第20話 声を食む根
「次の血が、来た」
子供の声が途切れる。
代わりに、鹿の喉から男の笑い声が漏れた。
「あたたかい」
壁一面の黒い根が、一斉に脈打つ。
「下がりなさい!」
マレーネの声と同時に、黒い根が壁から剥がれた。
ローディスは大剣を横へ振る。
飛びかかってきた三本をまとめて断ち切った。刃へ粘つく黒い液が散り、石床の上でも細い根が虫のように跳ねる。
「火を!」
「もうやってます!」
セイルが杖を突き出した。
先端の火が膨らみ、切り落とされた根を包む。黒い液が泡立ち、甲高い悲鳴が洞窟に重なった。
女。老人。幼い子供。
どれも人の声だった。
ローディスの腕が一瞬だけ止まる。
「斬って!」
リュカの声が飛んだ。
足元から伸びた根を、大剣の石突きで叩き潰す。黒い先端は長靴まで指一本分の距離で止まった。
「今の声は――」
「助けを呼んでいるとは限らない。鹿の口を見て」
リュカが言った。
根に吊られた鹿は、声を上げても喉を動かしていなかった。膨らんでいるのは腹ではない。皮膚の下を這う黒いものが、内側から身体を押し上げている。
「声を盗むのか」
ローディスが呟く。
「考えるのは生きて出てからです。ベルグは正面を維持。クローデンは火を広げすぎない。酸欠で倒れたいのですか」
「では、どうしろと」
「水で動きを止めなさい。凍結は最小限に」
「水を伝って広がるものですよ」
「だから外へ流すなと言っているのです」
セイルは杖を返した。
鹿の足元を流れる黒い水が持ち上がる。透明な膜が根の束を包み、そのまま白く凍りついた。
閉じ込められた根が氷の中で暴れる。
「右が空きます!」
マレーネの警告に、ローディスは大剣を立てた。
氷を避けた根が頭上から降り注ぐ。厚い刃で受けると、根は剣へ巻きつき、そのまま腕へ這い上がろうとした。
「離れて!」
セイルが杖を振る。
冷気が刀身を走り、根の動きを鈍らせた。
ローディスは大剣を岩壁へ叩きつける。凍った根が砕け、黒い破片となって落ちた。
だが、壁の奥から新しい根が押し出されてくる。
「きりがないぞ!」
「根元が別にある」
リュカだけが鹿ではなく、周囲の壁を見ていた。
黒い根は好き勝手に蠢いているように見える。
だが、ローディスが剣を振るたび、壁の左奥だけが僅かに縮んだ。そこから次の根が押し出されるまで、一呼吸の間がある。
「鹿の後ろ。岩の割れ目に集まってる」
「僕には見えない」
「僕のほうが低いから、隙間が見えるんだ。たまには小さいのも役に立つでしょう?」
リュカは口元へ小さく笑みを戻した。
「ローディス。三歩だけ前を空けて」
「何をする気だ」
「根元を見る」
「近づけば血を吸われるぞ」
「近づけさせないでよ」
返事を待たず、リュカが走った。
黒い根の隙間へ、小さな身体が滑り込む。
「エアハルト!」
マレーネが鋭く名を呼んだ。
根がリュカへ殺到する。
ローディスは踏み込んだ。
大剣を振り回す余地はない。刃を盾のように立て、根の束ごと肩で押し返す。
「行かせないと言っただろ!」
黒い先端が剣の上下から回り込む。
一本を肘で弾き、もう一本を蹴り払う。三本目が袖を裂き、左腕へ触れた。
冷たい。
そう感じた次の瞬間、触れた箇所から熱が抜けていく。
「ローディス!」
セイルの杖から水が走った。
腕へ絡んだ根だけを薄く包み、凍らせる。ローディスは柄から片手を離し、根を氷ごと引き剥がした。
皮膚には針で突いたような赤い点が残っていた。
「平気だ!」
「あとで診せてください!」
「今は前を見ろ!」
鹿の腹が大きく膨らんだ。
「寒い」
今度は、谷で聞いた女の声だった。
「寒い、寒い、寒い」
同じ言葉を繰り返しながら、鹿の口が裂けていく。
顎の間から黒い塊がせり出した。
無数の細い根を束ねた、舌のようなものだった。
「火を消しなさい!」
マレーネが細身剣を抜く。
「ですが――」
「あれが燃えれば、煙を逃がす場所がありません!」
セイルが杖を引くと、明かりが消えた。
洞窟が暗闇へ沈む。
直後、青白い光が足元に広がった。
セイルが薄い氷の床を作り、その内部へ小さな火を閉じ込めている。炎は燃え広がらず、四人の足元から黒い根だけを浮かび上がらせた。
「器用なことを」
「褒めるなら後でお願いします」
マレーネは剣先で、ローディスの死角へ伸びた根を払った。
細身剣では断ち切れない。
それでも根の軌道を逸らし、身体へ触れさせない。教師はローディスの背後へ立ち、短く命じた。
「ベルグ、エアハルトまで道を開きなさい」
「はい!」
「クローデン、根が戻る前に道を凍らせる」
「了解!」
ローディスは大剣を低く構えた。
一歩。
根を斬る。
二歩。
押し寄せた束を、剣の腹で壁へ叩きつける。
三歩目で鹿の前へ出た。
背後から冷気が追いつき、左右の根を白い氷の壁へ閉じ込めた。
「リュカ!」
「ここだよ」
声は鹿の向こう側からした。
リュカは岩の割れ目へ片腕を差し入れていた。指先には短剣が握られている。
その刃の先で、黒い肉の塊が鼓動していた。
握り拳ほどの大きさ。
根を生やした心臓のように、縮んでは膨らんでいる。
「これを抜けば、たぶん全部止まる」
「たぶんで抜くな!」
「じゃあ、別の案は?」
鹿の口から伸びた黒い束が、リュカの首へ向きを変えた。
ローディスは大剣を振り上げる。
「抜け!」
刃を鹿の胴へ叩き込んだ。
骨を断つ手応え。
鹿を吊っていた根が緩み、黒い束が僅かに沈む。
その隙にリュカが短剣を岩の割れ目へ突き立てた。
抉る。
黒い塊が根ごと引きずり出された。
「あとはお願い」
リュカがそれを放る。
セイルは杖を両手で握った。
空中の塊を水が包む。
凍る。
床へ落ちる前に、ローディスの大剣が氷ごと叩き割った。
黒い塊が潰れた瞬間、洞窟中の声が止まった。
根が力を失い、壁から落ちていく。
鹿の身体も石床へ崩れた。
しばらく、誰も動かなかった。
セイルの氷に閉じ込めた火だけが、足元で揺れている。
「終わったのか」
ローディスが息を吐く。
「断定はしません」
マレーネは細身剣を下ろさなかった。
「クローデン。水の流れを止めたまま、残った根を凍らせなさい。外へ一滴も流さないように」
「はい」
「ベルグ。その腕を見せる」
「これくらい――」
「見せなさい」
逆らえる声ではなかった。
ローディスが袖をまくると、赤い点の周囲が青白く変わっていた。
セイルが顔を寄せる。
「熱を奪われたみたいだ。根は血を吸ったというより、体温か生命力を――」
「推測は外へ出てからです」
マレーネは布を巻き、傷口をきつく塞いだ。
「体調は」
「少し寒いだけです」
「眩暈や吐き気が出たら、すぐに言いなさい」
離れた場所で、リュカがしゃがみ込んでいた。
黒い塊が埋まっていた岩の割れ目を覗いている。
「先生」
「今度は何ですか」
「これ、ここで育ったんじゃない」
割れ目の内側には、小さな空洞があった。
その底に、砕けた陶器が残っている。
自然に割れたものではない。
内側には黒いものがこびりつき、外側には紐を通すための穴が二つ開けられていた。
「容器……」
セイルが呟く。
「誰かが、あの塊を入れて運んだ?」
「そして、ここへ置いた」
マレーネの声が低くなる。
病は偶然ではない。
魔物が迷い込んだわけでもない。
誰かが水源を選び、黒い塊を置いた。
弱った者から倒れると知ったうえで。
ローディスは砕けた容器へ手を伸ばしかけ、止めた。
グレンガルドの言葉を思い出す。
黒きものを、山の外へ持ち出すな。
「証拠を持ち帰れないな」
「見るだけで覚えます」
マレーネは陶片の形、穴の位置、内側の汚れを順に確かめる。
「触れず、動かさず、ここに残します。グレンガルドにも確認してもらいましょう」
リュカは空洞のさらに奥へ、氷の光を向けた。
細い隙間が山の奥へ続いている。
そこには、乾いた泥がついていた。
泥の上に、一つだけ跡が残っている。
人の指に似ていた。
だが、指は六本あった。
「誰かが置いた、では足りないかもしれないね」
リュカが静かに言った。
「何かが、自分でここまで運んだ」




