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黒淵のアストラ  作者: 咢
第6章 眩光

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第83話 出発前夜の右手

 ローディスが描いた線を、アーデルハイトは拡大鏡の下へ置いた。


 曲線のつながりを確かめ、板を傾ける。最後に、ローディスが持参した手本と見比べた。


「組み込んでみましょう」


 小さな紋章板が、前腕を覆う金属の内側へ収まる。


 蓋が閉じられた。


 機構を試していたときと、重さはほとんど変わらない。それでもローディスは、右手を握る前に一度、深く息を吸った。


「材料は、いつも使っている鉄棒。初めは台へ置いたまま」


 アーデルハイトは、試験台に載せた一本を示した。


「作動位置へ切り替えたら、少しずつマナを通して。早く終わらせようと、一度に注がないこと」


「はい」


 ローディスは右手を鉄棒へ向けた。


 親指を横へ送る。


 こつりと、爪が止まる感触があった。


 覚えた紋章へ、マナを渡す。


 鉄棒の先が、ゆっくりと広がった。


 薄くなる部分と、厚く残る部分。反対の端には、握るための長さが残される。


 ローディスは口を閉じたまま、それを見ていた。


 紙を開く必要はない。


 次の音を思い出すために、息を止めることもない。


 願いは、自分で描いた線の中にあった。


 短い刃物の形が整う。ローディスはマナを止め、親指で機構を戻した。


「触っても?」


「まず、柄だけ」


 アーデルハイトが答えた。


 ローディスは拾い上げ、刃を横から見た。紙を見ながら作っていたものと、同じ形だった。


「できました」


「ええ。あなたの紋章でね」


 アーデルハイトは、刃の根元を覗き込んだ。


「では、もう一本。疲れたなら、その前に言いなさい」


 ローディスは右手を見た。


 言葉を省けても、マナを使った感覚は残っている。道具が、代わりに支払ってくれたわけではなかった。


「少し休んでから、お願いします」


 アーデルハイトは頷き、助手へ記録を指示した。


 助手が記録用紙を持って隣室へ移ると、彼女は出来た刃物を指で示した。


「ただ、これだけなら、その刃物を最初から持っていけばいいわ」


 ローディスは顔を上げた。


「材料と装具を持って、マナを使って同じものを作る。予備の一本を腰へ差す方が早くて確実でしょう?」


「……それは、そうです」


「今の試験は、あなたのマナを紋章へ通す機構を確かめるため。本当に作りたかったものは、その先よ」


 アーデルハイトは別の板を取り出した。細い線が幾重にも重なり、ローディスにはどこで一つの紋章が終わるのかも分からなかった。


「紋章は、絵を写せば使えるわけではない。そこは習ったわね」


「はい。何を願う線なのか、自分で理解して描かなければならないと」


「声に出さないだけで、精霊に伝える言葉は必要なの。契約した相手もいなければ、どれほど正確に描いても受け取ってはもらえない」


 彼女は複雑な板を、ローディスの描いたものの横へ置いた。


「本来なら、私がこれを描いて渡しても、あなたには使えない。願いの意味を理解し、自分で組み立てられるようになるまでね」


「これも、覚えるんですか」


「いいえ。その制約を越えるために作ったのよ」


 ローディスの視線が、板から彼女へ戻った。


「手掛かりになったのは、エアハルトの脚に刻まれた紋章。調べているうちに、別々の働きをつなぐための構造が見えてきた」


 アーデルハイトは、その中の一筋へ爪の先を添えた。


「あれを刻んだのは、彼自身ではないわ。それなのに、彼のマナで動き続けている。命の精霊と契約すらしていないのにね」


 ローディスは、重なり合う線へ目を落とした。


「あの紋章の働きは、大きく分けて二つ。脚に封じられた魂による侵蝕を防ぐこと。そして、その働きを担う紋章を、彼の魂とマナにつなぐこと」


 アーデルハイトの指が、線の交わる箇所で止まった。


「今回は、そのつなぎの構造を応用したの。あなたのマナを、金の精霊へ願いを伝える紋章につなぐ。命の精霊への紋章を介して、複数の紋章が連動するように組んであるわ」


「つまり、俺が描いていないものでも?」


「ええ。ただし、この仕組みを組み込んだものだけ。教本の紋章を何でも使えるようになるわけではないし、あなたの金の精霊との契約や、マナが不要になるわけでもない」


 ローディスは、台の上の短い刃を見た。


 あの形を作るためだけでも、何度も線を覚え直した。隣の板へ同じように取り組めば、どれだけかかるのか見当もつかない。


「だから、中を見せてはいけないんですね」


「そう。このガントレットの真価は、金属で手を覆うことでも、紋章を持ち歩くことでもない。あなたがまだ書けない願いを、使える形にしておくことよ」


 アーデルハイトは、三つの位置を順に示した。


「組み込むのは三つ。それぞれの働きと、使ってはいけない状況を説明するわ。線を全部読めなくても、何が起きるかは理解してもらう」


 ローディスは椅子を寄せた。


 説明を聞き、一つずつ自分の言葉で確かめる。必要になるものと、届かないこと。取り違えれば何を失うのか。


 試験へ移ったのは、彼が三つの使い分けを答えられるようになってからだった。


     ◇


 それからの数日、ローディスは授業が終わると、約束した時刻に研究所へ通った。


 最初の試験用紋章に代わり、三つの紋章が組み込まれた。


 アーデルハイトの指示で一つを選び、働きを口にしてからマナを通す。結果を確かめ、空の位置へ戻す。次は順番を変えて、同じことを繰り返す。


 同じ動作を重ねるうちに、右手へ視線を落とす回数は減った。


 うまく働いても、すぐ次へは進まなかった。疲れを確かめ、試験の結果と説明の違いを聞き返す。期待したほどではなかったところも、記録へ残された。


「動かせることと、使いこなせることは別よ」


 アーデルハイトの言葉に、ローディスは頷いた。


 試すのは、紋章だけではなかった。


 剣を振り、汗を拭き、もう一度切り替える。


 革の内張りがずれれば詰め直す。腕へ当たる金属の縁を削る。何度も動かすうちに緩んだ留め具は、別のものへ替えられた。


 見学に来たセイルが、机の部品を見て言った。


「最初に測った形から、ずいぶん変わりましたね」


「止まっている手に合うものと、剣を振り続ける手に合うものは違うのよ」


 アーデルハイトは、ローディスの手首に残った赤い跡を確かめた。


「もう少し。そこを痛がって手を緩めるようでは、作った意味がないもの」


 その日も、ガントレットは研究所へ残された。


 ローディスは普段の手袋をはめ直し、大剣を背負った。


     ◇


 出発の二日前、夜の旧演習場へ、三人は外套と頭巾で姿を隠して集まった。


 アーデルハイトが降りてくると、リュカは観覧席の段へ座った。


「今日は僕の順番だね」


「ええ。旅程も確認したわ。まずは記録を見せて」


 リュカが差し出した紙を、彼女は前回の記録へ重ねた。


 両方の長靴を脱ぐ。


 脚を囲む金属棒と、透明な検査板。その向こうで、アーデルハイトの目が細くなった。


 ローディスは黙って待った。セイルも、紙へ向いた彼女の指先を見ている。


「前の検査から、大きな変化は見当たらない」


 ようやく、アーデルハイトが言った。


「今の記録と検査では、移動そのものを止めなければならない兆候はないわ。ただし、力を使わず過ごしてきた間の話よ」


「向こうで試して確かめるつもりはないよ」


 リュカが答えた。


「ええ。その条件は変えない。朝と夜に状態を確かめる。熱、痛み、急な怒りを感じたら、一人にならず二人へ伝える。石が光っていなくても、変化を感じたら待たないこと」


 アーデルハイトはローディスとセイルへ顔を向けた。


「赤はマナの流れ、青は身体の変化。前に話した対応を覚えている?」


「赤なら、まず声をかけます。青まで点いたら距離を取って、俺たちを認識しているか確かめます」


 ローディスが答えた。


「無理に押さえつけません。僕たちを敵だと思っているなら、離れます」


 セイルが続けた。


 リュカは膝へ目を落としたまま、聞いていた。


「一度でも異変が出たら、その先の調査は中止。船を待つ間に治ったように見えても、勝手に再開しないで」


「すぐに帰る船がなければ?」


 セイルが尋ねた。


「移動も止めて、まず休ませる。私は海の向こうへすぐには行けない。症状が続くなら、引率者に体調の異変を伝えて、現地で診てもらいなさい」


 アーデルハイトは、小さく折った紙をリュカへ渡した。


「診療を受ける場合の注意を書いてある。既存の紋章を削ったり、無理にマナを流したりしないこと。あなたが説明できない状態なら、二人から渡して」


「脚の中のことも?」


 リュカが尋ねた。


「そこは書いていない。ただし、命に関わる症状まで隠して、診てもらうのは無理よ」


 紙を持った指が、しばらく動かなかった。


「……分かった」


 リュカはそれを畳み直した。


「向こうであなたを治せる人が見つかる、と約束しているわけではない」


 アーデルハイトは、今度は静かに言った。


「それでも行くなら、異変が起きた後まで予定を守ろうとしないこと。その条件を添えて、依頼元へ検査結果を戻すわ」


 リュカは頷いた。


 検査板が片づけられ、金属棒が脚から離れる。


「二人にも、面倒をかけるね」


 長靴を履きながら、リュカが言った。


「一緒に行くんだ。先に聞けてよかった」


 ローディスが答えた。


「起きる前に決めておけば、そのとき迷わずに済む」


「君の脚をどうにかする方法は、僕たちには分からない。でも、休むことまで後回しにさせるつもりはないよ」


 セイルの言葉に、リュカは小さく笑った。


「旅先でも、寝る時間を見張られるんだ」


「君が守るなら、見張らない」


 セイルは即座に返した。


 リュカは長靴の紐を結び、立ち上がった。


 足首の二つの石は、最後まで暗いままだった。


     ◇


 翌日の定時連絡で、渡航を認める返事が届いた。


 三人は旧武器庫の陰で文面を確かめた。リュカの渡航には、昨夜の検査で示された条件が付いている。


 ただし、認められたのは学府の文化交流への参加だけだった。現地での組織の任務からは外す、と明記されている。


「調査は、俺とセイルで担当する」


 ローディスが指令を読み、リュカへ顔を向けた。


「うん。僕は交流団の生徒として過ごせ、ということだね」


 リュカは文面から目を上げ、小さく頷いた。


 任務は、交流で見聞きできる範囲の調査。


 光の契約に必要な条件と、知識が受け継がれる仕組み。分からなければ、何を尋ね、どこまで答えてもらえたかを持ち帰る。


 その下に、もう一つの調査項目が加わっていた。


 光の国で、闇の精霊術の噂が流れているという。


「闇の精霊……?」


 ローディスが読み返す横で、セイルも同じ行を見つめた。


「授業で習った、契約の記録がある属性にはなかったね」


「新しく契約した者がいるのか」


「噂だけでは分からないよ。何が起きて、そう呼ばれているのかを調べろと書いてある」


 セイルは続く指示へ指を移した。


 誰から聞いた話なのか。実際に見た者はいるのか。目撃したというなら、何を見たのか。精霊術だと決めつけず、伝聞と目撃証言を分けて報告すること。


 侵入や強奪を求める指示は、加わっていなかった。


「二人で確かめられる範囲に留める。リュカを連れ出すことを当てにして、話を進めるな、ともある」


 セイルが読むと、リュカは肩をすくめた。


「先回りされちゃったね。僕も、勝手に調べに行かないよ」


「何もつかめなくても、無理はしない」


 ローディスが言った。


 セイルも頷き、指令の末尾へ目を移した。


「帰国してからの報告でいいそうだ。途中で無理に連絡路を作る必要はない」


 セイルが言った。


「異変があれば、調査より身の安全を優先する」


 ローディスも、末尾を読んだ。


 別紙には、ガントレットの携行許可があった。


 研究用の機構は非公開。授業や交流の実演には使わず、自分たちや同行者の命を守るために必要な場合に限って使用する。


「向こうで使う機会がなくても、それでいい」


 ローディスが言うと、リュカは隣から紙を覗いた。


「そのときは、ローディスが一度も秘密兵器を使わず帰ってきたって、僕が盛大に褒めてあげる」


「ほかの連中の前では言うなよ」


「もちろん。セイルに聞かせるんだよ」


 リュカは笑った。


 その笑顔を見てから、セイルは受領の返事を書いた。


     ◇


 出発前夜、研究所の試験室には、灯りがまだ残っていた。


 ローディスの前へ、細長い箱が置かれる。


 中に収まっていたガントレットは、最初の図より少し薄くなっていた。右手の甲と前腕を覆う金属板。その内側にある紋章の線は、蓋を閉じると見えない。


 ローディスは手を通した。


 握る。手首を返す。親指を動かす。


 慣れてきた手応えが、一度だけ返った。


「最後の留め具も、これなら当たりません」


「では、最後の確認を。三つとも、昨日説明した手順で」


 ローディスは用意された試験台へ向かった。


 一つずつ確かめ終えると、マナを止め、親指を空の位置へ戻す。疲れが引くのを待つ間に、アーデルハイトが記録を見直した。


「それでいいわ」


 アーデルハイトは、確認を終えた紙へ署名した。


「持っていきなさい。試していない使い方はしないこと。旅先で勝手に線を書き足すのも駄目よ」


「分かりました」


 ローディスは右手から装具を外した。


 箱の内側には、練習と同じ太さ、同じ長さに揃えた鉄棒を二本収めた。形を変えるための材料であって、装具の中から鉄が湧いてくるわけではない。


 紋章板も切替機構も、外側からは見えない。蓋を閉じれば、手の甲と前腕を守る金属製のガントレットだった。


 学府へ提出した携行品の届けにも、戦闘用のガントレットとだけ記している。研究所や、内側の仕組みについて説明する必要はなかった。


「外から見せるだけなら、普通の防具よ。ただし、内側の蓋は開けないこと。機構を触らせたり、人前で術を使って見せたりもしないで。運ぶときは箱に鍵を掛けておきなさい」


「間に合いましたね」


 付き添いのセイルが、箱の中を覗いた。


「もう少し早く渡してと言いたそうね」


「寝る時間は残りました」


 セイルの返答に、アーデルハイトは笑った。


 ローディスは箱を閉じ、両手で持ち上げた。


「ありがとうございます。使えるようにしてもらって」


「試験のたびに確かめたことを、向こうでも忘れないでね」


 アーデルハイトは、彼の右手を見た。


「帰ったら、どう使ったか聞かせて。直すべきところもあるはずだから」


「はい」


 ローディスは頭を下げた。


 今度は、装具を研究所へ残さなかった。


     ◇


 翌朝、寮の窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。


 ローディスは普段の革手袋をはめ、大剣の帯を確かめた。鍵の掛かった細長い箱は、旅の荷へ収めてある。


 食堂で朝食を済ませ、三人で正門へ向かった。


 門前には二台の馬車が止まっていた。


 先に来ていたニナが、膨らんだ鞄を抱え直す。そばではフリーダが旅程表を確認し、アルノーは御者へ荷物を渡していた。


「教本、三冊とも入った?」


 セイルが尋ねると、ニナは首を振った。


「二冊にしたわ。残りは、必要なところだけ写したの」


「紙が増えた分、重くなっていない?」


「……少し」


 リュカが、感心したように鞄を見た。


「向こうの質問にも、たくさん答えられそうだね」


「答えを探している間に、面会が終わらないといいけれど」


 ニナは笑い、鞄の口を閉じた。


 マレーネが名簿を開く。


 一人ずつ名前が呼ばれた。


 ベルグ。クローデン。エアハルト。


 リュカの返事は、いつもと同じ軽さだった。


 ローディスはその横顔を一度見て、自分の荷物を持ち上げた。


 乗り込む前に、ヘルマンが六人へ言った。


「まずは港までだ。忘れ物があっても、学府まで取りに戻れると思うなよ」


 生徒六人は三人ずつに分かれ、それぞれの馬車へ教員が一人乗った。ローディス、セイル、リュカにはヘルマンが付き、前を行く馬車にはマレーネと残る三人が乗る。


 扉が閉まった。


 御者の声がして、車輪が動き始める。


 窓の外を、黄色くなった並木が後ろへ流れていった。


 ローディスは座席の足元へ置いた荷を、倒れないよう支えた。


 新しい右手は、その中にある。


 窓枠へ置いた手には、使い慣れた革手袋がはまっていた。


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