上った。


 セイルが馬車の外側へ紋章を描いたのだ。


 床板を通して冷たさが伝わり、イヴォの左腕に薄い霜が降りる。


 黒い筋の動きが鈍った。


「冷た……」


 イヴォ自身の声が漏れる。


「我慢しろ。凍らせはしない」


 セイルは幌の外から状態を見られない。それでもローディスの言葉だけで、必要な冷気を送り込んでいる。


「馬車で何をしている!」


 監察局の兵が声を上げた。


「負傷者の容体が急変しました」


 エレオノーラが答える。


「ならば、なおさら我々が確保します。監察局の施療班を――」


「近づけてはなりません!」


 初めて、エレオノーラの声が強くなった。


 兵士たちがざわめく。


「この負傷者は、接触した者へ影響を及ぼす可能性があります。命令を出した者は、その危険をあなた方へ伝えましたか?」


 返事はなかった。


「隊長」


 別の兵士が、不安げに呼びかける。


 監察局の男はしばらく黙っていた。


「……命令は、対象の確保です」


「部下の命を危険にさらしても?」


「危険の有無を判断するためにも、馬車を確認しなければなりません」


 足音が一歩近づいた。


 立場を明かしても退かない。


 エレオノーラが正規の命令を無視しているように、彼らも命令を無視できないのだ。


 幌の上で、ごく小さな音がした。


 とん、とん、とん。


 三度。


 リュカからの合図だった。


 前方に三つ以上の障害。正面からの突破は困難。


 続いて、馬車の右側で小石が一度転がった。


 右へ抜ける道がある。


 ローディスはイヴォの左腕を押さえたまま、荷台の壁を指の背で二度叩いた。


 了解。


 エレオノーラにも聞こえたはずだ。


「隊長。最後に尋ねます」


 エレオノーラが言った。


「この場で負傷者が異形化し、あなたの部下へ襲いかかっても、命令を出した者は責任を負うと記されていますか」


「そのような記載は……ありません」


「ならば、あなたは知らされていない。対象の正体も、確保した後に何が起きるかも」


「それでも、命令は命令です」


「ええ。だから、あなたを責めはしません」


 エレオノーラが、布に包んだ杖を地面へ突いた。


 短い精霊語が響く。


 石畳が持ち上がった。


 馬車と監察局の兵士たちの間へ、人の背丈ほどの石壁が走る。


「壁を破壊しろ!」


 命令と同時に、馬が走り出した。


 車輪が激しく跳ねる。


 エレオノーラは手綱を引き、馬車を右の細道へ滑り込ませた。


 ローディスは担架へ覆いかぶさり、イヴォを守る。


 後ろで水が弾けた。


 セイルが石畳へ薄い水を広げ、追ってきた兵士たちの足を滑らせたのだろう。怒号と金属音が重なる。


「セイル!」


「いる!」


 息を切らした声が、馬車のすぐ後ろから返る。


 屋根から小さな影が落ちた。


 リュカが幌の縁を掴み、荷台へ身体を滑り込ませる。


「前に四人、後ろに六人。別の道にも二人いた」


「囲まれていたのか」


「僕たちが来る道を知っていたみたいだ」


 移送先は、三人にも知らされていなかった。


 それでも旧施療所から北へ向かうことは読まれていた。


「漏れたのはイヴォの居場所だけじゃない」


 リュカは、御者台のエレオノーラへ聞こえるように言った。


「移送する時刻も、進む方角も知られてる」


 エレオノーラは振り返らない。


「そのようですね」


 馬車がさらに狭い路地へ入る。


 左右の建物が迫り、追手の松明は見えなくなった。


 だが、遠くで笛が鳴る。


 監察局が増援を呼んでいる。


「あと半刻、持たせられますか」


 エレオノーラが問う。


「誰に聞いている」


 ローディスは答えた。


「三人全員です」


「なら、持たせる」


 セイルが荷台へ手を掛け、走りながら言った。


「その代わり、到着したら前金の額を確認させろ」


「こんなときまで金か」


「こんなときだからだ」


 リュカが幌の隙間から後方を見た。


「二人とも、少し静かに」


 イヴォの左腕から、黒い筋が消え始めていた。


 セイルの冷気が止めたのではない。


 何かが、自ら引いていく。


「もう十分だ」


 低い声が言った。


「道は覚えた」


 イヴォの身体から力が抜ける。


 ローディスが頬を叩いた。


「イヴォ!」


「……聞こえてる」


 返ってきたのは、青年自身の声だけだった。


「今の声は、前と同じか」


 リュカが尋ねる。


「違う」


 イヴォは浅く息をしながら答えた。


「最初の声は、もっと近かった。俺のことを知ってるみたいに話した。今のは……俺を見てなかった」


「では、何を見ていた?」


「道だけだ。俺の中に残った道を」


 セイルが、冷気を送るために使った紋章から指を離す。


「契約した相手が声を変えたんじゃない」


「別の魔族だと思う?」とリュカ。


「同じ糸を、別の場所から引いた」


 セイルはイヴォの左腕を見つめた。


「人と魔族が一対一でつながっているなら、こんなことは起きない。契約した相手のさらに先に、別の接続先がある」


「枝に、森の名を教えない」


 ローディスは先ほどの言葉を繰り返した。


「俺たちは枝ということか」


「おそらく、イヴォと最初の声も枝です」


 御者台から、エレオノーラが答えた。


「契約者が増えるほど枝分かれし、得られた力か、何らかの成果が上へ集まる。一本を切っても、根につながる別の枝が残る」


「人を誘わせ、下から上へ吸い上げる詐欺より質が悪いな」


 セイルが吐き捨てる。


「下にいる者は金だけでなく、魂まで取られる」


 イヴォが目を伏せた。


「俺は、まだあいつらのものなのか」


 誰もすぐには答えなかった。


 契約した魔族を倒せば終わる。


 そうであれば、どれほど簡単だっただろう。


「違う」


 ローディスが言った。


「糸が残っているなら切る。切り方が分からないなら探す。お前をあいつらのものにしたままにはしない」


 イヴォは驚いたようにローディスを見た。


 リュカが小さく息を吐く。


「君は、知らない相手にもよく言い切れるね」


「言い切らなければ、本人が諦めるだろう」


「そういうところを選んだんだけどね」


 馬車は北へ走り続けた。


     ◇


 石壁の前では、軍務監察局の隊長が命令書を握り締めていた。


 部下たちは転倒した者を起こし、壁を迂回する道を探している。


「隊長、追跡しますか」


「する。だが対象へ触れるな。正体が分かるまで距離を取れ」


「命令違反になるのでは」


「我々が受けた命令には、危険性が一言も書かれていない」


 隊長は公印の下へ目を落とした。


 厚い紙が、わずかに二重になっている。


 先ほど石壁が生じた衝撃で、裏張りの端が剥がれていた。


 指を掛け、慎重に開く。


 命令書の内側に、もう一枚の薄紙が隠されていた。


 そこに記されていたのは、引き渡し先でも、負傷者の扱いでもない。


 たった一行。


 ――対象の確保が不可能な場合、証言能力を失わせよ。


 隊長の顔から、血の気が引いた。


「これは……誰の命令だ」


 公印は本物だった。


 署名も、命令書も正しい。


 ただ、その正しい命令の内側にだけ、名(・)前(・)が(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。


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