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黒淵のアストラ  作者: 咢
第6章 眩光

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第90話 結び目と伝言

 滞在六日目の朝、教室の机には、短い綱が一本ずつ置かれていた。


 昨日、港で見たものより細い。ローディスは端を持ち上げ、指の間で曲げてみた。


「今日は、荷を留める結び方を試します」


 ロザリーが、教卓へ木の棒を置いた。


「船員の手元を見ただけでは、覚えたことにはなりませんからね」


 棒へ綱を回し、端を通す。両側を引くと、結び目が棒のそばで締まった。


 手順をもう一度見てから、ローディスも始めた。


 一度回す。交わったところを押さえ、端を下から通す。


 引くと、輪がずれた。


「そっちは、上を通すんだ」


 隣のレオンが指を止めた。


「俺も今、同じところを間違えた」


「ああ。ここか」


 ローディスは緩め、初めからやり直した。


 向かいでは、セイルが綱の交わる箇所を見ている。手順は追えていたが、指を離すたび、押さえていた輪が広がった。


「線を描くのとは、ずいぶん違うね」


「手を動かすと、形が変わるもの」


 ミリアが答えた。


「兄は、見ないで結んでしまうけれど」


「それは、今日中には無理そうだ」


 セイルは綱を卓へ戻した。


 リュカは、ようやく作った結び目を持ち上げる。


「僕のは、立派にほどけなくなったよ」


 ヘルマンが覗き込んだ。


「結び方が違う。棒から外せなくなってどうする」


「そこまで考えていませんでした」


「ほどいて、もう一度だ」


 リュカは笑顔のまま、固く締まった端へ爪を入れた。


 ローディスは二度目の綱を引いた。今度は、棒へ沿って結び目が残る。レオンに手順を見てもらい、緩める方も試した。


「こちらは、ほどけたな」


 ローディスが言うと、リュカが顔を上げた。


「僕の分も、見てくれる?」


 リュカが棒を差し出す。


「まず、自分でやれ」


「結ぶ方も、ほどく方も見事なローディスに、ぜひ教わりたいんだけれど」


「教わるなら、手を離すな」


 ローディスが結び目を示すと、リュカは素直に棒を持ち直した。


     ◇


 授業の終わりに、ロザリーは届いた書面を開いた。


「午後の予定を変更します。光座から、帰国の前にもう一度皆さんと話したいと、ご希望がありました」


 ニナが顔を上げた。


「また、お会いできるんですか」


「ええ。先方と引率の先生方で調整ができました。昼食後、前回と同じように準備してください」


 ロザリーがマレーネへ書面を渡した。


「今日は、光座の方からお話ししたいこともあるそうです」


 ローディスは、机の上の綱を見た。


 前の面会では、ニナが絵の内容を言葉にして説明していた。


「オルタン先生。この綱を、お持ちしてもいいですか」


「結び方のお話をするために?」


「はい。昨日の船の仕事なら、触っていただきながら説明できると思って」


 ロザリーは頷いた。


「一本、お貸ししましょう。持ち込みの確認は、ほかの資料と一緒に受けてください」


 ニナも、広げた紙のうち一枚を手元へ寄せた。


「私も、絵の説明をもっと考えておくわ。描いた順に話すと、どこに何があるか分かりにくかったかもしれないから」


「フェルナー。次は、相手が尋ねたことにも合わせなさい」


 マレーネが言った。


「用意した説明を、全部話すための面会ではありません」


「はい」


 ニナは、紙の脇に書きかけた文章を止めた。


 セイルは鞄を閉じた。


 前に折り畳んだ質問の紙は、その底にある。光の術を誰から習ったのか。答えを止めた男も、今日はそこにいるのだろう。


 同じ問いを言い直しても、返ってくるものは変わらない。


 紙を取り出さず、彼は机の綱を片づけた。


     ◇


 午後、白い建物の門では、前回と同じように名簿と持参したものが確かめられた。


 武器と杖は宿泊棟へ残してきた。ガントレットも、鍵を掛けた箱の中だ。


 綱は袋から出して示し、持ち込む理由を伝えた。確認を終えると、ローディスはそれを再び袋へ戻した。


 灰色の口髭の男が、廊下の先で待っていた。


 案内された部屋も、長い卓も、以前と同じだった。


 ただ、セレスは扉の音を聞くと、挨拶を待たずに顔を上げた。


「来てくださったのですね」


 目元を覆う白布の下で、頬が緩む。


「またお招きいただき、ありがとうございます」


 マレーネが答えた。


 窓側には、濃紺の衣服の女性も立っていた。胸元の細い金の鎖が、身体の向きを変えたときだけ光を返す。


 セレスは、一人ずつの挨拶を聞いてから言った。


「絵を、何度も説明していただきました。甲板には手すりがあって、その向こうは海なのですね」


「はい。港へ着く前は、ほとんど海だけでした」


 ニナが答えた。


「今日は、こちらの町の絵も持ってきました。どんなお話を、しましょうか」


「港へ行かれたと聞きました。そのときのことを、伺ってもよいですか」


 ニナが頷き、昨日見た荷下ろしを話した。


 箱を持ち上げる綱。船から岸へ届く合図。荷の通るところを空ける人たち。


 セレスは、途中で尋ねた。


「綱は、箱へ巻くのですか。それとも、取っ手があるのでしょうか」


「箱によって違いました」


 ローディスが答えた。


「綱が外れないように掛けるところも、見せていただきました。今朝、短い綱で結び方を習ったので、持ってきています」


 彼は袋を開いた。


「触っていただいても、よろしいですか」


「はい」


 セレスが手を卓へ出す。


 付き添いの男が綱を受け取り、その手のそばへ置いた。


 少女の指が、細い繊維をなぞる。


「思ったより、硬いのですね」


「太いものは、もっと曲げにくいです。今日は、これくらいのもので練習しました」


「結んだものも、お渡しします。一度、お返しいただけますか」


 セレスが綱を卓へ置くと、ローディスは受け取り、自分の手元で輪を作った。端を通し、緩く締める。


 出来た結び目を、彼女の手が届くところへ置く。


「中央の、重なっているところです」


 セレスは片手で輪を押さえ、もう片方で結び目を探した。


「ここでしょうか」


「はい。その横に、短い端が出ています」


 少女の指先が端へ届く。


「これを引くと、ほどけますか」


「今は、先に中央を緩めます。締まったまま端を引くと、もっと固くなりますから」


「私も、やってみたいです」


 セレスが言った。


 付き添いの男が半歩進んだ。


「お手元へは、私が――」


「場所は、分かりました」


 セレスは結び目に指を添えたまま答えた。


「出来なくなったら、お願いします」


 男は足を止めた。


 綱が卓へ擦れる音がする。


 少女は急がなかった。押す方と引く方を、ローディスへ一つずつ確かめる。緩んだ隙間へ爪を入れると、重なっていた綱が少し動いた。


「開きました」


「そこへ、短い端を戻してください」


 ローディスが言った。


 端が抜ける。


 輪が、ただの一本へ戻った。


 セレスは両手の間で綱を確かめ、小さく息を吐いた。


「ほどけました」


「はい」


 ローディスも笑った。


 隣でセイルは、少女の両手を見ていた。


 海の魔物を一瞬で消した人が、結び目一つをほどいて喜んでいる。


 簡単なことしか教えていない、と考えかけた。


 けれど、自分も今朝、その綱を思いどおりには扱えなかった。彼女にとって何が簡単なのかを、あの光の強さだけで決めていたのだ。


「結ぶ方も、教えていただけますか」


 セレスの問いに、ローディスが頷いた。


「輪を作るところから。今度は、一本のままでお渡しします」


     ◇


 結び目は、すぐには出来なかった。


 セレスが片手を離すと、輪が広がる。通そうとした端が、指の下へ隠れてしまう。


「私も、そこで手を離してしまいました」


 フリーダが、卓の向こうから言った。


「綱の交わるところを、先に押さえておくと動きにくくなります」


「皆さんも、同じところで困ったのですか」


「僕は、ほどけなくなるところまで進みました」


 リュカが答えた。


「先生に言われて、やり直しましたけれど」


 セレスが笑う。


「では、ほどく方から教えていただいて、よかったです」


 ローディスが手順を言い直し、フリーダも指を置く位置を補った。


 今度は、セレスの手の中に小さな輪が残った。


 両側をそっと引くと、中央の結び目が締まる。


「これで、出来ていますか」


「形は合っています」


 ローディスが答えた。


「荷を留めるには、別に気をつけるところもあります。俺もまだ、習ったばかりですから」


「今日は、このままにしておいてもよいでしょうか」


 セレスは輪を握った。


「次にほどくとき、自分で出来たものだと覚えておきたいのです」


 ローディスはマレーネを見た。教員は一度頷き、窓側の女性へ貸し主と話をつける旨を伝えた。


 少女は、綱を膝へ移した。


 茶が配られると、今度はアルノーが、港で見た箱の大きさを説明した。セレスは、同じ船でも荷室と人の寝る部屋が違うことを確かめ、次いでローディスへ尋ねる。


「帝国へお戻りになったら、ご家族にも旅のお話をされますか」


「はい。無事に着いたことも、帰ったことも、知らせるつもりです」


「お待ちなのでしょうね」


「母は、俺が何を食べたかまで聞くと思います」


 ローディスが答えた。


「こちらの煮魚の話をするなら、味を忘れないうちに書いておいた方がよさそうです」


 セレスが笑った。


 セイルは、茶の器へ指を添えた。


 帰ったことを知らせるつもりだと、迷わず言える。


 その短い返答が、胸に残った。


 母が生きていれば、自分も旅の話をしただろう。食べたものを聞かれれば、魚の骨が多かったことから話して、景色の話は後になったかもしれない。


 だが、父へは書くつもりがない。


 どれほど遠くへ来たか、何を学んだか。それを知らせたいとは思えない。


 ローディスが持っているものを、自分も欲しいと思った。剣の腕でも、精霊との契約でも埋まらないところで、また彼を羨んでいる。


 茶を一口飲んでから、セイルは器を置いた。


「クローデンさんは、どのお話を覚えておきたいですか」


 セレスの顔が、こちらへ向いた。


「今日の綱も、書いておきます」


 セイルは答えた。


「見て覚えたつもりでも、手を動かすと違いましたから」


「私も、次は初めから結べるでしょうか」


「一度で出来なくても、今日より早く、困ったところに気づけるかもしれません」


 自分もそうだったと、セイルは付け加えた。


 少女は結び目へ指を添え、頷いた。


     ◇


 話が途切れたところで、セレスは姿勢を正した。


「私から、もう一つ伺いたかったことがあります」


 彼女の顔が、ニナの席へ向く。


「市場で案内してくださった方は、何というお名前でしょうか」


「レティシアさんです」


 ニナが答えた。


 セレスの指が止まった。


 膝へ置いた綱の端が、ゆっくり滑り落ちる。少女は落ちかけたところを握り直した。


「……レティシアさん」


「帰りの船へ持っていく袋や、日持ちするものに詳しい方です」


 ニナは、言葉を待ってから続けた。


「先日も市場でお会いしました。絵を残せたことを、お伝えしたら、喜んでくださって」


「また、お会いになったのですね」


「はい」


 セレスは口を閉じた。


 セイルには、名前を聞いただけの反応には思えなかった。だが、知り合いかと尋ねる前に、少女が口を開いた。


「その方へ、お礼をお伝えしたいです」


 付き添いの男が、窓側の女性へ目を向けた。


 女性は卓へ進み出る。


「どのようなお言葉でしょうか」


「外のお話をしてあげて、と言ってくださったことへ。おかげで、私も船の中にいるように聞けました」


 セレスは、そこで息を吸った。


「それから、ご自身のお話も、伺いたいと」


「こちらへ招きたいという、ご希望ですか」


 女性が確かめた。


「はい」


 今度は、すぐに返事があった。


 ローディスは少女を見た。


 市場で、会えたらいいねと答えた女の声を思い出す。


 だが、ここで彼女の代わりに返事をすることは出来ない。


 濃紺の衣服の女性は、マレーネへ顔を向けた。


「その方を、学府で雇っておられるわけではないのですね」


「市場内の案内を、その場で依頼した方です。名前は伺いましたが、身元まで確かめたわけではありません」


 マレーネが答える。


「こちらから、来訪をお約束することは出来ません」


「承知しています」


 女性はセレスへ向き直った。


「まず、ご本人へ伝える方法と、お会いになるための確認が必要です。今、面会を決めることは出来ません」


「お願いしたことは、伝わりますか」


 少女が尋ねた。


「居場所が分かれば、お言葉を届けるよう手配します」


「ありがとうございます」


 セレスは膝の綱を、両手で握り直した。


 セイルは、その手を見た。


 会いたいと口にしても、誰へ頼めば届くのか、いつ返事を聞けるのかは自分で決められない。


 あれほどの光を持っているのに。


 そう思い、すぐに、また力の強さを持ち出したことに気づいた。


 自分は、強くなれば出来ることが増えると思っている。だからあの光が欲しい。目の前の少女が、誰かに会うための返事を待っていても、その願いは消えなかった。


 ただ、その力だけを自分のものにした姿を考えるのは、今までより難しかった。


     ◇


 交流団を見送った後、濃紺の衣服の女性は、卓へ紙を広げた。


「お伝えする言葉を、確かめておきましょう」


 セレスは頷いた。


 外の話をしてくれたことへの礼。


 本人の話も聞きたいという希望。


 一つずつ声にすると、筆が紙の上を動いた。


「差出人は、光座としてよろしいですね」


 女性が尋ねた。


 セレスは、結び目へ指を置いた。


 船を守った光への礼なら、そう呼ばれた。


 だが、今伝えたいのは、光を使うための話ではない。


「セ(・)レ(・)ス(・)と、書いていただけますか」


 筆の音が止まる。


「名前だけでよいのですか」


「はい」


 少女は答えた。


「誰が会いたがっているのか、その方に分かるように」


     ◇


 夕食の後、ローディスとセイルは、宿泊棟の部屋で港の図を広げた。


 アルノーとリュカは、共用の卓で帰国前に提出する課題をまとめている。


「昨日は、夜には行かないと言ったね」


 セイルが、綱屋の脇を指した。


「でも、昼に見た壁だけでは、灯りを見間違えたのかも確かめられない。表の通りから、夜の見え方だけ見ておきたい」


 ローディスは、細く描かれた路地を指でなぞった。


「確かめるのは入口から見えるところだけで、奥には入らないんだな」


「ああ。まだ店が開いていて、人通りがある時間に見て、戻ろう」


 セイルが答え、表の通りを示した。


「何か見つかっても、捕まえようとはするな。正体も分からないんだ」


 ローディスは図から顔を上げ、セイルを見た。


「分かってる。見えたものを確かめるだけにするよ」


 セイルはそう答えて、図を畳んだ。


 前夜には見送った調査だった。今夜行けば、都合よく答えが得られる保証もない。それでも、本人の話を聞き、場所を確かめたところで終える前に、もう一つ、自分たちの目で比べられることが残っていた。


 二人は制服を外套で覆い、頭巾をかぶった。ローディスは大剣を外套の内側へ収め、セイルも杖を布で包む。ガントレットは箱へ残した。


 調査の話は、教員には持ち込まなかった。


     ◇


 夜の港には、まだ人がいた。


 荷車の車輪が石畳を鳴らし、店先では、桶へ残った魚を売り切ろうとする声が続いている。昼に見た船は、岸壁側の灯りに照らされ、帆柱だけが暗い空へ伸びていた。


 二人は綱屋の向かいで足を止めた。


 表の灯りが、脇の道へ斜めに届いている。


 壁の下は暗かった。木桶の縁には光が当たり、その内側へ深い影が落ちている。


「あの白いところは、昼には見えなかったね」


 セイルが、小声で言った。


 桶の向こうに、壁の欠けた部分がある。周りが暗くなった分、そこだけが浮いて見えた。


「目に見えるか?」


 ローディスが尋ねた。


「そう思って見れば。でも、これが閉じたり開いたりしたのかは――」


 セイルは言葉を止めた。


 欠けた壁より下で、別の白が動いた。


 横に細くなり、消える。


 再び開いたとき、白い中に、黒い点があった。


 セイルの指が、外套の内側で杖を握った。


「セイル?」


 ローディスは、通りを横切る荷車を避けて半歩下がっていた。荷を積んだ箱が、彼の目と路地の間を塞いでいる。


 白い目が、壁の下を滑った。


 その周囲の黒いものも動く。木桶の影とは違う。灯りの位置が変わっていないのに、黒い部分だけが、路地の奥へ伸びていった。


 今、見失えば。


 セイルは通りを渡った。


 名前を呼ぶ前に、足が出ていた。


 荷車の後ろから追ってくる足音を聞きながら、綱屋の角を曲がる。


 路地には、まだ表の灯りが届いていた。


 黒いものが、次の角へ消える。


 セイルは、その角まで進んだ。


     ◇


 壁際に、目が三つあった。


 人の顔はない。


 頭も、肩も、身体もない。ただ、石の継ぎ目へ溜まったような闇の中で、白い目だけがセイルへ向いていた。


 彼は足を止めた。


 杖を包んだ布へ指を掛ける。だが、開かなかった。


「何を探している」


 声がした。


 小さく、近い。男とも女とも、すぐには決められない声だった。


 精霊語ではない。


 人の言葉だ。


「……君を」


 セイルは答えた。


 三つの目のうち、一つが閉じた。


「僕の言葉が、分かるんだね」


「今、答えただろう」


 声は、壁際の黒いところから聞こえた。


 セイルは、息を整えようとした。


 見たものを記録して、持ち帰る。そう決めていたはずなのに、目の前から返事があっただけで、次の問いが口へ上る。


「君は、精霊なの?」


「そう呼ぶのか」


 返答の間に、別の目が開いた。


 四つ目だった。


 承認でも、否定でもない。


 開いた目と、視線が重なった。


 冷たいものが、胸の奥へ沈んだ気がした。


 風のせいではない。外套の中にある腕も、杖を握った指も冷えてはいなかった。


 午後、家族へ旅の話をすると答えたローディスの声が浮かぶ。


 帰れば、待っている人がいる。


 それを、当たり前のように言える。


 羨ましいと思った。あの席では、そこまでだったはずだ。


 今は、その迷いのなさまで癪に障った。


 自分の母も生きていれば、同じように話せたのに。父が一度でも帰ってきてくれていれば、知らせる相手がいないなどと、先に突き放さずに済んだかもしれない。


 仕事があった。


 母が亡くなるときにも帰らなかった理由が、胸の中で擦れた。


 あの人は力を持っていた。それでも、母のそばへは来なかった。


 ならば自分は、望むところへ届く力を持ちたい。


 リュカが一歩で詰めた距離も、海を渡った光も、今の自分には届かない。風と契約できても、氷を遠くへ飛ばせても、その先に誰かの力が見える。


 あれほど練習したのに。


 いつまで、追いつこうとする側にいなければならないのか。


 セイルは、杖を強く握った。


 リュカが払っている代償は知っている。ローディスが自分を置いて先へ行こうとしているわけでもない。分かっていることが、一つずつ頭に浮かぶ。


 それなのに、羨む気持ちは引かなかった。


 目の前のものは、自分だけが見つけた。


 ローディスは、まだ見ていない。


 その事実に、僅かな喜びが混じった。


 ここで手掛かりを得れば、今度は自分が二人へ教えられる。誰かの強さを借りずに、自分の手で。


 胸の奥の冷たさを確かめるより先に、その考えへしがみついていた。


 セイルがもう一度尋ねようとしたとき、背後から足音が近づいた。


「セイル。どこだ」


 ローディスの声だった。


 もう来たのか。


 その思いが浮かんだことに、セイル自身が息を詰めた。


 待っていてほしかったのだ。ほんの少しだけ、自分とこの目だけのままで。


 黒いものが、壁の下で薄く伸びる。


「待って。まだ――」


 セイルは手を出しかけた。


 白い目が、順に閉じる。


 最後の一つが消えると、そこには石の継ぎ目と、灯りの届かない壁際しか残らなかった。


 触れるものもない。


 角を曲がってきたローディスが、セイルの肩へ手を置いた。


「いたのか」


「……目があった。動いたから、追った」


 セイルは壁から目を離した。


「人の言葉で、話したよ」


 ローディスも壁際を見た。しばらく待ったが、何も動かなかった。


「俺には、見えない」


「もう、消えた」


 セイルが答える。


 ローディスは彼へ向き直った。


「追う前に呼べ。荷車を回ったら、お前が通りにいなかった」


「ごめん。見失いたくなくて」


 言い訳を足せば、もっと先まで追ってよかった理由を探してしまいそうだった。


 セイルは杖から手を離した。


「戻ろう。今のことは、全部話す」


 ローディスは頷き、先に表の灯りを確かめた。


 二人で通りへ戻る間も、セイルには、四つの目が残っていた。


 そ(・)う(・)呼(・)ぶ(・)の(・)か(・)。


 人の言葉で返された問いを、彼は何度も思い出していた。


 肩に置かれた手には、確かな温かさがあった。


 助かったと思う一方で、あの手が来なければ、もう少し話せたのにという思いも残っている。


 ローディスへ話す言葉を選びながら、セイルは、その思いだけは口に出来なかった。


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