第86話 白い町の案内人
朝、窓を開けると、どこかで布を叩く音がした。
向かいの建物では、寝具が窓から吊られている。その下を、教本を抱えた生徒たちが通っていった。
ローディスは寝台の脇で帯を締め、荷に収めた細長い箱を一度確かめた。
今日は交流授業だ。
右手には、いつもの革手袋をはめた。
「剣の確認は、朝食の後だったね」
机の前にいたセイルが振り返る。
「ああ。先に道具を見てもらう」
ローディスが答えると、リュカは窓を閉めた。
「僕の剣も、見てもらっておこうかな。重すぎるせいで上達しないのかもしれないし」
「同じ重さのものを、学府でも使っているだろう」
「じゃあ、重さ以外の理由を教えてもらうよ」
リュカは笑い、二人と部屋を出た。
◇
聖護学府の演習場には、昨日より多くの生徒が集まっていた。
ヘルマンは現地の教員と武器を確かめ、ローディスの大剣には刃を覆う演習用の覆いを取り付けた。ローディスが一度振り、ずれがないことを確かめる。
その向かいで、レオンは剣と盾を受け取った。
「打つ速さも力も、今日は抑える。道具が違う相手の間合いを覚える稽古だ」
ヘルマンが二人へ告げる。
「一本取った後まで続けるな」
二人は頷き、離れて構えた。
先に動いたのはレオンだった。
盾を前へ出し、剣をその陰へ収める。ローディスが大剣を右へ動かすと、それに合わせて盾が傾いた。
盾の縁へ打ち込む。
受け止めたレオンの足が半歩下がった。だが、盾は倒れない。大剣を引こうとしたとき、その横から剣先が伸びてきた。
ローディスは身体を引いた。
覆いの付いた剣先が、胸の前を通る。
「そこまで」
ヘルマンの声で、二人が止まった。
「ベルグ。下がるなら、後ろを見ろ」
ローディスは足元を確かめた。演習の範囲を示す線を、踵が越えている。
「はい」
彼はレオンへ向き直った。
「盾ごと押せると思った。思ったより動かなかったな」
「足を引く準備をしていたんだ。昨日、剣を見てから」
レオンが盾を少し下げた。
「でも、もう一度踏み込まれたら、持たなかったかもしれない」
「その前に、俺が下がった」
ローディスは大剣を構え直した。
次は、盾へ触れたところで力を抜いた。相手の足が下がるのに合わせ、自分は横へ動く。
レオンの剣が出てくる位置が、さっきよりよく見えた。
◇
術の実習は、剣の稽古から離れた区画で行われた。
石を積んだ標的の前に板が立てられ、射出する者以外は全員、後ろへ下がる。
セイルは、マレーネとロザリーが位置を確かめるのを待ってから杖を上げた。
水を集め、火の精霊へ熱を退けてもらう。
細い氷の槍が生まれた。
次いで精霊語を発し、風へ願いを伝える。
槍が前へ飛んだ。
板の中央より少し右へ突き刺さり、積まれた石の手前で止まる。
見ていた生徒の一人が、小さく声を上げた。ミリアは、自分の杖を持つ手に力を込めている。
「風で押したんですね」
彼女が言った。
「氷を作る術と、飛ばす術は別なんだ」
セイルは杖を下ろした。
「飛ばせても、狙ったところへ当たるとは限らない。今日は板が止まっていてくれたからね」
「人が動いていると、難しいですか」
「当てたい相手だけ動くなら、まだいい。前に味方がいたら、その人がどちらへ動くかも見なければいけない」
セイルは、隣の区画で大剣を構えるローディスを見た。
動くなと約束しても、相手に押されれば動く。
だから、自分の方も位置を変える。撃たない判断も練習する。
国を渡っても、あの演習場で始めたことは終わっていなかった。
「三つの属性を使うところも、見てください」
ロザリーが現地の生徒へ言った。
「どの願いが、どの働きを受け持っているか。出来上がった槍だけを見て、真似できると思わないことです」
ミリアは頷き、手帳を開いた。
その後は、水を集める形と、願いを切り替える際の手元を比べた。ニナも輪へ加わり、自分の紋章板を示す。
セイルが板から離れると、リュカが待っていた。
「よく飛んだね。異国の学び舎でも、見事な一撃でみんなを驚かせるなんて」
「止まった板に一発だよ」
セイルが答える。
「それでも、朝から剣を落としていた僕より、ずっと立派だと思うな」
リュカは、借りた剣を両手で持ち直した。
セイルは彼の顔を見た。
褒めているのは、いつもの声だ。ここでリュカが演じていることも分かっている。
もしあの脚で踏み込まれたら、今の槍でも間に合わないのだろうか。
契約を増やし、遠くへ飛ばせるようになっても、リュカが一歩で詰める距離を止められないのかもしれない。
褒められた直後にそんなことを考えている自分が嫌で、セイルは目を伏せた。
「……剣を返しに行こう。片づけまでが授業だそうだから」
杖を抱え直し、彼は道具置き場へ向かった。
◇
昼食の後、一行は市街へ出た。
ロザリーが先頭を歩き、マレーネは生徒たちのそば、ヘルマンは後ろに付く。レオンとミリアも案内に加わった。
演習用の道具は返した。ローディスは大剣も宿泊棟へ置いてきた。ガントレットは、鍵を掛けた箱の中にある。
通りには、昨日の馬車から見たものより多くの店が並んでいた。
木の器、革の袋、色の違う布。軒先では、金属の薄い板を吊って売っている店もある。
ニナが足を止めた。
「鏡?」
「携帯する小さいものです。船乗りも買っていきますよ」
店主が、一枚を手に取った。
磨かれた面に、ニナの顔が歪んで映る。
「塔のものも、これを大きくしたような形なんですか」
「塔の鏡は扱っていませんね。うちは、顔を見るためのものです」
店主は笑い、鏡を元へ戻した。
ニナも笑って礼を言った。
先へ進むと、通りの角でパンを焼く匂いがした。ローディスの歩みが、少し遅くなる。
「さっき昼食を食べたばかりだろう」
セイルが言った。
「食べた」
「今度は匂いだけにしておく?」
「買って、後で食べてもいいだろう」
ローディスが店へ目を向けると、前を歩いていたロザリーが振り返った。
「この先の市場で、買い物の時間を取ります。その前に、広場を見ておきましょう」
ローディスは、素直に店から離れた。
広場には浅い水盤があり、その周りに露店が出ていた。中央の石柱には光座を称える言葉が刻まれている。
花を置く人の隣を、荷を担いだ男が通る。子供たちが水盤の縁を走り、母親に呼び戻されていた。
ロザリーは石柱の文字を指し、建てられた経緯を説明し始めた。
その声へ、別の声が重なった。
「買い物をするなら、そっちから回らない方がいいよ」
水盤の陰に、女が座っていた。
二十代前半ほどだろうか。淡い灰色の髪を肩の下まで伸ばしていたが、毛先は不揃いで、ところどころ絡んでいる。痩せた頬と、灰青色の目。色の褪せた上着は袖が継ぎ当てられ、足元の靴は左右で紐の色が違った。
脇には、口を縛った小さな布袋がある。
女はその袋を引き寄せ、立ち上がった。
「表の店は旅人向け。日持ちするパンも、同じ大きさの袋も、裏の列の方が安い。銅貨二枚で案内するよ」
「こちらには案内の教員がいます」
マレーネが答えた。
「市場の値段まで、全部覚えてる?」
女はロザリーを見た。
ロザリーは、少し困ったように笑う。
「店が増えてからは、全部とは言えませんね」
「遠いところへ連れていくわけじゃない。この広場から見える店だよ」
女が、石柱の向こうを指した。
そこにも露店が並び、買い物客が行き交っている。
マレーネは示された通路を見てから、ロザリーと短く相談した。
「では、買い物の場所を教えてもらいましょう。私たちも一緒に歩きます。市場からは出ません」
「分かった」
「お名前は?」
マレーネが尋ねる。
「レティシア」
女は答え、布袋を肩へ掛けた。
「こっち。パンなら、まだ焼き上がったばかりのがある」
ローディスの顔が明るくなる。
レティシアはその顔を見て、初めて少し笑った。
◇
レティシアの案内は、店の名前よりも、売り方の違いに詳しかった。
同じ果物でも、皮に傷があるものは籠が違う。船へ持ち込む袋は、口の紐だけでなく底の縫い目を見る。屋根に近い場所へ積まれた布は、雨の日に濡れていないか端を確かめる。
ローディスはパンを買い、ニナは教本を入れる布袋を手に取った。ミリアも、知らなかった店へ目を丸くしている。
「よく知っているんですね」
セイルが言うと、レティシアは彼の袋を見た。
「ここで食べ物を買って、ここで寝る場所を探してるからね」
「この市場で?」
「夜は店も閉まる。雨が入らない庇を探すの」
返事は淡々としていた。
ニナは布袋から顔を上げ、何か言いかけた。だが、レティシアは次の店へ向き直る。
「その紐は短い。教本を入れるなら、向こうにある方がいいよ」
案内が終わると、マレーネは約束した銅貨を渡した。
レティシアは受け取った二枚を確かめ、上着の内側へ収めた。
ローディスが、買ったパンを一つ差し出す。
「よかったら」
レティシアの手が止まった。
「案内のお代は、もらったよ」
「俺も食べる。余分に買ったんだ」
ローディスは、もう一つを自分の手へ持ち替えた。
女は少し黙った後、差し出された方を受け取った。
「……ありがとう」
セイルは、記録の紙を入れた袋の口を結びながら二人を見ていた。
困っている人に、食べ物を渡す。それだけのことを、自分なら、相手が迷惑だと思わないか、余計な気遣いではないかと考える。
ローディスは考えていないわけではない。案内の代金と混ぜず、自分も食べるのだと示して、断れるよう手を止めていた。
そういう言葉が、自分の口からはすぐ出てこない。
セイルは結んだ紐を、一度引いた。
帰り道へ向かう前に、ニナが紙を取り出した。
さっき店で見た鏡の形と、広場の水盤を簡単に描いている。レティシアは、パンを持ったまま覗き込んだ。
「景色を描くの?」
「覚えておきたいの。帰ってから、人に話せるように」
ニナは、紙の端へ水盤の縁を描き足した。
レティシアの目が、その線を追った。
「船の中も、描いた?」
「少し。揺れた日は、線が曲がってしまったけれど」
ニナが前の紙を見せる。狭い船室と、甲板の手すり。港へ近づいた朝の、白い建物。
レティシアは、一枚ずつ見ていった。
パンを口へ運ぶことも忘れていた。
「これ、誰かに見せるの?」
「学府へ戻ってから。それと、こちらでも、光座へ船旅の話をするつもりなの」
レティシアが顔を上げた。
「会うの?」
ニナが頷く前に、マレーネが言った。
「文化交流の一環です。先方からは、帝国での暮らしについて聞きたいと伺っています」
女は、教員の顔を見た。
次いで、ニナの手にある紙へ目を戻す。
「じゃあ……船の話も、してあげて」
さっきまで店の値段を教えていた声とは、違っていた。
「景色だけじゃなくて。船が揺れたとか、誰と同じ部屋で寝たとか。外で過ごしたことを、たくさん」
「そのつもりよ」
ニナが答える。
レティシアは唇を結び、一度だけ頷いた。
それ以上は聞かなかった。
一行が市場を離れた後、ローディスは広場を振り返った。
石柱のそばで、レティシアがパンを食べていた。
彼らへ手を振ることはない。
女の目は、広場の向こう、白い建物へ続く階段を見ていた。
◇
その夕刻、ルクシアの政務を預かる者たちの会議室では、交流団の受け入れ報告が机に置かれていた。
窓側に座る老人は、白い髪を短く整え、金の縁取りがある長衣を着ている。節の太い指で紙を押さえ、最後の行まで読んでから顔を上げた。
向かいには、黒髪に白いものが混じり始めた女性がいた。濃紺の衣服は襟元まで留められ、胸には細い金の鎖が下がっている。
「引率者は、こちらの決めた範囲を守っているようだな」
老人が言った。
「今のところは。面会までに、光座へも交流団の紹介を届けます」
女性が答える。
「契約について尋ねられた場合の対応は、付き添いの者へ伝えておけ。学生との会話だからといって、話してよいことが増えるわけではない」
「先方の質問は、暮らしと学びが中心です」
「帝国から来たことは変わらん」
老人は、報告書の上段へ目を戻した。
「海では、我が国の力も見た。国へ帰れば、そのことも報告するだろう」
「魔物を放置するわけにはいきませんでした」
「迎撃を責めているのではない。見せた力と、明かす仕組みは分ける必要があると言っている」
女性は頷いた。
それから、机の脇に置かれた別の紙を差し出す。
「光座からは、面会を短くしないでほしいと」
老人は、その紙を取らなかった。
「先日も、希望を聞いたはずだ」
「船で何をして過ごすのか。帝国の生徒が、休みの日にどこへ行くのか。聞きたいことが増えたそうです」
「時間は調整しよう。外の話を聞くだけなら、構わん」
老人の返答を聞いても、女性は紙を引かなかった。
「話を聞けば、ご自身も行ってみたいと仰るかもしれません」
「その場合も、今までどおりだ」
老人は椅子へ背を預けた。
「あの光が失われれば、海も国境も、同じようには守れない。光座の身に何かあってからでは遅い」
「危険へ近づける話ではありません。庭へ出たいという願いまで、退け続ける必要があるのでしょうか」
女性は、老人を見た。
「光座は、外の景色を尋ねているのではなく、外で過ごした人の話を聞きたがっているのです」
しばらく、紙を動かす音もなかった。
「面会の話をしていたはずだ」
老人が言った。
「ええ。だから、何を聞きたがっているのか、お伝えしています」
女性は紙を机へ置いた。
船の中で、何をして過ごすのか。
休みの日には、どこへ行くのか。
老人は、その短い問いへ目を落とした。
「……付き添いを外すことは認めない。面会の時間は、もう一度検討する」
紙は、交流団の報告書の下へ収められた。




