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黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

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第77話 鉄の返事

 翌朝、教室の掲示板に新しい紙が貼られていた。


 学府または軍を名乗る呼び出しを受けた場合は、普段から知る教員に確認すること。校外へ出る生徒は行き先を届けること。いずれも学年を問わず適用する、とある。


「昨日、先生から聞いたのと同じね」


 ニナが紙を読み、隣のトビアスへ言った。


「俺たちまで、誰かに呼び出されるかもしれないってことか」


 トビアスは右手首を左手で支えている。崩落孔から引き上げられた日に比べれば動くようにはなったが、槍を握る許可はまだ下りていない。


「私たちだけの決まりではないみたいね。上級生にも同じ紙が配られていたわ」


 ローディスとセイルが教室へ入ると、二人の視線がこちらへ向いた。リュカは少し遅れて後ろから来る。


「昨日、何か聞いた?」


 ニナは声を落とした。周囲には、掲示を読んで首を傾げる生徒もいる。


「地下へあの獣を運ばせた者は、まだ捕まっていないそうだ」


 ローディスが答えた。


「それで、俺たちも気をつけろって?」


 トビアスが尋ねる。


「俺たちがまた狙われると決まったわけじゃない。ただ、注意は続けてほしいと言われた」


「相手の顔くらい分かれば、近づいてきたときに気づけるんだけどな」


 トビアスが右手首を見た。


「手が治るのを待ってる間にも、何かできればと思ったんだ」


「その本人が来るとは限らないよ。事情を知らない人に、書面を届けさせるかもしれない」


 セイルは掲示へ目を向けた。


「相手の顔で判断するより、呼び出されたときに先生へ確かめる方がいい。僕たちはマレーネ先生に聞くつもりだ」


「急いで来いと言われても?」


 ニナが尋ねる。


「確かめてからだ。先生のところまで来てもらえばいい」


 ローディスが答えた。リュカも掲示を読み終え、二人へ顔を向ける。


「一人で言いにくかったら、僕も一緒に先生のところへ行くよ」


 ニナは掲示をもう一度読み、頷いた。


「理由が分からなくても、確認するまで待ってもらっていいのね」


「俺もそうする。怪しいかどうか、自分で見抜かなくてもいいんだな」


 トビアスが右手首から手を離した。ローディスは頷き、掲示板の前を空ける。後ろで待っていた生徒たちが、代わって紙を読み始めた。


     ◇


 放課後、ローディスは行き先を届けてから、〈赤槌工房〉へ向かった。店に入ると背負っていた大剣を壁際へ置き、ガルドに曲がった鉤を差し出す。


 ガルドは先端を指でなぞった。


「何を引いた」


「地面へ置いた木剣です。引き寄せられましたが、先が開きました」


「形は鉤でも、力を受ける場所が細すぎる」


 ガルドは鉤の根元を万力に挟み、湾曲した部分へ紐を掛けた。紐をローディスに引かせながら、細く延びた箇所を示す。


「ここばかり薄くしただろう。引く力を受け止める場所なのに、先を曲げることばかり考えてたな」


「鉤の形になれば、使えると思っていました」


「形にした後のことも考えろ。剣だって、刃がついていれば敵の一撃を受けられるわけじゃねえ」


 ガルドは鉤を万力から外し、ローディスへ返した。


「先を太くすりゃ済むと思うか」


「曲がった部分に鉄を寄せます」


「その分、どこが細くなる」


 ローディスは鉤を見直した。先端へ鉄を寄せれば、柄につながる部分から厚みが減る。


「柄を短くして、その分を回します。同じ長さを残すなら、材料を足さないと」


「ようやく量の話をしたな」


 ガルドは屑鉄の箱から、短い鉄片を一本渡した。


「金の精霊に頼むつもりのときも同じだ。鉄片一本で大剣を二本作れと言っても、足りねえものは足りねえ」


 ローディスは鉄片を手に載せた。軽い。これを延ばして刃にすれば、薄くてすぐに折れるだろう。


 壁際には、研ぎ直した大剣が立て掛けてある。あの刃を長くすれば、その分どこかが薄くなる。必要に応じて武器を変えるには、形だけでなく、どれだけの金属を使うかも考えなければならない。


「この鉤は、直さなくていいんですか」


「そいつは置いとけ。今日は、その鉄片を輪にしろ。まずは厚みを揃えて曲げるところからだ」


 ガルドは小槌を渡した。ローディスは鉤を作業台へ置き、炉へ向き直る。


 熱した鉄片を火箸で押さえ、小槌を落とす。同じ力で打っているつもりでも、一方の端ばかりが薄く延びた。持ち上げて横から見ると、厚いところと薄いところの差がよく分かる。


 ガルドに示された箇所へ槌を当て、炉で熱し直し、また打った。ようやく曲げ始めても、両端は同じ高さへ揃わない。


 夕方になっても、輪は閉じなかった。


「今日はここまでだ」


 ガルドが炉の火を落とす。ローディスは火箸で鉄片を水へ入れ、十分に冷ましてから作業台へ置いた。向かい合った両端の間には隙間があり、片側だけが上を向いている。


「もう一度、明日打ちます」


「勝手にしろ。だが、何をどう変えたいかは前より分かってきたんじゃねえか」


 ローディスは鉄片の両端を見た。以前なら、輪の形にしてほしいとしか言えなかった。今は、厚みを揃えること、曲がりを直すこと、最後に両端をつなぐことが、それぞれ別の作業だと分かる。


「全部を一度にやろうとしても、うまくいかないんですね」


 ローディスは指で、鉄片の曲がりを辿った。


「金の精霊にも、ただ武器にしてくれと頼むつもりでした。けれど、何を変えてほしいか、自分で分かってから伝えないと」


「それを覚えに来たんだろう」


「はい。今日は、契約を申し込んでみたいんです」


「ここでか」


「場所を借りてもいいですか」


 ガルドは作業台に残っていた道具を片づけた。


「構わねえ。ただし、認められてもいきなり大剣を変えようとするなよ。まずは小さい物で、自分がどれだけマナを使うか確かめろ」


「分かりました」


 ローディスは作業台の中央へ、閉じきらなかった輪を置いた。その横に、懐から出した紙を広げる。


 金との契約を志してから、鍛冶の修業と並べて覚えてきた文だった。教本の契約文を書き写し、セイルに発音を確かめてもらった跡が、行間に残っている。


 知っている単語は少ない。自分の言葉を、その場で精霊語へ置き換えることなどできなかった。


 手元にある金属を、戦うために必要な形へ変えたい。剣を失っても、誰かの前に立つことを諦めずに済むように。


 その思いを胸に置き、まずは練習した呼びかけを口にする。一度、長い音の途中でつかえた。紙の印へ目を戻し、息を整えて言い直す。


 対価としてマナを渡すこと。力を借りたいこと。意味を確かめて覚えた契約の文を、ひと区切りずつ読み上げた。続いて、承認された際の合図として鉄片の端を持ち上げてほしいという、用意してきた短い願いを伝える。


 炉の残り火が音を立てた。


 鉄片は動かない。


 ローディスは言葉を重ねかけ、やめた。返事を急がせるために、同じ願いを繰り返しても変わらない。


 金属を見つめたまま、待つ。


 薄い方の端が、ごく僅かに持ち上がった。


 火の揺れでも、台の震えでもない。ガルドも作業台の反対側で、それを見ていた。


「承認されたか」


「確かめます」


 声も姿も分からない。それでも、自分で頼んだ合図は確かに起きた。


 ローディスは紙の下段へ目を移した。契約できたら試すために、金属を曲げる短い文も教本から写してある。鉄片の端を指で示し、覚えた発音を一つずつ辿りながら、内側へ曲げるよう願った。今度は、教わったとおりにマナを差し出す。


 鉄がゆっくり曲がる。両端の隙間は狭まったが、ずれた高さは揃わない。先の角が触れたところで、ローディスはマナを送るのをやめた。


 ローディスは作業台へ両手をついた。息が速い。


「もうやめておけ」


 ガルドは輪にならなかった鉄片を摘み上げる。


「曲がったが、つながってはいねえ。今日はここまで動かせたと覚えて帰れ」


「はい」


 ローディスは鉄片を受け取った。角同士が触れているだけで、輪としては使えない。それでも、マナを送るのをやめた後も、鉄は曲がった形を保っていた。


 槌を握っていない自分の手を、一度だけ見下ろした。


     ◇


 食堂では、セイルとリュカが夕食を食べていた。ローディスは自分の食事を受け取り、二人の向かいへ座る。


「鉤は見てもらえた?」


 セイルが尋ねる。


「ああ。薄く延ばしすぎたそうだ。今日は別の鉄片で、厚みを揃えるところからやり直した」


 ローディスは二人の前に、まだ両端のつながっていない輪を置いた。


「こっちも完成しなかった。ただ、最後に曲げたのは金の精霊だ」


 セイルは輪を手に取り、合わせ目を確かめる。


「契約できたの?」


「ああ。発音を見てもらって助かった。紙を読まずには、まだ言えないけどな」


「言葉は少しずつ覚えればいいよ。これは、どこまで術で曲げたの?」


 セイルが輪の端を示す。


「端を寄せて、角が触れるところまでだ。それだけで、かなりマナを使った。つなぐところまでは試していない」


「じゃあ、盾を頼むのはもう少し先かな」


「まずは、これを使える輪にしてからだ」


 リュカが両手を叩いた。


「素晴らしいよ、ローディス! 大剣で道を切り開いた剣士が、今度は精霊の信頼まで勝ち取ったんだ。工房中が拍手したんじゃない?」


「ガルドさんには、もうやめておけと言われた」


「それは、無理をしてほしくなかったんでしょう。契約できたことまで小さく言わなくていいよ」


 リュカが笑う。ローディスは開いた輪を見て、頷いた。


「ああ。次は、閉じるところまでやる」


 セイルは輪を返した。ローディスはそれを布へ包んでから、ようやく匙を取る。その腹が鳴ったのを聞き、セイルが続けた。


「次の練習より、まず夕食だね」


「ああ。昼に食べた分では足りなかった」


 ローディスは煮込みを一口食べ、パンへ手を伸ばした。リュカが自分の残していた一切れを、その皿へ載せる。


「僕からのお祝いは、これでいい?」


「助かる」


 即座に答えたローディスを見て、セイルが笑った。


 布の中の鉄は、まだ不格好なままだった。明日直したい箇所なら、もう分かっている。


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