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黒淵のアストラ  作者: 咢
第3章 胎動

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第23話 歩かない研究者

 帝立アストラ兵学府の尖塔が見えたのは、北方支部を発って四日目の朝だった。


 ローディスは馬車の幌から身を乗り出し、見慣れた石壁を眺めた。


「戻ったな」


「帰って最初にすることが報告でなければ、もう少し喜べたんだけどね」


 セイルは膝の上に積んだ紙を押さえた。


 北方支部で作成した証言記録。焼けた陶片の写し。六本指の足跡。病人の症状と、黒い根についての推測。


 マレーネが一枚ずつ確認させたため、帰路の半分は報告書の整理で終わった。


「賞金が出れば、疲れも軽くなるよ」


 リュカが言う。


「まだ裁定中だ」


「だから、出ればって言ったんだよ」


「期待させるな。余計に疲れる」


 ローディスは左腕を曲げた。


 針穴ほどだった傷は塞がり、冷えも帰路の二日目には消えている。北方支部を出る前と、その後の野営地でもマレーネに確認されたが、黒い筋も熱も現れなかった。


 それでも、あの根に触れた感覚だけは残っていた。


 皮膚の下から、命を冷たい指でつままれたような感覚。


 馬車が学府の門をくぐる。


 寮へ荷物を置く時間だけを与えられ、四人はそのまま学園長室へ向かった。


     ◇


「お帰りなさい、北方遠征の英雄諸君!」


 学園長室へ入るなり、オルフェン・グランツは大きく両腕を広げた。


 襟の高い黒衣、両手を覆う手袋、表情のない仮面。肌を一切見せない姿も、指や胸元で光る過剰な宝飾品も、出発前と変わらない。


「賞金首を連れ帰り、病人を救い、竜族と話し、山まで開いてきたそうですね。学生の遠征報告としては、少々盛りすぎでは?」


「山を開いたのは竜です」


 セイルが訂正した。


「そこだけ訂正しても、十分に盛られていますよ」


「事実です」


 マレーネは机の前へ報告書を置いた。


 オルフェンは最初の一枚を持ち上げる。


「特別賞金首〈灰翼〉――本名カイル。四件の襲撃と物資強奪を認め、自主的に拘禁へ戻った。谷の病人は快方へ向かい、救援を拒んだレーデン側にも調査が入った、と」


 紙をめくる音が続く。


「そして、水源へ持ち込まれた正体不明の黒い根。その容器には紐穴があり、奥には六本指の足跡が残っていた」


「グレンガルドも、人族や竜人のものではないと確認しました」


 マレーネが答えた。


「ベルグ君は、その根へ直接触れたのでしたね」


「はい。左腕から急に熱を奪われました。傷は塞がり、冷えも帰路で消えましたが、根が触れた場所だけでした」


 オルフェンの仮面が、セイルへ向く。


「一方、谷の病人は発熱していた」


「水と一緒に、目に見えないほど小さな異物を取り込んだ可能性があります」


 セイルは帰路でまとめた紙を一枚抜いた。


「身体が異物を追い出そうとして熱を出し、命の精霊術で回復しても原因が残るから再発した。根の核を壊した後に熱が下がったこととは合います。ただし、軍医と立てた仮説です」


「鹿が病人たちの声を話した理由も、同じつながりで説明できるかもしれません」


 リュカが六本指の写しを指した。


「でも、核を置いたものは別にいる。足跡は洞窟の奥へ続いていました。根を壊しただけでは、そちらは残ったままです」


「以上が、現地で確認できた事実と推測です」


 マレーネが三人の報告を締めくくった。


「断定はできない、と。実にあなたらしい報告です、ハルトマン教員」


「分からないことを断定する趣味はありません」


「私もありませんよ。断定したように話すのが得意なだけです」


 オルフェンは楽しそうに笑った。


 マレーネの眼鏡の奥にある目は笑わなかった。


「回収した陶片は、北方支部から帝都へ送られます。竜族も六本指の存在を追っています。帝国側で調査を継続するよう、正式に上申してください」


「ええ。この件は、私から上へ報告しましょう。兵学府の生徒と教員が持ち帰った話として、机の下へ押し込ませはしません」


 仮面が三人へ向く。


「君たちは通常の授業へ戻りなさい。遠征中の不足分まで、教員方が愛情を込めて用意しています」


「休養日は?」


 セイルが尋ねる。


「北方からの馬車で十分に座ったでしょう?」


「揺れ続ける板を椅子に数えるなら」


「では、今日の授業でも座れます。二倍お得ですね」


 セイルが黙った。


「ハルトマン教員も、本日の授業へ戻る必要はありません」


「予定していた精霊術理論が一つ残っています」


「遠征中と同じく、別の講師に引き継がせています。今日は詳細な報告をまとめてください。北方支部の記録と食い違いがあれば、上へ出す前に確かめたい」


「承知しました」


 マレーネは頷き、机の上の書類を抱え直した。


「では三人とも、教室へ。遅刻の理由に私を使って構いません。ただし、欠席の理由には使わせません」


 廊下へ出ると、ローディスは肩越しに学園長室を見た。


 重い扉が閉まり、四人の足音が遠ざかる。


 誰もいなくなった室内で、オルフェンは六本指の写しを持ち上げた。


「報告内容は、取捨選択するがね」


 陽気さの消えた声が、仮面の内側へ沈んだ。


     ◇


 午後の鐘が鳴る前から、三人の席の周りには人だかりができていた。


「それで、本当に竜と戦ったのか?」


 机へ両手をついているのは、同級生のトビアス・ケルンだ。


 日に焼けた肌と、短く刈った茶髪。授業では槍を使い、考えるより先に声が出ることで知られている。


「戦っていない」


 ローディスは何度目か分からない訂正をした。


「でも、竜が山を壊したところにはいたんだろ?」


「壊したというより、外から開いた」


「同じじゃないか」


「報告書では違うらしい」


「竜人の賞金首を三人で捕まえた、という話も違うの?」


 隣から尋ねたのは、エルザ・ノルトだった。


 肩で切り揃えた黒髪と、眠たげな目をした少女だ。弓術では的の中心を外さない一方、興味のない座学では目を開けたまま眠る。


「本人が自分で牢へ戻ったんだ」


 ローディスが答える。


「その前に、空から襲いかかる〈灰翼〉をローディスの大剣が地上へ叩き落としてね。逃げようとしたところを、セイルが街道ごと氷で封じたんだ。二人に追い詰められた賞金首は、ついに観念して自分から牢へ――」


 リュカは大仰に両手を広げた。


「待て」


 ローディスが止める。


「翼を傷つけたのはローディスで、氷を使ったのは僕だ。でも、僕たちだけで追い詰めてはいないし、その場で牢へ連れていったわけでもない」


 セイルが訂正した。


「細かい部分を省いただけだよ」


「省いた部分の方が多い」


「本人を連れて歩いたのは事実だけど、僕たちが捕縛したことにするな」


 セイルは机へ頬杖をついた。


「それに、賞金はまだ出てない」


「そこだけ急に詳しいね」


 エルザが言った。


「最も重要な部分だからな」


「銀貨三百枚だろ?」


 トビアスが指を折り始める。


「三人で分けても百枚。百枚あったら、毎日肉を――」


「全額出るとは決まってない」


「半分でも五十枚だぞ」


「先生に引率費を請求されるかもしれない」


「教員って、そんな仕事だったか?」


 トビアスが真剣な顔で悩み始めた。


「冗談を真に受けないで」


 ニナが人垣の外から言った。


 その腕には、三人が遠征中に配られたらしい新しい教本が抱えられている。


「それより、北方の竜族はどんな話し方だったの? 竜語を直接聞いた?」


「聞いた。腹の底まで震えるような音だった」


 ローディスが答えると、ニナの目が輝いた。


「人族の耳では捉えにくい響きも、本当に?」


「山の中を調べる時に使っていた。音が岩の奥へ入っていくような――」


「そこまでだ」


 教室の入口から、低い声が飛んだ。


 集まっていた生徒たちが、一斉に自分の席へ戻る。


 教室へ入ってきた男は、教本ではなく木剣を肩へ担いでいた。


 剣術担当教員、ヘルマン・クルーガー。


 四十代半ばの、背が低く横幅のある男だ。右眉から頬へ古い傷が走り、制服の袖から出た前腕は、ローディスの大腿ほど太い。


「ハルトマンの代わりだからと、精霊の歴史を語る気はない」


 教卓へ木剣が置かれた。


「今日は杖だ」


 ヘルマンは教卓の下から、一本の短い練習杖を取り出した。


「先生。剣術の授業では?」


 ニナが手を上げる。


「剣で精霊術師と戦うための授業だ」


「納得しました」


「するな。まずは精霊術師として聞け」


 ヘルマンは練習杖の先を、黒板脇に置かれた空の水桶へ向けた。


「精霊術は杖がなければ使えない。そう思っている者は?」


 教室の半分ほどで手が上がった。


 ローディスも上げた。


 隣のセイルが、その手首を掴んで下ろす。


「僕が杖を持ってない時にも術を見ただろう」


「だが、いつも持っている」


「便利だからだよ」


「クローデンの言うとおりだ」


 ヘルマンが杖先で水桶を叩いた。


「杖は契約の証ではない。精霊が力を発する場所を定める、目印だ。術者の身体から火を出すのか、十歩先の地面から出すのか。この先端を起点に指定すれば、精霊にも術者にも位置が分かりやすい」


「杖を向けた先へ術が出るのは、そのためですか?」


 ニナが尋ねる。


「多くはな。狙いをつける道具としても使える。だが、起点を杖以外に定める術もある。杖を奪えば一切の精霊術を封じられる、とは考えるな」


 ヘルマンは杖を生徒たちへ回した。


 握りには、指を添える浅い窪みが五つある。それぞれの内側に、小さな紋章が刻まれていた。


「持ち手の各指先に合わせ、違う紋章を用意してある。マナを流す指を変えれば、あらかじめ定めた依頼を選び、素早く精霊へ伝えられる」


「持ち替えなくても、五種類を使える?」


「右手だけならな。両手の位置へ刻めば増やせるが、握りを間違えれば別の術が出る。欲張った杖ほど、持ち主以外には扱いにくい」


 杖がセイルへ渡る。


 彼は窪みへ指を添え、刻まれた線を覗き込んだ。


「紋章が浅い。使い続けたら削れます」


「練習用だからな。実用品なら金属を埋め込むか、定期的に彫り直す。お前の杖は?」


「三つです。水を集める、押し出す、凍結の準備」


「最後は火と水を同時に使うのか」


「ええ。片方だけでは、ただ冷たい水になります」


「壊れたら?」


「発声式へ切り替えます。遅くなりますが」


 ヘルマンは頷いた。


「それが、剣を持つ者にとっての隙だ」


 次に、杖の先端へ嵌められた濁った石を指した。


「石にも意味がある。マナの流れを整え、術へ渡せる量を増幅するもの。周囲のマナを蓄え、術者の消耗を補うもの。属性との相性をよくするもの。値段も効果も様々だ」


「周囲のマナを蓄える石があれば、回復薬はいらない?」


 セイルが聞いた。


「上等な石を買えるならな」


「いくらです」


「この練習用で、お前が北方へ持っていった薬を百本は買える」


 セイルは石から手を離した。


「薬で十分です」


「判断が早いな」


 教室に笑いが起きた。


 ヘルマンはセイルから杖を受け取ると、ローディスを指した。


「ベルグ。前へ出ろ」


「はい」


「木剣を持て。私を精霊術師だと思え」


 ローディスは教卓の木剣を取った。


 ヘルマンが練習杖を構える。


「どこを狙う」


「杖です」


「理由は」


「起点と、素早く発動するための紋章と、補助の石を同時に失わせられる」


「よし。来い」


 合図と同時に、ローディスは踏み込んだ。


 木剣を横から振り、杖の中央を狙う。


 ヘルマンは杖を引いた。


 空振りした木剣の峰を、練習杖が打つ。手首へ痺れが走った次の瞬間、杖先がローディスの喉へ突きつけられていた。


「なぜ杖を持った相手が、杖を守れないと思った」


「……杖だけを見ていました」


「道具の弱点を知ることと、持ち主を軽く見ることは別だ」


 ヘルマンは杖を下ろした。


「精霊術師と戦うなら、杖を狙うのは効率がいい。だが、杖を折れば勝ちではない。相手は発声式を使える。別の紋章を服や地面へ用意しているかもしれない。近づいたお前を杖で殴るかもしれん」


「先生の最後だけ、精霊術師の話ではありません」


 ニナが言う。


「杖で殴られた傷に、属性の違いは出ん」


 また笑いが広がった。


 席へ戻ると、リュカがローディスの手首を見た。


「折れてない?」


「この程度で折れるか」


「北方から戻った日に、先生に壊されたら面白いと思って」


「面白くない」


「僕は少し面白い」


 セイルが言った。


「お前まで言うのか」


 ヘルマンの木剣が教卓を叩く。


「そこ。話す元気があるなら、次は三人まとめて前へ出すぞ」


 三人は同時に口を閉じた。


     ◇


 帝都の地下深く。


 教室の鐘も、生徒たちの笑い声も届かない研究室で、一人の女が宙に浮いていた。


 世間に知られぬ組織〈宵衛〉に属する研究者の一人だった。


 アーデルハイト・フォス。二十八歳。


 腰まで流れる淡い金髪と、長い睫毛に縁取られた青い目を持つ。整った横顔だけを見れば、舞踏会の中心に立つ貴族令嬢と見紛うだろう。


 実際には、薬品で焦げた白衣を羽織り、培養槽(ばいようそう)に浮かぶ肉片をうっとりと眺めていた。


「心臓は動く。肺も外から刺激すれば呼吸する。なのに、どうして一つの命にならないのかしら」


 左右に控えた若い男の助手は答えなかった。


 二人とも二十歳そこそこ。顔立ちで選ばれたのかと疑いたくなるほど整っているが、片方は記録板を持ち、もう片方は器具を洗っている。少なくとも、研究室へ置かれている理由は顔だけではないらしい。


「先生。三番槽の温度が上がっています」


「二度下げて。急いで」


「はい」


「ああ、でも走らないで。薬品をこぼして火傷をしたら、その綺麗な顔が台無しだもの」


 甘い声で言いながら、アーデルハイトは自分では床へ降りなかった。


 肩を囲むように装着されていた銀色の器具が、かすかな雷鳴を発する。


 首の後ろから両肩の前へ伸びた、U字型の装具。


 彼女が目を細めると、器具は肩から離れ、頭上へ浮かび上がった。


 内側には、肉眼では一本の線にしか見えないほど細かな金属製の紋章が幾重にも刻まれている。アーデルハイトの思考を雷の流れとして拾い、選び取った紋章を起動し、願いを精霊へ伝えるための装具だった。


 金、火、風、雷、そして命。研究と装具に必要な五属性の精霊と契約した彼女だからこそ、自ら作り、扱える装具である。


 言葉を発する必要も、指で紋章を選ぶ必要もない。


 考えた瞬間、雷と風が彼女の身体を持ち上げる。


「歩くと疲れるのよね」


 誰へともなく呟き、培養槽の間を滑るように進んだ。


 壁際に並べられていた四つの金色の輪が、雷光に引かれて宙へ浮く。


 輪形の杖は二基ずつ彼女の左右後方へ回り、それぞれの中心から短い火柱を噴いた。


 風が室内の紙を押さえ、火柱の熱だけを後方へ逃がす。


 アーデルハイトの身体が加速した。


「先生、室内で推進環(すいしんかん)を四基も使わないでください!」


 記録板を抱えた助手が叫ぶ。


「歩けと言うの?」


「ゆっくり浮いてください!」


「注文が多い男は嫌われるわよ」


「先生にだけは言われたくありません!」


 四基のうち一基が手のひらの前へ移り、残る三基が背後で姿勢を支える。


 中心から放つ火柱は、移動のためだけのものではない。向ける先を変えれば、そのまま敵を焼く砲口になる。


 一瞬、助手が身を固くした。


 アーデルハイトは笑い、火を出さないまま輪を足元へ戻した。


「冗談よ。あなたの顔を焼くなら、もっと美しい理由がある時にするわ」


「焼く選択肢を消してください」


 彼女は返事をせず、最奥の培養槽へ向かった。


 金の精霊に組ませた、器官を支える微細な金属枠。


 火の精霊に保たせた温度。


 風の精霊に循環させた空気。


 雷の精霊に刻ませた、筋肉を動かす刺激。


 命の精霊に促させた、細胞の修復と結合。


 別々の器官は作れる。動かすこともできる。


 切り分けた器官を生かし続け、傷んだ箇所を治し、隣り合う組織を一つにつなぐこともできる。


 けれど、それらは一つの生命として目覚めない。


 命の精霊が助けるのは、すでにそこにある命だ。


 寄せ集めた器官へ、最初の命まで与えてはくれない。


 アーデルハイトの研究目標は、新しい生命を作ることだった。


 既存の生物を育てるのでも、死者を蘇らせるのでもない。


 この世界にまだ存在しない命を、自分の手で最初から組み上げる。


 培養槽の中で、不揃いな指が微かに動いた。


 彼女の青い目が、愉悦に細められる。


「器官は揃った。刺激にも反応する。ここから先へ進めない理由も、もう分かっている」


 浮遊する四基の輪が、彼女の背後で静止した。


「どうしても、ここから研究を進めるには――あ(・)れ(・)が必要か」


 アーデルハイトは、空の培養槽を見つめた。


 その足は最後まで、床へ触れなかった。


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