第81話 六人の旅支度
木の盾に、白い傷が一本増えた。
セイルは杖を下ろし、飛ばした氷の槍が落ちた場所を見た。標的の布には届いている。だが、その手前に置いた盾の縁も削っていた。
「俺だったら、腕に当たっていたな」
後ろからローディスが言う。
旧演習場の朝は、まだ薄暗い。二本の柱に渡した糸から布を垂らし、その五歩手前へ、借りてきた練習用の盾を立てていた。三人は全員、射出位置より後ろにいる。
「盾の横を通した後で、標的へ戻そうとしすぎた」
セイルは盾の右側へ杖先を向けた。
「いったん、ここを通ってから曲げるつもりだったんだけどね」
「最初から、そこを通る位置へお前が動いたらどうだ」
ローディスはセイルの右へ回り、布を見た。
そこからなら、盾と標的は重なっていない。
「俺の後ろに立ち続けなくてもいい。横へ出るなら、動く前に言ってくれ」
「君も、その間はそちらへ動かないでいられる?」
「相手に押されたら、分からない」
「じゃあ、動かない約束ではなく、動いたら撃たない練習も要るね」
セイルは立つ位置をずらした。ローディスが再び後ろへ戻るのを待ち、水と火の精霊へ願う。生まれた氷の槍へ、風を重ねた。
今度は、盾に触れなかった。
布の右端が裂ける。
「こちらからなら、曲げずに通せる」
セイルは足元の位置を確かめた。
「ただし、相手も盾みたいに待ってはくれないね」
「まずは、俺に当てずに飛ばせるところからだ」
ローディスが答えると、リュカが盾へ向かって拍手をした。
「よく耐えたね。ローディスの代役を任されて、逃げもせず立ち続けるなんて」
「褒めるならセイルを褒めろ」
「もちろん。味方を避け、敵へ届かせる見事な一撃だったよ。次は布の真ん中がいいな」
「注文は拍手の前にまとめておいて」
セイルはそう返したが、杖を握り直した顔は、先ほどより少し明るかった。
◇
その日の合同座学で、マレーネは黒板へルクシア聖護国と書いた。
「文化交流の募集を始めたので、本日は訪問先について学びます。参加を希望していない者も、他国を知る必要がないわけではありません」
希望書の話だと思っていた生徒たちも、教本を開いた。
「先日は、光の精霊術を独占する国だと説明しました。ただ、それだけでは、なぜ光が国の呼び名にまでなっているのかは分かりませんね」
マレーネは国名の下へ、光座、と書き加えた。
「ルクシアは、光の力を国の守りの柱とする宗教国家です。光座は単に優れた術師としてではなく、聖なる守護者として敬われています」
「精霊術なのに、信仰の対象になるんですか」
ニナが手を挙げた。
「以前、精霊の存在が明らかになって、神を信じる人は少なくなったと習いました」
「ええ。しかし、何が力を起こしているか分かることと、その力を尊ぶことは別です。傷を治す仕組みを知っていても、治してくれた相手への感謝がなくなるわけではないでしょう」
マレーネは、光座の文字を白墨で囲った。
「まして、自分たちには使えない力が国を守っている。ルクシアを知るには、その力を人々がどう受け止めているかも考える必要があります」
「守る力が強ければ、ほかの国も攻めにくいですね」
ローディスが言った。
「そのとおりです。人族同士の戦争では、帝国と同じく、攻め込まれることの少ない強国でした。ただし、守りが強いからといって、他国へ攻め込まなかったわけではありません」
ローディスは、アーデルハイトから旅の途中で聞いた話を思い出した。帝国も光の国も、攻められることに慣れておらず、戦争を止める決断が遅かったという。
「守護者という呼び名も、守られる側からのものなんですね」
セイルが言った。
「そうです。隣国から見れば、恐ろしい敵だった場合もある。どの国の記録なのかによって、同じ戦いの語られ方は変わります」
マレーネは教本の頁を示した。
「これはルクシアに限った話ではありません。帝国の歴史を読むときにも、忘れないように」
ニナが書き留める間に、セイルは別の行へ目を移した。
「光の力で守ると言っても、どこまで届くのか、ほかの術と何が違うのかは、ここには書かれていません」
「この教本だけで、軍事上の運用までは分かりません。光という言葉から、自分の知る灯りを大きくしたものだと決めつけないことです」
「実際に見られれば、違いを確かめられますね」
「見せてもらえれば、です。交流で訪れる生徒へ、軍の手の内まで明かす約束はありません」
セイルは頷き、教本の余白へ小さく印をつけた。
マレーネは黒板の国名へ戻った。
「今日は、まず国家間の関係と、光座がどういう存在として敬われているかを押さえます。現地の人々が皆、同じ考えで暮らしているとまでは思わないように」
リュカは教本から顔を上げた。
希望書へ書いた、術を使わない人々の暮らし。
同じ光の下にいても、その光を見上げる気持ちまで同じとは限らないのだろう。
◇
交流団の選抜結果が掲示されたのは、その授業から六日後だった。
教室へ戻る途中、ニナが廊下の角から駆けてきた。短い赤茶色の髪が頬へかかり、手にした紙は端が少し折れている。
「三人とも、もう見た?」
「まだ。通れなかったからね」
リュカが掲示板の方を振り返った。昼休みの廊下には、紙を覗き込もうとする生徒が集まっている。
「載っていたわ。あなたたちも、私も」
ニナは、写してきた名簿を差し出した。
ローディスは自分の名前を見つけた後、セイルとリュカの名を確かめた。その上には、二人の上級生の名前も並んでいる。
「フリーダ先輩と、アルノー先輩か」
「全部で六人。今日の放課後、教員棟で説明があるんですって」
ニナの声が弾んでいた。
「希望書、何度も書き直したの。最後は、何を聞きたいのか自分でも分からなくなりそうだったわ」
「今は決まっている?」
セイルが尋ねる。
「ええ。向こうの子供が、何を最初に習うのか知りたい。精霊語なのか、歴史なのか。それとも、私たちが習わない何かなのか」
「教本を見せてもらえたら、比べられるね」
「そう。それで、向こうの生徒にも、こちらのことを聞いてもらえたらと思って」
ニナは紙を胸元へ戻した。
「質問することばかり考えていたけれど、私たちが答える番もあるでしょう」
ローディスは頷いた。
山へ行ったときには、聞かれてから、自分たちの説明が足りなかったと気づくことがあった。
「持っていく教本も、選んだ方がよさそうだな」
「荷物の量を聞いてからだよ」
セイルが言うと、ニナは少し困った顔で笑った。
「もう、三冊選んでしまったわ」
◇
放課後の説明室には、長い机を挟んで六脚の椅子が用意されていた。
窓側には、フリーダが座っている。濃紺の長い編み髪を背へ流し、配られた書面の端を指で押さえていた。向かいのアルノーは、長い脚を椅子の下へ収め直したところだった。
「ベルグ。お前も選ばれたんだな」
赤毛を束ねた上級生が、片手を上げる。
「はい。よろしくお願いします」
「もっと気楽でいい。船の上で手合わせを頼んだりはしない」
「甲板を壊したら、二人とも泳いで帰ってもらうことになりますからね」
フリーダが書面から顔を上げずに言った。
「まだ何も壊していませんよ、先輩」
アルノーが答えたところへ、ヘルマンが入ってきた。
「甲板では抜くなよ。全員、座れ」
その後ろから、マレーネが人数分の資料を抱えて入る。
引率は、この二人だった。
「出発は十日後。帝都から港へ向かい、船でルクシアへ渡ります。現地滞在は七日間、往復を含めて三週間を予定しています」
マレーネは旅程表を机へ置いた。
「天候によって船の日程は変わります。帰着が遅れた場合の授業は、学府側で調整します。君たちが個別に欠席の言い訳を考える必要はありません」
ローディスは、出発と帰着の欄を順に見た。
空白だった予定に、初めて日数が入った。
「滞在先、現地の担当者、移動する際の集合場所は、こちらに記載しています。案内役を名乗る者が来ても、引率者へ確かめずについていかないこと。学府で守っている確認の手順は、国外でも同じです」
セイルが、名簿と旅程表を重ねた。
「市街を見る時間もあるのでしょうか」
「あります。ただし、自由行動の範囲と帰着時刻は、その都度伝えます。現地の許可が必要な場所へ、勝手に入らないように」
マレーネは答え、隣のヘルマンへ目を向けた。
「武器についてはクルーガー教員から」
「普段使うものを持っていけ。訪問先で携行できるかは別だ。預けるよう言われた場所で揉めるな」
ヘルマンはローディスとアルノーを順に見た後、術師たちへ視線を移した。
「杖も同じだ。剣ではないから持ち込める、とは考えるな。外す紋章板や石があるなら、預ける前に自分で確かめろ」
「教本の持ち込みは?」
ニナが尋ねた。
「学府で通常配布しているものは構いません。見せたい頁には印をつけておきなさい。質問されてから探し続けることのないように」
「はい」
ニナが嬉しそうに書き留める。
マレーネは、課題の書かれた紙を配った。
「毎日の記録には、自分で見たこと、人から聞いたこと、自分で考えたことを分けて書きなさい」
セイルの筆が止まった。
「同じものを見ても、説明が違う場合は?」
「誰がどう説明したか、そのまま残します。帰るまでにすべての答えを出す課題ではありません」
マレーネは六人を見渡した。
「知らないことを増やして帰る場合もあるでしょう。そのとき、何が分からなかったのかを、説明できるようにしておくことです」
リュカが、自分の紙へ短く書き込んだ。
セイルには、その筆先がいつもよりゆっくり動いたように見えた。
◇
説明が終わっても、フリーダはすぐには立たなかった。
「クローデン。あなたは、光の契約について聞くつもり?」
「聞ける範囲では、そのつもりです」
セイルは答えた。
「先輩もですか」
「私は、光の術師が他の術師とどう組むのかを聞きたい。一人の術だけで、国境すべてを守れるとは思えないもの」
セイルは、競技でフリーダの水の矢が武技側の隊列を崩していた様子を思い出した。
「術の強さより、配置や連携ですか」
「強さも知りたいわ。ただ、強いから任せればよいという話では、私たちが学ぶことはなくなるでしょう」
フリーダは資料を揃えた。
「同じ質問ばかりしないように、出発までに一度見せ合いましょう」
「はい。お願いします」
セイルが頷くと、アルノーも身を乗り出した。
「俺は、向こうの剣士に稽古を見せてもらいたい。ベルグも来るだろう?」
「許可が出るなら。武器を構える前の作法も、教えてもらいたいです」
「先にそこを聞くのか」
「山では、武器へ手をかけただけで、争うつもりだと思われかねなかったので」
ローディスの返事に、アルノーは少し考えた。
「なるほど。腕前を見せる前に追い返されたら、話にならないな」
「僕は、それを見学する人に話を聞いてみたいです」
リュカが言った。
「稽古をしている人ではなく?」
アルノーが聞き返す。
「はい。どんなところを見て、強いと思うのか。僕には分からないことも、教えてもらえそうなので」
「お前も剣を習っているだろう」
「だからこそ、分からないところがたくさんあるんです」
リュカは悪びれずに笑った。
アルノーは釣られて笑い、空いた手で椅子を机へ戻した。
「なら、一緒に聞こう。あちらが俺たちの剣を見て、何と言うかもな」
◇
その夜、濃色の外套と頭巾で顔を隠した三人は、旧武器庫の定時連絡へ向かった。周囲に人がいないことを確かめ、いつもより厚い封書を小型ゴーレムの筒から取り出す。
外套の陰でセイルが開くと、中には二つの文面があった。
一つは、ガントレットの見積もりだった。
「最初の試作品と、一度目の調整までで銀貨三十枚。大きく作り直す場合は、その前に相談する、と」
セイルが読む横で、ローディスも金額を確かめた。
受け取った報酬のうち、取り分けてある金で払える。
「頼む。注文すると返事を書いてくれ」
「旅に持っていけなくても?」
「必要なのは、この旅だけじゃない」
ローディスは答えた。
納期の欄には、次の採寸後に決めるとあった。学校での使用を認めないことも、改めて記されている。
「正式に頼むことと、使用条件を確認したことを書く。支払いは、指定された受け渡しのときだね」
セイルは返送用の紙を取った。
もう一通は、リュカの渡航についてだった。
決まった旅程を報告すること。出発直前にも状態を確かめ、そのうえで判断すること。学府の選抜に通っただけで、調査任務への参加まで認められたわけではなかった。
「三週間か」
リュカは、昼に受け取った旅程表へ目を落とした。
「向こうで調子が悪くなっても、その日のうちには帰れないね」
「そこも含めて、診てもらうんだろう」
ローディスが言った。
「無理なら、今回は残る」
リュカは言ってから、少しだけ唇を結んだ。
「……できれば、行きたいけどね」
「その希望は、前にも伝えたよ。旅程も送れば、判断に必要なことが増える」
セイルは、往復の日数と現地の滞在期間を書き写した。
出発前にもう一度診察を受ける。異変があれば、それより先に知らせる。リュカも文面を確かめ、頷いた。
返事を筒へ戻すと、ゴーレムは封を閉じた。
まだ、旅へ持っていける装具はない。
リュカの名は、六人の名簿に載っている。だが、他の参加者には知らせていない条件が、まだ残っていた。
◇
翌日の昼、マレーネが三人とニナを教員机へ呼んだ。
「先方から、追加の返事が届きました。上級生二人には、後で伝えます」
差し出された紙に、セイルの目が止まる。
面会の申請は、受け入れられていた。
「滞在中、光座にお会いできます。時刻と場所の詳細は、現地での確認になります」
ニナが息を弾ませた。
「質問を、もう少し整理しておきます」
「ええ。ただし、こちらにも用意しておくことがあります」
マレーネは、返書の下段へ指を置いた。
「光座も、帝国での学びや暮らしについて話を聞きたいそうです。立派な戦果ばかり並べるのではなく、普段どんな一日を送っているか、伝えられるようにしておきなさい」
「普段の、一日ですか」
ローディスが尋ねた。
「そう書かれています」
ローディスは、朝の演習場を思い浮かべた。
擦り切れた手本。氷で傷のついた盾。食事の鐘を聞いてから、慌てて道具を片づける三人。
話してよいことだけでも、一日はずいぶん長い。
「それなら、話せると思います」
ローディスは答えた。
隣でリュカも、返書を覗き込んでいた。
光の力を持つ者に、何を尋ねようか。
そればかり考えていた旅に、向こうからの問いが一つ加わった。




