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黒淵のアストラ  作者: 咢
第6章 眩光

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第84話 潮風の向こう

 窓から入る風に、塩の匂いが混じり始めた。


 帝都を出た翌日の夕刻、二台の馬車は港町へ入った。道沿いに積まれた木箱の間を、荷を担いだ人々が行き交っている。帆柱の先が、倉庫の屋根より高く並んでいた。


「着いたか」


 ローディスが窓へ顔を寄せる。


「宿にだ。船は明朝」


 向かいに座るヘルマンが答えた。


「今日のうちに腹へ何か入れて、寝ておけ。船に乗ってから眠れるとは限らん」


 リュカが、窓の隙間へ鼻先を近づけた。


「その前に、町を見て回る時間はありますか」


「荷を下ろしてから、全員で港まで歩く。勝手に先へ行くなよ」


「はい。ローディスが食べ物の匂いに誘われたら、僕が呼び戻します」


「俺よりお前の方が、今にも降りそうだ」


 ローディスの返事に、セイルは窓から離れたリュカを見た。


「二人とも、馬車が止まるまで待って」


 車輪が止まると、外から扉が開けられた。


 泊まる宿は、桟橋へ続く道の途中にあった。教員二人が受付を済ませる間、生徒たちは荷の数を確かめる。


 ローディスは細長い箱を鞄の底へ押し込み、上から着替えを重ねた。


 箱の鍵が掛かっていることを確かめ、鞄の口を閉じる。今は、普段の革手袋だけでよかった。


「ベルグ。部屋へ置いたら下へ来い」


 ヘルマンの声に返事をして、ローディスは荷を持ち上げた。


     ◇


 翌朝、六人は教員とともに桟橋を渡った。


 彼らが乗る船には、交流団以外にも客がいた。布を巻いた長い荷を抱える商人。幼い子の手を引く女。船縁から港を眺めている、旅装の老夫婦。


 前に乗った補給船とは違い、甲板に積まれている箱へ軍の印はなかった。


 それでも、縄を締める音は同じだった。


 セイルは海へ目を向けた。あのとき、飛行種が降りてきたのは、晴れた空からだった。


「乗る前に、通路を塞ぐな」


 日に焼けた船員が、足元の荷を指した。白いものの混じる髭を短く刈り、太い前腕へ縄の端を巻いている。


「失礼しました」


 セイルは鞄を寄せた。


 マレーネが船の係員と人数や書面を確かめる間、ヘルマンは甲板で生徒たちを振り返った。


「荷を置いたら、甲板へ出てもいい。ただし、船員が作業しているところには近づくな。術で手伝いたくなっても、まず聞け」


「風を足すのも、ですか」


 セイルが尋ねる。


「帆を見ろ」


 ヘルマンは頭上へ顎を向けた。


「お前が動かした風を、向こうが知っているとは限らん」


 セイルは頷き、杖を握った手を緩める。


 風の精霊と契約したからといって、この船をどう進めるかまで分かるわけではない。


 ヘルマンに案内された船室には、壁沿いに寝台が並んでいた。ローディス、セイル、リュカ、アルノーが荷を収めると、入口近くに立っていたアルノーが軽く肩を回した。


「ここで剣を振ったら、先に天井へ当たるな」


「振らないでください」


 セイルが答える。


「分かってる。甲板でも抜くなと言われたしな。しばらくは、手が鈍らないよう紐でも結んでおくか」


 アルノーは、鞄の留め紐を結び直した。


「ベルグ。その包みは?」


 ローディスの荷から出ていた、小さな布袋へ目を向ける。


「干した果物です。出発前に、母が送ってくれました」


「船の飯だけでは足りないと思われてるのか」


「それもあります。酔って食事が入らないときに、少しずつ食べろと」


 ローディスは袋の口を開いた。薄く切った果物が、乾いた葉のように重なっている。


 全員へ差し出され、セイルも一切れ取った。


「酔う前から減っていくね」


「足りなくなったら、船の食事を食べる」


「それで済むなら、持たせた意味がないでしょう」


 セイルが言うと、ローディスは袋を畳みながら答えた。


「皆で食べたと書けば、母さんは喜ぶ」


 何のためらいもない声だった。


 セイルは、指先についた甘い粉を見た。


 心配されたことを、鬱陶しがるでもない。誰かへ渡すことを、損だと考えるでもない。


 あの面会室でも、ローディスは母の前へまっすぐ座っていた。必ず帰ってきてくださいと言われ、「ああ」と迷わず頷いた。母が先に訪ね、父も勤務を代わって顔を見に来ようとしていた。


 セイルにも、身体を気遣ってくれた母の声は記憶に残っている。けれど、その母はもういない。旅先で何を食べたかも、無事に着いたことも、伝えることはできなかった。


 父へ旅の様子を知らせるつもりはなかった。もし手紙を書くとしても、来なくていい、返事もいらないと、先に突き放してしまうだろう。


 そう書いておけば、何も返ってこなくても、自分が断ったからだと思える。


 ローディスは、母が喜ぶと思って手紙を書く。セイルは、返事がなかったときのことから考えてしまう。


「セイル?」


 ローディスが袋をもう一度差し出した。


「もう一ついるか」


「……もらうよ」


 セイルは取った。


 味は甘かった。喉の奥には、別のものが引っ掛かっていた。


     ◇


 船が港を離れると、岸壁の人影は小さくなった。


 ニナは手すりの内側から身を乗り出しかけ、マレーネに肩を引き戻された。フリーダは髪を結び直し、空と帆を交互に見ている。


「動き始めると、揺れ方が違うわね」


 ニナが言った。


「いきなり教本を開かない方がいいわ」


 フリーダが答える。


「まだ何も書いていないのに」


「書き始めて気分を悪くすれば、もっと長く書けなくなるでしょう」


 ニナは抱えていた帳面を鞄へ戻した。


 船縁のそばへ来たローディスが、遠ざかる町を見ていた。セイルも並んだが、リュカは少し後ろに立ったままだった。


「こっちからだと、町がよく見えるぞ」


 ローディスが振り返る。


「そこへ詰めると、ニナが振り返ったときにぶつかりそうだし、僕はあちらから見るよ」


 リュカはそう言って、空いている手すりへ回った。


 軽い足取りだった。細い腕も、風に揺れる髪も、他の生徒と変わらない。


 その小さな身体が、地下では黒い獣を蹴り伏せた。


 セイルの杖では、止めきれなかったものを。


 船板が軋む。


 今は、リュカの力を当てにしてはいけない。


 分かっている。使わせないために何ができるかを、ローディスと練習もした。それなのに、危険なものが空から降りてきたときのことを考えれば、一番先にあの蹴りが浮かぶ。


 自分が槍を作り、向きを確かめ、風で運ぶまでの時間。


 リュカなら、その間に届いてしまう。


「帰りには、何を買っているかな」


 リュカが町の方を向いたまま言った。


「君はまだ、着いてもいない場所で買い物するつもり?」


 セイルは問い返した。


「行く前に荷物を増やすのは我慢したからね。帰りなら、少しくらい」


「その少しを、自分で持てる量にしておいて」


「セイルに持ってもらうと、有料になりそうだ」


「頼むなら、先に料金を相談してね」


 リュカが笑った。


 セイルは、海へ目を戻した。


 羨(・)ま(・)し(・)い(・)と思った。


 そう思ってから、あの脚がどう作られたのかを思い出した。


 何をされたか知っていても、目の前の強さだけを欲しがる瞬間がある。それを言葉にすれば、自分の声を聞きたくなくなる気がした。


     ◇


 その日の午後、マレーネは客が使える長机へ六人を集めた。


 窓から入る明るさで、帳面の線は十分見えた。


「光座へお話しする内容を、一つずつ挙げてみなさい」


 ローディスは顔を上げた。


「普段の暮らしについて、でしたね」


「ええ。向こうから質問があってから考えても構いませんが、今のうちに自分たちの一日を振り返っておきましょう」


「朝の訓練と、食堂のことなら話せます」


 ローディスが答えた。


「どちらの方が長くなるの?」


 ニナが尋ねる。


「食事の話は、向こうのものも聞きたい。朝から何を食べているのか」


「やっぱり、そちらなのね」


 ニナは笑った後、自分の帳面へ目を落とした。


「私は、教本に書いてあることと、授業で質問して分かったことの違いを話してみたいです。向こうの授業でも、分からないところを聞けるのか知りたいので」


「私は合同実技について」


 フリーダが続けた。


「武技と術を別々に学んでも、一緒に動くときには困ることがあります。そのために、どんな練習をしているか」


「俺は、剣術の稽古を。術師に近づけなかったとき、何を変えて練習したかを話します」


 アルノーが言うと、フリーダは目を細めた。


「私に足を止められたときの話?」


「はい。あの競技は、よく覚えています」


「なら、帰ったら私にも聞かせて。次に対戦するとき、同じ手が通じると思っていたら困るもの」


 アルノーが頷き、短く書き留める。


 マレーネの視線が、リュカへ移った。


「エアハルトは?」


「僕は、うまくできないときに、どう教えてもらっているかを」


 リュカは答えた。


「強い人の話ばかりだと、兵学府には僕みたいな生徒がいないと思われそうなので」


「失敗したことを並べるだけでは、愚痴になるぞ」


 机の端にいたヘルマンが言った。


「はい。先生に同じところを何度も直されていることも、お話しします」


「直されたところが、次に残っているといいんだがな」


 リュカは困ったように笑い、生徒たちからも小さな笑いが漏れた。


 セイルは、その横顔を一度見た。


 マレーネが彼の名を呼ぶ。


「クローデン」


「僕は、精霊との契約を増やそうとしたときの話をします。言葉を覚えて願えば、それで済むわけではなかったので」


「結果だけでなく、その間に何をしたかも整理しておきなさい」


「はい」


 セイルは紙へ書き始めた。


 朝の旧演習場。動かない布。覚え直した精霊語。何日も、自分の願いが届いたかすら分からなかった。


 そうして得た風で、ようやく槍が飛ぶようになった。


 それを、足りないものとしてばかり数えていた。


 書き終えた一行を消さずに、セイルは次の行へ進んだ。


     ◇


 船に揺られる日が、幾つか過ぎた。


 朝は甲板で身体をほぐし、船員が通れば場所を譲る。武器を振る代わりに、足の置き方と体重の移し方を確かめた。帳面を広げられるほど波が穏やかな時間には、質問と記録を整理する。


 ローディスは食事を残さなかった。ニナは二日目に一度、船室へ戻って休んだが、翌朝には教本の頁へ挟む紙を増やしていた。


 誰も、光の精霊術を見せてもらえるとは約束されていない。


 光座との面会も、まだ時刻は決まっていなかった。


 航海の四日目、朝の風が変わった。


 ローディスが甲板へ出ると、船員が岸の方を指していた。


 海の上に浮かぶ薄いもやの向こうへ、白い線が伸びている。


 初めは波だと思った。


 近づくにつれて、壁と屋根の形に分かれた。港から奥の斜面へ、明るい色の建物が重なっている。高い場所には、周囲の屋根から抜きん出た大きな建物があった。


「あれが、ルクシアですか」


 ローディスが尋ねると、そばへ来たマレーネが頷いた。


 そのとき、船首から鋭い声が上がった。


「左舷! 水棲(すいせい)の魔物だ!」


 町を見ていた人々が、一斉に海へ顔を向けた。


 船から数十歩離れたところで、水面が盛り上がっている。


 黒い背が現れた。板のように硬そうな鱗の間から、赤黒いひれが幾本も伸びる。続いて持ち上がった頭には、左右に三つずつの目が並んでいた。


 裂けた口が開く。


 細い歯の列が、奥へ何重にも続いている。


「手すりから離れろ!」


 ヘルマンが声を張った。


 ローディスはニナを後ろへ下がらせ、海へ向き直って剣の柄に手を掛けた。抜いたところで、まだ剣の届く距離ではない。


 セイルが杖先を海へ向ける。水と火の精霊へ願いを伝え、集めた水から熱を退けた。白い槍が、空中に形を取り始める。


 魔物の背後で海が割れた。


 長い尾が、水を叩く。


 その身体が、船へ向きを変えた。


 次の瞬間、町の中心部が光った。


 斜面の上にある大きな建物。その一角に、朝日より眩しい白が生まれた。


 港を見下ろす塔の上で、何かがきらりと傾く。


 別の塔が光り、岸壁の端でも同じ白が弾けた。


 目を細めるより先に、折れ曲がった光の筋が海までつながっていた。


 魔物の姿が、その白に呑まれた。


 セイルは、風の精霊へ願う声を失った。


 膨れ上がった蒸気が、海面を覆う。


 遅れて、短く鋭い音が届いた。押し広げられた波が船腹へ当たり、甲板が傾く。ローディスは足を開き、後ろのニナが倒れないよう腕を伸ばした。


 ひれも、鱗も、歯の並んだ頭も。


 白が消えた後には、一つも残っていなかった。


 海面から立ち上る湯気だけが、風に流されていく。


 氷の槍が、まだセイルの杖先に浮いていた。


「……今のが、光の精霊術ですか」


 セイルはマレーネへ尋ねた。


「ええ」


 教員も、蒸気の向こうを見ていた。


 船員たちは互いに船の状態を確かめ、次いで客へ怪我がないか声をかけた。船が揺れる前に屈んでいた者が、ようやく立ち上がる。


「途中で、光が曲がりましたよね」


 ニナが、ローディスの腕の後ろから塔を見た。


「上に何か、光るものがありました」


「こちらから見えたことは、そう記録しておきなさい。何を使い、誰が動かしているかは、まだ分かりません」


 マレーネが答えると、フリーダが海へ目を戻した。


「岸からこれだけ離れているのに、船には当てずに……」


 その声には、先ほどまでの自信とは違う響きがあった。


 セイルは杖を下ろした。


 ようやく出来た槍を撃つ前に、敵が消えてしまった。


 あの光が、もっと遠くから来ることもあるのだろうか。自分たちが何かに気づくより先に、そこへ届くことも。


 海を渡ってきた船が、急に小さく思えた。


「こんなに港の近くにも、魔物がいるんですね」


 ローディスが言った。


「黒淵は海上にあります。周辺の穴から海へ入り込んだものを、共同戦線がすべて討伐できているわけではありません」


 マレーネは船縁から離れ、生徒たちへ向き直った。


「水中へ潜られると、追うのも難しい。逃れた水棲の魔物が海を移動し、少しずつ各地へ広がっています。数はまだ少ないものの、離れた海域からも目撃報告が届くようになりました」


「ここで倒しても、ほかの海にいるものまでは倒せない」


 ローディスは、蒸気が薄れていく水面を見た。


「ええ。ですから、国境の内側だけを守れば済む話ではないのです」


 岸壁の端で、光を返したものが再び傾いた。今度は、白い筋は生まれなかった。


 ローディスは剣から手を離した。


 セイルも、残っていた氷の槍を船の外へ落とす。撃つ必要のなくなった杖を、身体へ引き寄せた。


 船は、波の収まった海を港へ向かって進んでいく。


「船を下りたら、先方の担当者と合流します。全員、荷をまとめておきなさい」


 マレーネが告げる。今度は、誰もすぐには返事をしなかった。


 ニナは眩しそうに目を細めた。


 白い壁は変わらず日を返している。ローディスの目には、今の光がまだ焼きついていた。


 セイルは、その上を見た。


 最初に光った建物が、あの力の起点だった。そこに光座がいるのか、それとも、さらに別の場所から光が届いたのか。


 白い壁を見つめても、その中の様子までは分からなかった。


 明るい岸辺へ、船の影が近づいていく。


 リュカが船室へ戻った後、ローディスも手すりから離れかけた。


「セイル。荷を取りに行こう」


「ああ」


 セイルは頷いた。


 光の契約について尋ねることと、もう一つ。


 出発前の指令にあった、闇の精霊術の噂。


 白い町のどこで、誰がそれを語っているのだろう。


 セイルは杖を持ち直し、船室へ続く階段を下りた。


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