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黒淵のアストラ  作者: 咢
第6章 眩光

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第89話 船員の見た影

 滞在五日目の朝、ミリアは教室へ入るなり、セイルの席へ来た。


「昨日、兄に聞けたわ」


 彼女は鞄を机へ置き、ローディスにも顔を向けた。


「話していた人は、ハンネスさん。兄と同じ船で働いているの。兄から、あなたたちが詳しく聞きたがっていると伝えてもらった」


「話を聞かせてもらえるのかな」


 セイルが尋ねた。


「仕事の合間なら。今日は船にいるそうよ」


 ローディスは、黒板に書かれた午後の予定を見た。


 港の見学。


 ロザリーから、荷の扱いや、航海へ備える仕事を見せてもらうと説明されていた。


「港で会えたら、仕事の邪魔にならないところで聞こう」


 ローディスが言うと、セイルも頷いた。


 初日にミリアから噂を聞いたニナが、隣の席から顔を上げる。


「影の話の人?」


「ええ。兄が、直接話した方がいいだろうって」


 ミリアが答えた。


 セイルは、鞄から記録の紙を出した。目撃したという人の名前を、空けておいた行へ書く。


 その下には、まだ空白が残っていた。


     ◇


 港では、木箱が次々に船から下ろされていた。


 綱を掛ける者。岸壁から合図を送る者。下ろした荷を受け取り、通路を空ける者。


 同じ箱へ何人も手を伸ばしているが、動く順番は違う。


 ローディスは、腰を落として荷を受ける男を見ていた。


「持ち上げる前に、脚を曲げてる」


 隣のレオンへ言うと、彼も頷いた。


「あの人たちは、ずっと運び続けるから。腕だけで引っ張ると、後が続かないって」


「剣でも、肩から振るなと言われるな」


「俺も。言われた直後は直るんだけど」


 レオンが苦笑した。


 そばでリュカが、ローディスへ笑いかける。


「帰る頃には、大剣も荷物も見事に扱うローディスになっていそうだね」


「見ただけで、出来るようにはならない」


「じゃあ、まずは僕の荷物を――」


「自分で持て」


 ローディスが答えると、リュカは残念そうに両手を広げた。


 ヘルマンが、その手へ目を向ける。


「ここは稽古場ではないぞ。仕事の邪魔をするな」


「はい。見て覚えます」


 リュカは手を下ろし、通路の端へ寄った。


 ロザリーが案内役の船員へ、次に見せてもらう荷について尋ねる。その間に、ミリアが岸壁の向こうから来た青年へ手を振った。


 栗色の髪を短く切り、日に焼けた首へ薄い布を巻いている。ミリアと似た鼻筋の、二十歳ほどの青年だった。


「兄です」


 彼女が教員たちへ紹介した。


 青年は帽子を取り、挨拶をした。


 次の荷を下ろす準備が整うまで、一行は岸壁の端で待つことになった。教員たちは案内役から綱の掛け方を聞き、生徒たちもその周囲へ集まる。


 青年は仕事へ戻る前に、ローディスとセイルのそばへ来た。声を落とし、積まれた綱の横へ腰を下ろした男を示す。


「ハンネスさんなら、あそこです。もうすぐ休憩が終わるので、聞くなら今のうちに」


「ありがとうございます」


 ローディスが答えた。


 二人は綱のそばへ進んだ。一行から遠くはないが、荷を扱う掛け声に紛れ、ここで交わす言葉までは届かない。


     ◇


 ハンネスは、四十歳ほどの男だった。短い褐色の髪に白いものが混じり、片方の頬には日焼けした皮が薄く剥けている。袖を肘までまくった腕は太く、手の甲に細かな傷があった。


「帝国から来た学生か」


「はい。お仕事の合間に、ありがとうございます」


 ローディスが答えた。


「光を見に来て、影の話まで聞くのか」


 男は、膝に載せた帽子を指で回した。


「大した話じゃないぞ。飲みすぎだと言われて、それっきりだ」


「覚えている範囲で構いません」


 セイルは紙を開いた。


「最初から、お聞きしてもいいですか」


 ハンネスは二人を見比べた。それから、港の建物へ顎を向ける。


「十日くらい前だったかな。荷下ろしが終わって、仲間と飲んだ後だ。港の綱屋の横を通った。表の灯りが、裏の路地まで届いていた」


「一人で歩いていたんですか」


 ローディスが尋ねた。


「ああ。ほかの奴らとは、店の前で別れた」


「そこで、何が見えたのでしょう」


 セイルが言った。


 男は、帽子を回す手を止めた。


「壁の下が黒かった。初めは、人が立ってると思ったんだ。道を空けようとして見たら、顔がない。頭も、肩も分からない」


「人の形では、なかったのですか」


「輪郭を見分けられなかった。暗かったからな」


 ハンネスは言い直した。


「ただ、その黒い中に目があった。白いところと、その真ん中の黒いところ。人の目みたいだった」


 ローディスが、紙へ向いたセイルの手を見る。


「一つですか」


 彼が尋ねると、男は首を振った。


「初めに気づいたのは一つ。ほかにもあったと思う。数までは覚えていない」


「灯りを見間違えた可能性は、ありますか」


 セイルは男の顔を見て尋ねた。


 ハンネスの眉が寄る。


「酔ってたのは認める。だが、灯りは閉じたり開いたりしない」


 セイルの筆が止まった。


「閉じたんですか」


「ああ。横に細くなって、なくなった。それから、また白いところが見えた。俺の目の前で、まばたきをしたんだ」


 男は自分の目元を指した。


「こっちを見ていた気がする。それで逃げた」


 綱を引く声が、船の方から響いた。


 セイルは男の返答を記し、次の問いを選んだ。


「逃げる前に、声は聞こえましたか。誰かが術を使うような言葉でも」


「聞いてない」


「紋章や、杖を持った人は?」


「そこまでは見てない。逃げたと言っただろう」


 ハンネスの声が少し強くなった。


 ローディスが頭を下げた。


「すみません。見ていないものまで、答えていただくつもりではありません」


 男は息を吐いた。


「……ああ」


 セイルは、開いていた紙を少し下げた。


「闇の精霊だと思ったのは、どうしてですか」


「知らんものを見たからだ。影の中にいたなら、そういう精霊がいるのかと思った。誰かから教わったわけじゃない」


 男は二人へ、はっきりと答えた。


「契約したとか、術を使ったとか、そういう話はしてないぞ」


「はい。そこは分けて残します」


 セイルが頷いた。


 精霊は、誰にでも姿が見えるものではない。術によって目に見える現象が起きることと、精霊そのものを見ることも違う。


 ハンネスが見たというものは、そのどちらなのか。ほかの何かなのか。


 今の話からは、まだ分からなかった。


 ハンネスは膝から帽子を取った。


「話せるのは、それくらいだ」


「ありがとうございました」


 ローディスが礼を述べる。


 セイルも頭を下げ、男が示した綱屋の位置を確かめた。ハンネスは仕事へ戻る前に、表の看板と、その脇へ入る道をもう一度指した。


     ◇


 二人が戻った頃、次の木箱が船から下りてきた。


 その後はほかの生徒とともに荷の扱いを見学し、港を出る道へ向かう。


 綱屋の看板が目に入ったのは、帰りの一行が建物の角を曲がったときだった。


 セイルはローディスの袖を軽く引いた。


「あそこだね」


 ローディスも、男が指した道へ目を向けた。


 店の横に、細い道がある。


 片側は白い壁。反対側には、巻いた綱と木桶が置かれていた。軒先から下がる灯りは、昼なので消えている。


 ハンネスの説明と、位置は合っていた。


 セイルは歩きながら、壁と灯りの位置を覚えた。


 道の奥へは入らなかった。夜に見たというものが、昼もいるとは限らない。ここへ入ったところで、その晩に何があったかを見られるわけでもない。


「今は、何も見えないな」


 ローディスが言った。


「うん」


 セイルは、もう一度路地へ目を向けた。


 木桶の影が、石畳へ落ちている。


 白い壁に小さな欠けがあれば、影の中でも明るく見えるかもしれない。だが、それがまばたきをしたという説明にはならなかった。


 酔った男の見間違いなのか。自分たちの知らない何かがいたのか。


 どちらにも、決められない。


 先を歩く教員たちは、道を曲がろうとしていた。二人は路地を離れ、一行に歩調を合わせた。


 リュカが、ローディスたちの横へ並ぶ。


「見学した船の荷室、箱でいっぱいだったよ。帰りは僕たちも、荷物を増やしすぎない方がよさそうだね」


「君の荷物は、君が持つんだよ」


 セイルが答える。


「さっきのお願い、まだ覚えてたんだ」


「忘れるほど前ではないからね」


 リュカは笑い、歩く速さを一行に合わせた。


     ◇


 宿泊棟へ戻り、二人だけになってから、セイルは記録を分けた。


 ミリアが兄から聞いた話。


 ハンネス自身が語った話。


 昼の帰り道で、自分たちが確かめたもの。


 覚えているうちに、綱屋の壁と灯りの位置も描き添える。


「これで、見た人の話は残せる」


 セイルが言った。


 ローディスは、その紙を覗き込んだ。


「契約や術の話をしたつもりではない、と本人も言っていたな」


「うん。闇の精霊と呼んだのは、見たものにつけた名前だった。契約した術者を探せばいい、とは限らない」


「影の中にいたものを、探すことになるのか」


「そうなるかもしれない。でも、見間違いの可能性も残っている。今の話だけで、夜の路地へ行くつもりはないよ」


 セイルは、灯りと壁を描いた紙を重ねた。


「もし別の人も同じようなものを見ているなら、比べられる。場所や時間が違っても、何が同じだったかは確かめられるから」


 ローディスは頷いた。


 セイルは、最後に一行を書いた。


 目のようなものが、閉じてから再び開いたという。


 その下へ、直接の確認は出来ていない、と加える。


 影の中に目がある。


 ただの噂だった言葉に、一人の顔と声が伴った。


 それでも、精霊を見たという結論には届かない。


 セイルは、紙を自分の荷へ収めた。


     ◇


 その夕方、セレスの部屋では、二枚の絵が卓に広げられていた。


 船室と甲板。


 説明を聞き終えると、セレスは紙の端へ指を添えた。絵の線を確かめることは出来ないが、どちらの紙について聞いていたかは、置かれた場所で分かる。


「甲板には、皆さんが立っていたのですね」


 向かいにいた濃紺の衣服の女性が頷き、それから声で答えた。


「ええ。船室で休んでいた方もおられたそうですが」


「気持ちが悪くなったと、お話しされていました」


 セレスは、小さく笑った。


「その方も、後では外へ出られたのでしょうね」


「そうでしょうね」


 女性が答える。


 セレスは、紙から指を離した。


「もう一度、お会いできませんか」


「交流団の皆様に、ですか」


「はい。前のときは、私が聞くばかりになってしまいました」


 少女は、重ねた手を膝へ戻した。


「まだお話ししたいことがあります。それから……市場で案内してくださった方のことも、もう少し伺いたいのです」


 女性は、少女の顔を見た。


 目元の白い布は、いつもどおりに整えられている。


「帰国の予定が近づいています。こちらの予定も確かめなければなりません」


「間に合うように、お尋ねしていただけますか」


 セレスが言った。


「皆さんが船に乗ってからでは、遅いのでしょう?」


 女性は少し黙り、それから椅子を引いた。


「希望をお伝えします。お会いできると、今ここでは約束できませんが」


「ありがとうございます」


 扉が閉じると、セレスは卓へ手を伸ばした。


 紙は二枚とも、そこにあった。


 顔も、絵も、見えない。


 だが、誰がどんな声で何を話したかは、まだ思い出せる。


 あの女の人は、外の話をしてあげてと言ったのだという。


 セレスは、紙の端をそっと押さえた。


 今度は、その人の名前を聞きたかった。


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