第16話 灰翼の警告
「追うな!」
灰色の翼が森へ消えた瞬間、マレーネの声が飛んだ。
走り出しかけたローディスは、大剣を構えたまま足を止める。
「だが、今ならまだ見える」
「相手は空を飛べます。森へ入った時点で、地上から追う私たちが不利です」
「逃がすんですか」
セイルが尋ねる。
「負傷者と補給隊を放置して?」
マレーネに言われ、セイルは杖を下げた。
補給隊の兵士たちは、横倒しになった荷馬車を起こそうとしている。森を警戒する者、負傷した御者へ水を運ぶ者もいた。
空を一周した〈灰翼〉が、別の仲間を呼んでいない保証もない。
「先生の言うとおりだよ」
リュカは空を見上げていた。
「向こうは僕たちを見た。人数も、武器も、馬車の中身も。それから飛んでいったんだ」
「偵察だけが目的だったと?」
「たぶんね。追いかけてほしいなら、もう少し愛想よく飛ぶと思うよ」
森の上には、もう揺れる枝さえ見えない。
ローディスは大剣を収めた。
「御者を運ぶ。話は北方支部で聞こう」
◇
帝国軍北方支部へ着いたのは、日が沈んだ後だった。
高い石壁に囲まれた砦で、北方街道と山間部へ向かう道を監視している。門の上には帝国旗が翻り、弓を持った兵士が森の方角へ目を光らせていた。
負傷した御者は施療室へ運ばれた。
四人は休む間もなく、作戦室へ通された。
長机の上には北方一帯の地図と、〈灰翼〉に関する報告書が並べられている。
「これで四件目だ」
支部の指揮官が、追加された報告書を見て言った。
「三件では?」
セイルが告示の写しを取り出す。
「告示を出した後、軍の運搬馬車が一台襲われた。積んでいた食料と毛布を奪われている」
「金は?」
「軍資金には手をつけていない」
傷薬。
熱病の薬。
食料。
毛布。
奪われた物が、地図の横へ並べて書かれる。
「やはり、金目当てではありませんね」
マレーネが言った。
「だからといって、強盗ではないことにはならん」
指揮官の声は厳しい。
「兵士三人が骨を折られた。抵抗した商人も負傷している。荷を奪うためなら、人を傷つけることをためらわない相手だ」
「死者は?」
リュカが尋ねる。
「今のところ、一人もいない」
「討伐隊も?」
「全員生きて戻った。剣や槍は折られ、腕や脚を負傷していたがな」
ローディスは報告書へ目を落とした。
複数の討伐隊を退けた危険人物。
告示の文言に嘘はない。
ただし、何人殺したかは書かれていなかった。
「殺せるのに、殺していない」
「手加減された兵にそう伝えれば、喜ぶと思うか?」
指揮官がローディスを睨む。
「思いません。ですが、捕縛する方法を考える材料にはなる」
「捕縛か。できるならそうしろ。こちらも竜人の集落や竜族と争いたいわけではない」
指揮官は地図の北端を指した。
「街道から先は、天穿山脈へ続く森林地帯だ。竜人の集落はさらに北にある。正確な場所は帝国軍にも開示されていない」
「〈灰翼〉は、その集落へ物資を運んでいる?」
セイルが問う。
「推測にすぎん。集落が犯罪者を匿っている証拠もない」
「北へ来るなという警告は?」
「すべての商隊へ同じことを言っている。おかげで北方街道を使う商人が減り、支部への物資まで滞り始めた」
「奪っている物を見る限り、病人か避難民がいる可能性があります」
マレーネが地図を見ながら言った。
「それも大勢」
「同情して薬を渡せと?」
「事情を確かめるべきだと言っています」
作戦室に沈黙が落ちた。
「確かめる方法がある」
セイルが口を開いた。
「薬を積んだ馬車を、もう一度走らせる」
「囮にするのか」
ローディスが顔を向ける。
「相手が薬を必要としているなら来る。僕たちは隠れて待つ」
「薬を餌にするのは感心しませんね」
マレーネが言う。
「奪われなければ、そのまま北方支部で使える。無駄にはしません」
「襲われた場合、薬が壊れる可能性は?」
「壊させない方法を考えます」
「それを今から考えるのですか」
「一晩ください」
マレーネは指揮官を見る。
「許可をいただけますか」
「兵を同行させる」
「姿を見せれば、〈灰翼〉は近づかないでしょう」
「兵を遠ざけ、学生と教員だけで囮になるつもりか?」
「兵には、距離を取って後方を守ってもらいます」
指揮官は難しい顔をしたが、最後には頷いた。
「街道から外れるな。竜族領へ入る兆候があれば中止する。それが条件だ」
「承知しました」
◇
翌朝。
一台の荷馬車が、北方支部から森へ向けて出発した。
御者台にマレーネ。
ローディスは荷台の前方へ座り、外套の下で大剣の柄を握っている。
セイルとリュカは、薬箱の後ろへ身を伏せていた。
帝国兵は見えないほど後方から追っている。
「来ると思うか」
ローディスが小声で尋ねる。
「昨日、補給隊の荷を見ていたなら」
セイルは薬箱の底へ描いた紋章を確かめる。
箱の内側には薄い水の膜を巡らせていた。馬車が横転しても瓶同士がぶつからないよう、水の精霊に支えてもらうためのものだ。
「高い薬なんだよね?」
リュカが囁く。
「だから守る」
「僕たちより?」
「同じくらいだ」
「そこは僕たちを上にしてよ」
馬車は森の間を進んだ。
鳥の声。
車輪が土を踏む音。
風に揺れる枝葉。
半刻が過ぎても、何も起こらない。
一刻が過ぎた頃、セイルが小さく息を吐いた。
「見抜かれたか」
「静かに」
マレーネの声が御者台から届く。
鳥の声が消えていた。
ローディスは大剣を抜いた。
その瞬間、頭上で風が爆ぜた。
灰色の影が木々の隙間から落ちてくる。
「伏せろ!」
大剣を横に構える。
衝撃。
竜人の踵が剣の腹へ叩き込まれた。
ローディスの腕が痺れ、荷台の床板が軋む。
相手は空中で翼を広げ、再び浮かび上がった。
昨日より近い。
血授を受けていない男と変わらない顔立ち。年齢は二十代半ばほどに見える。
短い灰色の髪。
首筋から頬の下へ細かな鱗が走り、両腕の外側も同じ鱗に覆われている。
背から生える一対の翼には羽毛がなく、灰色の皮膜が太い骨の間へ張っていた。
「荷を置いて戻れ」
低い男の声だった。
「そうすれば、追わない」
「それはできない」
ローディスが答える。
「薬が必要なら、まず理由を話せ」
「帝国の人間へ話すことはない」
〈灰翼〉の目が、御者台のマレーネへ移る。
「兵士ではありません」
マレーネが言った。
「帝立アストラ兵学府の教員です。あなたを捕らえるために来ました」
「同じだ」
「違います。少なくとも、私はあなたの話を聞ける」
「聞いたあとで、縄を掛ける」
「犯罪を重ねた以上、何もせず帰すとは言えません」
灰色の翼が一度動いた。
「なら、話すこともない」
〈灰翼〉が急降下する。
狙いはローディスではない。
荷台の薬箱。
ローディスが進路へ割り込み、大剣を振るう。
竜人は翼を畳んで刃をかわし、そのまま肩からぶつかった。
「ぐっ……!」
ローディスの足が荷台を滑る。
片足が地面へ落ちかけた。
〈灰翼〉は着地すらせず、翼を開いて上昇する。
「人一人分の重さじゃないぞ」
「竜の形質が定着していると言ったでしょう!」
マレーネが馬を止め、御者台から降りる。
セイルが荷台から杖を突き出した。
紋章式。
空中へ複数の水球が生まれ、〈灰翼〉を囲む。
水球の表面が凍り、細い氷の帯となって翼へ絡みついた。
「捕らえた!」
セイルが杖を引く。
〈灰翼〉の身体が傾いた。
だが、片翼を強く振るだけで氷の帯が砕ける。
破片が雨のように落ちた。
「軽すぎた」
「空を飛ぶ相手へ重くすれば、作る前に逃げられる」
再び水を集めようとしたセイルへ、〈灰翼〉が向きを変えた。
速い。
紋章へマナを通すより先に、灰色の影が迫る。
ローディスが大剣を差し込む。
爪と鉄がぶつかり、火花が散った。
「セイルへ近づけるな!」
「分かってる!」
押し合うローディスの横から、リュカが短剣を投げた。
刃は〈灰翼〉の頬を掠め、後方の木へ刺さる。
竜人がリュカを見る。
「外したね」
リュカは悔しそうに言った。
〈灰翼〉の翼が横薙ぎに振るわれる。
突風が荷台を打った。
リュカの小さな身体が外へ投げ出される。
「リュカ!」
ローディスは竜人を押し返し、片手を伸ばした。
外套の襟を掴む。
リュカの足が地面へ着く寸前で止まった。
「大丈夫?」
「それは俺の台詞だ!」
〈灰翼〉が再び薬箱へ手を伸ばす。
その足首へ、水の縄が巻きついた。
マレーネが短い精霊語を発し、街道脇の水溜まりから引き上げた水を操っている。
「話を聞くと言いました」
彼女が腕を引く。
〈灰翼〉の身体が空中から引き落とされた。
地面へ片膝をつく。
ローディスが大剣の切っ先を向けた。
セイルの杖にも、次の紋章が浮かんでいる。
「ここまでです」
マレーネが告げる。
「事情を話しなさい」
〈灰翼〉は水の縄を見た。
「精霊術師か」
「教員です」
「教師が子供を賞金首へ向けるのか」
「子供だけで来させるよりましでしょう」
竜人の口元が、わずかに歪んだ。
笑ったのかもしれない。
「北には病人がいる」
四人の表情が変わる。
「何の病気ですか」
「熱が下がらない。咳が止まらない。子供から倒れた」
「竜人の集落で?」
〈灰翼〉は答えなかった。
「帝国へ助けを求めなかったのですか」
「求めた」
男の声に、初めて怒りが混じった。
「門前で追い返された。竜の病を持ち込むなとな」
「それで奪った?」
ローディスが問う。
「待っていれば死んだ」
「だからといって、関係のない人を傷つけていい理由にはならない」
「分かっている」
返事は早かった。
言い訳を探している声ではなかった。
「分かっていて、やった。俺を捕らえたければ、好きにしろ」
〈灰翼〉の両翼が大きく広がる。
マレーネの水縄が引き伸ばされた。
「まだ動けるのか」
セイルが紋章へマナを流す。
それより早く、竜人の爪が水縄を切り裂いた。
水が弾ける。
〈灰翼〉は地面を蹴り、薬箱の真上へ跳んだ。
ローディスが大剣を振り上げる。
男は刃を翼の骨で受けた。
灰色の皮膜は裂けたが、太い骨は大剣を弾く。
別の手が薬箱の取っ手を掴んだ。
箱の重さを感じさせず、片腕で持ち上げる。
「返せ!」
「必要なんだ」
翼から血を流しながら、〈灰翼〉は羽ばたいた。
馬車が風圧で傾く。
追おうとしたローディスへ、男が叫んだ。
「北で何が起きているか知りたいなら、明日の夕刻、白牙の岩へ来い!」
「白牙の岩?」
「帝国兵は連れてくるな。四人だけだ!」
灰色の翼が木々を越える。
薬箱を抱えたまま、北へ飛び去っていった。
後方から、馬の足音が近づく。
待機していた帝国兵が、戦闘音を聞いて駆けつけてきたのだ。
「追いますか」
セイルがマレーネへ尋ねる。
「追いません」
「薬を取られた」
「囮として用意した薬です。予定どおりでしょう」
「捕縛は失敗です」
「ええ。私たち四人がかりで」
マレーネは、裂けた翼から街道へ落ちた血を見た。
「竜人の身体能力を、甘く見ていました」
ローディスも大剣を下ろす。
正面から押し合って、力で負けた。
セイルの氷も、マレーネの水縄も破られた。
リュカは外した短剣を拾いに行っている。
「明日、行くんですか」
ローディスが尋ねる。
「白牙の岩がどこかを確認してからです」
「罠かもしれない」
戻ってきたリュカが言う。
「でしょうね」
「それでも、行く?」
マレーネは北の森を見た。
「これは追跡ではありません。向こうから指定された面会です」
灰翼の姿は、もう見えない。
ただ、地面に残った数滴の血だけが、北へ続いていた。




