↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒淵のアストラ  作者: 咢
第6章 眩光

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
82/90

第82話 瓶の中の助言者

 頁をめくる手が止まると、ガラスが二度鳴った。


「まだでしたか」


 書見台の前に座った助手が、一枚戻す。


 大きなフラスコの内側で、小さな手が開いた。透明な液体に浮かぶ身体は、掌に収まるほどしかない。薄い皮膚の下に細い血管が透け、膝を折った脚がゆっくり揺れていた。


 その目だけが、紙の上を追っている。


 人の手を描いた図だった。骨の並びと、指を曲げる筋の位置。その脇には、細かな説明が何行も添えられている。


 助手は本を少し傾けた。


「これなら、端まで見えますか」


 小さな頭が頷く。


 次にガラスが一度鳴るまで、助手は頁を動かさなかった。


     ◇


 アーデルハイトの研究室には、まだ空いたままの場所がある。


 大きな培養設備のあった床だ。新しい工作台と、小さな観察器は置かれているが、以前の装置すべてが戻ったわけではない。


 分解された金属部品を収めた箱が、壁際に積まれていた。


 その前を、白衣の裾が床に触れない高さでアーデルハイトが横切る。組み直した四基の推進環は背後へ寄せ、室内では火を噴かせていない。頭上のU字型装具に、短い雷が走った。


「今朝は何冊目?」


「三冊目です。植物の図譜と、帝国の歴史。その後、これを選びました」


 書見台の助手が答える。


 足元には、題名を見せられるように本が並べてあった。


 最初は絵へ指を向けるだけだった疑似生命が、文字と意味を結びつけるようになった。今では、読んだ頁へ戻るよう求め、分からない語のところで手を止める。


 助手たちは本を替え、文字を教え、返事を待った。


 昨日読めた言葉を、今日も覚えている。その確かめを何度も重ねて、今のやり取りができるようになっていた。


「私が頼んだ記録は?」


「つけています。一度叩いたら次へ、二度なら戻る。分からない語を指したときは説明する。先生にも渡しました」


「そちらではなく、装具の測定記録よ」


「それは向こうです」


 もう一人の助手が、工作台から紙を持ち上げた。


「読書の話から、急に装具へ変えないでください」


 書見台の助手が言った。


「どちらも私の研究でしょう」


「記録は別です」


 アーデルハイトは笑い、書見台の横へ浮かんだ。


 小さな命は、こちらを見ていた。


 その指が、フラスコの口を指す。


 助手の表情が変わった。


「外へ出たい、ですか」


 小さな頭が頷いた。


「今日は出さないわ」


 アーデルハイトが答えた。


 即答だった。


 初めて外へ移そうとしたときには、別の器にも同じ液を満たしていた。温度を揃え、フラスコの口も液へ沈めた。乾いた空気へ晒さず、小さな身体を支えながら移そうとしたのだ。


 フラスコの口から出た指先が、裂けた。


 続いて腕が痙攣し、まだ内側にあった胸まで動きが乱れた。すぐに戻し、命の精霊術を施さなければ、何が起きたか分からない。


 今は、その指も動く。


 傷が治ったことと、外で生きられることは別だった。


「支え方の問題ではなかった。液だけでも説明できない。器から離れたときに、身体の何が保てなくなるのか、まだ分かっていないの」


 アーデルハイトはガラスへ指を添えた。


「全部出してみれば分かる、では済まないわ。次は戻す前に死ぬかもしれない」


 内側の手が、ゆっくり下がる。


「あなたが外へ出られるようになれば、確かめたいことは山ほどある。でも、今失ったら、その全部ができなくなる」


 小さな命は、しばらく彼女を見ていた。


 やがて書見台へ向き直り、ガラスを一度叩いた。


 助手が、次の頁を開く。


 そこには、腕を伸ばした人間の姿が描かれていた。


     ◇


 その日の夕刻、ローディスとセイルは研究所の別室へ通された。


 光座との面会が認められた翌日。出発まで、あと八日だった。


 採寸と試験のため、アーデルハイトが管理するこの部屋を使うよう、定時連絡で指定されていた。二人は外套と頭巾で顔を隠して訪れ、案内された部屋でだけ頭巾を下ろした。


 奥の研究室へ続く扉は閉まっている。


 ローディスは銀貨三十枚の入った袋を机へ置いた。助手が枚数を確かめ、受け取りを書面へ残す。


 セイルはその紙を読み、見積もりと同じ条件であることを確認した。


「今日は、どこまで試せますか」


 ローディスが尋ねる。


「まずは、剣を握った手に合うかどうか。まだ術は使わないで」


 アーデルハイトが、作りかけのガントレットを差し出した。


 右手用だった。


 革の内張りへ指を通し、手の甲から前腕へ伸びる金属板を留める。紋章を入れる場所は空で、蓋も仮留めにすぎない。


「重くはありません」


「その感想は、振った後にも聞くわ」


 アーデルハイトは部屋の中央を空けさせた。


 セイルと助手が壁際へ下がる。ローディスは大剣を両手で握り、ゆっくり持ち上げた。頭上へ構え、斜めに下ろす。速さを出す前に、手首がどこまで曲がるかを確かめた。


「ここが当たります」


 ローディスは振り終えた位置で止まった。


 手の甲の板と、前腕の板。その境が、手首を返したところで強く触れている。


「もう少し重ねる部分を短くする。握りは?」


「掌は滑りません。ただ、親指を動かすと、柄を押さえる力が抜けます」


「どの位置までなら動かせるか、ゆっくり見せて」


 アーデルハイトは、切り替え用の突起を少しずつ動かした。


 握る。指を伸ばす。握り直す。


 助手が測り、数値を書き直すたびに、突起の位置が変わった。


 位置が決まる頃には、ローディスの額へ汗が浮いていた。


「強く握るだけでは動かない。親指で横へ送れば、使う位置へ切り替わる」


 アーデルハイトが説明した。


「腕の小窓を見て。印が揃えば、最後まで動いている」


 ローディスは右腕へ目を落とした。


 突起を動かすと、細い窓の中で二本の線が揃う。


「分かります」


「剣を振って、戻した後にも試して」


 ローディスは構え直した。


 振り下ろし、親指を動かす。


 また、腕を見る。


「途中で止まっています」


 もう少し押すと、印が揃った。


 セイルが壁際から口を開いた。


「そのたびに手元を見ていたら、相手から目を離しますね」


「ええ。今のままではね」


 アーデルハイトは助手の記録へ線を引いた。


「切り替えたつもりで使えないのも、使えないつもりでマナを通すのも困る。ここは奥の工作台で直すわ」


 ローディスはガントレットを外した。


 続いて、練習してきた紋章の紙を広げる。


 セイルに意味を確かめてもらいながら描いた、短い刃物を作るための線だった。アーデルハイトは一か所ずつ、何を指定しているか尋ねた。


 すぐ答えられない箇所では、ローディスは手本へ戻った。


「形は覚えていても、ここが何を示すか曖昧ね」


「刃の厚みを、残すところです」


「どこに?」


 ローディスは、用意した刃物の背を指した。


 アーデルハイトは頷く。


「そこまで分かって描いて。線だけ似せても、あなたが何を頼むか分からないままでは困るわ」


 その夜は、精霊術の発動までは試さなかった。


 ローディスは描き直す箇所を確かめ、次に使う紋章板を研究所で渡してもらう約束をした。


「あと八日です」


 帰り際、ローディスは言った。


「分かっているわ。出発前に渡せるよう進める。あなたも、描く練習を止めないこと」


「はい」


 アーデルハイトは、机へ残された右手の装具を見た。


「使えない飾りを間に合わせても、私の仕事にはならないもの」


     ◇


 二人を見送って研究室へ戻ると、読書はまだ続いていた。


 助手の一人が書見台の椅子へ座り、もう一人は測定記録を工作台へ並べている。


「交代したの?」


「同じ姿勢で本を支えるのも、疲れるんです」


「台を高くすれば?」


「高くすると、この子から下の行が見えません」


 アーデルハイトはフラスコを見た。


 外からは、紙が全部見える。


 内側の小さな目は、ガラスの膨らみと液体を通して、それを見ている。


「少しずつ位置を変えてあげて。見えているかは、この子に確かめること」


「今、そうしています」


 助手が本を横へずらした。


 だが、小さな顔は本を追わなかった。


 アーデルハイトが抱えたガントレットを見ていた。


「そちらが気になる?」


 頷いた。


 彼女は本を閉じさせ、代わりに装具を置いた。切り替え用の突起と、小窓が見える向きにする。


「剣士が使うものよ。手で選んで、ここへ自分の描いた紋章を合わせる。今は空だけれど」


 仕組みを動かして見せる。


 小さな手が、ガラスの内側を横へなぞった。


「もう一度?」


 アーデルハイトが突起を戻すと、首が横に振られた。


 助手が、文字を並べた紙をフラスコへ寄せる。内側の指が示した字を、一つずつ別紙へ書き取った。


 み、え、な、い。


「向きを変えてほしいの?」


 アーデルハイトは装具を持ち上げた。


 また、首が振られる。


 今度は手の図を求めた。助手が先ほどの本を開くと、小さな指は、描かれた親指の腹へ止まった。


 続いて、自分の目を片手で覆う。


 残る手の親指を、横へ動かした。


 アーデルハイトは、装具を見るのをやめた。


「見なくても、切り替わったと分かるように?」


 小さな頭が、はっきり頷いた。


 助手が顔を上げる。


「さっきの試験と、同じ問題ですね」


「試験の話はしていないのに、同じところへ気づいたのね」


 アーデルハイトはフラスコへ目を戻した。


「あなたも、見えない場所では指で確かめているの?」


 小さな手が、フラスコの底へ触れた。目は彼女へ向けたままだった。


 それだけで、十分だった。


 アーデルハイトは空いている助手へ手を出した。


「薄いばね板と、小さな爪を。切り替えの最後で、指へ押し返す感触を作る」


「音を出すだけでは?」


「剣がぶつかる場所で聞き取れるとは限らない。耳ではなく、操作した指で分からせたいの」


 工作台へ設計図を広げる。


 空の位置から、使う位置へ。


 最後まで動いたときだけ爪が溝へ落ち、親指に確かな手応えを返す。途中では同じ感触が出ないようにする。


 戻す側にも、別の止まりを設ける。


 アーデルハイトは図へ線を加えた。


「押し込みすぎないようにすることばかり考えていたわ。私は選んだ紋章を頭で把握しているけれど、あの子は指で選ぶんだった」


 頭上の装具へ目を向け、それからフラスコへ笑いかける。


「いい指摘よ。あなた、頁をめくってもらうだけでは物足りなくなったのね」


 小さな命は、文字の紙を指した。


 助手が寄せると、短い言葉ができた。


 できたら、みたい。


「ええ。動くところを見せるわ」


 アーデルハイトは答えた。


     ◇


 二日後、ローディスは同じ試験室で右手を握っていた。


 親指を横へ送る。


 最後で、こつりと硬いものが指を押し返した。


「今、使う位置です」


 腕は見なかった。


 助手が小窓を確かめる。


「合っています」


 空の位置へ戻す。途中で止める。もう一度、最後まで動かす。


 同じ確認を繰り返した後で、ローディスは大剣を握った。ゆっくり振り、前を見たまま親指を動かす。


「これなら、分かります」


「強く振った後でも間違えないかは、続けて試す。汗をかいたときもね」


 アーデルハイトは言った。


 ローディスは頷き、構え直した。


 机の上には、彼自身が描いた紋章板が一枚置かれている。今日ここで無地の板を受け取り、描き直してきた手本を確かめながら仕上げたものだ。アーデルハイトが線を検査し、問題がなければ組み込む。その後にようやく、鉄棒を使った発動試験へ進める。


 出発まで、あと六日。


 手に馴染ませる時間も、残さなければならなかった。


     ◇


 奥の研究室で、助手は小さな機構の見本をフラスコへ示した。


 アーデルハイトが試験用とは別に組んだ、同じ止まり方をする部品だった。


「最後まで動いたときだけ、ここが落ちます。使う人は、手元を見なくても分かったそうです」


 ガラスの内側から、指が伸びる。


 機構には届かない。


 助手は部品をもう一度動かし、爪の落ちるところを近くで見せた。


 小さな命はじっと見つめ、それから本の列へ指を向けた。


「次は、どれにしますか」


 選ばれたのは、船を描いた本だった。


 助手が書見台へ広げる。


 瓶の中から出られない手が考えた仕組みを、やがて別の手が海の向こうへ運んでいく。


 その小さな手は今、ガラス越しに、紙の上の帆へ触れようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。