第82話 瓶の中の助言者
頁をめくる手が止まると、ガラスが二度鳴った。
「まだでしたか」
書見台の前に座った助手が、一枚戻す。
大きなフラスコの内側で、小さな手が開いた。透明な液体に浮かぶ身体は、掌に収まるほどしかない。薄い皮膚の下に細い血管が透け、膝を折った脚がゆっくり揺れていた。
その目だけが、紙の上を追っている。
人の手を描いた図だった。骨の並びと、指を曲げる筋の位置。その脇には、細かな説明が何行も添えられている。
助手は本を少し傾けた。
「これなら、端まで見えますか」
小さな頭が頷く。
次にガラスが一度鳴るまで、助手は頁を動かさなかった。
◇
アーデルハイトの研究室には、まだ空いたままの場所がある。
大きな培養設備のあった床だ。新しい工作台と、小さな観察器は置かれているが、以前の装置すべてが戻ったわけではない。
分解された金属部品を収めた箱が、壁際に積まれていた。
その前を、白衣の裾が床に触れない高さでアーデルハイトが横切る。組み直した四基の推進環は背後へ寄せ、室内では火を噴かせていない。頭上のU字型装具に、短い雷が走った。
「今朝は何冊目?」
「三冊目です。植物の図譜と、帝国の歴史。その後、これを選びました」
書見台の助手が答える。
足元には、題名を見せられるように本が並べてあった。
最初は絵へ指を向けるだけだった疑似生命が、文字と意味を結びつけるようになった。今では、読んだ頁へ戻るよう求め、分からない語のところで手を止める。
助手たちは本を替え、文字を教え、返事を待った。
昨日読めた言葉を、今日も覚えている。その確かめを何度も重ねて、今のやり取りができるようになっていた。
「私が頼んだ記録は?」
「つけています。一度叩いたら次へ、二度なら戻る。分からない語を指したときは説明する。先生にも渡しました」
「そちらではなく、装具の測定記録よ」
「それは向こうです」
もう一人の助手が、工作台から紙を持ち上げた。
「読書の話から、急に装具へ変えないでください」
書見台の助手が言った。
「どちらも私の研究でしょう」
「記録は別です」
アーデルハイトは笑い、書見台の横へ浮かんだ。
小さな命は、こちらを見ていた。
その指が、フラスコの口を指す。
助手の表情が変わった。
「外へ出たい、ですか」
小さな頭が頷いた。
「今日は出さないわ」
アーデルハイトが答えた。
即答だった。
初めて外へ移そうとしたときには、別の器にも同じ液を満たしていた。温度を揃え、フラスコの口も液へ沈めた。乾いた空気へ晒さず、小さな身体を支えながら移そうとしたのだ。
フラスコの口から出た指先が、裂けた。
続いて腕が痙攣し、まだ内側にあった胸まで動きが乱れた。すぐに戻し、命の精霊術を施さなければ、何が起きたか分からない。
今は、その指も動く。
傷が治ったことと、外で生きられることは別だった。
「支え方の問題ではなかった。液だけでも説明できない。器から離れたときに、身体の何が保てなくなるのか、まだ分かっていないの」
アーデルハイトはガラスへ指を添えた。
「全部出してみれば分かる、では済まないわ。次は戻す前に死ぬかもしれない」
内側の手が、ゆっくり下がる。
「あなたが外へ出られるようになれば、確かめたいことは山ほどある。でも、今失ったら、その全部ができなくなる」
小さな命は、しばらく彼女を見ていた。
やがて書見台へ向き直り、ガラスを一度叩いた。
助手が、次の頁を開く。
そこには、腕を伸ばした人間の姿が描かれていた。
◇
その日の夕刻、ローディスとセイルは研究所の別室へ通された。
光座との面会が認められた翌日。出発まで、あと八日だった。
採寸と試験のため、アーデルハイトが管理するこの部屋を使うよう、定時連絡で指定されていた。二人は外套と頭巾で顔を隠して訪れ、案内された部屋でだけ頭巾を下ろした。
奥の研究室へ続く扉は閉まっている。
ローディスは銀貨三十枚の入った袋を机へ置いた。助手が枚数を確かめ、受け取りを書面へ残す。
セイルはその紙を読み、見積もりと同じ条件であることを確認した。
「今日は、どこまで試せますか」
ローディスが尋ねる。
「まずは、剣を握った手に合うかどうか。まだ術は使わないで」
アーデルハイトが、作りかけのガントレットを差し出した。
右手用だった。
革の内張りへ指を通し、手の甲から前腕へ伸びる金属板を留める。紋章を入れる場所は空で、蓋も仮留めにすぎない。
「重くはありません」
「その感想は、振った後にも聞くわ」
アーデルハイトは部屋の中央を空けさせた。
セイルと助手が壁際へ下がる。ローディスは大剣を両手で握り、ゆっくり持ち上げた。頭上へ構え、斜めに下ろす。速さを出す前に、手首がどこまで曲がるかを確かめた。
「ここが当たります」
ローディスは振り終えた位置で止まった。
手の甲の板と、前腕の板。その境が、手首を返したところで強く触れている。
「もう少し重ねる部分を短くする。握りは?」
「掌は滑りません。ただ、親指を動かすと、柄を押さえる力が抜けます」
「どの位置までなら動かせるか、ゆっくり見せて」
アーデルハイトは、切り替え用の突起を少しずつ動かした。
握る。指を伸ばす。握り直す。
助手が測り、数値を書き直すたびに、突起の位置が変わった。
位置が決まる頃には、ローディスの額へ汗が浮いていた。
「強く握るだけでは動かない。親指で横へ送れば、使う位置へ切り替わる」
アーデルハイトが説明した。
「腕の小窓を見て。印が揃えば、最後まで動いている」
ローディスは右腕へ目を落とした。
突起を動かすと、細い窓の中で二本の線が揃う。
「分かります」
「剣を振って、戻した後にも試して」
ローディスは構え直した。
振り下ろし、親指を動かす。
また、腕を見る。
「途中で止まっています」
もう少し押すと、印が揃った。
セイルが壁際から口を開いた。
「そのたびに手元を見ていたら、相手から目を離しますね」
「ええ。今のままではね」
アーデルハイトは助手の記録へ線を引いた。
「切り替えたつもりで使えないのも、使えないつもりでマナを通すのも困る。ここは奥の工作台で直すわ」
ローディスはガントレットを外した。
続いて、練習してきた紋章の紙を広げる。
セイルに意味を確かめてもらいながら描いた、短い刃物を作るための線だった。アーデルハイトは一か所ずつ、何を指定しているか尋ねた。
すぐ答えられない箇所では、ローディスは手本へ戻った。
「形は覚えていても、ここが何を示すか曖昧ね」
「刃の厚みを、残すところです」
「どこに?」
ローディスは、用意した刃物の背を指した。
アーデルハイトは頷く。
「そこまで分かって描いて。線だけ似せても、あなたが何を頼むか分からないままでは困るわ」
その夜は、精霊術の発動までは試さなかった。
ローディスは描き直す箇所を確かめ、次に使う紋章板を研究所で渡してもらう約束をした。
「あと八日です」
帰り際、ローディスは言った。
「分かっているわ。出発前に渡せるよう進める。あなたも、描く練習を止めないこと」
「はい」
アーデルハイトは、机へ残された右手の装具を見た。
「使えない飾りを間に合わせても、私の仕事にはならないもの」
◇
二人を見送って研究室へ戻ると、読書はまだ続いていた。
助手の一人が書見台の椅子へ座り、もう一人は測定記録を工作台へ並べている。
「交代したの?」
「同じ姿勢で本を支えるのも、疲れるんです」
「台を高くすれば?」
「高くすると、この子から下の行が見えません」
アーデルハイトはフラスコを見た。
外からは、紙が全部見える。
内側の小さな目は、ガラスの膨らみと液体を通して、それを見ている。
「少しずつ位置を変えてあげて。見えているかは、この子に確かめること」
「今、そうしています」
助手が本を横へずらした。
だが、小さな顔は本を追わなかった。
アーデルハイトが抱えたガントレットを見ていた。
「そちらが気になる?」
頷いた。
彼女は本を閉じさせ、代わりに装具を置いた。切り替え用の突起と、小窓が見える向きにする。
「剣士が使うものよ。手で選んで、ここへ自分の描いた紋章を合わせる。今は空だけれど」
仕組みを動かして見せる。
小さな手が、ガラスの内側を横へなぞった。
「もう一度?」
アーデルハイトが突起を戻すと、首が横に振られた。
助手が、文字を並べた紙をフラスコへ寄せる。内側の指が示した字を、一つずつ別紙へ書き取った。
み、え、な、い。
「向きを変えてほしいの?」
アーデルハイトは装具を持ち上げた。
また、首が振られる。
今度は手の図を求めた。助手が先ほどの本を開くと、小さな指は、描かれた親指の腹へ止まった。
続いて、自分の目を片手で覆う。
残る手の親指を、横へ動かした。
アーデルハイトは、装具を見るのをやめた。
「見なくても、切り替わったと分かるように?」
小さな頭が、はっきり頷いた。
助手が顔を上げる。
「さっきの試験と、同じ問題ですね」
「試験の話はしていないのに、同じところへ気づいたのね」
アーデルハイトはフラスコへ目を戻した。
「あなたも、見えない場所では指で確かめているの?」
小さな手が、フラスコの底へ触れた。目は彼女へ向けたままだった。
それだけで、十分だった。
アーデルハイトは空いている助手へ手を出した。
「薄いばね板と、小さな爪を。切り替えの最後で、指へ押し返す感触を作る」
「音を出すだけでは?」
「剣がぶつかる場所で聞き取れるとは限らない。耳ではなく、操作した指で分からせたいの」
工作台へ設計図を広げる。
空の位置から、使う位置へ。
最後まで動いたときだけ爪が溝へ落ち、親指に確かな手応えを返す。途中では同じ感触が出ないようにする。
戻す側にも、別の止まりを設ける。
アーデルハイトは図へ線を加えた。
「押し込みすぎないようにすることばかり考えていたわ。私は選んだ紋章を頭で把握しているけれど、あの子は指で選ぶんだった」
頭上の装具へ目を向け、それからフラスコへ笑いかける。
「いい指摘よ。あなた、頁をめくってもらうだけでは物足りなくなったのね」
小さな命は、文字の紙を指した。
助手が寄せると、短い言葉ができた。
できたら、みたい。
「ええ。動くところを見せるわ」
アーデルハイトは答えた。
◇
二日後、ローディスは同じ試験室で右手を握っていた。
親指を横へ送る。
最後で、こつりと硬いものが指を押し返した。
「今、使う位置です」
腕は見なかった。
助手が小窓を確かめる。
「合っています」
空の位置へ戻す。途中で止める。もう一度、最後まで動かす。
同じ確認を繰り返した後で、ローディスは大剣を握った。ゆっくり振り、前を見たまま親指を動かす。
「これなら、分かります」
「強く振った後でも間違えないかは、続けて試す。汗をかいたときもね」
アーデルハイトは言った。
ローディスは頷き、構え直した。
机の上には、彼自身が描いた紋章板が一枚置かれている。今日ここで無地の板を受け取り、描き直してきた手本を確かめながら仕上げたものだ。アーデルハイトが線を検査し、問題がなければ組み込む。その後にようやく、鉄棒を使った発動試験へ進める。
出発まで、あと六日。
手に馴染ませる時間も、残さなければならなかった。
◇
奥の研究室で、助手は小さな機構の見本をフラスコへ示した。
アーデルハイトが試験用とは別に組んだ、同じ止まり方をする部品だった。
「最後まで動いたときだけ、ここが落ちます。使う人は、手元を見なくても分かったそうです」
ガラスの内側から、指が伸びる。
機構には届かない。
助手は部品をもう一度動かし、爪の落ちるところを近くで見せた。
小さな命はじっと見つめ、それから本の列へ指を向けた。
「次は、どれにしますか」
選ばれたのは、船を描いた本だった。
助手が書見台へ広げる。
瓶の中から出られない手が考えた仕組みを、やがて別の手が海の向こうへ運んでいく。
その小さな手は今、ガラス越しに、紙の上の帆へ触れようとしていた。




