第85話 光の下の学び舎
船から渡された板を踏むと、岸は揺れなかった。
それでもニナは、二歩進んだところで足を止めた。
「まだ、動いている気がするわ」
「地面が?」
隣で荷を持ち直したローディスが尋ねる。
「私の方。船に残してきた揺れが、身体に入っているみたい」
ニナは少し笑い、白い石で固められた岸壁を見下ろした。
船員たちが荷を下ろす間にも、港は動いていた。樽を転がす男。魚を入れた籠を抱える女。縄を束ね、次の船へ走っていく少年。
さっきまで海にいたものの姿は、ここからは見えない。
光を返した塔だけが、荷揚げ場の向こうに立っている。
「アストラ兵学府の皆様ですね」
声をかけてきたのは、濃い茶色の髪を後頭部でまとめた女性だった。四十歳ほどに見える。灰色の目元には細い皺があり、白い上着の袖口には紺の縁取りが入っていた。
彼女はマレーネへ、所属と名を書いた書面を差し出した。
「ルクシア聖護学府のロザリー・オルタンです。滞在中の窓口を務めます」
マレーネは旅程表と照らし合わせ、挨拶を返した。
聖護学府。その名は、出発前に配られた資料にも載っていた。これから七日間、彼らが授業へ参加する場所だ。
「海でのことは、港から連絡を受けました。お怪我はありませんか」
「幸い、全員無事です」
マレーネが答えると、ロザリーは生徒たちを見渡した。
「よかった。まずは手続きを済ませて、荷を置きましょう。海で怖い思いをした後に、重い鞄を持って立ち続ける必要はありません」
入国の確認は、岸壁に面した建物で行われた。
名簿と通行の書面を確かめ、携行する武器を届け出る。ローディスも荷の箱を開き、大剣と防具を係員へ示した。
ガントレットの金属板へ目を向けられたときには、手を守る戦闘用の防具だと答えた。内側の蓋には触れられず、確認を終えた箱を自分で閉じる。
セイルはその横で杖を受け取り、石と紋章板を確かめた。
全員の荷が揃うと、ロザリーは待たせていた馬車へ案内した。
◇
港から離れるにつれ、魚と潮の匂いが薄れていった。
窓の外には、白い壁の間を登っていく道が見える。店先の布は青や黄色に染められ、軒下では焼いたパンが籠へ積まれていた。海から見たときには同じ色に思えた町も、近づくとずいぶん違う。
交差点で車輪が止まった。
荷車の通過を待つ人々の向こうに、広い階段が伸びている。その先には、船からも見えた大きな建物があった。
通りを歩く老女が足を止め、階段の上へ一度頭を下げた。
セイルが窓越しに見ていると、同じ馬車に乗ったロザリーが言った。
「光座への祈りです。決まった時間だけでなく、日々の途中で礼をする人もいます」
「今朝、船を守っていただいたことも、こちらではもう知られているんですか」
セイルが尋ねる。
「港で見ていた人もいますからね。ただ、あの方が今朝の出来事を知って祈ったかどうかは、私にも分かりません」
ロザリーは、窓の外へ目を向けた。
「何事もなく一日を終えられたことへ、礼をする人もいるのです」
荷車が道を渡りきり、馬車が動いた。
セイルは階段の上へ目を戻したが、手前の建物に隠れて、すぐ見えなくなった。
◇
聖護学府の中庭では、落ち葉を掃いている生徒がいた。
門をくぐった交流団へ顔を上げ、慌てて箒を立てる。背後の教室からは、声を揃えて精霊語を読む音が聞こえてきた。
ニナが、そちらを振り返った。
「私たちと同じところを読んでいるわ」
「発音は、少し違って聞こえるね」
セイルも耳を傾けた。願いの意味は追える。だが、音の区切り方が、自分たちの教員とは違っていた。
「授業で比べてみてください。こちらの生徒にも、よい勉強になります」
ロザリーは、教室とは反対側の宿泊棟を示した。
男子四人は同じ部屋へ案内された。二つ並んだ窓の下に机があり、壁際には寝台が四つ置かれている。
荷を収め、顔を洗って戻ると、ロザリーの隣に二人の生徒が立っていた。
一人はローディスたちと同じ年頃の少年だった。黒い短髪に、日に焼けた顔。肩の張った身体を紺の制服へ収め、腰には革で覆った練習用の剣を下げている。
もう一人は、小柄な少女だった。栗色の髪を左右で編み、鼻の周りに薄いそばかすがある。胸元には細い杖を抱えていた。
「案内を手伝ってくれる、レオン・ヴァレとミリア・サレルです。今日は学府内を、明日は授業の後に町を回ります。市街へは私たち教員も同行します」
ロザリーが紹介すると、少年が背筋を伸ばした。
「レオンです。剣を使います。皆さんと稽古できるのを楽しみにしていました」
「ミリアです。水の術を学んでいます。教本も見せていただけると聞いたので……」
少女の目が、ニナの鞄へ向く。
ニナはすぐに、鞄の口を開きかけた。
「二冊持ってきたの。写した頁もあるわ」
「フェルナー。昼食の後にしなさい」
マレーネが止める。
ニナが手を引くと、ミリアも小さく頭を下げた。
「すみません。私からお願いするつもりが、先に覗いてしまって」
「食堂の場所を教えてもらえると助かる」
ローディスが言うと、レオンは笑った。
「それなら、最初に案内できる。港から来ると、ちょうど腹が減る頃だろう?」
「ずっと減っていた」
ローディスの返答に、アルノーまで頷いた。
リュカが二人を見上げる。
「船が揺れても食欲を失わず、ここまで辿り着いたんだよ。二人の粘り強さは、ぜひ知っておいてほしいな」
「最初の紹介がそれか」
ローディスが言った。
「僕より食堂へ急ぐ理由が、ちゃんとあるでしょう?」
レオンは堪えきれずに笑い、ミリアも杖の陰で口元を緩めた。
◇
昼食には、豆と魚を煮た皿が出た。
口へ運ぶと、魚の味に香草の香りが重なった。ローディスが二口目を食べたところで、レオンは彼が壁際へ立て掛けた大剣へ目を向けた。
「あれを振るうんだな。こっちにも大きな剣を使う生徒はいるけれど、持ってくるとは思わなかった」
「普段使っているものを持っていくように言われたんだ。稽古で使えるかは、先生方に聞いてからだが」
ローディスが答えると、ヘルマンが皿から顔を上げた。
「明日の実技の前に、道具と組み合わせを確認する。お前たちだけで始めるなよ」
「はい」
レオンも一緒に返事をした。
「君も怒られている」
リュカが小声で言うと、レオンは肩をすくめた。
「誘ったのは俺だからな」
机の反対側では、ミリアがセイルの杖を見ていた。
「火と水で氷を作るんですよね。案内を頼まれたときに聞きました。こちらでは、冷やす術はもう少し上で習うので」
「僕も、最初からうまく作れたわけじゃないよ」
セイルは答えた。
「水を集める方に気を取られると、熱を退ける願いが遅れる。氷になる前に落ちてしまうこともあった」
「二つを一緒に考えるのが難しいんですね」
「慣れても、願いが一つになるわけではないからね」
ミリアは、自分の杖を膝へ戻した。
「私の水の術も、光みたいに遠くへ届いたらと思うことがあります。飛ばそうとしても、途中で崩れてしまって」
「僕も今朝は、自分の術があれほど遠くへ届いたらと思ったよ」
セイルが言うと、ミリアは頷いた。
「光座と同じ術を習えるわけではありませんけれど、自分の水も、もっと遠くへ飛ばせるようになりたいんです」
そこでレオンが、二人の話へ顔を向けた。
「今朝、海で光を見たんだろう?」
「ええ。クローデンが氷の槍を撃つ前に、魔物が消えてしまったわ」
フリーダが答えた。
「岸からあれだけ離れていても、船のそばを狙えるのね。実際に見て、驚いたわ」
レオンの顔が明るくなった。
「この港へ来る船は、光座が守ってくださる。塔で光が返ったときは、もう大丈夫だと思えます」
「塔の上にあったのは、鏡なの?」
ニナが尋ねた。
「そう聞いているよ。俺も、上で働いたことはないけれど」
レオンは、食堂の窓から見える塔を指した。
「入れる場所は限られているから、見上げるだけだな」
ニナは頷き、手帳へ短く書いた。
光が届けば、もう大丈夫だと思える。
セイルには、その言葉が残った。
船の上で自分が考えていたのは、槍を作ること、撃つこと、間に合うかどうかだった。目の前の少年は、同じ光を見て、助かると考える。
「今朝は海の上で見つかったけれど、敵が人のいる場所へ入り込んだら、近くの兵が動かなければいけないね」
セイルが言うと、レオンは窓から顔を戻した。
「ああ。魔族が来たら、光だけに任せて待っているわけにはいかない。人を逃がす間、敵の前に立つ兵も要る。俺は、その役目を果たせるようになりたい」
「俺も、守りたい相手の前で踏ん張れるようになりたい」
ローディスが頷く。
レオンは彼へ笑いかけた。
「だから、明日の稽古を楽しみにしているんだ。大剣を相手にしたことは、あまりないから」
ローディスも、今度ははっきり笑った。
◇
午後は、授業に使う部屋と演習場を回った。
教室の机には紋章を写すための板が並び、演習場では二人組が盾と槍で間合いを確かめていた。その隣では、剣を持った生徒たちが教員の手本に合わせて腕を動かしている。
リュカは、剣を落として拾い直す生徒へ目を向けた。
「あの子も、僕と同じところを注意されている」
「握りすぎると、腕が動かなくなるんだ」
レオンが答える。
「分かっているつもりでも、相手が来ると強く握ってしまう」
「それなら、僕だけじゃなくて安心したよ」
リュカの笑顔へ、ローディスは一瞬だけ目を向けた。すぐに演習場へ戻す。
光の届く国にも、剣を落とす者がいて、紋章を描き直す者がいる。廊下で教本を忘れたと叱られた生徒は、ローディスたちとすれ違う前に、慌てて引き返していった。
最後に戻った教室では、ニナとミリアが教本を広げた。
マレーネとロザリーも近くに座り、同じ精霊語をどう訳しているか、頁を見比べる。ヘルマンはアルノーとレオンを連れ、明日の稽古に使う道具を確かめに出ていった。
セイルはニナが置いた手帳の横へ、自分の記録を開いた。
今朝見た光について、塔の上は鏡だと聞いたことを加える。自分で確かめたわけではない。その区別をつけてから、ミリアの教本へ目を移した。
属性の説明に、光の項目がある。
契約の手順は載っていなかった。
「光の契約については、別の教本があるのかな」
セイルが尋ねると、ミリアは眉を寄せた。
「私は見たことがないわ。授業でも、その手順までは習っていないの」
「そう。教えてくれてありがとう」
セイルは頁を戻した。知らないと答えた相手へ、重ねて聞くことはしなかった。
次にニナが開いたのは、九属性をまとめた頁だった。
「順番は違うけれど、同じね」
彼女の指が、風、雷、光、命と追っていく。
ミリアは頷きかけて、ふと窓の外を見た。
「……この頃は、ほかにもあるって言う人がいるけれど」
「まだ契約が確認されていない属性?」
ニナが尋ねた。
「分からない。教員から聞いた話ではないから」
ミリアは、近くに座るロザリーへ目を向けた。教員はマレーネに別の頁を示し、訳語について話している。
「港で働いている兄が聞いたの。夜、路地の影の中に、目があったって」
セイルの指が、頁の端で止まった。
「君のお兄さんが見たの?」
「いいえ。同じ船の人が、そう言っていたんですって。闇の精霊を見たんだ、と」
ミリアは、声を少し落とした。
「でも、兄も信じているわけではないわ。遅くまで飲んでいた人の話だから」
ニナは手帳を引き寄せかけ、手を止めた。
「それだけでは、精霊かどうかも分からないわね」
「うん。誰かが驚かせただけかもしれない」
ミリアは小さく笑い、教本へ視線を戻した。
セイルも、閉じかけた頁を押さえ直した。
窓の外では、白い壁が午後の日を返している。
港で働く兄が、同じ船の者から聞いた話。
その先は、まだ何も分からない。
セイルは記録の新しい行へ、まず、誰から聞いたかを書いた。




