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黒淵のアストラ  作者: 咢
第2章 侵蝕

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第21話 山を開く爪

「何(・)か(・)が、自分でここまで運んだ」


 六本指の跡は、山の奥へ向いていた。


 追えるような道ではない。


 岩の隙間はリュカの腕が入るほどしかなく、その先もすぐに闇へ消えている。


「広げれば通れるか?」


 ローディスが大剣の先を差し入れようとすると、マレーネが止めた。


「これ以上、岩を動かしてはいけません」


「ですが、向こうに逃げ道が」


「私たちの後ろには、まだ黒い水があります。壁のどこまで根が入り込んでいるかも分からない」


 セイルが凍らせた水路を見る。


 白い氷の内側で、切れた黒い根が止まっている。


 核を壊してから動いてはいない。


 だが、死んだと決めつけるには早かった。


「このまま戻るんですか」


 セイルが尋ねた。


「陶器も、足跡も残したまま?」


「位置と形は覚えました。まず外へ出て、グレンガルドへ報告します」


「でも、あの竜はここへ入れないよ」


 リュカが狭い通路を振り返る。


「〈灰翼〉の翼でもつかえるんだから、頭を入れるのも無理じゃないかな」


 全員が黙った。


 グレンガルドにも確認してもらう。


 そう言ったものの、ここへ連れてくることはできない。


「……報告はできます」


 マレーネが眼鏡を押し上げた。


「直接見せられないことと、見た事実が失われることは別です」


「先生でも、言ってから気づかないことがあるんだね」


「エアハルト」


「僕は何も言ってませんよ」


「言いました」


 リュカはいつもの笑みを浮かべた。


「帰路を確保します。私は先頭。クローデンは氷を維持し、ベルグは最後尾で根を警戒。エアハルトは余計な穴を増やさない」


「僕だけ役目じゃなくて注意なんだ」


「必要だからです」


     ◇


 四人は、入ってきた順序を逆にして洞窟を戻った。


 セイルは黒い水を薄い氷で包みながら進む。


 完全に凍らせれば、水が膨らんで岩を割るかもしれない。そのため、流れを止めるだけの薄い層を何枚も重ねていく。


 最後尾のローディスは、壁から落ちた根が動かないことを確かめながら後退した。


 左腕はまだ冷たい。


 痛みはない。


 それがかえって気味が悪かった。


 入口から日の光が見えた。


「遅い!」


 外へ出た途端、〈灰翼〉の声が飛んでくる。


 両手の鉄枷を鳴らし、岩の前を行き来していたらしい。


「中で何があった」


「鹿がいた」


 リュカが答えた。


「鹿?」


「正確には、鹿だったものかな。いろんな人の声で話して、根を振り回してきた」


「分かるように話せ」


「見た僕たちにも、まだよく分からないんだよ」


 ローディスが最後に身体を抜く。


 〈灰翼〉の目が、布を巻かれた左腕で止まった。


「怪我をしたのか」


「根に一瞬触れられた」


「動くのか」


「動く。ただ、触れられたところから熱が抜けた」


 〈灰翼〉の表情が険しくなる。


「谷へ戻るぞ」


「そのとおりです。証拠より、病人の容体が先です」


 マレーネは迷わず洞窟へ背を向けた。


 五人は来た道を引き返した。


 下りとはいえ、谷まで一刻近くかかる。ローディスの左腕は、歩くうちに指先まで冷え始めた。


「動かせるか」


 〈灰翼〉が何度も尋ねる。


「動く」


「なら、もっと速く歩け」


「枷をつけたお前に言われたくない」


「二人とも、転ばない速度で進みなさい」


 谷へ戻ると、軍医が天幕から出てきた。


「ちょうどよかった。熱が下がり始めている」


 鱗のある女と〈灰翼〉が、同時に顔を上げる。


「薬が効いたのか」


「いや。まだ投薬前の者も下がっている。上流で何かしたのか」


「原因らしきものを壊しました」


 マレーネが答えた。


 軍医は詳しい説明を求めるより先に、ローディスの左腕を取った。


「これは?」


「黒い根に触れられました。熱を奪われたような感覚があります」


 傷を洗い、火鉢のそばへ座らされる。


「冷えてはいるが、黒い筋はない。今夜までは経過を見る必要がある」


「北方支部で見られるか」


「そのつもりだ。今は温めろ」


 ローディスは火鉢へ左手をかざした。


 子供の咳が、昨日より浅くなっている。翼のある老人も、自分の手で水を飲んでいた。


 全員が治ったわけではない。


 それでも、悪くなり続けていた流れは止まった。


「核を壊してから、病人の熱が下がり始めた」


 セイルが天幕とローディスの左腕を見比べた。


「でも、ローディスは根に触れられて熱を奪われた。病人は逆に発熱している。同じ症状じゃない」


「触れ方が違う」


 軍医が答えた。


「この生徒は太い根に直接触れられた。病人たちは、根の混じった水を飲んだ可能性がある。目に見えないほど小さな異物が体内へ入り、それを排除しようとして熱と咳が出たのなら、症状が違ってもおかしくはない」


「命の精霊術で、一度は熱が下がったそうです」


 マレーネが言う。


「術で弱った身体を戻しても、原因となる異物が体内に残っていれば、また発熱する」


「身体だけを治しても、病の原因は残ったままだったのか」


 ローディスが尋ねる。


「そう考えれば、術を受けたあとに熱が戻ったことも説明できる」


「じゃあ、鹿が出した声も関係あるのかな」


 リュカが言った。


「病人の体内へ入った異物が、核までつながっていたなら」


 セイルが考えながら言葉を継ぐ。


「根が病人の声を拾い、取り込んだ鹿から再現した可能性はある」


「鹿は、声を出すための口にされたってこと?」


セイルは考え込み、やがて首を振った。


「可能性はある。でも、全部推測だ。病人の身体に根が残っているかも分からない」


「だから軍医を残し、経過を見ます」


 マレーネは病人たちを見回した。


「核を壊したことで体内の異物も活動を止め、解熱が続くなら、この推測を裏づける材料にはなるでしょう」


 〈灰翼〉が天幕を一つずつ回り、病人の顔と呼吸を確かめる。その間、誰も洞窟の話を急かさなかった。


 最後の天幕から出てきたとき、頭上から風が落ちた。


 木々の梢が大きく沈む。


 青銅色の翼が朝の光を遮り、グレンガルドが谷の開けた場所へ降り立った。


「黒き水の流れが止まった」


「上流に核のようなものがありました。破壊して、残った根と水を凍らせています」


 マレーネは病人たちを振り返った。


「こちらも、熱が下がり始めています」


 グレンガルドは最も近い天幕へ鼻先を寄せ、しばらく呼吸の音を聞いた。


「弱き鼓動が、戻りつつある」


 それからローディスの前へ顔を下ろす。


「剣の子。血を触れさせたか」


「向こうから触れられました」


 布を解いて傷を見せる。


 グレンガルドは低く息を吸ったが、触れはしなかった。


「根は残っておらぬ」


「では、病人とこの生徒は、ひとまず軍医へ任せられます」


 マレーネが言った。


「次に、洞窟で見た証拠を確認していただきたい」


「案内せよ」


 病人の容体が安定していることをもう一度確かめ、五人はグレンガルドとともに上流へ戻った。


     ◇


 四人は、洞窟の中で見たものを順に説明した。


 壁を覆っていた黒い根。


 複数の声を発した鹿。


 岩中で脈打っていた核。


 核を入れていたと思われる、紐穴のある陶器。


 そして、奥へ続く六本指の跡。


「現物は中へ残しています」


 マレーネが言った。


「あなたに確認してもらいたいのですが、その身体では――」


「入れぬな」


 グレンガルドは当然のように答えた。


「やっぱり」


 リュカが小声で呟く。


「ならば、道を広げる」


「待ってください」


 セイルが洞窟の入口を庇うように立った。


「中には、凍らせた黒い水と根が残っています。入口を崩せば外へ流れるかもしれない」


「その穴は使わぬ」


 グレンガルドが空を見上げた。


「人の子は、山へ入るとき、山の口を探すのだな」


「普通はそうします」


 マレーネが答える。


「我らは違う」


 青銅色の翼が広がった。


 グレンガルドは風を巻き上げ、岩壁の上へ舞い上がる。


 四人と〈灰翼〉も、斜面を回ってその後を追った。


 竜は山腹へ耳を当てていた。


 喉の奥から、低い竜語が響く。


 言葉の意味は分からない。


 人族の耳では捉えきれない低い震えが岩の中へ入り、足元から戻ってくる。


 グレンガルドは場所を変え、もう一度、短く竜語を発した。


「洞窟と話しているのか?」


 ローディスが〈灰翼〉へ尋ねる。


「違う。返ってくる響きで、空洞の位置を探っている」


「竜語には、そんな使い方もあるのか」


「俺の喉では、あそこまで低い音は出せない」


 三度目の響きが山を通り抜けた。


 グレンガルドが右の前脚を上げる。


「離れよ」


 爪が振り下ろされた。


 岩盤に亀裂が走る。


 一撃。


 二撃。


 三撃目で、人の背丈を超える岩塊が山腹から剥がれ落ちた。


 土煙の向こうに、黒い根の張りついた空洞が露出する。


 先ほどまで四人がいた場所を、朝の光が照らした。


「入口から入らなくてもいいのか」


 セイルが呆然と呟く。


「竜だからね」


 リュカが答えた。


「その説明で納得したくない」


「でも、納得はしたでしょう?」


 グレンガルドは空洞の縁へ爪を掛けた。


 崩れかけた岩だけを外へ落とし、凍った黒い水には触れない。


 巨大な瞳が、割れ目の奥を覗き込む。


「六つ」


 泥に残った指跡を数える。


「血授を受けていない者の手ではない。竜人の手でもない」


「知っている生き物ですか」


「知らぬ」


 グレンガルドは陶片へ顔を寄せた。


「だが、これは土を焼き、人の手で形を整えた器だ」


「六本指の何かが、人の作った容器で核を運んだ?」


 セイルが言う。


「あるいは、人がそれへ渡した」


 マレーネが続けた。


 どちらにしても、偶然ここへ根づいたものではない。


 グレンガルドの喉の奥が赤く灯った。


「下がれ」


 細く絞られた火炎が、開かれた空洞へ流れ込む。


 セイルの氷が一瞬で白い蒸気へ変わった。


 黒い根が身を起こす。


 核を失ってなお残っていた細い先端が、逃げるように岩の奥へ潜ろうとした。


 火炎が追う。


 鹿の身体も、根も、黒い水も、声一つ上げる間もなく焼かれていった。


 焦げた臭いが風へ乗る。


 グレンガルドは火を止めると、焼けた岩へ爪を差し入れた。


 陶片だけを外へ掻き出し、もう一度、表裏を火で焼く。


「黒きものは残っておらぬ」


 それでも、マレーネはすぐには触れなかった。


 布越しに陶片を取り、用意した革袋へ入れる。


「これなら、帝国へ持ち帰れますか」


「許す。我が見たものとして示せ」


 証拠は得た。


 だが、六本指の主は山の奥へ消えている。


 グレンガルドは、その細い隙間へ向けて低く唸った。


「我が山へ入り、我が庇護する者の水へ毒を置いた」


 青銅色の爪が、焼けた岩へ食い込む。


「見つける」


 それは約束ではなかった。


 竜が獲物を定めた声だった。


     ◇


 証拠を革袋へ収めると、五人は再び谷へ下りた。


 病人たちの熱が再び上がっていないことを確かめてから、〈灰翼〉が言った。


「砦へ戻るぞ」


 鱗の女が息を呑む。


「病人はまだ治っていない」


「だからこそだ。薬と食料は、まだ必要になる」


 鉄枷を嵌めた両手を持ち上げる。


「俺が逃げれば、次は来ない」


 女は何かを言おうとして、やめた。


 代わりに〈灰翼〉の傷ついた翼へ触れる。


「帰ってこい」


「裁きが済めばな」


 ローディスは、そのやり取りから目を逸らさなかった。


 罪を認めることと、病人を助けることは別だ。


 だから、どちらも途中で終わらせてはいけない。


 五人は白牙の岩へ向かった。


 その背後で、グレンガルドの咆哮が山々を渡る。


 返事をするように、遠い峰から別の竜語が響いた。


 六本指の足跡を追う狩りが、始まろうとしていた。


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