第78話 山からの返事
山へ届いた手紙を、ドルガは二度読んだ。
炉の前では、フィルが長い飛行で冷えた翼を広げている。エルナは水を入れた器をそのそばへ置き、父の手元へ目を戻した。
「運ばせたと認めたのね」
「ああ。黒い根を持ち込ませたのは自分だと、調べていた者たちへ話したそうだ」
ドルガは紙を机へ伏せず、娘にも読める向きへ回した。
男は、自分の判断で行ったことであり、帝国の命令ではないと述べたという。ただし、その言葉を裏づけるものはなく、男自身も捕らえられてはいない。
書き手は、そこを曖昧にしていなかった。
「自分でそう言えば、帝国には関係がなくなるの?」
「ならん」
ドルガは短く答えた。
「だが、あの三人が村へ来たことまで、同じ企みにしてしまうわけにもいかん」
エルナは、紙の端から指を離した。
山で六本指の異形を追い詰めたとき、ローディスは自分へ向いた攻撃を防いだ。セイルもリュカも、その場から逃げなかった。
それを見ていない者の説明で、あの日を塗り替えられるのは嫌だった。
「留め具は、ここへ置いておくわ」
エルナは炉のそばの箱を見る。油紙と獣皮に包んだ鉄片は、村長の印を施したまま収めてあった。
「渡して調べてもらうより、今はその方がいいのでしょう」
「そう書いてある。帝国の印を持つ者が来ても、それだけでは渡さん」
ドルガは新しい紙を引き寄せた。
警告を受け取ったこと。留め具を引き続き保管すること。訪問者の名は、これまでどおり事前に知らせてもらうこと。
最後の行を書く前に、筆を止める。
「グレンガルドへ、この手紙をお見せしてこい。男の言葉だけで、帝国への疑いが消えたとは伝えるな」
「分かってる。村が危ないと知らせてきた人たちがいることも、伝えるわ」
エルナは手紙を受け取った。
炉の前で、フィルが喉を鳴らす。傍らの皿に載った肉は、いつの間にかなくなっていた。
「返事ができたら、また帝都へ運んでいただける?」
エルナが竜語に切り替えて尋ねると、フィルは丸めていた翼を開いた。胸元の革鞄を鼻先で押し、それから空の皿を見る。
エルナは小さく息を漏らした。
「食べる分は用意するわ。出発は、休んでからにしてね」
フィルは満足したように翼を畳んだ。
ドルガが書き終えるのを待ち、エルナも一枚、紙を取った。
「そちらは誰に書く」
「三人に。帝都のことばかり聞かせてもらって、こちらから何も知らせないのも変でしょう」
父はそれ以上、尋ねなかった。
◇
数日後、帝都の軍務監察局で、ディルクは右手首の包帯を巻き直していた。
指は動く。だが、留め具を引くと、まだ奥が痛んだ。
机の向こうから、エレオノーラが一通の手紙を差し出す。
「村から返事が届きました。フィルが学府へ運び、ハルトマン教員を通して私へ」
ディルクは左手で受け取った。
留め具の保管は続ける。男の所属と、誰がどこまで関わったかについては、引き続き説明を求める。村と竜族への報告を、男自身の言い分だけで済ませないでほしい。
簡潔な文面だった。
「当然の返事だな」
ディルクは読み終えた紙を、封筒へ戻した。
「こちらが捕らえられなかった相手の言葉を、信用しろとは言えん」
「村との連絡は続けられます。警告も受け入れてもらえました」
エレオノーラが答える。背もたれへ深く身体を預けずに座っているのは、胸の痛みがまだ残るためだった。
窓から離れた椅子で、エヴァが脚を組み替えた。
「私の担当分も、移し終えたわ。今のところ、異常はない」
「こちらもだ」
ディルクは答えた。エレオノーラも頷く。
三人とも、場所は口にしなかった。
証人も、物証も、一か所へは集めない。誰か一人の行き先を追われても、すべてには届かないようにする。そのために、それぞれが引き受けた分だけを確かめていた。
「男の居場所は分からないままね」
エヴァの言葉に、ディルクは机へ置いた手を見た。
あの夜は、剣を振るうことさえ許されなかった。相手は三人を殺さず、去った。見逃されたという事実は、包帯の下の痛みより重い。
「ああ。だが、今こちらから動けば、ようやく移した者たちまで危険に晒す」
ディルクは顔を上げた。
「追跡は再開しない。証言を取り直す必要があっても、三人を一度に呼び戻すな」
「分かっているわ」
エヴァが答えた。
「あの男を捕らえるのは、別の機会ね」
「その機会まで、あったことを消させない」
ディルクは村からの手紙を、机の引き出しへ収めた。
鍵の回る音が、部屋に響いた。
◇
その日の放課後、ローディスたちは教員棟で、もう一通の手紙を受け取った。
「こちらは、君たち三人に宛てたものです」
マレーネは封を開けずに差し出した。宛名の下に、エルナの名がある。
窓辺では、フィルが前脚を揃えて座っていた。ローディスが礼を言うと、小さな竜は首を高くし、翼の先を一度持ち上げた。
ローディスは封を切った。セイルとリュカも横から覗き込む。
村の警戒は続けているが、新たな被害は出ていないこと。残した留め具は無事で、父から調査をしている者へも返事を書いたこと。
続く行で、筆の跡が少し太くなっていた。
『地下で襲われたと聞いた。怪我はもう治ったの? 返事には、自分たちが無事かどうかも書いて』
ローディスは、その一文を読み直した。
「心配させたな」
「前の報告には、獣のことばかり書いたからね」
セイルが言った。
「帰ってから授業を受けていることも、知らせた方がよさそうだ」
リュカは手紙の末尾へ目を向けた。
「僕たちが返事を読む頃には、フィルもお腹をすかせているはずだって」
フィルが、鋭い声を一つ上げる。
マレーネは窓辺の小皿を示した。
「到着したときに食べています」
小さな竜は、何も聞こえなかったように窓の外を向いた。
ローディスは笑いかけ、それからマレーネへ尋ねた。
「返事は、今日書きます。フィルに運んでもらう前に、見ていただけますか」
「必要なら持ってきなさい。ただし、出発はフィルに相談すること。着いたばかりです」
「はい」
フィルは窓枠から跳び下り、三人の先に立って廊下へ出た。
◇
旧演習場の柱の間で、白い布が揺れている。
セイルは十歩ほど離れた場所に立ち、水を集めて熱を退け、小さな氷の槍を作った。穂先が布の中央を向いたところで、風へ運ぶよう願う。
槍はまっすぐ進み、最後に少し左へそれた。
布の端が弾かれる。
「当たったな」
後ろで見ていたローディスが言った。
「端にね。狙ったのは中央だよ」
セイルは杖を下げ、槍が落ちた位置へ歩いた。穂先は地面に触れて砕けている。
リュカは見学していたフィルが追いかけていかないよう、その前へ片手を出した。
「終わるまで、こっちにいてくれる? 次も飛ぶから」
フィルは低く喉を鳴らしたが、柱の方へは進まなかった。
ローディスは傍らの石へ腰を下ろし、布に包んだ鉄片と、書き込みの多い紙を取り出す。
精霊語の行を指で辿る。曲げる願いと、曲げる箇所を示す言葉。何度も使った文でも、紙を伏せると途中の音が出てこなくなった。
無理に続きを作らず、もう一度、最初から確かめる。
「そこの音は短く」
戻ってきたセイルが、一か所を指した。
「こっちか」
ローディスが言い直すと、セイルは頷いた。
鉄片を石へ置き、端を指して、覚えた文を口にする。少しずつマナを渡すと、上へずれていた端が下がった。
今度は下がりすぎる前に止める。
高さは近づいた。継ぎ目はまだ残っている。
「昨日より揃ったよ」
リュカが、離れたところから声をかけた。
「ああ。つなぐところは、またガルドさんに聞く」
ローディスは息を整え、鉄片を布へ戻した。まだ剣にはほど遠い。戦いの最中に、今の長さの文を間違えずに言える自信もなかった。
それでも、覚えるべきことは増えた。
セイルは再び杖を構えた。次の槍も中央には当たらず、布の下を通り抜けた。
「一度当たったくらいでは、頼れないね」
「今日のところは、僕が大げさに褒める分には十分だよ」
リュカが笑う。
「素晴らしい一撃だった。見事に、あの布のすぐ下を射抜いたね」
「外したことを長く言わなくていいよ」
セイルが振り返ると、リュカは両手を広げた。
その足元で、フィルが欠伸をした。
夕方の鐘が鳴った。
ローディスは鉄片をしまい、大剣を背負った。セイルが散らばった氷を水へ戻し、柱の間の布を外す。リュカは置いてあった荷物を拾っていた。
立ち上がる際、リュカの指が、長靴の上から右の足首へ一度触れた。
ローディスはそれを見て、声を落として話せる距離まで近づく。
「変わりはないか」
「うん。さっきも確かめた。光ってないよ」
リュカは顔を上げた。セイルも、布を畳む手を止めてこちらを見ている。
「何かあったら言う。約束したからね」
「分かった」
ローディスは答えた。それ以上は問わず、一緒に荷物を持ち上げる。
襲ってきた者は、まだ捕まっていない。リュカの脚から、別の魂がいなくなったわけでもなかった。
今日の槍では外すかもしれない。今日曲げた鉄では、人を守れない。
それでも、明日も試せる。
「先に返事を書く?」
セイルが尋ねると、ローディスは首を振った。
「食事の後でいいか。腹が減った」
「無事に暮らしてるって、そこから書こうか」
リュカが言った。
「ローディスは今日も、食事を待ちきれませんでした、と」
「それだけで終わらせるなよ」
ローディスは答え、懐の手紙を確かめた。
次に山から返事が届くときには、もう少しできることを増やしておきたかった。
フィルが翼を広げ、三人の頭上へ上がった。
その影を追って、ローディスたちは明かりの灯り始めた学府へ歩いていった。




