第18話 竜の問い
「おまえたちの内にあるものを見せてもらおう」
竜の声が、谷の岩壁を震わせた。
ローディスは大剣の柄から手を離していた。
それでも、巨大な瞳に見下ろされるだけで、全身の筋肉が勝手に強張る。
「内にあるもの、とは何ですか」
マレーネが問い返した。
「心に抱えてきたものだ」
竜は答える。
「憐れみか。恐れか。罪人への怒りか。我らの血への欲か」
青銅色の顔が、わずかに近づいた。
「人の子は、同じ言葉で多くを隠す。ゆえに、おまえたち自身の言葉で語れ」
武器を捨てろという要求ではなかった。
胸の内を明かせということらしい。
「では、私から」
マレーネが一歩前へ出た。
「私は帝立アストラ兵学府の教員、マレーネ・ハルトマンです。生徒が特別賞金首を追うことを認めた責任がある。そして、助けを求めた人々が帝国の町から追い返された経緯を確かめる責任もあると考えています」
「病人を救うためではないのか」
「救えるなら救います。ですが、私には命の精霊術も医術もありません。できないことまで口にして、あなたの信を得ようとは思いません」
竜の瞳が細くなる。
「飾らぬ言葉だ」
次に、ローディスへ視線が移った。
「剣を持つ者よ」
「ローディス・ベルグ」
名乗ってから、何を言うべきか考える。
病人を助けたい。
〈灰翼〉を捕らえたい。
どちらも本心だった。
「俺は、こいつを止めるために来た」
ローディスは〈灰翼〉を見る。
「理由があっても、人を傷つけて荷を奪ったことは消えない。だが、病人を見捨てるつもりもない。先に助ける。その後で、罪について話す」
「順を違えぬと?」
「目の前で死にそうな人がいるなら、そちらが先だ」
竜は何も評さなかった。
ただ、今度はセイルを見る。
「術を持つ者よ」
「セイル・クローデンです」
「おまえの内には、何がある」
「銀貨三百枚」
「クローデン」
マレーネの声が低くなる。
「嘘を言うなという話でしょう」
セイルは悪びれもせずに答えた。
「賞金が目的だったのは事実です。ただ、ここまで来て、病人を置いて〈灰翼〉だけ連れ帰っても後味が悪い。それに、普通の薬も命の精霊術も効かない症状には興味があります」
「知るために、病人へ触れるか」
「知識がなければ、助ける方法も選べません」
「欲と知か」
「どちらも役に立ちます」
竜の喉から、低い音が漏れた。
笑ったのか、呆れたのかは分からない。
最後に、視線がリュカへ戻る。
「風をまといながら、風を使わぬ者よ」
マレーネがリュカを見た。
「どういう意味ですか」
「この者へ問うている」
竜は答えなかった。
リュカは穏やかな笑みを浮かべ直す。
「リュカ・エアハルトです。僕は、ここで起きていることが僕たちの知っている病気なのか、それとも別の何かなのかを確かめに来ました」
「それだけか」
「それ以上の答えを、あなたは知っているんですか」
谷の空気が張り詰めた。
ローディスはリュカを見る。
竜を前にしても、声は震えていない。
「知らぬ」
竜は静かに言った。
「ゆえに見定める」
「なら、お互い同じですね」
〈灰翼〉が眉を寄せた。
「お前、相手が誰か分かっているのか」
「竜族でしょう」
「そういう話ではない」
「よい」
竜が〈灰翼〉を制した。
「恐れを隠す者は多い。恐れぬように装いながら、問いを返す者は少ない」
巨大な頭が持ち上がる。
「我が名は、グレンガルド。この地に住む者から、谷守と呼ばれている」
青銅色の竜――グレンガルドは、四人へ背を向けた。
「話すことを許す」
「許す?」
セイルが小声で繰り返す。
「僕たちは、もうかなり話したと思うけど」
「竜族の尺度で考えなさい」
マレーネも小声で返した。
◇
グレンガルドは、谷の奥にある水場へ四人を案内した。
岩の隙間から細い水が流れ落ち、浅い窪みに溜まっている。
水面は澄んでいた。
濁りも、浮いているものもない。
「病人が最初に出た沢と、つながっている水ですか」
マレーネが尋ねる。
「同じ山から流れる。だが、この水を飲んだ者すべてが倒れたわけではない」
グレンガルドが答えた。
「我も飲んだ。翼ある者も飲んだ。病を得ぬ者は多い」
「発症した人に共通するものは?」
「幼い者。老いた者。傷や病で弱っていた者から先に倒れた」
「身体の弱い人から」
セイルが水場へ近づく。
「触れますよ」
「好きにせよ」
杖の先を水へ浸す。
セイルは目を閉じ、水の精霊へ短い言葉を送った。
水面がわずかに盛り上がり、透明な球となって杖の先へ浮かぶ。
形は保たれている。
精霊術が妨げられる様子はない。
「普通の水に見える」
「飲まないでください」
マレーネが即座に言う。
「飲みません」
「今、一瞬迷いましたね」
「味が手掛かりになるかと考えただけです」
「考えた時点で止めています」
セイルは水球を地面へ戻した。
リュカは水ではなく、周囲の岩を見ていた。
「あそこだけ色が違う」
彼が指したのは、水の流れ出す裂け目の上だった。
灰色の岩肌に、黒ずんだ筋が一本走っている。
苔のようにも見える。
だが、日の差さない裂け目から、上へ向かって伸びていた。
「上へ?」
ローディスが近づく。
「水の跡なら、下へ流れるはずだ」
「触るな」
グレンガルドの声が飛ぶ。
ローディスは伸ばしかけた手を止めた。
竜が前脚の爪を一本、黒い筋へ近づける。
触れる寸前、黒ずみが震えた。
細い糸のようなものが岩から剥がれ、爪先へ伸びる。
グレンガルドが低く唸った。
爪を引くと同時に、口の奥が赤く燃える。
細く絞られた炎が黒い糸を焼いた。
黒ずみは身をよじるように縮み、岩の内側へ引っ込んだ。
「今、動いた」
セイルが杖を構える。
「生き物ですか」
「分からぬ」
「あなたにも?」
「精霊ではない。獣でも、草木でもない」
竜は黒い筋を睨んだ。
「三日前、ここで初めて見つけた。削り落としたものは、朝までに石へ戻った」
「病人が出たのは七日前です」
マレーネが言う。
「先に沢へ現れていた可能性があります」
「魔族に関係するものだと思う?」
ローディスが尋ねた。
セイルは答えず、リュカを見た。
「見ても答えは出ないよ。僕は黒い苔の専門家じゃない」
リュカは肩をすくめた。
「黒淵周辺から届いた戦況報告に、似た記述がありました」
マレーネは黒い筋から距離を取りながら言った。
「魔物の侵入後、周囲の植物や土が黒く変色した事例です。ただし、ここは黒淵から遠すぎる。同じ現象だと決めつけることはできません」
「別の場所でも、魔物が入り込んでいる可能性は?」
ローディスが問う。
「否定はできません。だからこそ、直接確かめる必要があります」
マレーネはグレンガルドへ向き直った。
「この水の上流を調べたのですか」
「翼ある者を向かわせた」
〈灰翼〉が傷ついた片翼を動かす。
「沢を辿った先に、崩れた岩場がある。その奥から黒い水が滲んでいた」
「入らなかったのですか」
「入れなかった。穴が狭すぎる」
ローディスがグレンガルドを見る。
この巨体では、頭すら入らないだろう。
「人なら入れる?」
「一人ずつならな」
〈灰翼〉が答えた。
「中から、何かの声がした」
四人の間に、工房で聞いた声が蘇る。
選ばれなかった者にも、声は届く。
道はもうつながった。
糸は根へ続く。
「何と言っていましたか」
セイルの声が硬くなる。
「言葉には聞こえなかった。何人もが、同時に呻いているような音だ」
「その場所まで、どのくらいですか」
「飛べば四半刻。歩けば一刻以上」
マレーネが空を見る。
谷へ差し込む光は、すでに赤くなっていた。
北方支部との約束がある。
今から向かえば、期限には戻れない。
「今日は帰ります」
マレーネが告げた。
「先生」
ローディスが声を上げる。
「期限を過ぎれば、北方支部は私たちを捜すために兵を出します。ここへ帝国兵を呼び込まないためにも、今日は戻らなければなりません。病人への支援と水源の調査は、改めて正式に要請します」
「帝国軍が、俺たちの話を信じると思うか」
〈灰翼〉が問う。
「私たち四人が、この目で見た事実として報告します」
「帝国側の人間が四人で同じ話をしても、都合よく作った話だと思われるだけだ」
「では、当事者であるあなたにも証言してもらいます」
マレーネの視線が、〈灰翼〉へ向いた。
「私たちと来なさい」
「俺を捕らえるのか」
「あなたは帝国の町へ正規に助けを求め、拒まれた。その証言をしてください。同時に、強盗と傷害について取り調べを受けることになります」
「結局、牢へ入れと」
「逃亡しないと約束できるなら、拘束の方法は交渉します」
〈灰翼〉は病人の天幕を見た。
「俺が戻らなければ、薬と食料は」
「北方支部から運ばせます」
「帝国兵を入れるな」
「白牙の岩まで運ばせ、私たちがここへ運ぶ。それならどうですか」
「なぜ、そこまでする」
「あなたが黙ったまま奪うより、面倒が少ないからです」
マレーネの言葉に、セイルが小さく頷いた。
「薬代は、あとで賞金から引けばいい」
「まだ銀貨三百枚を受け取る気か」
〈灰翼〉が睨む。
「君が自分から来ても、僕たちが連れて帰ることに変わりはない」
「クローデン」
「半分は冗談です」
「どちらの半分ですか」
そのやり取りを、グレンガルドは黙って聞いていた。
やがて、青銅色の首を〈灰翼〉へ下ろす。
低い竜語が響いた。
〈灰翼〉も同じ言葉で短く返す。
人族の耳には、岩と雷が言い争っているようにしか聞こえない。
最後に、グレンガルドが人語で言った。
「行け、翼ある子よ」
「だが」
「盗み続ければ、病が治る前に、おまえの帰る場所が失われる」
〈灰翼〉は何も言えなかった。
「人の子らよ」
竜が四人を見る。
「この者の罪を、我は消せぬ。だが、病人を救おうとしたことまで罪へ変えるな」
「約束します」
マレーネが答えた。
グレンガルドは胸元の鱗へ爪を掛けた。
一枚の鱗が剥がれる。
人の頭ほどもある青銅色の鱗が、地面へ落ちた。
「これを持っていけ。我が言葉の代わりだ」
ローディスが両手で受け取る。
見た目より重い。
表面には、爪で刻まれた細い線が幾重にも走っていた。
「何と書いてあるんですか」
セイルが尋ねる。
「竜語ですか」
「人の喉では読めぬ」
グレンガルドは答えた。
「我が名と、谷で起きていることを刻んだ。竜人の言葉を疑う者も、竜の鱗まで偽物とは言うまい」
〈灰翼〉が翼を畳む。
それから、自分の両腕をローディスへ差し出した。
「縛れ」
「必要ない」
「俺は賞金首だ」
「逃げないんだろう」
「信じるのか」
「信じられるか確かめに来た」
ローディスは、マレーネが白牙の岩で口にした言葉を返した。
〈灰翼〉は腕を下ろした。
「変な奴らだ」
「君に言われたくはない」
セイルが薬箱の空いた場所を確かめる。
「帰りは歩きだ。飛んで逃げたら、翼の治療代も賞金から引く」
「飛ばない」
「本当に?」
「その杖を折らないうちはな」
「先生、やはり縛りましょう」
「歩きますよ」
マレーネが先頭に立つ。
ローディスは竜の鱗を抱え、セイルとリュカが続く。
最後に〈灰翼〉が、病人たちを一度だけ振り返った。
五人は、日暮れの森へ足を踏み出した。
北方支部へ戻る列に、縄で縛られた捕虜はいない。
罪を認め、それでも病人のために戻ることを選んだ、一人の証人が加わっていた。




