第89話 船員の見た影
滞在五日目の朝、ミリアは教室へ入るなり、セイルの席へ来た。
「昨日、兄に聞けたわ」
彼女は鞄を机へ置き、ローディスにも顔を向けた。
「話していた人は、ハンネスさん。兄と同じ船で働いているの。兄から、あなたたちが詳しく聞きたがっていると伝えてもらった」
「話を聞かせてもらえるのかな」
セイルが尋ねた。
「仕事の合間なら。今日は船にいるそうよ」
ローディスは、黒板に書かれた午後の予定を見た。
港の見学。
ロザリーから、荷の扱いや、航海へ備える仕事を見せてもらうと説明されていた。
「港で会えたら、仕事の邪魔にならないところで聞こう」
ローディスが言うと、セイルも頷いた。
初日にミリアから噂を聞いたニナが、隣の席から顔を上げる。
「影の話の人?」
「ええ。兄が、直接話した方がいいだろうって」
ミリアが答えた。
セイルは、鞄から記録の紙を出した。目撃したという人の名前を、空けておいた行へ書く。
その下には、まだ空白が残っていた。
◇
港では、木箱が次々に船から下ろされていた。
綱を掛ける者。岸壁から合図を送る者。下ろした荷を受け取り、通路を空ける者。
同じ箱へ何人も手を伸ばしているが、動く順番は違う。
ローディスは、腰を落として荷を受ける男を見ていた。
「持ち上げる前に、脚を曲げてる」
隣のレオンへ言うと、彼も頷いた。
「あの人たちは、ずっと運び続けるから。腕だけで引っ張ると、後が続かないって」
「剣でも、肩から振るなと言われるな」
「俺も。言われた直後は直るんだけど」
レオンが苦笑した。
そばでリュカが、ローディスへ笑いかける。
「帰る頃には、大剣も荷物も見事に扱うローディスになっていそうだね」
「見ただけで、出来るようにはならない」
「じゃあ、まずは僕の荷物を――」
「自分で持て」
ローディスが答えると、リュカは残念そうに両手を広げた。
ヘルマンが、その手へ目を向ける。
「ここは稽古場ではないぞ。仕事の邪魔をするな」
「はい。見て覚えます」
リュカは手を下ろし、通路の端へ寄った。
ロザリーが案内役の船員へ、次に見せてもらう荷について尋ねる。その間に、ミリアが岸壁の向こうから来た青年へ手を振った。
栗色の髪を短く切り、日に焼けた首へ薄い布を巻いている。ミリアと似た鼻筋の、二十歳ほどの青年だった。
「兄です」
彼女が教員たちへ紹介した。
青年は帽子を取り、挨拶をした。
次の荷を下ろす準備が整うまで、一行は岸壁の端で待つことになった。教員たちは案内役から綱の掛け方を聞き、生徒たちもその周囲へ集まる。
青年は仕事へ戻る前に、ローディスとセイルのそばへ来た。声を落とし、積まれた綱の横へ腰を下ろした男を示す。
「ハンネスさんなら、あそこです。もうすぐ休憩が終わるので、聞くなら今のうちに」
「ありがとうございます」
ローディスが答えた。
二人は綱のそばへ進んだ。一行から遠くはないが、荷を扱う掛け声に紛れ、ここで交わす言葉までは届かない。
◇
ハンネスは、四十歳ほどの男だった。短い褐色の髪に白いものが混じり、片方の頬には日焼けした皮が薄く剥けている。袖を肘までまくった腕は太く、手の甲に細かな傷があった。
「帝国から来た学生か」
「はい。お仕事の合間に、ありがとうございます」
ローディスが答えた。
「光を見に来て、影の話まで聞くのか」
男は、膝に載せた帽子を指で回した。
「大した話じゃないぞ。飲みすぎだと言われて、それっきりだ」
「覚えている範囲で構いません」
セイルは紙を開いた。
「最初から、お聞きしてもいいですか」
ハンネスは二人を見比べた。それから、港の建物へ顎を向ける。
「十日くらい前だったかな。荷下ろしが終わって、仲間と飲んだ後だ。港の綱屋の横を通った。表の灯りが、裏の路地まで届いていた」
「一人で歩いていたんですか」
ローディスが尋ねた。
「ああ。ほかの奴らとは、店の前で別れた」
「そこで、何が見えたのでしょう」
セイルが言った。
男は、帽子を回す手を止めた。
「壁の下が黒かった。初めは、人が立ってると思ったんだ。道を空けようとして見たら、顔がない。頭も、肩も分からない」
「人の形では、なかったのですか」
「輪郭を見分けられなかった。暗かったからな」
ハンネスは言い直した。
「ただ、その黒い中に目があった。白いところと、その真ん中の黒いところ。人の目みたいだった」
ローディスが、紙へ向いたセイルの手を見る。
「一つですか」
彼が尋ねると、男は首を振った。
「初めに気づいたのは一つ。ほかにもあったと思う。数までは覚えていない」
「灯りを見間違えた可能性は、ありますか」
セイルは男の顔を見て尋ねた。
ハンネスの眉が寄る。
「酔ってたのは認める。だが、灯りは閉じたり開いたりしない」
セイルの筆が止まった。
「閉じたんですか」
「ああ。横に細くなって、なくなった。それから、また白いところが見えた。俺の目の前で、まばたきをしたんだ」
男は自分の目元を指した。
「こっちを見ていた気がする。それで逃げた」
綱を引く声が、船の方から響いた。
セイルは男の返答を記し、次の問いを選んだ。
「逃げる前に、声は聞こえましたか。誰かが術を使うような言葉でも」
「聞いてない」
「紋章や、杖を持った人は?」
「そこまでは見てない。逃げたと言っただろう」
ハンネスの声が少し強くなった。
ローディスが頭を下げた。
「すみません。見ていないものまで、答えていただくつもりではありません」
男は息を吐いた。
「……ああ」
セイルは、開いていた紙を少し下げた。
「闇の精霊だと思ったのは、どうしてですか」
「知らんものを見たからだ。影の中にいたなら、そういう精霊がいるのかと思った。誰かから教わったわけじゃない」
男は二人へ、はっきりと答えた。
「契約したとか、術を使ったとか、そういう話はしてないぞ」
「はい。そこは分けて残します」
セイルが頷いた。
精霊は、誰にでも姿が見えるものではない。術によって目に見える現象が起きることと、精霊そのものを見ることも違う。
ハンネスが見たというものは、そのどちらなのか。ほかの何かなのか。
今の話からは、まだ分からなかった。
ハンネスは膝から帽子を取った。
「話せるのは、それくらいだ」
「ありがとうございました」
ローディスが礼を述べる。
セイルも頭を下げ、男が示した綱屋の位置を確かめた。ハンネスは仕事へ戻る前に、表の看板と、その脇へ入る道をもう一度指した。
◇
二人が戻った頃、次の木箱が船から下りてきた。
その後はほかの生徒とともに荷の扱いを見学し、港を出る道へ向かう。
綱屋の看板が目に入ったのは、帰りの一行が建物の角を曲がったときだった。
セイルはローディスの袖を軽く引いた。
「あそこだね」
ローディスも、男が指した道へ目を向けた。
店の横に、細い道がある。
片側は白い壁。反対側には、巻いた綱と木桶が置かれていた。軒先から下がる灯りは、昼なので消えている。
ハンネスの説明と、位置は合っていた。
セイルは歩きながら、壁と灯りの位置を覚えた。
道の奥へは入らなかった。夜に見たというものが、昼もいるとは限らない。ここへ入ったところで、その晩に何があったかを見られるわけでもない。
「今は、何も見えないな」
ローディスが言った。
「うん」
セイルは、もう一度路地へ目を向けた。
木桶の影が、石畳へ落ちている。
白い壁に小さな欠けがあれば、影の中でも明るく見えるかもしれない。だが、それがまばたきをしたという説明にはならなかった。
酔った男の見間違いなのか。自分たちの知らない何かがいたのか。
どちらにも、決められない。
先を歩く教員たちは、道を曲がろうとしていた。二人は路地を離れ、一行に歩調を合わせた。
リュカが、ローディスたちの横へ並ぶ。
「見学した船の荷室、箱でいっぱいだったよ。帰りは僕たちも、荷物を増やしすぎない方がよさそうだね」
「君の荷物は、君が持つんだよ」
セイルが答える。
「さっきのお願い、まだ覚えてたんだ」
「忘れるほど前ではないからね」
リュカは笑い、歩く速さを一行に合わせた。
◇
宿泊棟へ戻り、二人だけになってから、セイルは記録を分けた。
ミリアが兄から聞いた話。
ハンネス自身が語った話。
昼の帰り道で、自分たちが確かめたもの。
覚えているうちに、綱屋の壁と灯りの位置も描き添える。
「これで、見た人の話は残せる」
セイルが言った。
ローディスは、その紙を覗き込んだ。
「契約や術の話をしたつもりではない、と本人も言っていたな」
「うん。闇の精霊と呼んだのは、見たものにつけた名前だった。契約した術者を探せばいい、とは限らない」
「影の中にいたものを、探すことになるのか」
「そうなるかもしれない。でも、見間違いの可能性も残っている。今の話だけで、夜の路地へ行くつもりはないよ」
セイルは、灯りと壁を描いた紙を重ねた。
「もし別の人も同じようなものを見ているなら、比べられる。場所や時間が違っても、何が同じだったかは確かめられるから」
ローディスは頷いた。
セイルは、最後に一行を書いた。
目のようなものが、閉じてから再び開いたという。
その下へ、直接の確認は出来ていない、と加える。
影の中に目がある。
ただの噂だった言葉に、一人の顔と声が伴った。
それでも、精霊を見たという結論には届かない。
セイルは、紙を自分の荷へ収めた。
◇
その夕方、セレスの部屋では、二枚の絵が卓に広げられていた。
船室と甲板。
説明を聞き終えると、セレスは紙の端へ指を添えた。絵の線を確かめることは出来ないが、どちらの紙について聞いていたかは、置かれた場所で分かる。
「甲板には、皆さんが立っていたのですね」
向かいにいた濃紺の衣服の女性が頷き、それから声で答えた。
「ええ。船室で休んでいた方もおられたそうですが」
「気持ちが悪くなったと、お話しされていました」
セレスは、小さく笑った。
「その方も、後では外へ出られたのでしょうね」
「そうでしょうね」
女性が答える。
セレスは、紙から指を離した。
「もう一度、お会いできませんか」
「交流団の皆様に、ですか」
「はい。前のときは、私が聞くばかりになってしまいました」
少女は、重ねた手を膝へ戻した。
「まだお話ししたいことがあります。それから……市場で案内してくださった方のことも、もう少し伺いたいのです」
女性は、少女の顔を見た。
目元の白い布は、いつもどおりに整えられている。
「帰国の予定が近づいています。こちらの予定も確かめなければなりません」
「間に合うように、お尋ねしていただけますか」
セレスが言った。
「皆さんが船に乗ってからでは、遅いのでしょう?」
女性は少し黙り、それから椅子を引いた。
「希望をお伝えします。お会いできると、今ここでは約束できませんが」
「ありがとうございます」
扉が閉じると、セレスは卓へ手を伸ばした。
紙は二枚とも、そこにあった。
顔も、絵も、見えない。
だが、誰がどんな声で何を話したかは、まだ思い出せる。
あの女の人は、外の話をしてあげてと言ったのだという。
セレスは、紙の端をそっと押さえた。
今度は、その人の名前を聞きたかった。




