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黒淵のアストラ  作者: 咢
第6章 眩光

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第79話 光の国への希望書

 朝の風が、開け放した窓を閉じたくなる冷たさに変わっていた。


 寮から教室へ続く道では、木々の葉の端が黄ばみ始めている。昼にはまだ夏の熱が石畳に残るのに、夕食の鐘が鳴る頃には、日陰を歩く生徒たちが外套の前を合わせるようになった。


 フィルが山から返事を運んできてから、四週間が過ぎていた。


 三人で書いた返事は、休息を終えた小さな竜が引き受け、村へ届けてくれた。怪我は治ったこと。授業を受けていること。ローディスが金の精霊と契約できたことまで書くと、紙は思っていたより早く埋まった。


 事件について、新たに伝えられることはなかった。


 学府の掲示板には、呼び出しの確認を求める紙が今も貼られている。校外へ出るたびに行き先を書くのも、もう珍しいことではなくなっていた。


 その朝、ローディスは授業の前に旧演習場へ来ていた。


 石の上に、短い鉄棒を一本置く。


 隣へ広げた紙は、幾度も開いた折り目が擦り切れていた。契約の文を書いた最初の一枚ではない。今練習している形に必要な言葉を、セイルと確かめながら書き足したものだ。


 ローディスは精霊語を口にした。


 棒の一端を薄く延ばす。中央には厚みを残し、反対の端は握れる長さに留める。


 覚えた文の途中で一度息を継ぎ、次の行を確かめた。


 鉄の輪郭が、ゆっくりと変わる。


 できあがったのは、柄と刃が一続きになった、短い刃物だった。


 ガルドの工房で形と厚みを確かめ、同じ材料で繰り返してきたものだ。柄にはまだ木も革もない。刃を横から透かして見ると、先へ近づくほど薄くなっている。


 ローディスは革手袋をした手で柄を持ち、用意していた藁束へ刃を引いた。


 数本が切れて落ちた。


「昨日より早かったね」


 後ろで見ていたセイルが言った。


「途中の言葉を忘れなかった」


「紙は見ていたけど」


「全部は覚えてないからな」


 ローディスは刃を石へ戻した。大剣は、すぐ脇の壁へ立て掛けてある。


 これで敵の剣を受けられるとは、ガルドには言われていない。形を作れるようになったからといって、鍛冶屋が仕上げた武器と同じにはならなかった。


 それでも、棒だったものが、切るための刃になっている。


 最初の輪は、あれから工房で接合まで教わった。今は同じように、刃物の厚みと強さを、一つずつ確かめていた。


「とうとう剣士が、剣を持たずに現れる時代が来たんだね」


 リュカが感心したように両手を合わせた。


「旅先の武器屋が震え上がるよ、ローディス」


「鉄は持っていく。今は大剣も手放さない」


「そのうえ、できた刃を見てもらいに鍛冶屋へ通うんだよ」


 セイルが付け加えると、リュカは壁際の大剣を見た。


「荷物は増えたんだ」


「できることも増えた」


 ローディスはそう返し、刃物を厚い布へ包んだ。


 代わって、セイルが柱へ向き直る。


 白い布を吊った柱まで、二十歩。ローディスとリュカが自分の後ろにいることを確かめてから、杖を上げた。


 水と火の精霊へ願い、氷の槍を形作る。風へ伝える言葉を重ねると、穂先が布へ向かって走った。


 乾いた音がした。


 布の中央に穴が開き、槍はその後ろの地面へ突き立つ。


 続く二本目も、布を貫いた。


 三本目は外れた。横から吹いた風へ対応しようとして、逆に先端を振りすぎたのだ。


「全部当ててから、褒めてもらうつもりだったんだけどね」


 セイルが杖を下ろす。


「二本当たった。前なら、ここからは届かなかった」


 ローディスは布の穴を見て言った。


「次は、俺が前に立った状態でも試すか」


「まだだよ。風が変わっても当てられるようにしないと、外した槍が君の背中に刺さる」


「だったら、次は俺の代わりに木の盾を置こう。それに当てずに通せるか、先に試せばいい」


「そうしよう。人を立たせるのは、それからだね」


 セイルは自分の立っていた場所と柱の間を見た。


 ローディスが前へ出た後にも、ここを通さなければならない。標的だけを見ている今より、考えることは多くなる。


 朝の鐘が鳴った。


 以前より暗いうちから始めるようになっても、使える時間はすぐに尽きる。


 三人は道具を片づけ、朝食へ向かった。


     ◇


 一時限目の前、教室ではニナが一枚の紙を眺めていた。


 机へ置いた紙の上部には、学府の印がある。


「今度は何の課題だ」


 ローディスが尋ねると、ニナは顔を上げた。


「課題じゃないわ。まだ掲示を見ていないの?」


「朝は演習場にいた」


「文化交流の参加希望者を募るんですって。行き先は、光の国」


 セイルが、椅子を引く手を止めた。


「光の精霊術を見られるの?」


「そこまでは書いてない。でも、現地の術師と話す機会はあるみたい」


 ニナは紙をこちらへ向けた。


 ルクシア聖護国(ルクシアせいごこく)への文化交流団。教員の引率のもと、現地の歴史や生活、精霊術の利用を学ぶ、と記されている。


 希望理由を書く欄は、紙の半分ほどもあった。


「ニナは行きたいのか」


「ええ。教本に載っていることと、そこで暮らす人が話すことを比べてみたいの」


 ニナは筆先を止めたまま、少し考えた。


「でも、それだけだと何を聞きたいのか分からないでしょう。もう少し絞らないと」


「ローディスなら、食事について詳しく書けそうだね」


 リュカが横から言った。


「俺の希望理由を先に決めるな」


 ローディスが答えたところで、教室の扉が開いた。


 マレーネが、教本と紙の束を抱えて入ってくる。


「交流団の話を先にします。掲示を読んだ者も、席へ着いて聞きなさい」


 生徒たちが椅子へ戻る。ニナも希望書を自分の机へ戻した。


「今回の募集には、一年生も応募できます。ただし、希望者全員が参加できるわけではありません。希望理由と日頃の学習状況を確認したうえで、学府が選抜します」


 紙の束が、前の席から後ろへ回された。


「旅程や参加中の課題は、選抜後に説明します。休暇ではなく、学府の課程としての訪問です」


 マレーネは机上の案内を開いた。


「先方との受け入れ調整と渡航は、軍務院が支援します。現地での引率と、生徒が何を学ぶかを決めるのは学府です」


 ローディスは受け取った一枚を机へ置いた。


 前の演習にも、引率者はいた。それだけで安全だと決めつけることはできない。参加が決まったなら、現地でどこまで動いてよいのか、誰と行動するのかも確かめようと思った。


「光の精霊と契約する方法も、教えてもらえるんですか」


 セイルが手を挙げて尋ねた。


「それは交流の約束に含まれていません」


 マレーネは答えた。


「光の精霊術は、ルクシアが独占している技術です。帝国の教本に、契約までの具体的な手順は載っていないでしょう」


「はい。申し込む言葉は学べても、光については契約した者の記録がありません」


「そのため、帝国と同じように学べると期待して行かないことです」


 セイルは紙へ視線を下ろした。


 水とも火とも、風とも、精霊語を通して契約を結んだ。原初契約は、人族全体に対して結ばれたはずだ。


 それなのに、光だけは一つの国の内側に留まっている。


「では、術を使う方にお会いすることは?」


 ニナが尋ねた。


「光の力によって国を守る術師を、あちらでは〈光座(こうざ)〉と呼びます。交流の日程には、光座への面会も申し入れています。ただし、現時点で確約はありません」


「会えたら、何を質問してもいいのでしょうか」


「相手が答えたくないこともあると理解しているなら、質問はできます。歓迎されることと、すべてを見せてもらえることは別です」


 ニナが頷き、希望書とは別の紙へ書き留めた。


 マレーネは全員に紙が行き渡ったのを確かめる。


「精霊術の専攻者だけを募集しているのではありません。武技を学ぶ者も、他国の人々の暮らしと考え方を知る機会です。関心があれば、何を学びたいのか自分で考えて書きなさい」


 ローディスは空欄へ目を落とした。


 山では、帝国のやり方が通じないことを何度も思い知った。知らずに武器へ手をかければ、それだけで相手を怒らせることもある。


 戦わずに済むために、先に知っておくべきことがある。


 短く書き始めたところで、隣から小さな声がした。


「食事じゃないんだね」


 リュカが覗き込んでいる。


「お前は何を書くんだ」


「まだ考えてる。君のを写すつもりはないよ」


「エアハルト。相談は授業の後に」


 マレーネに呼ばれ、リュカは顔を上げた。


「はい」


 にこりと笑って、白紙の希望書を教本の下へしまう。


 セイルはもう、最初の一行を書き終えていた。


     ◇


 その日の夕方、三人は旧武器庫の軒下へ集まった。


 制服の上には濃色の外套を羽織り、頭巾を下ろして顔を隠している。周囲に人がいないことを確かめてから、石壁の内側へ入った。


 前日の定時連絡で、この時刻に集合するよう通知されていた。リュカは、金の精霊術の練習状況と検知環の記録をまとめた報告も持ってきている。


 低い石壁の陰から、土人形が現れる。


 昼より冷たくなった風の中で、セイルが背の筒から紙を抜いた。


「文化交流の参加を希望すること」


 最初の行を読んで、セイルは二人を見た。


「三人とも、だって」


「行けると決まったわけじゃない」


 ローディスが言う。


「そのことも書いてある。学府の選抜を受ける。選ばれた場合の任務については、出発前に改めて説明する、と」


 セイルは紙を傾け、残った明かりの中で続きを追った。


 調査の対象は、光の精霊術。


 契約の成立には何が必要で、その知識は誰から誰へ伝えられているのか。なぜ他国に契約者がいないのか。交流で得られる情報を集め、帰国後に報告する。


 立入禁止区域への侵入、契約手順の強奪、現地での独断の秘密交渉は禁止されていた。


「盗み出せ、ではないんだな」


 ローディスが紙へ目を寄せた。


「少なくとも、今の指示ではね。招かれて見聞きできる範囲から調べろ、ということだよ」


 セイルは下段を指で押さえた。


「出国の可否は別途判断。リュカは、その前に再検査を受けること」


「希望書より、そっちの方が難しそうだね」


 リュカが言った。


 軽い声だったが、足元へ向いた視線はすぐには戻らなかった。


 この四週間、脚があの夜のように変わることはなかった。だからといって、刻まれた紋章の内側まで元に戻ったとは限らない。


「診てもらおう」


 ローディスが言った。


「遠くへ行ってからでは、すぐに頼めない」


「うん。検査は受けるよ」


 リュカは顔を上げた。


「二人に、また朝早く起きてもらうのも悪いからね」


「時刻の問題じゃないよ」


 セイルは答え、紙の末尾まで目を通した。


 帝国内の事件を独自に追うことは、引き続き禁じられている。新しい依頼は、あの男の足取りを追わせるためのものではなかった。


「希望書は、明日出す」


 ローディスが言うと、セイルが頷いた。


「僕も。光の契約について知りたいのは、本当だからね」


「そう言って、希望理由に調査と書かないでね」


 リュカが笑う。


「書かないよ。交流で学びたいことを書く」


「僕は何を書こうかな。二人を褒めるだけなら、あの欄じゃ足りないんだけど」


「お前が何を学びたいかを書くんだろう」


 ローディスに返され、リュカは少しだけ黙った。


「……そうだね。そこは、自分で考えるよ」


 セイルが、依頼を受け取った旨を余白へ記す。リュカの持参した報告とともに紙を戻すと、ゴーレムは筒を閉じ、石壁の陰へ帰っていった。


 残った三人の足元を、黄色い葉が一枚、転がっていく。


 ローディスは制服の内側へ手を入れた。朝受け取った希望書が、折り畳んで入っている。


 光を学ぶために訪れる旅。


 その裏で確かめるのは、光の力を一つの国に留めている理(・)由(・)だった。


     ◇


 同じ頃、軍政総監府の執務室では、交流団の渡航費に関する書面が机へ置かれていた。


「学府で、参加希望者の募集が始まりました」


 コンラートの報告に、アウレウスは頷いた。


 撫でつけた黒髪の下で、細い口髭の端が僅かに上がる。


 諸国共同戦線を支える次代の育成。


 異なる国の精霊術を学び、互いの理解を深めるための文化交流。


 軍政総監として、その名目でルクシア側へ受け入れを働きかけ、渡航への支援を用意したのは彼だった。


「引率教員からの報告にも、光の契約に関する項目を設けますか」


 コンラートが尋ねた。


「表には出すな。初めから秘伝を調べると書けば、見せてもらえるものまで減る」


 アウレウスは支出額の横へ署名した。


「どこを見せられ、何を尋ね、どう答えられたか。まずは、それを持ち帰ればよい。教える者と学ぶ者なら、武官が聞けば警戒されることも話題にできる」


「それだけで、契約の手順まで辿れるでしょうか」


「一度で手に入るとは思っていない。次に何を調べればよいか、その足掛かりを作る」


 学びたい者を送り込めば、彼らは自ら問いを探す。立派な課題を与えれば、見聞きしたものを丁寧に記録する。


 最初から、秘密を盗めと命じる必要はなかった。


「光の精霊術を、帝国にも?」


 コンラートが問う。


「あの国だけに使わせておく理由があるか」


 アウレウスは筆を置いた。


「契約を成立させる条件を掴めば、帝国の術師にも道が開けるかもしれん。兵を育て、武器を揃えるのと同じだ。国を強くするために使える力なら、手に入れる価値がある」


「派遣する生徒の指定は」


「学府に選ばせろ。学ぶ意欲のある者を、わざわざこちらで選び直す必要はない」


 署名を終えた書面を、コンラートへ渡す。


 そこに記された目的は、最後まで文化交流のままだった。


「よその国の宝を眺めさせるために、金を出したのではない」


 軍政総監は、静かに笑った。


「帝国で使う方法を、見つけてもらうのだ」


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