↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒淵のアストラ  作者: 咢
第2章 侵蝕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/90

第14話 正しい命令

 追跡の笛は、しばらく鳴りやまなかった。


 幌馬車は細い路地を何度も曲がり、帝都北部へ向かって走る。


 石畳の幅が狭くなるたびに車輪が壁際の木箱を弾き、荷台が大きく揺れた。


「あとどれくらいだ」


 ローディスは担架を押さえながら、御者台へ声を掛けた。


「もうすぐです」


 エレオノーラは前を向いたまま答える。


「先ほども聞いた」


「今度は本当に、もうすぐです」


「信用していいのかな」


 リュカが幌の隙間から後方を確かめる。


 松明の光は見えない。


 だが、監察局が諦めたとは思えなかった。


 イヴォは目を閉じている。


 眠ってはいない。左手の指が何度も毛布を摘まみ、離していた。


「声は?」


 ローディスが尋ねる。


「しない」


「糸は」


「……ある」


 イヴォは胸の中央へ左手を置いた。


「さっきより遠い。でも、切れてない」


 右腕を切っても残った。


 穿界孔を封じても残った。


 最初の声が消えても、別の声が同じ場所へ届いた。


 目に見えない糸を、大剣で斬ることはできない。


 ローディスは無意識に柄へ触れ、すぐ手を離した。


「着きます」


 馬車が急に速度を落とした。


 古い浴場の裏庭へ入っていく。


 建物は営業を終えて久しいらしく、煙突に煤はなく、半分崩れた塀には蔦が絡みついていた。


 エレオノーラが御者台から降り、井戸の脇にある石を杖で三度叩く。


 地面の下から重い音がした。


 浴場の基礎石が横へずれ、地下へ続く坂道が現れる。


「馬車ごと入れるのか」


「元は薪と水樽を運び込む通路です」


「協力者というのは浴場の主人?」


 セイルが後方から歩いてきた。


 息は切れているが、杖を持つ手は下がっていない。


「質問が多いですね」


「命を預ける相手は選びたい」


「あなた方と同じです。必要なことだけを知り、それ以外は尋ねない」


 エレオノーラが馬を引き、地下へ進む。


「では、互いに気が合わないまま協力できそうだ」


 坂の先には、石造りの広い地下室があった。


 壁際に水路が通り、澄んだ水の流れる音が響いている。寝台と薬棚、清潔な布、湯を沸かすための小さな炉が用意されていた。


 待っていたのは、白髪を短く切った老女だった。


 エレオノーラを見るなり、眉間へ深い皺を寄せる。


「遅い」


「監察局に止められました」


「連れてきたのかい」


「足止めしました」


「なら、入口を閉じな」


 老女は三人の覆面へ一度だけ目を向けた。


 何者かとは尋ねない。


「患者をこっちへ。話は手を動かしながら聞く」


 ローディスとリュカが担架を運び、寝台へ移す。


 老女は右肩の包帯を解いた。


 切断面には縫合と止血の跡がある。新しい出血は、先ほど開いた傷から滲んだものだった。


「肉が腐ってる様子はない。熱も、今のところは普通だね」


 次に左腕を取り、灯りへかざす。


 黒い筋は消えていた。


「何が起きた」


 エレオノーラが、別の声と異形化について説明する。


 老女は黙って聞き、イヴォの胸へ手を当てた。


 目を閉じる。


 命の精霊へ呼びかける短い精霊語が、その口から流れた。


 老女の掌の下で、イヴォの浅い呼吸が少しずつ穏やかになる。


「糸は分かりますか」


 ローディスが尋ねる。


「あたしに見えるのは、この子の身体だけだよ」


 老女は目を開けた。


「命の精霊は、傷ついた肉を治す手助けはできる。だが、魂へ結ばれた何かまで治せるとは限らない」


「契約を切る方法は」


「知らないね」


 即答だった。


「精霊との契約なら、精霊と人が互いに望んで結ぶ。どちらかが拒めば、成立しない。魔族との契約が、同じ道理で動くと思わない方がいい」


 イヴォの顔が強張る。


 老女は青年の額を軽く叩いた。


「怖がるのは、寝てからにしな。今は身体を生かす」


「眠ったら、また声が」


「そのときは起こしてやる。ここにはあたしがいる」


「でも、俺がまた誰かを襲ったら」


「片腕の病人一人を押さえられないほど年老いたつもりはないよ」


 老女は新しい包帯を巻き始めた。


 細い腕だった。


 それでも、イヴォは逆らわず目を閉じた。


「あなたはここへ残るのですか」


 リュカがエレオノーラへ尋ねる。


「いいえ。夜が明ける前に軍へ戻ります」


「監察局から逃げた直後に?」


「逃げ続ければ、命令へ異議があったのではなく、私に後ろ暗い事情があったことにされる」


 エレオノーラは布を解き、黒石の杖を露出させた。


「私は帝国軍人です。今夜の命令がどこから出たのか、軍の中で調べます」


「拘束されるかもしれない」


 ローディスが言う。


「私を拘束するなら、それにも正式な命令が必要です。その命令がどこから、どれほど早く出るかも手掛かりになる」


 平然とした声だった。


 ローディスは、この女がなぜ〈石環派〉に属しているのか、少し分かった気がした。


 国を疑いながら、国を捨ててはいない。


 正規の命令へ逆らいながら、正規の仕組みそのものを諦めてもいない。


「俺たちは?」


「夜明けまでに兵学府へ戻りなさい」


「今から?」


 セイルが露骨に顔をしかめる。


「あなた方は学生でしょう」


「今だけ、正体を知っていることを後悔した」


「三人の存在は、監察局に見られていません。覆面を外し、別々に戻れば追跡される可能性は低い」


「僕たちが出たあと、この場所が見つかる可能性は?」


 リュカの問いに、エレオノーラは地下室の天井を見上げた。


「先ほどの声が『道は覚えた』と言いました。ここへ着く前に退いたとはいえ、安全だとは言い切れません」


「なら、イヴォを置いていけない」


 ローディスが言う。


 老女が振り返った。


「あんた、大きいだけじゃなく頑固だね」


「よく言われる」


「褒めてないよ」


 エレオノーラがローディスの正面へ立つ。


「あなたが残れば、声が来なくなるのですか」


「ならない」


「監察局がここを見つけたとき、学生であるあなたが説明できますか」


「できない」


「では、戻りなさい。守ることと、そばに居続けることは同じではありません」


 ローディスは言葉を失った。


 リュカが外套の裾を引く。


「行こう。僕たちがここへ出入りし続ければ、隠れ家を見つける手掛かりを増やすだけだ」


「今夜分かったことを伝令へ報告する。契約網を調べられる人間に届かせる。それが今できることだ」


 セイルも言った。


 ローディスは眠るイヴォを見た。


「何かあれば、伝令を」


「約束します」


 エレオノーラが答えた。


 三人は地下室を後にした。


     ◇


 兵学府へ戻る途中、三人は水路沿いの橋で別れた。


 ローディスとセイルが寮へ向かったあと、リュカだけが反対側の路地へ入る。


 覆面と黒い外套は、すでに鞄へしまっていた。


 夜明け前の街をいくつも曲がり、扉に印のない石造りの建物へ入る。空の倉庫を抜け、床板の下に隠された階段を下りた。


 地下の小部屋には、灯りがなかった。


 階段から差し込むわずかな明かりも、部屋の中央まで届かない。


 その暗がりから、声だけがした。


「来たか、リュカ」


 リュカは椅子へ座らなかった。


「〈石環派〉からの報告は?」


「〈石環派〉から届いている。彼は無事、協力者のもとへ入ったそうだ」


「監察局のことも?」


「それもね。君たちに追跡がついていないことは確認した」


 リュカは姿の見えない相手へ顔を向けた。


「契約した魔族を倒しても、契約は切れない」


 暗闇から返事が途絶えた。


「少なくとも、イヴォの契約はそうだったようだね」


「あなたも、魔族と契約してる」


「しているよ」


 否定も、ごまかしもしなかった。


「あなたと契約した魔族が死んだら、同じことが起きる?」


「分からない。僕の契約相手は生きているし、今も直接話せる。契約の条件も、イヴォとは大きく違う」


「恋人だから?」


 暗がりの人物は、少しだけ沈黙した。


「それもあるだろうね」


 リュカは視線を落とした。


 恩人が魔族と契約していることを、最初に聞いたときは疑った。


 その相手と互いに想い合っていると聞かされたときには、冗談だと思った。


 だが、目の前の人物は嘘をつかなかった。


 少なくとも、リュカへ伝えると決めたことについては。


「その人は、契約魔術の仕組みを知ってる?」


「詳しくはない。契約を広めているのは、別の魔族だと聞いている」


「でも、魔族の魂については」


 言葉が止まった。


 恩人の恋人が魔族なら、イヴォの魂に残ったものについて、何か知っているかもしれない。


 一度、会わせてほしい。


 そう言えばいい。


 だが、その言葉は喉を通らなかった。


「……いや。何でもない」


「リュカ」


「あなたの恋人を疑いたいわけじゃない」


「疑問を持つことと、疑うことは同じではないよ」


「だったら、あなたから聞いて。人族と魔族の魂をつなぐ方法と、つながった魂を切り離す方法を」


 暗がりの人物が、ゆっくり頷いたように見えた。


「聞いてみよう。ただし、イヴォの名前も、君のことも話さない。相手を信じることと、組織の情報をすべて渡すことも別だからね」


「僕のことを、その人は知らない?」


「知らない。君たち三人の存在も、過去も伝えていない」


「そう」


 リュカは、なぜか息を吐いていた。


 安堵したのか、落胆したのか、自分でも分からなかった。


「もう一つ」


「何だい?」


「声が途切れる前、『道は覚えた』と言っていた。途中で引いたからといって、あの場所まで辿られていない保証はない。早めに移した方がいい」


「すでに手配している」


「だったら最初に言ってよ」


「報告を最後まで聞く必要があった」


「帰る」


「冷たいなあ」


 リュカは扉へ向かった。


 扉を閉める。


 扉が閉じると、部屋には再び何も見通せない暗闇だけが残った。


     ◇


 夜明け前。


 エレオノーラは帝国軍務監察局の門をくぐった。


 灰色の外套ではない。


 帝国の紋章がある鉄色の外套をまとい、黒石の杖を隠すことなく持っている。


 逃亡者ではなく、宮廷精霊術師として正面から入った。


 受付の兵士が目を見開く。


「ヴァイス宮廷精霊術師。昨夜の件について、局長から出頭命令が――」


「まだ受け取っていません」


「今、お渡しします」


「その前に、昨夜の隊長と話をさせなさい」


 拒絶されるかと思ったが、階段から男が下りてきた。


 昨夜、馬車を止めた監察局の隊長だった。


 兜を外した顔には、疲労が刻まれている。年齢は四十前後。短い焦茶色の髪に、額から右の眉へ古い傷が走っていた。


「軍務監察官ディルク・ハーゼです」


 男は名乗り、敬礼した。


「昨夜の無礼をお詫びします。ただし、任務上の行動については撤回しません」


「こちらも、あなた方を足止めしたことは認めます」


「部下に骨折はありませんでした。よく滑っただけです」


「それは何より」


「話があります」


 ディルクは周囲の兵士へ目を向けた。


「記録庫へ」


 狭い記録庫へ入ると、男は扉を閉めた。


 机へ、昨夜の命令書を置く。


「これを見てください」


 裏張りを剥がす。


 内側に隠された薄紙が現れた。


 ――対象の確保が不可能な場合、証言能力を失わせよ。


 エレオノーラの目が細くなる。


「部下にも見せていません」


「なぜ私に?」


「あなたが対象を移した理由を、すべてではなくとも理解したからです」


「私が偽造した可能性もある」


「その場合、あなたは昨夜のうちに帝都から逃げています。正面玄関からここへは来ない」


 ディルクは、命令書の公印を指した。


「表の命令は本物です。局の記録にも残っている。しかし、保管されている控えには、この裏張りがありません」


「現場へ渡す一枚だけに加えられた」


「公印を押した後、私の手へ届くまでの間に」


「扱った者は?」


「七人です」


 多くはない。


 だが、七人のうち誰が軍閥とつながり、誰が命令の意味を知っていたかは分からない。


「移送時刻と方角も知られていました」


 エレオノーラが告げる。


 ディルクの顔が硬くなる。


「我々へ届いた通報には、旧施療所を出た馬車が北へ向かうとありました。通報者は匿名です」


「声は?」


「若い男。訛りなし。それ以上は」


「通報を受けた者も、七人へ加えなさい」


「私に命令を?」


「提案です」


 ディルクはわずかに口元を歪めた。


「では、提案を受けます」


「〈石環派〉へ加わるつもりはありますか」


「ありません」


 今度は即答だった。


「監察官が一つの軍閥へ属せば、ほかの軍閥を正しく調べられない」


「よい答えです」


「試しましたか」


「少しだけ」


 二人は命令書を挟んで向き合った。


 信用はない。


 所属も、立場も違う。


 ただ、同じ一行を不正だと考えている。


「この件を調べます」


 ディルクが言った。


「あなたのためでも、〈石環派〉のためでもない。正しい命令の中へ、名のない命令を隠した者を見つけるためです」


「十分です」


     ◇


 昼休み。


 ローディスは食堂の長机へ突っ伏していた。


「起きろ。煮込みが冷める」


 セイルが向かいから言う。


「寝ながら食べる」


「器へ顔を入れる気か」


「それでも起きないなら、僕がもらうよ」


 リュカが匙を伸ばす。


 ローディスは顔を上げ、器を守った。


「人の食事を取るな」


「起きたね」


 昨夜の出来事が嘘のように、食堂は学生たちの声で満ちていた。


 誰も、軍務監察局が夜道を封鎖したことを知らない。


 誰も、帝都の地下で魔族との糸を残した青年が眠っていることを知らない。


「午後は武器整備だ」


 ローディスが言う。


「寝るには向かないな」


「刃物を持ったまま眠るなよ」


「君と一緒にするな」


 食堂の入口が騒がしくなった。


 掲示係の生徒が、大きな紙を壁へ貼り出している。


 赤い縁取り。


 中央には、翼と鱗を持つ人影の粗い似顔絵。


 その上に、太い文字があった。


 ――帝国北方街道における、特別賞金首の告示。


「賞金首だって」


 近くの生徒が声を上げる。


「商隊を三つ襲ったらしい」


「竜人だぞ。兵学府の生徒が相手にできるのか?」


 セイルの匙が止まった。


「賞金は?」


「まず見るところがそこなのか」


 三人は掲示へ近づいた。


 名は記されていない。


 灰色の翼を持つことから、通称〈灰翼(はいよく)〉。


 竜人の集落を離れ、帝国北部で強盗と傷害を繰り返している。武装し、複数の討伐隊を退けた危険人物。


 生死を問わず。


 賞金、銀貨三百枚。


「三百」


 セイルが呟いた。


 疲労に沈んでいた目が、報酬を数えたとき以上に冴えていく。


「三人で分けても百枚だ」


「まだ受けるとは言ってないぞ」


「ローディス。賞金首は、人々を守るために止めなければならない」


「急に立派なことを言うな」


 リュカは似顔絵を見上げ、困ったように笑った。


「竜人を追えば、その向こうにいる竜族とも関わることになるかもしれない」


「授業で習ったばかりだな」


「だから分かるんだ。銀貨だけ見て飛び込むと、たぶん三百枚より大きな面倒を買うことになるよ」


 セイルは告示の一番下まで読んだ。


「賞金の申請窓口は帝国軍北方支部。学生の参加には、兵学府教員一名の承認が必要」


 三人の視線が、同時に食堂の奥へ向いた。


 昼食を終えたマレーネが、教本を抱えて席を立つところだった。


「頼むだけ頼んでみよう」


 セイルが言う。


「今から?」


「賞金首は待ってくれない」


「睡眠も待ってくれないぞ」


「百枚あれば、いくらでも眠れる」


 マレーネは近づいてくる三人に気づき、嫌な予感がしたように眉間へ皺を寄せた。


 ローディスは、ひとまず笑ってみせた。


 灰色の翼を持つ賞金首が、彼らをどこへ導くのか。


 そのときの三人は、銀貨の枚数より先(・)を(・)知(・)ら(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。