第88話 聞きたかったこと
階段の下でロザリーと合流すると、ニナは布袋を抱え直した。
「船の絵を、二枚残してきました」
「喜んでいただけましたか」
「はい。何を描いたのか説明したら、たくさん質問してくださって」
ニナの返事に、ロザリーが微笑んだ。
「準備した甲斐がありましたね」
一行は学府への道を戻った。
ローディスは、広場の水盤へ目を向けた。昨日、レティシアが座っていた石柱のそばには、荷を積んだ手押し車が止まっている。
淡い灰色の髪は、見つからなかった。
「昨日の人がいたら、お礼を言えたのに」
ニナも同じ場所を見ていた。
「船の話をしてあげてと言われて、絵も持っていこうと思ったから」
「また会えるかもしれないな」
ローディスが答えると、ニナは頷き、袋の口を結び直した。
◇
宿泊棟へ戻ると、マレーネは生徒たちを共用の卓へ集めた。
「今日の記録を書いてから、夕食にしなさい。誰から何を聞いたかも分かるように」
卓へ紙が広がった。
セイルは、セレスから聞いたことを順に書いた。海に船がいるとは知らされていたが、それが交流団の船だと知ったのは、今日の面会で礼を伝えたときだった。
光をどこへ届かせるのか、誰かが知らせているのだろう。
その考えを書きかけ、彼は筆を止めた。
少女は、そこまでは話していない。
代わりに、実際に聞いた返答を書き残す。
隣ではローディスが、紙の上で指を動かしていた。
「予定になかった店へ寄る話まで、書くのか」
「ベルグ」
マレーネが彼の手元を見た。
「相手が何に関心を持ったかは、交流の記録になります。君が立派な話をしたかどうかの記録ではありません」
「はい」
ローディスは紙へ向き直った。
リュカが、その横から覗き込む。
「パンの店に寄る話なら、ローディスに任せておけば安心ですね」
「エアハルト。君の紙は」
「まだ、これからです」
リュカは笑顔で自分の席へ戻った。
セイルも筆を動かした。術の修得に関する問いには、返答を得られなかった。その対応をしたのは、付き添いの男だった。
書けるのは、そこまでだ。
紙の端へ置いた手に、少し力が入った。
精霊へ契約を申し込むことは、セイルも授業で学んだ。承認してもらう難しさも、風との契約で知っている。
光に関しては、申し込むために何が必要なのかさえ分からない。
明日、教本をもう一度確かめても、今日の問いへの答えが載っているとは思えなかった。
記録を書き終えた後、ローディスは教本を開き、翌日の実習に使う短い文を読んだ。セイルも横から紙を見て、つまずいた箇所の音を確かめた。
◇
翌朝は、現地の生徒と組になって、精霊語で願いを伝える実習を受けた。
セイルの隣にはミリアが座った。机の上には浅い皿と水差しがあり、彼女は皿へ移した水を、縁から中央へ寄せようとしていた。
水面が盛り上がり、片側へ崩れる。
「あっ」
袖を濡らす前に、ミリアが腕を引いた。
セイルは精霊語で短く願いを伝え、自分の皿を見せた。水を細い帯へまとめ、皿の内側を一周させる。
「最後まで同じ形にしたいなら、途中で別のことを頼まない方がいいよ」
「端からこぼれそうで、そちらを止めたくなるの」
「そこを直しているうちに、中央へ寄せる方が崩れるんだろうね。一度やめてから、やり直してみたら?」
ミリアは頷いた。
発声を止め、水が落ち着くのを待つ。それから、教本の文を指で確かめた。
次は中央に、小さな水の塊が残った。
「できた」
彼女の声に、セイルも頷いた。
前の席では、ローディスとレオンが教本を挟んでいた。ローディスは短い文を読み、レオンに同じ箇所を繰り返してもらっている。
滑らかには言えない。途中で紙へ目を戻し、もう一度口を動かす。
セイルが見ていると、ローディスが振り返った。
「今の、途中が違ったか」
「後半が少し。昨日の晩に読んだところと、同じ音だよ」
「ああ、あれか」
ローディスは、手元の紙へ印をつけた。
出来ないと言って終わりにせず、誰に聞けばよいかを考えている。
それは、セイルもしてきたことだ。
なのに、ローディスが人へ尋ねるときには、自分ほど長く迷っていないように見えた。
ミリアが水を戻す音で、セイルは目を離した。
「あなたも、次の文を読む?」
「うん」
彼は教本を手元へ寄せた。
◇
実習が終わると、セイルは教本を片づけるミリアへ声をかけた。ローディスも、借りていた紙をレオンへ返してから隣へ来る。
「前に話していた、闇の精霊の噂だけれど」
セイルが言うと、ミリアは顔を上げた。
「影の中に目があった、という話?」
「うん。お兄さんが聞いた人は、目が見えたほかに、何か起きたと言っていたのかな」
ミリアは少し考えた。
「そこまでは聞いていないわ。驚いて逃げた、とだけ」
「何かされたのではなく、見て逃げたんだね」
「兄から聞いたのは、そういう話よ」
セイルは頷いた。目のある影を見たという話と、その影が力を使ったという話は、同じではない。
「闇の精霊だと呼んだのは、その人?」
「そう。兄は、酔っていたからだろうと言っていたけれど」
ミリアが答えた。
ローディスは、彼女の手元の教本へ目を向けた。
「その人が、精霊と契約したと言っていたわけではないのか」
「うん。少なくとも、私はそんな話は聞いていない」
誰かが闇の術を使った場面を見たのか。見慣れないものへ、そういう名前をつけただけなのか。
確かめるべきところが、まだ残っている。
セイルは続けた。
「どの路地だったか、いつ見たのかは分かる?」
「ごめんなさい。そこまで詳しく聞かなかったから」
「謝らなくていいよ。分からないところを確かめたかっただけだから」
ミリアは鞄の口を閉じた。
「兄に会ったら、聞いてみる。あの人の名前も、兄なら知っていると思うわ」
「頼んでもいいかな。見た人の話を聞けるなら、何があったのか、もう少し分かるかもしれない」
「でも、本当に酔って見間違えただけかもしれないよ?」
「その可能性も含めてね」
セイルは答えた。
「君やお兄さんに、その路地を探しに行ってほしいわけではないよ。何か危ないものだったら、近づかない方がいい」
「分かった。話を聞くだけにする」
ミリアは頷いた。
彼女が教室を出ると、ローディスはセイルを見た。
「見た場所が分かっても、夜に二人で行くわけにはいかないな」
「まずは見た人の話を聞こう。場所も分からないまま、影を探して歩いても仕方ないよ」
セイルは教本を鞄へ収めた。
組織が求めたのは、闇の精霊を捕らえることではなかった。
何が起き、なぜそう呼ばれているのか。見た者と、話を聞いた者を分けて確かめること。
今はそのために、目撃したという船員へつながる返事を待つ。
◇
午後の市街見学では、先日とは別の通りを回った。
ロザリーが先導し、マレーネとヘルマンが生徒たちの前後を歩く。レオンとミリアも同行していた。
通りを抜けると、見覚えのある水盤が現れた。
ニナとフリーダが布を扱う店へ入ると、アルノーとレオンも隣の店を覗いた。ヘルマンはその戸口に立ち、ロザリーはマレーネと一緒に店主の説明を聞いている。リュカとミリアは、ニナたちの買い物を待っていた。
ローディスとセイルは、水盤側の露店に並ぶ干した果物を見た。
「この酸っぱい方なら、船でも食べられそうだ」
ローディスが言った。
「帰りの船までに、なくならないといいね」
「全部食べるつもりではない」
ローディスが振り返ったとき、石柱の陰から女が出てきた。
継ぎ当てのある上着。淡い灰色の髪が、頬へかかっている。
「また会ったね」
レティシアだった。
ローディスは、店の方へ顔を向けた。
「クルーガー先生。先日、案内してくださった方です」
ヘルマンが女を確かめ、頷いた。
「店を離れるときは、先に言え」
「はい」
レティシアは二人の制服へ目を向けた。
「買い物?」
「町の見学です。店を見る時間もあります」
ローディスが答えた。
「そっか」
彼女は柱へ背を寄せた。少し黙ってから、二人へ尋ねる。
「光座には、もう会ったの?」
「昨日、お会いしました」
ローディスは答えた。
「船旅の話も、してきました。ニナが絵を残したので、後から説明してもらえると喜んでくださって」
女の目が、店の方へ動いた。
中ではニナが、袋の縫い目を指で確かめている。
「そう。あの絵を……」
レティシアは、それきり口を閉じた。
セイルは彼女の顔を見た。
案内をした相手の面会が済んだか、確かめたかったのだろう。だが、聞き終えても、女はそこを離れなかった。
「ほかにも、聞きたいことがありますか」
セイルが尋ねた。
レティシアは、彼へ目を戻した。
「何を聞かれた?」
「学府で何をしているか、休みの日にどこへ行くか。そういうことです」
「誰と行くかも、聞かれました」
ローディスが補った。
「友人と相談して決めるとお答えしました」
レティシアは、上着の袖口を握った。
「……笑っていた?」
「はい」
ローディスは、四人で食事の話をしたのだと言われたときのことを伝えた。
女は、その話を最後まで聞いた。
唇の端が少しだけ上がる。だが、笑った顔になる前に、彼女は目を伏せた。
「よかった」
セイルは、何か言おうとしてやめた。
守護者との面会に関心を持つ者は、ほかにもいるのだろう。だが、この女が知りたかったのは、何を教えられたかではないようだった。
術の話を遮られたことを持ち出す理由も、今はなかった。
「あなたも、お会いしたかったんですか」
ローディスが尋ねた。
レティシアの指が、袖から離れた。
「……会えたら、いいね」
そう答えて、彼女は石柱から背を離す。
「話してくれて、ありがとう」
セイルは、もう一つ尋ねたかった。
どうして、それほど光座の様子を知りたいのか。
けれど、ローディスが先に聞いた問いにも、女ははっきり答えなかった。今ここで重ねても、話してくれるとは思えない。
店からニナが出てきた。
「あ、レティシアさん」
女は足を止め、そちらへ顔を向けた。
「昨日、船のお話をしてきたの。絵も残してきたわ」
「聞いたよ。喜んでもらえたんだね」
レティシアが答える。
ニナは頷いた。
「勧めてくれて、ありがとう」
女は一度だけ首を振った。
それから、露店の間へ入っていった。
次の角へ曲がるまで、白い建物の方を見ることはなかった。
◇
宿泊棟へ戻ってから、セイルは市街見学の記録を閉じた。
男子の部屋には、まだ二人しかいない。アルノーとリュカは、共用の卓で今日の課題を確かめていた。
「気になるな」
ローディスが、外套を掛けながら言った。
「レティシアさんかい?」
「ああ。光座様と会いたいのかと聞いたら、答えにくそうだった」
「理由までは分からないね」
セイルは、声を落とした。
「光の契約については、何も聞けていない。闇の方は、ミリアのお兄さんから返事が来るのを待とう」
セイルは、自分用の紙を開いた。
影に目があった。驚いて逃げた。闇の精霊と呼んだのは、目撃したという船員自身。
それぞれの横へ、ミリアが兄から聞いた話、と書き添えた。目撃者へ直接確かめたことは、まだ一つもない。
いつ、どこで見たのか。影は動いたのか。目を見た後に何か起きたのか。
答えのない項目は、空けておいた。
ローディスも、寝台のそばへ腰を下ろした。
「レティシアさんの方も、気になるけれど。無理に話させるわけにはいかないだろう」
「そうだね。僕たちが知りたいことを、あの人が知っているかも分からない」
セイルは答えた。
契約の入口を探したい。自分にも届く力があるなら、手を伸ばしたい。
だが、あの女は、光座が何を聞き、笑っていたかを確かめた。
昨日、面会室で見た少女の姿が浮かぶ。
術を誰から習ったのかさえ、返事は得られなかった。
あの女の関心を、自分たちの調査へ結びつける手掛かりもない。
セイルは、閉じた記録へ手を置いた。
「今度、会えたら」
ローディスが言った。
「あの人にも、話したいことがあるか聞いてみよう」
セイルは隣の寝台を見た。
自分は、何を知っているかを聞こうとしていた。
「……それなら、答えてくれるかもしれないね」
彼は言い、卓の上の紙を揃えた。




