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黒淵のアストラ  作者: 咢
第2章 侵蝕

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第15話 血を授かる者

「認めません」


 三人が用件を伝えると、マレーネは即答した。


 食堂の壁には、竜人の特別賞金首〈灰翼〉の告示が貼られている。


 その下に立つセイルの手には、参加承認を求める申請書があった。


「まだ理由を説明していません」


「銀貨三百枚」


 マレーネが言う。


「理由はそれでしょう」


「人々を守るためです」


「クローデン」


「はい」


「私の目を見て、もう一度言いなさい」


 セイルは、マレーネの銀縁眼鏡の奥にある目を見た。


「銀貨も、人々も守ります」


「正直になった点だけは評価しましょう」


 マレーネは教本を抱え直し、今度はローディスを見る。


「あなたも参加を?」


「危険な賞金首なら、誰かが止める必要があります」


「帝国軍がすでに討伐隊を出しています」


「複数の討伐隊を退けたと書いてある」


「だから学生三人で勝てると?」


「俺とセイルなら、学府でも上位です」


「僕もいるよ」


 リュカが横から手を上げた。


 マレーネの視線が、彼の細い身体へ移る。


 リュカはいつもの穏やかな笑みを浮かべている。


「エアハルト。これは訓練用ゴーレムの実習ではありません」


「分かっています」


「分かっている人間は、銀貨三百枚という数字だけで竜人を追いません」


「三百枚しか見えてないのはセイルですよ。僕は竜族との問題になりそうなら、二人を止める側です」


「止められましたか?」


 リュカは左右を見た。


 ローディスは告示から目を逸らさない。


 セイルは申請書を離さない。


「難しそうです」


「でしょうね」


 マレーネはため息をついた。


「三人とも、ついてきなさい」


 向かったのは、食堂脇にある小さな談話室だった。


 昼休みには盤遊びや読書へ使われる部屋だが、今は誰もいない。


 マレーネは扉を閉めると、壁際の黒板へ一人の人間を描いた。


「まず確認します。竜人とは何ですか。ベルグ」


「竜と人の間に生まれた者」


「違います」


「では、竜が人の姿になったもの」


「それも違います」


「竜のような人」


「説明を諦めましたね」


 マレーネは人間の絵の横へ、一頭の竜を描いた。


「竜人は、独立した種族ではありません。生まれたときは、私たちと同じ人族です」


 竜の口元から、人間へ一本の線が引かれる。


「天穿山脈(てんせんさんみゃく)には、竜族の庇護下で暮らす人族の集落があります。そこで成人を迎え、竜から血を授けられた者が、竜人と呼ばれるようになる」


 ――血授の儀(けつじゅのぎ)。


 黒板へ四文字が書かれた。


「竜の血を飲むんですか?」


 ローディスが尋ねる。


「儀式の詳細は、竜族と集落の者たちしか知りません。血を授けるという言葉を、そのまま飲む行為だと決めつけないことです」


「成功すれば、翼が生える?」


 セイルは告示の似顔絵を思い出しているようだった。


「必ずではありません。翼を得る者、皮膚の一部が鱗に覆われる者、目や爪に竜の形質が現れる者。何を受け継ぐかは個人によって異なります」


「火を吐く者も?」


「確認された記録はありません」


 マレーネは人間の絵へ翼と鱗を描き足した。


「共通するのは、血授を受ける前を上回る生命力と身体能力を得ること。寿命も、一般的な人族の数倍へ延びるとされています」


「数倍」


 セイルが呟く。


「それほどのものを、竜族は人族へ与えるのですか」


「誰にでも与えるわけではありません。血授の儀は、長く庇護下で生きてきた人々と竜族の間に結ばれる、特別な関係です」


「精霊との契約みたいなもの?」


 ローディスが問う。


「似ている部分はありますが、同じではありません。精霊契約は、精霊から自然へ干渉する力を借りる。血授の儀では、竜の形質そのものが人の肉体へ定着します」


 リュカの笑みが、わずかに薄くなった。


「一度、竜人になったら血授を受ける前の身体には戻れない?」


「戻ったという記録はありません」


 マレーネは白墨を置いた。


「そして、竜人は竜族の奴隷でも兵士でもない。集落の一員であり、竜族から庇護と血を授かった隣人です」


「では、〈灰翼〉を討てば、竜族が報復に来る?」


「その可能性を考えずに、生死不問の告示へ飛びついたのですか?」


 セイルが申請書を背中へ隠した。


「今、考え始めました」


「遅い」


「でも、犯罪を見逃す理由にはならない」


 ローディスが言った。


「商隊を三つ襲い、人を傷つけた。それが事実なら、竜人でも止めるべきです」


「そのとおりです」


 マレーネは否定しなかった。


「ただし、〈灰翼〉一人の罪を集落全体の性質だと考えてはならない。逆に、竜族との関係を恐れて罪を問わないことも、特別扱いにすぎません」


 告示には、竜人の集落を離れた犯罪者とある。


 なぜ離れたのか。


 自ら出たのか。追放されたのか。


 その理由は書かれていない。


「先生は、告示が間違っていると思う?」


 リュカが尋ねた。


「判断できる材料が足りません」


「では、確かめに行くべきだ」


「そう言うと思いました」


 マレーネはセイルへ手を差し出した。


「申請書を」


 セイルが素早く渡す。


「承認してくれるんですか?」


「条件があります」


 マレーネは署名欄へ、自分の名を書いた。


「私も同行します」


 三人の動きが止まった。


「先生も?」


 ローディスが聞き返す。


「生徒だけで特別賞金首を追わせる教員がいると思いますか」


「承認欄に名前を書くだけかと」


「クローデン。今すぐ取り消しましょうか」


「ぜひ同行してください」


 セイルが深く頭を下げた。


 リュカだけは困ったように笑っている。


「どうしました、エアハルト」


「先生が一緒なら安心だと思って」


「そうは見えませんが」


「寝不足です」


 マレーネは三人を順に見た。


「出発は三日後。帝国軍北方支部へ向かう補給隊へ同行します。それまでに装備を整え、〈灰翼〉の目撃情報を読み込みなさい」


「三日も待つのか」


「あなた方を眠らせるためです」


 反論できなかった。


「もっとも、私の署名だけでは参加できません」


 マレーネが申請書の下段を示した。


 教員承認欄のさらに下に、学園長裁可の欄がある。


「特別賞金首は、通常の野外実習とは扱いが異なります。最後に学園長の許可を得なさい」


     ◇


 午後。


 三人はマレーネに連れられ、学園長室を訪れた。


「ようこそ、特別賞金首へ挑もうという勇敢な生徒諸君!」


 大きな机の向こうで、オルフェン・グランツ学園長が両腕を広げた。


 座っていても分かるほど大柄な人物だった。


 襟の高い黒衣が首元まで覆い、両手には黒い手袋を着けている。顔も表情のない仮面に隠され、肌はどこにも見えない。


 さらに目を引くのは、手袋の上から嵌めた多数の指輪だった。赤、青、緑、乳白色。大粒の宝石が両手で煌めき、胸元や袖にも用途の分からない装飾品が並んでいる。


 黙って座っていれば、裁きを言い渡す異国の王か、墓所を守る番人のように見えただろう。


 実際には、入室した生徒へ誰より大きく手を振っていた。


「学園長。まだ挑むと決まったわけではありません」


 マレーネが釘を刺す。


「おっと、そうでした。私が許可しなければ、北門を出る前に終わってしまう。これは責任重大だ」


 オルフェンは申請書を持ち上げた。


「竜人の特別賞金首、生死不問、賞金は銀貨三百枚。クローデン君が真っ先に持ってきそうな案件ですね」


「なぜ僕だけ名指しなんですか」


「違いましたか?」


「否定はしません」


「素直でよろしい!」


 オルフェンは楽しそうに笑い、申請書へ顔を戻した。


 それから、妙に長い沈黙が続いた。


 セイルが耐えきれず、ローディスへ小声で尋ねる。


「時間が掛かりすぎじゃないか」


「内容を確かめているんだろう」


「名前と賞金額くらいしか書いてないぞ」


「聞こえていますよ。仮面を着けても、耳まで遠くなったわけではありません」


 オルフェンが申請書越しに言った。


 オルフェンは申請書を机へ置いた。


「書類が短いからこそ、君たちの口から聞きたい。参加を希望する理由を、一人ずつどうぞ。心を打つ回答には加点します」


「もうマレーネ先生に話しました」


 セイルが答える。


「私はまだ聞いていません」


「人々を守り、罪を犯した者を止めるためです」


「賞金は?」


「受け取ります」


「やはり外しませんね。正直なので一点追加です」


 次に、オルフェンがローディスへ顔を向ける。


「君は?」


「負傷者が出ています。これ以上、被害が増える前に止めたい」


「よい答えです。では質問。相手は人族ではないと思っていますか?」


 ローディスは、談話室で聞いた説明を思い出した。


「いいえ。竜の血を授かっていても、元は人族です」


「元は、ではない」


 マレーネが訂正する。


「今も人族です」


「……今も人族です」


 ローディスが言い直すと、オルフェンはリュカを見た。


「エアハルト。君はどう考える」


「告示だけでは、分からないことが多すぎます。本人に会ってみないと、僕らが悪者を追う話なのかも分かりません」


「分からないからこそ追う、と?」


「なので、まずは会って確かめたいです」


 リュカは学園長の返答を待った。


 そう言って、リュカは人のよさそうな笑みを浮かべた。何も隠していないように見える、いつもの笑みだった。


「三人とも、一つだけ勘違いを正しておきましょう」


 学園長は告示の写しを指で押さえた。


「これは討伐を命じる書類ではない。生死不問とは、殺してよいという意味であって、殺さなければならないという意味ではない」


 ローディスが頷く。


「可能なら捕縛する」


「可能かどうかを、自分たちだけで決めないことだ。ハルトマン教員の指示を最優先とする。追跡、交渉、撤退。そのすべてにおいてだ」


「承知しました」


「クローデン」


「はい」


「銀貨三百枚のために、仲間の命を賭けないこと」


「二百枚なら?」


「値下げ交渉ではありません」


「分かっています」


「本当に?」


「半分くらいは」


 マレーネが申請書へ手を伸ばした。


「やはり取り消します」


「全部分かっています」


 セイルが言い直した。


 オルフェンは声を上げて笑った。


 指輪同士が触れ、硬い音を立てる。


「いいでしょう。許可します!」


 裁可欄へ大きく署名する。


「ただし、ここからは真面目な話です」


 陽気な声音が静まった。


「三人だけで〈灰翼〉を追わないこと。ハルトマン教員の指示には必ず従うこと。竜人の集落や竜族の縄張りへ近づく場合は、北方支部を通じて許可を求めなさい」


「竜族の縄張りには、境界があるんですか?」


 ローディスが尋ねる。


「人族が引いた線はない。だが、竜族が越えるなと示す場所はある。それを見落とせば、知らなかったでは済まない」


 署名済みの申請書が、マレーネへ返された。


「ありがとうございます」


 三人が頭を下げる。


「エアハルト」


 退室しかけたリュカだけが呼び止められた。


「はい」


「二人が前へ出すぎたら、君が止めなさい」


「僕に止められるでしょうか」


「少なくとも、君は止める前に賞金額を計算しないでしょう」


「たぶん」


「そこは言い切ってほしかったなあ」


 それだけだった。


 リュカはいつもの笑みを浮かべ、二人の後を追って部屋を出た。


 扉が閉じる。


「学園長」


 マレーネは部屋へ残っていた。


「何でしょう」


「なぜ許可を?」


「あなたが同行するからですよ。それに、止めてもクローデン君は三百枚の夢を見続けるでしょう?」


「それだけですか」


「ほかに何が?」


 マレーネは答えず、署名を見つめた。


「エアハルトを、ずいぶん信頼しているように聞こえました」


「三人の中で、一番人の話を聞いてくれそうに見えただけです」


「成績ではなく?」


「人選に、試験の順位だけを使うほど怠けてはいませんよ」


「そうですか」


 マレーネは申請書を抱え、学園長室を出た。


 オルフェンは次の書類を手に取ると、仮面の奥から大きな呻き声を漏らした。


「さて。賞金首より手強い、予算申請との戦いですか」


     ◇


 三日後の朝。


 帝都北門には、北方へ向かう荷馬車が並んでいた。


 食料、矢、薬、交換用の武具。


 荷台には帝国軍の印があり、護衛の兵士たちが車輪と馬具を確認している。


 ローディスは大剣を背負い、厚手の外套をまとっていた。


 セイルは杖のほかに、マナ疲労用の回復薬を三本用意している。


「一本、銀貨一枚」


 瓶を確かめるたびに、セイルの顔が曇る。


「賞金が出れば戻る」


「出なければ?」


「君に請求する」


「なぜ俺だ」


「一番払ってくれそうだから」


 リュカは普段の短剣と、小さな背嚢だけだった。


「荷物はそれだけか」


「着替えと食料は入ってるよ」


「武器の予備は?」


「短剣は壊さないから」


 ローディスは、自分の折れた大剣を思い出した。


「壊すつもりで壊したわけではない」


「僕も壊すつもりはないよ」


「二人とも」


 聞き慣れた声に、背筋が伸びる。


 マレーネが歩いてきた。


 いつもの長い教員服ではない。動きやすい濃灰色の上着と革の長靴を身につけ、腰には細身の剣を下げている。


「先生、剣を使うんですか」


 ローディスが驚く。


「兵学府の教員です。白墨しか持てないと思いましたか?」


「精霊術だけかと」


「剣は護身程度です。あなたと比べるつもりはありません」


 マレーネは荷物を確認し、セイルの回復薬へ目を止めた。


「三本で足りますか?」


「足りるように使います」


「一本追加しなさい」


「先生が払ってくれるなら」


「必要経費として学府へ申請できます」


「なぜ昨日教えてくれなかったんですか」


「あなたが領収書を捨てるとは思わなかったので」


 セイルの顔から血の気が引いた。


「まだ店のごみ箱にあるかもしれない」


「出発しますよ」


「四半刻だけ待ってください」


「待ちません」


 補給隊が動き出す。


 セイルは何度も帝都の商店区画を振り返りながら、荷馬車へ乗った。


     ◇


 北へ進むほど、街道から人の姿が減っていった。


 畑は低い草原へ変わり、その先には濃い森と山並みが続いている。


 数日後。


 補給隊は、帝国北方支部へ至る街道の途中で止まった。


 前方に、一台の荷馬車が横倒しになっている。


 片方の車輪が外れ、積み荷の木箱が道へ散らばっていた。


「全員、周囲を警戒!」


 護衛隊長の声が飛ぶ。


 ローディスたちは荷馬車から降りた。


 剣を抜き、倒れた馬車へ近づく。


 御者台の陰に、男が一人座り込んでいた。


 頭へ包帯を巻き、左脚を添え木で固定している。


「生きているか」


 ローディスが声を掛けると、男は怯えた顔を上げた。


「軍か……?」


「帝立アストラ兵学府です。何があった」


「灰色の翼だ」


 男の顔が引きつる。


「あいつが、空から落ちてきた」


 荷台には、深い爪痕が四本走っていた。


 木板が裂け、鉄の留め具まで曲がっている。


「積み荷は?」


 セイルが箱を調べる。


 金品の箱は壊されていない。


 布も、酒も残っている。


 空になっていたのは、薬を示す印がついた箱だけだった。


「薬だけ?」


 リュカが尋ねる。


 男は頷いた。


「傷薬と、熱病の薬だ。全部持っていかれた」


「ほかの積み荷には手をつけず?」


「ああ」


「あなたを傷つけたのは〈灰翼〉ですか」


 マレーネが問う。


「馬車を止めようとして、車輪を壊された。横転したときに頭と脚をやった」


「直接、攻撃されたわけではない?」


 男は答えなかった。


 告示には、商隊を襲撃し、負傷者を出したとある。


 嘘ではない。


 だが、目の前の現場は、金目当ての強盗には見えなかった。


「〈灰翼〉は、何か言いましたか」


 リュカが静かに尋ねる。


「道を戻れ、と」


「それだけ?」


「北へ来るな。次は馬車では済まないって……」


 森の奥で、枝が揺れた。


 ローディスが大剣を構える。


 セイルも杖を上げた。


 灰色の何かが、木々の上を横切る。


 一度の羽ばたきで枝葉が大きく沈み、強い風が街道まで届いた。


 影は補給隊の上空を一周した。


 人に似た身体。


 背から広がる、灰色の大きな翼。


 その顔までは見えない。


 だが、こちらを見下ろしていることだけは分かった。


「見つけた」


 セイルが呟く。


 リュカは短剣へ手を伸ばさなかった。


「違うよ」


「何が」


「見つけられたのは、僕(・)た(・)ち(・)の(・)方(・)だ(・)」


 灰色の翼が翻る。


 〈灰翼〉は北の森へ消えていった。


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