第83話 出発前夜の右手
ローディスが描いた線を、アーデルハイトは拡大鏡の下へ置いた。
曲線のつながりを確かめ、板を傾ける。最後に、ローディスが持参した手本と見比べた。
「組み込んでみましょう」
小さな紋章板が、前腕を覆う金属の内側へ収まる。
蓋が閉じられた。
機構を試していたときと、重さはほとんど変わらない。それでもローディスは、右手を握る前に一度、深く息を吸った。
「材料は、いつも使っている鉄棒。初めは台へ置いたまま」
アーデルハイトは、試験台に載せた一本を示した。
「作動位置へ切り替えたら、少しずつマナを通して。早く終わらせようと、一度に注がないこと」
「はい」
ローディスは右手を鉄棒へ向けた。
親指を横へ送る。
こつりと、爪が止まる感触があった。
覚えた紋章へ、マナを渡す。
鉄棒の先が、ゆっくりと広がった。
薄くなる部分と、厚く残る部分。反対の端には、握るための長さが残される。
ローディスは口を閉じたまま、それを見ていた。
紙を開く必要はない。
次の音を思い出すために、息を止めることもない。
願いは、自分で描いた線の中にあった。
短い刃物の形が整う。ローディスはマナを止め、親指で機構を戻した。
「触っても?」
「まず、柄だけ」
アーデルハイトが答えた。
ローディスは拾い上げ、刃を横から見た。紙を見ながら作っていたものと、同じ形だった。
「できました」
「ええ。あなたの紋章でね」
アーデルハイトは、刃の根元を覗き込んだ。
「では、もう一本。疲れたなら、その前に言いなさい」
ローディスは右手を見た。
言葉を省けても、マナを使った感覚は残っている。道具が、代わりに支払ってくれたわけではなかった。
「少し休んでから、お願いします」
アーデルハイトは頷き、助手へ記録を指示した。
助手が記録用紙を持って隣室へ移ると、彼女は出来た刃物を指で示した。
「ただ、これだけなら、その刃物を最初から持っていけばいいわ」
ローディスは顔を上げた。
「材料と装具を持って、マナを使って同じものを作る。予備の一本を腰へ差す方が早くて確実でしょう?」
「……それは、そうです」
「今の試験は、あなたのマナを紋章へ通す機構を確かめるため。本当に作りたかったものは、その先よ」
アーデルハイトは別の板を取り出した。細い線が幾重にも重なり、ローディスにはどこで一つの紋章が終わるのかも分からなかった。
「紋章は、絵を写せば使えるわけではない。そこは習ったわね」
「はい。何を願う線なのか、自分で理解して描かなければならないと」
「声に出さないだけで、精霊に伝える言葉は必要なの。契約した相手もいなければ、どれほど正確に描いても受け取ってはもらえない」
彼女は複雑な板を、ローディスの描いたものの横へ置いた。
「本来なら、私がこれを描いて渡しても、あなたには使えない。願いの意味を理解し、自分で組み立てられるようになるまでね」
「これも、覚えるんですか」
「いいえ。その制約を越えるために作ったのよ」
ローディスの視線が、板から彼女へ戻った。
「手掛かりになったのは、エアハルトの脚に刻まれた紋章。調べているうちに、別々の働きをつなぐための構造が見えてきた」
アーデルハイトは、その中の一筋へ爪の先を添えた。
「あれを刻んだのは、彼自身ではないわ。それなのに、彼のマナで動き続けている。命の精霊と契約すらしていないのにね」
ローディスは、重なり合う線へ目を落とした。
「あの紋章の働きは、大きく分けて二つ。脚に封じられた魂による侵蝕を防ぐこと。そして、その働きを担う紋章を、彼の魂とマナにつなぐこと」
アーデルハイトの指が、線の交わる箇所で止まった。
「今回は、そのつなぎの構造を応用したの。あなたのマナを、金の精霊へ願いを伝える紋章につなぐ。命の精霊への紋章を介して、複数の紋章が連動するように組んであるわ」
「つまり、俺が描いていないものでも?」
「ええ。ただし、この仕組みを組み込んだものだけ。教本の紋章を何でも使えるようになるわけではないし、あなたの金の精霊との契約や、マナが不要になるわけでもない」
ローディスは、台の上の短い刃を見た。
あの形を作るためだけでも、何度も線を覚え直した。隣の板へ同じように取り組めば、どれだけかかるのか見当もつかない。
「だから、中を見せてはいけないんですね」
「そう。このガントレットの真価は、金属で手を覆うことでも、紋章を持ち歩くことでもない。あなたがまだ書けない願いを、使える形にしておくことよ」
アーデルハイトは、三つの位置を順に示した。
「組み込むのは三つ。それぞれの働きと、使ってはいけない状況を説明するわ。線を全部読めなくても、何が起きるかは理解してもらう」
ローディスは椅子を寄せた。
説明を聞き、一つずつ自分の言葉で確かめる。必要になるものと、届かないこと。取り違えれば何を失うのか。
試験へ移ったのは、彼が三つの使い分けを答えられるようになってからだった。
◇
それからの数日、ローディスは授業が終わると、約束した時刻に研究所へ通った。
最初の試験用紋章に代わり、三つの紋章が組み込まれた。
アーデルハイトの指示で一つを選び、働きを口にしてからマナを通す。結果を確かめ、空の位置へ戻す。次は順番を変えて、同じことを繰り返す。
同じ動作を重ねるうちに、右手へ視線を落とす回数は減った。
うまく働いても、すぐ次へは進まなかった。疲れを確かめ、試験の結果と説明の違いを聞き返す。期待したほどではなかったところも、記録へ残された。
「動かせることと、使いこなせることは別よ」
アーデルハイトの言葉に、ローディスは頷いた。
試すのは、紋章だけではなかった。
剣を振り、汗を拭き、もう一度切り替える。
革の内張りがずれれば詰め直す。腕へ当たる金属の縁を削る。何度も動かすうちに緩んだ留め具は、別のものへ替えられた。
見学に来たセイルが、机の部品を見て言った。
「最初に測った形から、ずいぶん変わりましたね」
「止まっている手に合うものと、剣を振り続ける手に合うものは違うのよ」
アーデルハイトは、ローディスの手首に残った赤い跡を確かめた。
「もう少し。そこを痛がって手を緩めるようでは、作った意味がないもの」
その日も、ガントレットは研究所へ残された。
ローディスは普段の手袋をはめ直し、大剣を背負った。
◇
出発の二日前、夜の旧演習場へ、三人は外套と頭巾で姿を隠して集まった。
アーデルハイトが降りてくると、リュカは観覧席の段へ座った。
「今日は僕の順番だね」
「ええ。旅程も確認したわ。まずは記録を見せて」
リュカが差し出した紙を、彼女は前回の記録へ重ねた。
両方の長靴を脱ぐ。
脚を囲む金属棒と、透明な検査板。その向こうで、アーデルハイトの目が細くなった。
ローディスは黙って待った。セイルも、紙へ向いた彼女の指先を見ている。
「前の検査から、大きな変化は見当たらない」
ようやく、アーデルハイトが言った。
「今の記録と検査では、移動そのものを止めなければならない兆候はないわ。ただし、力を使わず過ごしてきた間の話よ」
「向こうで試して確かめるつもりはないよ」
リュカが答えた。
「ええ。その条件は変えない。朝と夜に状態を確かめる。熱、痛み、急な怒りを感じたら、一人にならず二人へ伝える。石が光っていなくても、変化を感じたら待たないこと」
アーデルハイトはローディスとセイルへ顔を向けた。
「赤はマナの流れ、青は身体の変化。前に話した対応を覚えている?」
「赤なら、まず声をかけます。青まで点いたら距離を取って、俺たちを認識しているか確かめます」
ローディスが答えた。
「無理に押さえつけません。僕たちを敵だと思っているなら、離れます」
セイルが続けた。
リュカは膝へ目を落としたまま、聞いていた。
「一度でも異変が出たら、その先の調査は中止。船を待つ間に治ったように見えても、勝手に再開しないで」
「すぐに帰る船がなければ?」
セイルが尋ねた。
「移動も止めて、まず休ませる。私は海の向こうへすぐには行けない。症状が続くなら、引率者に体調の異変を伝えて、現地で診てもらいなさい」
アーデルハイトは、小さく折った紙をリュカへ渡した。
「診療を受ける場合の注意を書いてある。既存の紋章を削ったり、無理にマナを流したりしないこと。あなたが説明できない状態なら、二人から渡して」
「脚の中のことも?」
リュカが尋ねた。
「そこは書いていない。ただし、命に関わる症状まで隠して、診てもらうのは無理よ」
紙を持った指が、しばらく動かなかった。
「……分かった」
リュカはそれを畳み直した。
「向こうであなたを治せる人が見つかる、と約束しているわけではない」
アーデルハイトは、今度は静かに言った。
「それでも行くなら、異変が起きた後まで予定を守ろうとしないこと。その条件を添えて、依頼元へ検査結果を戻すわ」
リュカは頷いた。
検査板が片づけられ、金属棒が脚から離れる。
「二人にも、面倒をかけるね」
長靴を履きながら、リュカが言った。
「一緒に行くんだ。先に聞けてよかった」
ローディスが答えた。
「起きる前に決めておけば、そのとき迷わずに済む」
「君の脚をどうにかする方法は、僕たちには分からない。でも、休むことまで後回しにさせるつもりはないよ」
セイルの言葉に、リュカは小さく笑った。
「旅先でも、寝る時間を見張られるんだ」
「君が守るなら、見張らない」
セイルは即座に返した。
リュカは長靴の紐を結び、立ち上がった。
足首の二つの石は、最後まで暗いままだった。
◇
翌日の定時連絡で、渡航を認める返事が届いた。
三人は旧武器庫の陰で文面を確かめた。リュカの渡航には、昨夜の検査で示された条件が付いている。
ただし、認められたのは学府の文化交流への参加だけだった。現地での組織の任務からは外す、と明記されている。
「調査は、俺とセイルで担当する」
ローディスが指令を読み、リュカへ顔を向けた。
「うん。僕は交流団の生徒として過ごせ、ということだね」
リュカは文面から目を上げ、小さく頷いた。
任務は、交流で見聞きできる範囲の調査。
光の契約に必要な条件と、知識が受け継がれる仕組み。分からなければ、何を尋ね、どこまで答えてもらえたかを持ち帰る。
その下に、もう一つの調査項目が加わっていた。
光の国で、闇の精霊術の噂が流れているという。
「闇の精霊……?」
ローディスが読み返す横で、セイルも同じ行を見つめた。
「授業で習った、契約の記録がある属性にはなかったね」
「新しく契約した者がいるのか」
「噂だけでは分からないよ。何が起きて、そう呼ばれているのかを調べろと書いてある」
セイルは続く指示へ指を移した。
誰から聞いた話なのか。実際に見た者はいるのか。目撃したというなら、何を見たのか。精霊術だと決めつけず、伝聞と目撃証言を分けて報告すること。
侵入や強奪を求める指示は、加わっていなかった。
「二人で確かめられる範囲に留める。リュカを連れ出すことを当てにして、話を進めるな、ともある」
セイルが読むと、リュカは肩をすくめた。
「先回りされちゃったね。僕も、勝手に調べに行かないよ」
「何もつかめなくても、無理はしない」
ローディスが言った。
セイルも頷き、指令の末尾へ目を移した。
「帰国してからの報告でいいそうだ。途中で無理に連絡路を作る必要はない」
セイルが言った。
「異変があれば、調査より身の安全を優先する」
ローディスも、末尾を読んだ。
別紙には、ガントレットの携行許可があった。
研究用の機構は非公開。授業や交流の実演には使わず、自分たちや同行者の命を守るために必要な場合に限って使用する。
「向こうで使う機会がなくても、それでいい」
ローディスが言うと、リュカは隣から紙を覗いた。
「そのときは、ローディスが一度も秘密兵器を使わず帰ってきたって、僕が盛大に褒めてあげる」
「ほかの連中の前では言うなよ」
「もちろん。セイルに聞かせるんだよ」
リュカは笑った。
その笑顔を見てから、セイルは受領の返事を書いた。
◇
出発前夜、研究所の試験室には、灯りがまだ残っていた。
ローディスの前へ、細長い箱が置かれる。
中に収まっていたガントレットは、最初の図より少し薄くなっていた。右手の甲と前腕を覆う金属板。その内側にある紋章の線は、蓋を閉じると見えない。
ローディスは手を通した。
握る。手首を返す。親指を動かす。
慣れてきた手応えが、一度だけ返った。
「最後の留め具も、これなら当たりません」
「では、最後の確認を。三つとも、昨日説明した手順で」
ローディスは用意された試験台へ向かった。
一つずつ確かめ終えると、マナを止め、親指を空の位置へ戻す。疲れが引くのを待つ間に、アーデルハイトが記録を見直した。
「それでいいわ」
アーデルハイトは、確認を終えた紙へ署名した。
「持っていきなさい。試していない使い方はしないこと。旅先で勝手に線を書き足すのも駄目よ」
「分かりました」
ローディスは右手から装具を外した。
箱の内側には、練習と同じ太さ、同じ長さに揃えた鉄棒を二本収めた。形を変えるための材料であって、装具の中から鉄が湧いてくるわけではない。
紋章板も切替機構も、外側からは見えない。蓋を閉じれば、手の甲と前腕を守る金属製のガントレットだった。
学府へ提出した携行品の届けにも、戦闘用のガントレットとだけ記している。研究所や、内側の仕組みについて説明する必要はなかった。
「外から見せるだけなら、普通の防具よ。ただし、内側の蓋は開けないこと。機構を触らせたり、人前で術を使って見せたりもしないで。運ぶときは箱に鍵を掛けておきなさい」
「間に合いましたね」
付き添いのセイルが、箱の中を覗いた。
「もう少し早く渡してと言いたそうね」
「寝る時間は残りました」
セイルの返答に、アーデルハイトは笑った。
ローディスは箱を閉じ、両手で持ち上げた。
「ありがとうございます。使えるようにしてもらって」
「試験のたびに確かめたことを、向こうでも忘れないでね」
アーデルハイトは、彼の右手を見た。
「帰ったら、どう使ったか聞かせて。直すべきところもあるはずだから」
「はい」
ローディスは頭を下げた。
今度は、装具を研究所へ残さなかった。
◇
翌朝、寮の窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。
ローディスは普段の革手袋をはめ、大剣の帯を確かめた。鍵の掛かった細長い箱は、旅の荷へ収めてある。
食堂で朝食を済ませ、三人で正門へ向かった。
門前には二台の馬車が止まっていた。
先に来ていたニナが、膨らんだ鞄を抱え直す。そばではフリーダが旅程表を確認し、アルノーは御者へ荷物を渡していた。
「教本、三冊とも入った?」
セイルが尋ねると、ニナは首を振った。
「二冊にしたわ。残りは、必要なところだけ写したの」
「紙が増えた分、重くなっていない?」
「……少し」
リュカが、感心したように鞄を見た。
「向こうの質問にも、たくさん答えられそうだね」
「答えを探している間に、面会が終わらないといいけれど」
ニナは笑い、鞄の口を閉じた。
マレーネが名簿を開く。
一人ずつ名前が呼ばれた。
ベルグ。クローデン。エアハルト。
リュカの返事は、いつもと同じ軽さだった。
ローディスはその横顔を一度見て、自分の荷物を持ち上げた。
乗り込む前に、ヘルマンが六人へ言った。
「まずは港までだ。忘れ物があっても、学府まで取りに戻れると思うなよ」
生徒六人は三人ずつに分かれ、それぞれの馬車へ教員が一人乗った。ローディス、セイル、リュカにはヘルマンが付き、前を行く馬車にはマレーネと残る三人が乗る。
扉が閉まった。
御者の声がして、車輪が動き始める。
窓の外を、黄色くなった並木が後ろへ流れていった。
ローディスは座席の足元へ置いた荷を、倒れないよう支えた。
新しい右手は、その中にある。
窓枠へ置いた手には、使い慣れた革手袋がはまっていた。




