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黒淵のアストラ  作者: 咢
第2章 侵蝕

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第19話 鱗の証言

「門を閉めろ!」


 帝国軍北方支部の見張り台から、怒号が落ちた。


 鐘が鳴る。


 開きかけていた門が止まり、兵士たちが一斉に槍を構えた。


 無理もない。


 街道を荒らしていた特別賞金首が、自分の足で砦へ向かって歩いてくるのだ。


「待ってくれ!」


 ローディスはグレンガルドの鱗を抱えたまま、声を張った。


「〈灰翼〉は戦うために来たんじゃない!」


「ベルグ、前へ出ない!」


 マレーネが外套を掴んで引き戻す。


 門の上で弓弦が鳴った。


 矢が一本、〈灰翼〉の足元へ突き刺さる。


 灰色の翼が反射的に広がった。


「翼を畳め!」


 ローディスが叫ぶ。


「飛べば攻撃される!」


「分かっている!」


 〈灰翼〉は苛立った声を返しながらも、翼を背へ畳んだ。


 両手を見える位置へ上げる。


「逃げない! 話をしに来た!」


「賞金首の言葉を信じろと?」


 門上の兵士が弓を引いたまま問い返す。


「私が保証します」


 マレーネが前へ出た。


「帝立アストラ兵学府教員、マレーネ・ハルトマンです。北方支部指揮官の許可を受け、白牙の岩で接触しました。至急、報告の場を設けてください」


 兵士たちの間に動揺が走る。


 日没から一刻という期限には、まだ僅かに余裕がある。


 やがて門の片側だけが開いた。


「〈灰翼〉は両手を前へ。妙な動きをすれば射る」


「好きにしろ」


 五人は、槍の穂先に囲まれながら砦へ入った。


     ◇


 作戦室の空気は、前回よりも重かった。


 〈灰翼〉は長机の端に立たされ、両手へ鉄の枷を嵌められている。


 背後には兵士が四人。


 翼を広げられないよう、左右にも槍が向けられていた。


「まず確認する」


 北方支部の指揮官が言った。


「お前は、告示にある商隊四件への襲撃を認めるのか」


「認める」


「軍の運搬馬車を襲い、兵士三人へ骨折を負わせたことも?」


「認める」


「薬、食料、毛布を奪ったことも?」


「全部、俺がやった」


「帝国の町へ救援を求め、拒まれたという話は?」


「事実だ」


「どこの町だ」


「西街道のレーデン。四日前の昼、北門へ行った。病人がいるから薬を売ってほしいと頼んだ」


「応対した者は」


「名前は知らない。門衛の上着に銀の横線が二本あった。金も見せたが、竜の病を持ち込むなと言われた」


 指揮官は傍らの兵士へ顔を向けた。


「レーデンへ照会を出せ。四日前の北門の勤務記録、応対した門衛、入門拒否の報告書を確認しろ。薬を求める竜人が来た事実を伏せているなら、その理由もだ」


「はっ」


 兵士が作戦室を出ていく。


「お前の証言が正しいかは、戻った回答と照らし合わせる」


「好きにしろ」


「救援を拒まれた件については、照会の回答を待つ。だが、四件の襲撃はお前自身が認めた。身柄は拘禁し、帝都の裁定を待たせる」


「待ってください」


 マレーネが遮った。


「罪を認めた以上、処分を免れないことは承知しています。しかし今、北には約二十人の病人がいます」


「その話は、先ほどから聞いている」


「では、薬と食料を」


「竜人の言葉だけで、軍の物資を動かせと?」


「私たち四人も確認しました」


「お前たちは医師ではない。病気かどうかも判断できんだろう」


「熱と咳で苦しむ人間を見分けるのに、医師の資格が必要ですか」


 二人の視線がぶつかる。


 ローディスは抱えていた鱗を、長机の上へ置いた。


 重い音が作戦室へ響く。


「竜族のグレンガルドから預かりました」


 兵士たちが僅かに後ずさる。


 指揮官だけが、その場を動かなかった。


「本物の竜の鱗だと?」


「俺たちの頭より大きな鱗を持つトカゲを知っているなら、別かもしれません」


 セイルが言う。


「クローデン」


 マレーネに名を呼ばれ、口を閉じた。


 指揮官は鱗へ近づいた。


 青銅色の表面に、細い線が幾重にも刻まれている。


「これは文字か」


「竜語だそうです」


「読める者は?」


 誰も答えない。


「僕たちには読めません」


 セイルが認めた。


「〈灰翼〉なら読めます。ただし、本人の証言だけでは内容を保証できない」


「分かっているではないか」


「それでも、この鱗を竜族が自分で剥がし、僕たちへ渡したことは事実です。少なくとも、竜族が無関係ではない物証にはなる」


 指揮官は、鱗と四人を順に見た。


「病人は、竜人だけか」


「いいえ」


 マレーネが答える。


「血授の儀を受けていない人族もいます。幼い子供も」


「帝国領へ連れてくるつもりではないだろうな」


「谷は帝国側が定めた境界の南にあります。すでに帝国領内です」


 指揮官の顔が歪んだ。


 知らなかったでは済まない。


 だが、知っていて見捨てたわけでもない。


「……軍医を一人出す」


 指揮官が言った。


「薬と食料も、白牙の岩まで運ばせる。それより先へ兵は入れない。病人を診る場所も、岩より南に限る」


 〈灰翼〉が顔を上げた。


「約束しろ。兵は谷を探らない」


「拘束された者が条件を出すな」


「なら、俺は案内しない」


「お前がいなくても、場所はこの四人が知っている」


「上流の穴は知らない」


 指揮官がマレーネを見る。


「どういうことだ」


「病の原因と疑われる場所があります」


 マレーネは、水場の黒い筋と、上流の狭い穴について説明した。


 部屋にいた兵士たちの表情が変わっていく。


 黒淵周辺で報告されている変色。


 人の呻きに似た声。


 それが帝国北方で起きている。


「魔族の侵入だと考えているのか」


「まだ断定できません」


「断定できるまで待ち、穴から魔族が出てくるのを待つつもりもありませんね?」


「随分と教員らしくない言い方をする」


「生徒を戦場へ送り出す場所で教えていますので」


 指揮官は椅子の背へ身体を預けた。


「調査隊を出す。兵を六人――」


「駄目だ」


 〈灰翼〉が即座に言った。


 槍の穂先が首元へ寄る。


「グレンガルドが通ることを許したのは、この四人だ。帝国兵を連れていけば、俺が約束を破ることになる」


「お前はすでに帝国との約束をいくつ破った?」


「だから、今度は破らない」


 指揮官が鼻から息を吐く。


「学生と教員だけを、正体不明の穴へ入れろというのか」


「俺も行く」


「お前は拘禁すると言ったはずだ」


「案内が必要なんだろう」


 両者ともに譲らない。


「条件を分けましょう」


 マレーネが間へ入った。


「軍医と物資を運ぶ兵は白牙の岩まで。病人の谷は境界より南ですから、グレンガルドと改めて交渉します。上流の穴へ向かうのは、私たち四人と〈灰翼〉だけ。調査後、〈灰翼〉は必ずここへ戻す」


「戻らなければ?」


「私が責任を負います」


「先生」


 ローディスが呼ぶ。


「黙っていなさい」


 低い声だった。


 指揮官は指先で机を叩き続けた。


 やがて〈灰翼〉を見る。


「調査へ出す間も、その枷は外さない」


「このまま案内しろと?」


「帝国人三人を骨折させた腕だ。折れていないだけ感謝しろ」


「分かった」


「従順だな」


「病人に物資を送るならな」


 指揮官は兵士へ命じた。


「倉庫から熱病薬、傷薬、保存食、毛布を出せ。軍医を呼べ。夜明けと同時に出発する」


「ありがとうございます」


 マレーネが頭を下げる。


「礼を言うのは、病人が本当にいたと確認できてからだ」


 指揮官は次にセイルを見た。


「それから、銀貨三百枚はまだ出さんぞ」


「何も言っていません」


「顔に書いてある」


「竜語より読みやすいでしょう」


     ◇


 夜明け前。


 ローディスは、砦の中庭で大剣を振っていた。


 眠れなかったわけではない。


 上流の穴へ入る前に、身体を動かしておきたかった。


 一振り。


 二振り。


 冷えた空気を、厚い刃が切る。


「朝から元気だな」


 背後から声がした。


 〈灰翼〉が兵士二人に挟まれ、中庭へ出てくる。


 両手には鉄枷。


 翼の傷には、新しい包帯が巻かれていた。


「外へ出していいのか」


「見張りつきで身体を動かせと言われた」


「逃げるなよ」


「飛べるなら、昨日のうちに逃げている」


 〈灰翼〉は翼を少し開き、痛みに顔をしかめた。


「お前の剣のせいだ」


「薬を返さなかったせいだ」


「返せるわけがない」


「分かっている」


 ローディスは大剣を下ろした。


「だが、傷つけた人たちにも事情がある。お前が病人を助けたかったように、あの兵士たちにも帰る家がある」


「だから、罪を認めて戻ってきた」


「それで全部終わるとは思っていないな」


「思っていない」


 〈灰翼〉の返事に迷いはなかった。


「病が治ったら、逃げずに裁きを受ける」


「なら、俺は病人を助ける」


「取引か?」


「順番の話だ」


 〈灰翼〉が鼻で笑う。


「昨日、病人を先に助け、その後で俺の罪を問うと言ったな」


「ああ。考えは変わっていない」


「帝国の砦へ戻れば、俺を牢へ入れて終わりだと思っていた」


「お前を裁くことと、病人を助けることは別だ」


 〈灰翼〉は一瞬だけ黙った。


「本当に、分けて考えるんだな」


「ああ」


 中庭の向こうで、荷馬車へ物資が積まれていく。


 薬。


 保存食。


 毛布。


 〈灰翼〉が奪い続けたものが、今度は正式に運ばれようとしている。


     ◇


 夜が明けると、二台の荷馬車が北方支部を出た。


 一台には物資。


 もう一台には軍医と護衛の兵士が乗っている。


 白牙の岩へ着く頃には、日が森の上へ昇っていた。


 鱗のある女と数人の竜人が、岩の下で待っていた。


 帝国兵の姿を見て身構えたが、〈灰翼〉が前へ出る。


「谷には入れない。ここからは俺たちが運ぶ」


 兵士たちが指揮官の命令書を確認し、荷を降ろし始めた。


 軍医は薬箱を抱え、鱗の女とともに谷へ下りる。


 残る四人と〈灰翼〉は、白牙の岩から北へ進んだ。


 やがて、三本の爪痕が刻まれた黒い石柱が現れる。


 帝国が引いたものではない境界。


 その前に、グレンガルドが待っていた。


「人の子よ」


 青銅色の竜が四人を見る。


「戻ったか」


「約束どおり、物資と治療者を連れてきました」


 マレーネが答える。


「上流の穴を調べる許可をいただきたい」


「許す」


 グレンガルドは境界の横へ巨体を退ける。


「行け。ただし、黒きものを山の外へ持ち出すな」


「試料を持ち帰れない?」


「あれは石の内を這い、水の内を渡り、血の内へ入った。器へ閉じ込められると思うな」


 セイルの顔から、軽口が消えた。


「分かりました」


 五人は、爪痕の境を越えた。


     ◇


 上流の岩場までは、歩いて一刻ほどだった。


 沢を遡るにつれ、水の底に黒い筋が増えていく。


 最初は一本。


 やがて二本、三本と重なり、細い血管のように石の間へ広がっていた。


 鳥の声はない。


 獣の足跡も途中で消えている。


「あそこだ」


 〈灰翼〉が崩れた岩壁を示す。


 人一人が屈んで通れるほどの隙間がある。


 奥は暗く、黒い水が細く流れ出していた。


 耳を澄ます。


 声が聞こえた。


 低く、苦しげな呻き。


 一つではない。


「中に人がいるのか」


 ローディスが身を屈める。


「待ちなさい」


 マレーネが止めた。


「順番を決めます。ベルグが先頭。クローデン、エアハルトと続き、私は最後尾です」


「俺はどうする」


 〈灰翼〉が鉄枷を鳴らした。


「以前、翼がつかえて入れなかったと言ったでしょう。ここで待ちなさい」


「中の道は分からない。だが、声が大きくなる方へ進めば水源へ着くはずだ」


「分かりました」


 マレーネは〈灰翼〉の枷を確かめた。


「私たちが戻るまで、この場を離れないこと」


「逃げない」


 四人は一列になり、岩の隙間へ入った。


 杖の先へ、セイルが小さな火を灯す。


 火の精霊術の明かりが、濡れた壁を照らした。


 黒い筋は、洞窟の奥へ続いている。


 一歩進むたび、呻き声が近くなる。


 やがて通路が広がった。


 そこに、人はいなかった。


 壁一面を、黒い根のようなものが覆っている。


 根の間に、鹿が一頭取り込まれていた。


 四肢は動かない。


 腹だけが、呼吸するように膨らんでいる。


 呻き声は、その腹から聞こえていた。


 男。


 女。


 老人。


 子供。


 異なる人間の声が、鹿の口から次々と漏れる。


 セイルの火が揺れた。


 鹿の閉じていた瞼が開く。


 眼球はなく、黒い穴だけが二つ並んでいた。


「来た」


 子供の声で、鹿が言った。


「次(・)の(・)血(・)が、来た」


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