第76話 守るための距離
旧貨物検査所での対峙から、夜が明けた。
エレオノーラの黒石の杖は、半分になっていた。
教員棟の小会議室で、その二片を机へ置く。ローディス、セイル、リュカの視線が、割れた木目へ集まった。
「誰にやられたんですか」
ローディスが尋ねる。
「黒い獣を地下へ運ばせた者です」
エレオノーラは答えた。
隣に立つマレーネの表情が硬くなる。彼女は昨夜、エレオノーラから連絡を受け、学園長へ面会を取り次いでいた。学生の三人を呼ぶと決めたのは、今朝になってからだ。
「捕まえたんですか」
セイルが杖の破片から目を上げる。
「いいえ。軍務監察官と、もう一人の調査員が一緒でしたが、三人とも止められませんでした」
「三人とも?」
ローディスの声に、エレオノーラは頷いた。
「相手は私たちを殺さずに立ち去りました。手加減して、です」
リュカは椅子の背へ軽く寄りかかったまま、何も言わなかった。
「なぜ、僕たちを呼んだの?」
「昨夜会った男は、演習の地下へ獣を運ばせ、竜人の村へ黒い根を持ち込ませたと自分で認めました」
エレオノーラの言葉に、ローディスが立ち上がりかける。
「村へ伝えないと」
「今朝、学府へ来てからマレーネ先生にフィルのところへ案内してもらいました。ドルガ村長宛ての手紙を見せると、フィルは自分で革鞄を差し出して、運ぶことを引き受けてくれました。もう村へ向かっています。君たちが山へ行く必要はありません」
手紙には、男が根を村へ運ばせたと認め、自分の判断で行ったことで帝国の命令ではないと主張したことを記してあるという。ただし、その主張を確かめられたわけではない。保管中の留め具も、引き続き守ってほしいと添えた。
ローディスは椅子へ座り直した。足元に置いた大剣の鞘が、床へ小さく当たる。
「その男は、俺たちも狙っているんですか」
「君たちを次に狙うという言葉は聞いていません。ただ、あの獣で君たちの動きを見ていたと話しました。警戒を解く理由はありません」
エレオノーラは三人を順に見る。
「演習へ参加した五人全員に関わることです。ニナさんとトビアスさんにも、必要な注意は担当教員から伝えます。私が君たちを先に呼んだのは、地下で直接あの獣と戦ったからです」
机の端で、学園長の指輪が微かに鳴った。
オルフェンは袖口まで覆う上着を着て、白い仮面の奥から三人を眺めていた。授業中に見せる軽い調子で言う。
「注意といっても、三人を寮の部屋へ閉じ込める話じゃないよ。私も学生の頃、それを言われたら窓から出たと思う」
「学園長」
マレーネが低い声で呼ぶ。
「冗談はここまで。学府の名で呼び出す書面も、軍の名で届く指示も、しばらくは発令者を直接確かめてほしい。誰か一人だけを別の場所へ移す指示なら、なおさらだ」
「分かりました」
ローディスが答える。
「確認先も書面に書いてあったら?」
セイルが尋ねた。
「書面の指示した相手へは聞かないで。君たちが普段から顔を知っている教員に確かめてほしい」
オルフェンはマレーネへ顔を向けた。
「この人なら、勝手な軍の呼び出しに学生を渡す前に、私のところへ怒鳴り込んでくれる」
「怒鳴りません」
マレーネは即座に否定した。
「書面を持って伺います」
「その方が怖いね」
リュカが笑うと、マレーネの目が三人へ戻った。
「授業と寮での生活は通常どおりです。ただし、校外へ出るときは行き先を届けてください。事情の分からない生徒に、君たちだけ特別扱いする理由を説明するわけにもいきません。全校に同じ手順を適用します」
リュカは、学園長の方を見なかった。
相手が地下で自分を何と呼んだか、エレオノーラはここで口にしていない。三人へ伝えないことにしたのか、あるいは、三人が既に聞いていると考えたのか。
問いただせば、マレーネと学園長の前で、その言葉をもう一度引き出すことになる。
リュカは笑みを保ったまま、手を膝へ置いた。
「僕たちの方から、その人を探しに行く必要もないんだね?」
「ありません」
エレオノーラが答えた。
「君たちには、今いる場所で学んでほしい。相手と再び会ったとき、私たちと同じ距離まで近づかせないためにも」
割れた杖が、机の上に残っている。あの人でさえ防ぎきれなかった相手を、自分たちが見つけてどうする。ローディスは膝の上で握った手を開いた。
「俺たちが勝手に動けば、フィルが運んでいる警告まで無駄になる」
「ええ。村には知らせます。ここで君たちが無事に学び続けることも、今は大事です」
エレオノーラは折れた杖を布で包んだ。セイルの視線がその手元を追う。
「杖を折られたのは、近づかれてからですか」
「私が距離を取り直すより、相手の一歩が速かった。術を発動する余裕があっても、狙う場所を失えば外します」
セイルは何も答えず、自分の杖を握り直した。
◇
放課後、旧演習場の柱には白い布が垂れていた。
セイルは柱から三十歩離れ、掌の上へ水を集める。火の精霊に熱を退けてもらい、細い氷の槍へ変えた。
風の精霊へ願いを伝える。
槍は手から離れた。最初に試したときより速い。しかし柱の手前で向きがぶれ、布の下の地面へ突き刺さる。
「当てるつもりだったんだけどね」
セイルが呟く。
「届いた」
ローディスは柱まで歩き、槍の先と布の距離を見た。
「布まで半歩だ」
「半歩外せば、敵は生きてるよ」
「俺が前にいれば、その半歩を詰める時間はある」
「君が前に立てる場所ならね」
セイルは刺さった槍を抜いた。氷の表面に、風を受けて片側だけ削れた跡がある。
「相手が横から来たら、僕が先に動くしかない。槍をまっすぐ飛ばすだけでも、まだ失敗するのに」
「だから、一緒に試す」
ローディスは腰から、まだ磨かれていない鉄の鉤を抜いた。ガルドの工房で打っているものだ。柄の角度は調整したが、引く力に耐えられるかはまだ確かめていない。
地面へ置いた予備の木剣に鉤を掛け、引く。木剣は動いたが、鉤の先も僅かに開いた。
「やはり伸びた」
「ガルドさんには?」
「明日見せる。折れるまで試して、どこが弱いか覚えてこいと言われた」
ローディスは曲がった先端を指で確かめる。
「鉤を作りたいわけじゃない。いずれ金の精霊と契約できたら、持っている金属を必要な武器の形へ変えたい。その前に、俺自身が金属の扱いを覚える」
「大剣を投げた後にも、次の武器を用意できるように?」
セイルが尋ねる。
「それもある。刃が欠けたときや、狭い場所で長い剣を振れないときにもな」
ローディスは鉤の開いた先を見せた。
「形だけ似せても、これでは使えない。打って、使って、壊してみる。その繰り返しだ」
「ずいぶん遠回りだね」
「金の精霊に武器を形作ってもらうなら、金属の強さを知らないまま頼めない。遠回りでも、今は覚える」
リュカが柱の陰から出てきた。
「金属の勉強は続けるとして、今の連携も磨いておこうか。僕が二人に近づくから、手が届く前に止めてみて」
「学府でお前の速さを出したら、演習場が騒ぎになる」
ローディスが周囲を見る。旧演習場の入口からは、校舎へ戻る生徒の姿がまだ見えた。
「分かってる。今日は歩くよ」
「歩くだけなら、止められる」
セイルが氷の槍をもう一本作った。
「僕が合図したら始めてね」
リュカは柱の陰へ戻り、片手を上げてから下ろした。普段の生徒と変わらない歩幅で進み出る。
セイルの槍がリュカの右手側へ飛び、数歩先の地面へ突き刺さった。狙ったのは身体ではなく、進路だった。
リュカは氷を避けて左へ回り込む。
その前へローディスが立つ。大剣は抜かず、曲がった鉤を持った手だけを下げた。
「ここから先は通さない」
「僕が左へ回るって、分かってた?」
リュカは足を止めた。
ローディスは背後のセイルを見ずに答える。
「右はセイルが塞いだ。俺は空いた方に立っただけだ」
「なるほど。次は、もう少し歩幅を広げようか」
リュカは笑った。
二度目は、リュカが一歩早く左へ寄った。セイルの槍は右側の地面を塞いだが、ローディスがその先へ立つ前に、リュカの指がセイルの杖へ届く。
「今のは僕の勝ち、でいい?」
「待て。俺が左を塞ぐつもりで動いた」
ローディスが足元を見た。最初の成功に引かれて、セイルの狙いを確かめる前に踏み出していた。だが、リュカはローディスが前へ立つより先に、その脇を抜けていた。
「槍を見てから動けば間に合わない。でも、先に決めて動くと、外したときに穴ができる」
セイルは杖の先から氷を落とした。
「だったら、僕が先に行き先を言う。右を塞ぐなら『右』。君は逆へ動いて」
「短い言葉で間に合うか」
「君が聞き取れるか、試せばいい」
三度目。リュカが二人へ向かって歩き出す。セイルは「左」と告げ、リュカの左前方へ氷の槍を突き立てた。ローディスは声に合わせて反対側へ動き、リュカの右前方に立つ。
リュカは歩幅を変えず、二人の間をまっすぐ進んだ。ローディスが腕を伸ばす前に、その横を通り過ぎる。セイルの杖まで、あと二歩。
「ここが空いてるよ」
リュカが足を止めて振り返った。ローディスは自分の立ち位置と氷の槍を見比べる。二人で左右を塞いだつもりが、中央に道を残していた。
「明日は、もっと狭くする」
ローディスが言うと、セイルは首を振った。
「僕の方へ寄るだけだと、君まで槍の進路に入る。僕も狙う位置を合わせるよ」
「俺は、どちら側にも動ける立ち方を探す」
リュカは二人を見比べ、降参するように両手を上げた。
「次は僕の方が忙しくなりそうだ」
遠くで夕刻を告げる鐘が鳴る。セイルは地面の氷を溶かし、ローディスは開いた鉤を鞘の脇へ戻した。今日、使える技が増えたわけではない。それでも、何をできるようになるべきかは、昨日よりはっきりしていた。
守るための距離は、まだ短い。それを少しずつ伸ばす方法なら、二人で探せる。




