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黒淵のアストラ  作者: 咢
第2章 侵蝕

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第22話 灰翼の名

 白牙の岩へ戻ると、待機していた帝国兵が一斉に立ち上がった。


 五人だったはずの調査隊は、五人のままだ。


 〈灰翼〉の両手には鉄枷があり、ローディスの左腕には新しい布が巻かれている。


「負傷者一名!」


 兵士の声に、荷馬車の御者が手綱を取った。


「歩ける」


 ローディスが言う。


「経過観察が必要だと軍医に言われました」


 マレーネが続ける。


「馬車へ乗りなさい」


「歩けます」


「歩けるかどうかは聞いていません。乗りなさい」


 ローディスは荷台へ乗った。


 向かいへ座ったセイルが、布の上から左腕を覗き込む。


「指は?」


「動く」


「感覚は」


「ある」


「寒気は」


「少し」


「顔色は悪い」


「それは元からだよ」


 隣へ座ったリュカが言った。


「お前よりは血色がいい」


「僕は上品な色をしてるだけ」


「二人とも静かにしろ」


「声は元気そうだな」


 セイルはようやく身を引いた。


 荷馬車の後ろを、〈灰翼〉が兵士に挟まれて歩いている。


 逃げようと思えば、森へ入る機会はいくらでもあった。


 翼に傷があっても、鉄枷があっても、普通の兵士だけなら振り切れるだろう。


 それでも彼は、白牙の岩から一度も道を外れなかった。


     ◇


 北方支部へ着く頃には、日が西へ傾き始めていた。


 門は開いていた。


 前回のように鐘も鳴らず、弓も向けられない。


 ただし、〈灰翼〉の周囲を囲む槍の数は増えていた。


 作戦室には、北方支部の指揮官が待っていた。


 机の上へ、マレーネが革袋を置く。


「上流で回収した陶器片です」


「黒い異物を持ち出すなと言われていたはずだ」


「グレンガルドが火炎で表裏を焼き、持ち出しを許可しました」


 指揮官は袋へ伸ばしかけた手を止めた。


「竜族本人が確認したのか」


「はい」


「あの狭い穴へ、どうやって入った」


「入りませんでした」


 セイルが答えた。


「山の横を壊しました」


 部屋が静まる。


「……誰が?」


「竜が」


 指揮官はマレーネを見た。


「事実です」


「報告書には、もう少し軍人が納得できる書き方をしろ」


「山腹を外側から開削した、と記載します」


「言い換えても竜が山を壊した事実は変わらんな」


「でも、少し賢そうに聞こえます」


 リュカが口を挟む。


「エアハルト」


 マレーネに呼ばれ、笑顔のまま口を閉じた。


 指揮官は手袋をつけ、革袋から陶片を取り出した。


 紐を通す二つの穴。


 焼け焦げた内側。


 土を焼いて形を整えた、人の手による器。


「六本指の跡は持ち帰れなかったのか」


「形と大きさは記録しました。グレンガルドも、血授を受けていない者や竜人の手ではないと確認しています」


 マレーネは紙へ足跡の形を描いた。


 指揮官の顔が険しくなる。


「魔物か」


「分かりません」


「魔族は」


「それも断定できません」


「分からないことばかりだな」


「分からないものを、分かったことにするよりは安全です」


 マレーネの返答に、指揮官は小さく息を吐いた。


「病人は」


「核の破壊後から、熱が下がり始めました。軍医を谷へ残しています」


「追加の薬と食料は出す。護衛は白牙の岩まで。前と同じだ」


 〈灰翼〉の翼から、僅かに力が抜けた。


「約束は守ったぞ」


「お前が戻るところまで含めて、ようやくだ」


「戻った」


「なら、次は記録を取る」


 指揮官が新しい用紙を机へ置いた。


「告示では〈灰翼〉としか分からん。名を言え」


 竜人は一瞬、黙った。


「カイル」


「家名は」


「ない」


「生まれた集落は」


「答えない」


「なぜだ」


「俺の罪に、集落を巻き込む必要はない」


 指揮官は問いを重ねなかった。


 用紙の氏名欄へ、カイル、とだけ記す。


「では、カイル。商隊四件への襲撃、物資強奪、傷害を認めることに変わりはないな」


「ない」


「病人の救助を求めた経緯、奪った物資を病人へ使用したこと、自ら出頭し、上流調査へ協力したことも記録する」


「好きにしろ」


「裁定は帝都が行う。私は事実を送るだけだ」


 カイルは頷いた。


「それでいい」


     ◇


「指揮官」


 扉が叩かれ、伝令の兵士が入ってきた。


「レーデン北門から照会への回答です」


 封を切った指揮官の目が、紙面を追う。


 途中で眉間の皺が深くなった。


「何と?」


 マレーネが尋ねる。


「四日前、北門へ竜人が来たことを、当日の門衛二名が認めた」


 カイルが顔を上げる。


「銀線二本の者は」


「北門衛長補佐、ハインツ・レーバー。お前が金を示し、薬の購入と救援を求めたことも認めている」


「なら、なぜ記録がなかった」


「門内へ入れていないから、入門者ではない。そう判断して報告を残さなかったそうだ」


 ローディスは耳を疑った。


「助けを求めた人が、門を通らなければ来ていないことになるのか」


「なるわけがない」


 指揮官の声が低くなる。


「レーバーは、北方で流行している未知の病を町へ入れないため、現場判断で拒絶したと主張している」


「薬を売ることまで拒む理由にはなりません」


 マレーネが言った。


「町の外へ薬を運ぶことも、軍や医師へ知らせることもできたはずです」


「そのとおりだ。現在は職務から外され、正式な取り調べを受けている」


 カイルが鉄枷を握る。


「俺が嘘をついていなかったと、認めるんだな」


「救援を求めた件についてはな」


 指揮官は真正面から答えた。


「だが、拒まれた後に商隊を襲ってよいことにはならない。レーバーの責任と、お前の責任は別々に問われる」


「分かっている」


「分かっているなら、牢へ戻れ」


 兵士がカイルの左右へ立つ。


 扉へ向かう前に、カイルはローディスたちを振り返った。


「谷へ行く兵に伝えろ」


「何をだ」


「子供には、苦い薬を水で薄めるな。飲む量が増えて余計につらい」


「お前が伝えればいい」


「俺は牢へ戻る」


 カイルの口元が、ほんの少しだけ上がった。


「順番の話だろう」


 ローディスは言い返せなかった。


 鉄枷の音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。


     ◇


 報告を終える頃には、外は暗くなっていた。


 ローディスは医務室で左腕を温め直され、黒い筋も発熱もないことを確認された。


 セイルとリュカは、寝台の横に残っている。


「賞金は?」


 セイルが指揮官へ尋ねた。


「一日よく我慢したな」


「病人の前で聞くほど無神経ではありません」


「牢の前ならいいのか」


「本人がいないので」


 指揮官は一枚の証明書を差し出した。


「特別賞金首〈灰翼〉の発見、交戦、出頭への協力は、お前たち三人の功績として報告する。ただし、自主的な出頭でもある。賞金が全額支払われるかは帝都の裁定後だ」


「先生は?」


「教員として生徒を引率し、軍務へ協力した者を賞金の受給者にはできん」


 セイルが安堵したように息を吐く。


 マレーネが眼鏡を押し上げた。


「残念そうな顔を期待しましたか」


「少しだけ」


「では、賞金が出たら三人から引率費を請求します」


「冗談ですよね」


「半分は」


 リュカは証明書を横から覗き込んだ。


「全額なら、一人銀貨百枚だね」


「まだ支払われてない」


「でも、もう使い道は考えてるでしょう?」


「当然だ」


 セイルの返事は早かった。


 ローディスは温められた左手を握る。


 指は動く。


 谷の病人も、少しずつ熱を取り戻している。


 賞金首は牢へ戻った。


 すべてが正しい場所へ収まったように見える。


 けれど、机の上には焼けた陶片がある。


 山の奥には、六本指の何かがいる。


 事件は、終(・)わ(・)っ(・)て(・)い(・)な(・)い(・)。


 誰が病を運んだのか。その問いだけが、まだ山中を歩き続けていた。


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