第17話 白牙の岩
〈灰翼〉を追わず、四人は帝国軍北方支部へ戻った。
作戦室の机に地図を広げると、北方支部の指揮官は一本の指を森の奥へ滑らせた。
「白牙の岩なら、ここだ」
街道から外れ、天穿山脈へ向かう古い狩猟道。その途中に、小さな印がつけられている。
「知っているんですね」
セイルが言った。
「兵が巡回の目印に使う。白い岩柱が地面から突き出していて、獣の牙に見えることからそう呼ばれている」
「竜族領の中ですか」
マレーネが尋ねる。
「手前だ。少なくとも、我々はそう認識している」
「認識?」
ローディスが眉を寄せる。
「国境のように線が引かれているわけではない。白牙の岩より先には、竜族が爪痕を刻んだ石がある。帝国兵はそこを越えない」
学園長から課された条件を、四人とも覚えていた。
竜人の集落や竜族の縄張りへ近づく場合は、北方支部を通じて許可を得ること。
「白牙の岩までの立ち入りを許可していただけますか」
マレーネが問う。
「昨日の今日で、また学生を連れていく気か」
「向こうが四人を指定しました。兵を連れていけば、話し合いにはならないでしょう」
「罠ならどうする」
「そのときは逃げます」
「教員らしい答えには聞こえんな」
「勝てない相手から生徒を連れて帰るのも、教員の仕事です」
指揮官は腕を組み、長い息を吐いた。
「許可は白牙の岩までだ。爪痕の境を越えるな。日没から一刻を過ぎても戻らなければ、兵を出す」
「帝国兵は連れてくるなと言われています」
「一刻以内に戻ればいい」
マレーネは頷いた。
「承知しました」
◇
翌日の午後。
四人は徒歩で北方支部を出た。
ローディスは大剣を背負い、セイルは杖を持っている。リュカの短剣も、マレーネの細身剣も取り上げられてはいない。
話し合いへ行くには物々しい姿だ。
だが、昨日四人がかりで逃がした相手に、武器を置いて会いに行くほど互いを信じてもいなかった。
「翼の傷は、どの程度だと思いますか」
セイルが尋ねる。
「皮膜だけなら、飛行そのものはできるでしょう」
マレーネが答えた。
「骨は斬れなかった」
ローディスは大剣の柄に触れた。
「手応えは、ほとんど岩だった」
「次は凍らせてから斬る?」
リュカが言う。
「話し合いに行くんだろう」
「罠だったときの相談だよ」
「エアハルトの言うとおり、備えは必要です。ただし、こちらから攻撃してはなりません」
マレーネは三人を振り返る。
「特にベルグ。挑発されても、剣を抜く前に私を見なさい」
「なぜ俺だけ」
「先ほどから何度も大剣の柄へ触れているのが、あなただからです」
ローディスは柄から手を離した。
「……分かりました」
狩猟道は、森へ入るほど細くなった。
枝に古い布が結ばれ、迷わない程度の目印になっている。人の手が入った道ではあるが、足跡はほとんど残っていない。
やがて木々の向こうへ、白い岩が見えた。
高さはローディスの二倍ほど。
根元は太く、先端へ向かって細く尖っている。傾いた姿は、地面から生えた巨大な牙そのものだった。
その上に、人影が座っている。
「来たか」
〈灰翼〉だった。
裂かれた片翼には布が巻かれている。布には血が滲んでいたが、昨日より広がってはいない。
足元には、奪われた薬箱が置かれていた。
「四人だけだな」
「約束どおりです」
マレーネが答える。
〈灰翼〉は岩から飛び降りた。
翼を使わずに着地し、四人の武器へ順に目を向ける。
「それも置いていけ」
「できません」
「俺を捕らえるための武器だろう」
「私たちが無事に帰るための武器でもあります」
マレーネは一歩も退かなかった。
「こちらから抜かないと約束します。あなたも襲わないと約束しなさい」
「教師は、賞金首との約束を信じるのか」
「信じられるか確かめるために来ました」
しばらく、二人は黙って見つめ合った。
先に目を逸らしたのは〈灰翼〉だった。
「ついてこい」
薬箱を片腕で持ち上げ、森の奥へ歩き出す。
「待ちなさい」
マレーネが呼び止めた。
「白牙の岩で会う約束です」
「病人はここにはいない」
「私たちは、この先へ入る許可を得ていません」
〈灰翼〉の足が止まる。
「誰の許可だ」
「帝国軍北方支部です」
「帝国に追い返された者を助けるのに、帝国の許しがいるのか」
「竜族領へ無断で踏み込まないためです」
「人の決めた境など知らない」
「竜族が刻んだ爪痕の境があると聞きました」
〈灰翼〉は四人を見回した。
怒りよりも先に、呆れたような息を吐く。
「なら、見ればいい」
彼が向かった先は、北ではなかった。
白牙の岩を回り込み、街道側へ下る斜面だった。
草木に隠された細い道を進むと、水の流れる音が聞こえてくる。
小さな谷があった。
両側を岩壁に挟まれ、上から見ただけでは底が見えない。白牙の岩の根元が屋根のように張り出し、その下へ粗末な天幕がいくつも並んでいた。
咳が聞こえた。
一人ではない。
低い咳。細い咳。息を詰まらせるような子供の咳。
ローディスは大剣から手を離した。
「ここは、竜族領ではないのか」
「爪痕より南だ」
〈灰翼〉が答える。
「帝国の兵が言う境を、俺たちは越えていない」
天幕から、一人の女が出てきた。
顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。一見すれば山外の者と変わらない姿だが、手の甲には淡い褐色の鱗があった。
「遅い」
女は〈灰翼〉を睨み、それから翼の包帯に気づいた。
「また戦ったのか」
「薬は持ってきた」
「聞いていない」
「あとでいい」
〈灰翼〉は薬箱を女へ渡した。
女が蓋を開ける。中の瓶は、セイルが張った水の膜に守られ、一つも割れていなかった。
「これを使っても、熱は下がりません」
マレーネが天幕へ目を向ける。
「下がらない?」
「最初は下がった。半刻もすれば戻る」
女は短く答え、警戒するように四人を見た。
「その人たちは」
「兵学府だ。話を聞くと言った」
「帝国の人間でしょう」
「俺たちも人族だ」
〈灰翼〉の声が低くなる。
「それを忘れるな」
女は唇を結んだ。
マレーネが自分の鞄を開く。
「病人を診せてください。私は治療者ではありませんが、症状と使った薬を整理することはできます」
「捕らえに来たのでは?」
「その話と、目の前の病人を放置しないことは別です」
女はすぐには答えなかった。
天幕の中から、小さな声がした。
「お水……」
女が振り返る。
迷いは、それで終わった。
「こちらへ」
◇
谷には二十人ほどが身を寄せていた。
竜の形質を持つ者も、持たない者もいる。
翼を背負った老人。
瞳孔だけが細く変わった若者。
何の形質も見えない母親と、その腕の中で熱に浮かされた子供。
全員が竜人というわけではない。
「同じ集落で暮らす、血授を受けていない住民です」
マレーネの疑問に、鱗の女が答えた。
「血授の儀を受けるかは、その者が成人したときに決めます。受けない者も、まだ受けられない子供もいる」
セイルは子供の傍らへ膝をついた。
杖を使わず、濡らした布を額に当てる。
「いつからですか」
「七日前。沢の近くで遊んでいた子供が、最初に熱を出した」
「沢の水を飲んだ?」
「集落の者は皆、同じ水を飲んでいる」
「食べ物は」
「同じです」
「子供から倒れたと言っていましたね。大人へ広がったのは?」
「二日後」
セイルが患者たちを見る。
「人から人へうつる病なら、僕たちも離れた方がいい」
「もう遅いよ」
リュカが言った。
「さっきから同じ空気を吸ってる」
「安心させる言い方を覚えてくれないか」
「安心して油断するよりいいでしょう」
マレーネは一つの天幕から出ると、鱗の女へ向き直った。
「集落には、治療者はいないのですか」
「います。命の精霊と契約した者も」
「では、なぜここへ?」
「治せなかったからです」
答えたのは〈灰翼〉だった。
「命の精霊術を受けても、熱は戻った。病人を集落から離し、俺が薬を探しに南へ来た」
「それで、帝国の門を訪ねた」
ローディスが言う。
「追い返されるまでは、奪うつもりはなかったのか」
「信じるか?」
「今は聞いている」
〈灰翼〉は傷ついた翼を見た。
「金は持っていた。薬を売るよう頼んだ。だが、門の中へも入れなかった」
「どこの門ですか」
マレーネが尋ねる。
「北方支部ではない。街道の西にある町だ」
「町の名前は?」
〈灰翼〉が答えようとしたときだった。
谷の奥から、石を擦るような低い音が響いた。
天幕の布が震える。
病人たちが一斉に顔を上げた。
音ではない。
人族の耳では一つの唸りにしか聞こえない響きの奥へ、高さの異なる咆哮が重なっている。
竜語。
マレーネはそう教えてくれた。
だが、意味までは分からない。
〈灰翼〉と鱗の女だけが、谷の奥へ顔を向けた。
二人の表情が強張る。
「何と言ったんですか」
セイルが立ち上がる。
〈灰翼〉は答えない。
岩壁の陰から、巨大な爪が現れた。
一本だけで、ローディスの腕ほど太い。
続いて、青銅色の鱗に覆われた前脚が地面を踏む。
谷の空気が、重く沈んだ。
ローディスは反射的に大剣の柄へ手を伸ばす。
「抜かない!」
マレーネの声に、指を止めた。
岩陰から現れた竜の頭が、四人を見下ろす。
青銅色の鱗に覆われた頭だけで、荷馬車ほどの大きさがある。首は岩壁の向こうへ続き、その全身は谷の狭い視界へ収まりきらない。
縦に細い瞳。
頭部から後方へ伸びる二本の角。
一度息を吐くだけで、地面の枯れ葉が舞った。
竜は〈灰翼〉へ向け、もう一度短く竜語を発した。
「連れてきたんじゃない」
〈灰翼〉が人語で返す。
「俺が呼んだ」
巨大な瞳が、マレーネへ移った。
次にローディス。
セイル。
最後に、リュカの上で止まる。
竜は長く彼を見つめた。
リュカの笑みが消えている。
やがて竜の口が開いた。
今度は、四人にも理解できる人語だった。
「病を見に来た人の子よ」
低い声が、谷全体を震わせる。
「ならば先に、おまえたちの内にあるものを見せてもらおう」




