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黒淵のアストラ  作者: 咢
第6章 眩光

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第88話 聞きたかったこと

 階段の下でロザリーと合流すると、ニナは布袋を抱え直した。


「船の絵を、二枚残してきました」


「喜んでいただけましたか」


「はい。何を描いたのか説明したら、たくさん質問してくださって」


 ニナの返事に、ロザリーが微笑んだ。


「準備した甲斐がありましたね」


 一行は学府への道を戻った。


 ローディスは、広場の水盤へ目を向けた。昨日、レティシアが座っていた石柱のそばには、荷を積んだ手押し車が止まっている。


 淡い灰色の髪は、見つからなかった。


「昨日の人がいたら、お礼を言えたのに」


 ニナも同じ場所を見ていた。


「船の話をしてあげてと言われて、絵も持っていこうと思ったから」


「また会えるかもしれないな」


 ローディスが答えると、ニナは頷き、袋の口を結び直した。


     ◇


 宿泊棟へ戻ると、マレーネは生徒たちを共用の卓へ集めた。


「今日の記録を書いてから、夕食にしなさい。誰から何を聞いたかも分かるように」


 卓へ紙が広がった。


 セイルは、セレスから聞いたことを順に書いた。海に船がいるとは知らされていたが、それが交流団の船だと知ったのは、今日の面会で礼を伝えたときだった。


 光をどこへ届かせるのか、誰かが知らせているのだろう。


 その考えを書きかけ、彼は筆を止めた。


 少女は、そこまでは話していない。


 代わりに、実際に聞いた返答を書き残す。


 隣ではローディスが、紙の上で指を動かしていた。


「予定になかった店へ寄る話まで、書くのか」


「ベルグ」


 マレーネが彼の手元を見た。


「相手が何に関心を持ったかは、交流の記録になります。君が立派な話をしたかどうかの記録ではありません」


「はい」


 ローディスは紙へ向き直った。


 リュカが、その横から覗き込む。


「パンの店に寄る話なら、ローディスに任せておけば安心ですね」


「エアハルト。君の紙は」


「まだ、これからです」


 リュカは笑顔で自分の席へ戻った。


 セイルも筆を動かした。術の修得に関する問いには、返答を得られなかった。その対応をしたのは、付き添いの男だった。


 書けるのは、そこまでだ。


 紙の端へ置いた手に、少し力が入った。


 精霊へ契約を申し込むことは、セイルも授業で学んだ。承認してもらう難しさも、風との契約で知っている。


 光に関しては、申し込むために何が必要なのかさえ分からない。


 明日、教本をもう一度確かめても、今日の問いへの答えが載っているとは思えなかった。


 記録を書き終えた後、ローディスは教本を開き、翌日の実習に使う短い文を読んだ。セイルも横から紙を見て、つまずいた箇所の音を確かめた。


     ◇


 翌朝は、現地の生徒と組になって、精霊語で願いを伝える実習を受けた。


 セイルの隣にはミリアが座った。机の上には浅い皿と水差しがあり、彼女は皿へ移した水を、縁から中央へ寄せようとしていた。


 水面が盛り上がり、片側へ崩れる。


「あっ」


 袖を濡らす前に、ミリアが腕を引いた。


 セイルは精霊語で短く願いを伝え、自分の皿を見せた。水を細い帯へまとめ、皿の内側を一周させる。


「最後まで同じ形にしたいなら、途中で別のことを頼まない方がいいよ」


「端からこぼれそうで、そちらを止めたくなるの」


「そこを直しているうちに、中央へ寄せる方が崩れるんだろうね。一度やめてから、やり直してみたら?」


 ミリアは頷いた。


 発声を止め、水が落ち着くのを待つ。それから、教本の文を指で確かめた。


 次は中央に、小さな水の塊が残った。


「できた」


 彼女の声に、セイルも頷いた。


 前の席では、ローディスとレオンが教本を挟んでいた。ローディスは短い文を読み、レオンに同じ箇所を繰り返してもらっている。


 滑らかには言えない。途中で紙へ目を戻し、もう一度口を動かす。


 セイルが見ていると、ローディスが振り返った。


「今の、途中が違ったか」


「後半が少し。昨日の晩に読んだところと、同じ音だよ」


「ああ、あれか」


 ローディスは、手元の紙へ印をつけた。


 出来ないと言って終わりにせず、誰に聞けばよいかを考えている。


 それは、セイルもしてきたことだ。


 なのに、ローディスが人へ尋ねるときには、自分ほど長く迷っていないように見えた。


 ミリアが水を戻す音で、セイルは目を離した。


「あなたも、次の文を読む?」


「うん」


 彼は教本を手元へ寄せた。


     ◇


 実習が終わると、セイルは教本を片づけるミリアへ声をかけた。ローディスも、借りていた紙をレオンへ返してから隣へ来る。


「前に話していた、闇の精霊の噂だけれど」


 セイルが言うと、ミリアは顔を上げた。


「影の中に目があった、という話?」


「うん。お兄さんが聞いた人は、目が見えたほかに、何か起きたと言っていたのかな」


 ミリアは少し考えた。


「そこまでは聞いていないわ。驚いて逃げた、とだけ」


「何かされたのではなく、見て逃げたんだね」


「兄から聞いたのは、そういう話よ」


 セイルは頷いた。目のある影を見たという話と、その影が力を使ったという話は、同じではない。


「闇の精霊だと呼んだのは、その人?」


「そう。兄は、酔っていたからだろうと言っていたけれど」


 ミリアが答えた。


 ローディスは、彼女の手元の教本へ目を向けた。


「その人が、精霊と契約したと言っていたわけではないのか」


「うん。少なくとも、私はそんな話は聞いていない」


 誰かが闇の術を使った場面を見たのか。見慣れないものへ、そういう名前をつけただけなのか。


 確かめるべきところが、まだ残っている。


 セイルは続けた。


「どの路地だったか、いつ見たのかは分かる?」


「ごめんなさい。そこまで詳しく聞かなかったから」


「謝らなくていいよ。分からないところを確かめたかっただけだから」


 ミリアは鞄の口を閉じた。


「兄に会ったら、聞いてみる。あの人の名前も、兄なら知っていると思うわ」


「頼んでもいいかな。見た人の話を聞けるなら、何があったのか、もう少し分かるかもしれない」


「でも、本当に酔って見間違えただけかもしれないよ?」


「その可能性も含めてね」


 セイルは答えた。


「君やお兄さんに、その路地を探しに行ってほしいわけではないよ。何か危ないものだったら、近づかない方がいい」


「分かった。話を聞くだけにする」


 ミリアは頷いた。


 彼女が教室を出ると、ローディスはセイルを見た。


「見た場所が分かっても、夜に二人で行くわけにはいかないな」


「まずは見た人の話を聞こう。場所も分からないまま、影を探して歩いても仕方ないよ」


 セイルは教本を鞄へ収めた。


 組織が求めたのは、闇の精霊を捕らえることではなかった。


 何が起き、なぜそう呼ばれているのか。見た者と、話を聞いた者を分けて確かめること。


 今はそのために、目撃したという船員へつながる返事を待つ。


     ◇


 午後の市街見学では、先日とは別の通りを回った。


 ロザリーが先導し、マレーネとヘルマンが生徒たちの前後を歩く。レオンとミリアも同行していた。


 通りを抜けると、見覚えのある水盤が現れた。


 ニナとフリーダが布を扱う店へ入ると、アルノーとレオンも隣の店を覗いた。ヘルマンはその戸口に立ち、ロザリーはマレーネと一緒に店主の説明を聞いている。リュカとミリアは、ニナたちの買い物を待っていた。


 ローディスとセイルは、水盤側の露店に並ぶ干した果物を見た。


「この酸っぱい方なら、船でも食べられそうだ」


 ローディスが言った。


「帰りの船までに、なくならないといいね」


「全部食べるつもりではない」


 ローディスが振り返ったとき、石柱の陰から女が出てきた。


 継ぎ当てのある上着。淡い灰色の髪が、頬へかかっている。


「また会ったね」


 レティシアだった。


 ローディスは、店の方へ顔を向けた。


「クルーガー先生。先日、案内してくださった方です」


 ヘルマンが女を確かめ、頷いた。


「店を離れるときは、先に言え」


「はい」


 レティシアは二人の制服へ目を向けた。


「買い物?」


「町の見学です。店を見る時間もあります」


 ローディスが答えた。


「そっか」


 彼女は柱へ背を寄せた。少し黙ってから、二人へ尋ねる。


「光座には、もう会ったの?」


「昨日、お会いしました」


 ローディスは答えた。


「船旅の話も、してきました。ニナが絵を残したので、後から説明してもらえると喜んでくださって」


 女の目が、店の方へ動いた。


 中ではニナが、袋の縫い目を指で確かめている。


「そう。あの絵を……」


 レティシアは、それきり口を閉じた。


 セイルは彼女の顔を見た。


 案内をした相手の面会が済んだか、確かめたかったのだろう。だが、聞き終えても、女はそこを離れなかった。


「ほかにも、聞きたいことがありますか」


 セイルが尋ねた。


 レティシアは、彼へ目を戻した。


「何を聞かれた?」


「学府で何をしているか、休みの日にどこへ行くか。そういうことです」


「誰と行くかも、聞かれました」


 ローディスが補った。


「友人と相談して決めるとお答えしました」


 レティシアは、上着の袖口を握った。


「……笑っていた?」


「はい」


 ローディスは、四人で食事の話をしたのだと言われたときのことを伝えた。


 女は、その話を最後まで聞いた。


 唇の端が少しだけ上がる。だが、笑った顔になる前に、彼女は目を伏せた。


「よかった」


 セイルは、何か言おうとしてやめた。


 守護者との面会に関心を持つ者は、ほかにもいるのだろう。だが、この女が知りたかったのは、何を教えられたかではないようだった。


 術の話を遮られたことを持ち出す理由も、今はなかった。


「あなたも、お会いしたかったんですか」


 ローディスが尋ねた。


 レティシアの指が、袖から離れた。


「……会えたら、いいね」


 そう答えて、彼女は石柱から背を離す。


「話してくれて、ありがとう」


 セイルは、もう一つ尋ねたかった。


 どうして、それほど光座の様子を知りたいのか。


 けれど、ローディスが先に聞いた問いにも、女ははっきり答えなかった。今ここで重ねても、話してくれるとは思えない。


 店からニナが出てきた。


「あ、レティシアさん」


 女は足を止め、そちらへ顔を向けた。


「昨日、船のお話をしてきたの。絵も残してきたわ」


「聞いたよ。喜んでもらえたんだね」


 レティシアが答える。


 ニナは頷いた。


「勧めてくれて、ありがとう」


 女は一度だけ首を振った。


 それから、露店の間へ入っていった。


 次の角へ曲がるまで、白い建物の方を見ることはなかった。


     ◇


 宿泊棟へ戻ってから、セイルは市街見学の記録を閉じた。


 男子の部屋には、まだ二人しかいない。アルノーとリュカは、共用の卓で今日の課題を確かめていた。


「気になるな」


 ローディスが、外套を掛けながら言った。


「レティシアさんかい?」


「ああ。光座様と会いたいのかと聞いたら、答えにくそうだった」


「理由までは分からないね」


 セイルは、声を落とした。


「光の契約については、何も聞けていない。闇の方は、ミリアのお兄さんから返事が来るのを待とう」


 セイルは、自分用の紙を開いた。


 影に目があった。驚いて逃げた。闇の精霊と呼んだのは、目撃したという船員自身。


 それぞれの横へ、ミリアが兄から聞いた話、と書き添えた。目撃者へ直接確かめたことは、まだ一つもない。


 いつ、どこで見たのか。影は動いたのか。目を見た後に何か起きたのか。


 答えのない項目は、空けておいた。


 ローディスも、寝台のそばへ腰を下ろした。


「レティシアさんの方も、気になるけれど。無理に話させるわけにはいかないだろう」


「そうだね。僕たちが知りたいことを、あの人が知っているかも分からない」


 セイルは答えた。


 契約の入口を探したい。自分にも届く力があるなら、手を伸ばしたい。


 だが、あの女は、光座が何を聞き、笑っていたかを確かめた。


 昨日、面会室で見た少女の姿が浮かぶ。


 術を誰から習ったのかさえ、返事は得られなかった。


 あの女の関心を、自分たちの調査へ結びつける手掛かりもない。


 セイルは、閉じた記録へ手を置いた。


「今度、会えたら」


 ローディスが言った。


「あの人にも、話したいことがあるか聞いてみよう」


 セイルは隣の寝台を見た。


 自分は、何を知っているかを聞こうとしていた。


「……それなら、答えてくれるかもしれないね」


 彼は言い、卓の上の紙を揃えた。


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