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黒淵のアストラ  作者: 咢
第2章 侵蝕

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第16話 灰翼の警告

「追うな!」


 灰色の翼が森へ消えた瞬間、マレーネの声が飛んだ。


 走り出しかけたローディスは、大剣を構えたまま足を止める。


「だが、今ならまだ見える」


「相手は空を飛べます。森へ入った時点で、地上から追う私たちが不利です」


「逃がすんですか」


 セイルが尋ねる。


「負傷者と補給隊を放置して?」


 マレーネに言われ、セイルは杖を下げた。


 補給隊の兵士たちは、横倒しになった荷馬車を起こそうとしている。森を警戒する者、負傷した御者へ水を運ぶ者もいた。


 空を一周した〈灰翼〉が、別の仲間を呼んでいない保証もない。


「先生の言うとおりだよ」


 リュカは空を見上げていた。


「向こうは僕たちを見た。人数も、武器も、馬車の中身も。それから飛んでいったんだ」


「偵察だけが目的だったと?」


「たぶんね。追いかけてほしいなら、もう少し愛想よく飛ぶと思うよ」


 森の上には、もう揺れる枝さえ見えない。


 ローディスは大剣を収めた。


「御者を運ぶ。話は北方支部で聞こう」


     ◇


 帝国軍北方支部へ着いたのは、日が沈んだ後だった。


 高い石壁に囲まれた砦で、北方街道と山間部へ向かう道を監視している。門の上には帝国旗が翻り、弓を持った兵士が森の方角へ目を光らせていた。


 負傷した御者は施療室へ運ばれた。


 四人は休む間もなく、作戦室へ通された。


 長机の上には北方一帯の地図と、〈灰翼〉に関する報告書が並べられている。


「これで四件目だ」


 支部の指揮官が、追加された報告書を見て言った。


「三件では?」


 セイルが告示の写しを取り出す。


「告示を出した後、軍の運搬馬車が一台襲われた。積んでいた食料と毛布を奪われている」


「金は?」


「軍資金には手をつけていない」


 傷薬。


 熱病の薬。


 食料。


 毛布。


 奪われた物が、地図の横へ並べて書かれる。


「やはり、金目当てではありませんね」


 マレーネが言った。


「だからといって、強盗ではないことにはならん」


 指揮官の声は厳しい。


「兵士三人が骨を折られた。抵抗した商人も負傷している。荷を奪うためなら、人を傷つけることをためらわない相手だ」


「死者は?」


 リュカが尋ねる。


「今のところ、一人もいない」


「討伐隊も?」


「全員生きて戻った。剣や槍は折られ、腕や脚を負傷していたがな」


 ローディスは報告書へ目を落とした。


 複数の討伐隊を退けた危険人物。


 告示の文言に嘘はない。


 ただし、何人殺したかは書かれていなかった。


「殺せるのに、殺していない」


「手加減された兵にそう伝えれば、喜ぶと思うか?」


 指揮官がローディスを睨む。


「思いません。ですが、捕縛する方法を考える材料にはなる」


「捕縛か。できるならそうしろ。こちらも竜人の集落や竜族と争いたいわけではない」


 指揮官は地図の北端を指した。


「街道から先は、天穿山脈へ続く森林地帯だ。竜人の集落はさらに北にある。正確な場所は帝国軍にも開示されていない」


「〈灰翼〉は、その集落へ物資を運んでいる?」


 セイルが問う。


「推測にすぎん。集落が犯罪者を匿っている証拠もない」


「北へ来るなという警告は?」


「すべての商隊へ同じことを言っている。おかげで北方街道を使う商人が減り、支部への物資まで滞り始めた」


「奪っている物を見る限り、病人か避難民がいる可能性があります」


 マレーネが地図を見ながら言った。


「それも大勢」


「同情して薬を渡せと?」


「事情を確かめるべきだと言っています」


 作戦室に沈黙が落ちた。


「確かめる方法がある」


 セイルが口を開いた。


「薬を積んだ馬車を、もう一度走らせる」


「囮にするのか」


 ローディスが顔を向ける。


「相手が薬を必要としているなら来る。僕たちは隠れて待つ」


「薬を餌にするのは感心しませんね」


 マレーネが言う。


「奪われなければ、そのまま北方支部で使える。無駄にはしません」


「襲われた場合、薬が壊れる可能性は?」


「壊させない方法を考えます」


「それを今から考えるのですか」


「一晩ください」


 マレーネは指揮官を見る。


「許可をいただけますか」


「兵を同行させる」


「姿を見せれば、〈灰翼〉は近づかないでしょう」


「兵を遠ざけ、学生と教員だけで囮になるつもりか?」


「兵には、距離を取って後方を守ってもらいます」


 指揮官は難しい顔をしたが、最後には頷いた。


「街道から外れるな。竜族領へ入る兆候があれば中止する。それが条件だ」


「承知しました」


     ◇


 翌朝。


 一台の荷馬車が、北方支部から森へ向けて出発した。


 御者台にマレーネ。


 ローディスは荷台の前方へ座り、外套の下で大剣の柄を握っている。


 セイルとリュカは、薬箱の後ろへ身を伏せていた。


 帝国兵は見えないほど後方から追っている。


「来ると思うか」


 ローディスが小声で尋ねる。


「昨日、補給隊の荷を見ていたなら」


 セイルは薬箱の底へ描いた紋章を確かめる。


 箱の内側には薄い水の膜を巡らせていた。馬車が横転しても瓶同士がぶつからないよう、水の精霊に支えてもらうためのものだ。


「高い薬なんだよね?」


 リュカが囁く。


「だから守る」


「僕たちより?」


「同じくらいだ」


「そこは僕たちを上にしてよ」


 馬車は森の間を進んだ。


 鳥の声。


 車輪が土を踏む音。


 風に揺れる枝葉。


 半刻が過ぎても、何も起こらない。


 一刻が過ぎた頃、セイルが小さく息を吐いた。


「見抜かれたか」


「静かに」


 マレーネの声が御者台から届く。


 鳥の声が消えていた。


 ローディスは大剣を抜いた。


 その瞬間、頭上で風が爆ぜた。


 灰色の影が木々の隙間から落ちてくる。


「伏せろ!」


 大剣を横に構える。


 衝撃。


 竜人の踵が剣の腹へ叩き込まれた。


 ローディスの腕が痺れ、荷台の床板が軋む。


 相手は空中で翼を広げ、再び浮かび上がった。


 昨日より近い。


 血授を受けていない男と変わらない顔立ち。年齢は二十代半ばほどに見える。


 短い灰色の髪。


 首筋から頬の下へ細かな鱗が走り、両腕の外側も同じ鱗に覆われている。


 背から生える一対の翼には羽毛がなく、灰色の皮膜が太い骨の間へ張っていた。


「荷を置いて戻れ」


 低い男の声だった。


「そうすれば、追わない」


「それはできない」


 ローディスが答える。


「薬が必要なら、まず理由を話せ」


「帝国の人間へ話すことはない」


 〈灰翼〉の目が、御者台のマレーネへ移る。


「兵士ではありません」


 マレーネが言った。


「帝立アストラ兵学府の教員です。あなたを捕らえるために来ました」


「同じだ」


「違います。少なくとも、私はあなたの話を聞ける」


「聞いたあとで、縄を掛ける」


「犯罪を重ねた以上、何もせず帰すとは言えません」


 灰色の翼が一度動いた。


「なら、話すこともない」


 〈灰翼〉が急降下する。


 狙いはローディスではない。


 荷台の薬箱。


 ローディスが進路へ割り込み、大剣を振るう。


 竜人は翼を畳んで刃をかわし、そのまま肩からぶつかった。


「ぐっ……!」


 ローディスの足が荷台を滑る。


 片足が地面へ落ちかけた。


 〈灰翼〉は着地すらせず、翼を開いて上昇する。


「人一人分の重さじゃないぞ」


「竜の形質が定着していると言ったでしょう!」


 マレーネが馬を止め、御者台から降りる。


 セイルが荷台から杖を突き出した。


 紋章式。


 空中へ複数の水球が生まれ、〈灰翼〉を囲む。


 水球の表面が凍り、細い氷の帯となって翼へ絡みついた。


「捕らえた!」


 セイルが杖を引く。


 〈灰翼〉の身体が傾いた。


 だが、片翼を強く振るだけで氷の帯が砕ける。


 破片が雨のように落ちた。


「軽すぎた」


「空を飛ぶ相手へ重くすれば、作る前に逃げられる」


 再び水を集めようとしたセイルへ、〈灰翼〉が向きを変えた。


 速い。


 紋章へマナを通すより先に、灰色の影が迫る。


 ローディスが大剣を差し込む。


 爪と鉄がぶつかり、火花が散った。


「セイルへ近づけるな!」


「分かってる!」


 押し合うローディスの横から、リュカが短剣を投げた。


 刃は〈灰翼〉の頬を掠め、後方の木へ刺さる。


 竜人がリュカを見る。


「外したね」


 リュカは悔しそうに言った。


 〈灰翼〉の翼が横薙ぎに振るわれる。


 突風が荷台を打った。


 リュカの小さな身体が外へ投げ出される。


「リュカ!」


 ローディスは竜人を押し返し、片手を伸ばした。


 外套の襟を掴む。


 リュカの足が地面へ着く寸前で止まった。


「大丈夫?」


「それは俺の台詞だ!」


 〈灰翼〉が再び薬箱へ手を伸ばす。


 その足首へ、水の縄が巻きついた。


 マレーネが短い精霊語を発し、街道脇の水溜まりから引き上げた水を操っている。


「話を聞くと言いました」


 彼女が腕を引く。


 〈灰翼〉の身体が空中から引き落とされた。


 地面へ片膝をつく。


 ローディスが大剣の切っ先を向けた。


 セイルの杖にも、次の紋章が浮かんでいる。


「ここまでです」


 マレーネが告げる。


「事情を話しなさい」


 〈灰翼〉は水の縄を見た。


「精霊術師か」


「教員です」


「教師が子供を賞金首へ向けるのか」


「子供だけで来させるよりましでしょう」


 竜人の口元が、わずかに歪んだ。


 笑ったのかもしれない。


「北には病人がいる」


 四人の表情が変わる。


「何の病気ですか」


「熱が下がらない。咳が止まらない。子供から倒れた」


「竜人の集落で?」


 〈灰翼〉は答えなかった。


「帝国へ助けを求めなかったのですか」


「求めた」


 男の声に、初めて怒りが混じった。


「門前で追い返された。竜の病を持ち込むなとな」


「それで奪った?」


 ローディスが問う。


「待っていれば死んだ」


「だからといって、関係のない人を傷つけていい理由にはならない」


「分かっている」


 返事は早かった。


 言い訳を探している声ではなかった。


「分かっていて、やった。俺を捕らえたければ、好きにしろ」


 〈灰翼〉の両翼が大きく広がる。


 マレーネの水縄が引き伸ばされた。


「まだ動けるのか」


 セイルが紋章へマナを流す。


 それより早く、竜人の爪が水縄を切り裂いた。


 水が弾ける。


 〈灰翼〉は地面を蹴り、薬箱の真上へ跳んだ。


 ローディスが大剣を振り上げる。


 男は刃を翼の骨で受けた。


 灰色の皮膜は裂けたが、太い骨は大剣を弾く。


 別の手が薬箱の取っ手を掴んだ。


 箱の重さを感じさせず、片腕で持ち上げる。


「返せ!」


「必要なんだ」


 翼から血を流しながら、〈灰翼〉は羽ばたいた。


 馬車が風圧で傾く。


 追おうとしたローディスへ、男が叫んだ。


「北で何が起きているか知りたいなら、明日の夕刻、白牙の岩(しろきばのいわ)へ来い!」


「白牙の岩?」


「帝国兵は連れてくるな。四人だけだ!」


 灰色の翼が木々を越える。


 薬箱を抱えたまま、北へ飛び去っていった。


 後方から、馬の足音が近づく。


 待機していた帝国兵が、戦闘音を聞いて駆けつけてきたのだ。


「追いますか」


 セイルがマレーネへ尋ねる。


「追いません」


「薬を取られた」


「囮として用意した薬です。予定どおりでしょう」


「捕縛は失敗です」


「ええ。私たち四人がかりで」


 マレーネは、裂けた翼から街道へ落ちた血を見た。


「竜人の身体能力を、甘く見ていました」


 ローディスも大剣を下ろす。


 正面から押し合って、力で負けた。


 セイルの氷も、マレーネの水縄も破られた。


 リュカは外した短剣を拾いに行っている。


「明日、行くんですか」


 ローディスが尋ねる。


「白牙の岩がどこかを確認してからです」


「罠かもしれない」


 戻ってきたリュカが言う。


「でしょうね」


「それでも、行く?」


 マレーネは北の森を見た。


「これは追跡ではありません。向(・)こ(・)う(・)か(・)ら(・)指定された面会です」


 灰翼の姿は、もう見えない。


 ただ、地面に残った数滴の血だけが、北へ続いていた。


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