第75話 灰を受け取る者
受け渡しの前日から、貨物検査所は監視されていた。
帝都西側の水路と古い荷揚げ場に挟まれた、石造りの平屋である。窓は板で塞がれ、正面扉には十年以上前に廃止された検査印が薄く残っている。
エヴァは朝には荷揚げ場の老婆、昼には水路の泥をさらう人足、夜には酔いつぶれた船頭となって周囲を見張った。
正面と裏手を通った者の顔、荷車の数、係留された船の出入りまで記憶している。
検査所へ入った者はいない。
ディルクとエレオノーラは、日が落ちてから内部を調べた。
床下へ続く穴はない。古い排水口は、人が通れない幅までエレオノーラが土で狭めた。扉と窓には細い糸を渡し、動けば隣の倉庫に伏せたエヴァへ伝わるようにしてある。
受取人が先に潜んでいる余地はなかった。
それでも灰を取りに来るなら、必ず三人の目を通る。
◇
二度目の夜。
最初の鐘が鳴ると、革筒の回収役だった兵士が水路沿いに現れた。
八つ目の宿駅で捕らえられたときと同じ外套を着ている。ただし、外套の下には薄い鎖帷子があり、帝国の紋章を消した護衛二人が離れて後を追っていた。
兵士は検査所の裏扉へ、灰を詰めた革袋を置いた。
中身は焼いた古革と紙である。回収された革筒は、監察局の保管庫から動かしていない。
兵士は西へ歩き、護衛と合流して水路沿いから消えた。
扉は開かない。
半刻が過ぎた。
水路を行く船が二艘。荷揚げ場を横切った野良犬が一匹。検査所へ近づく者はいなかった。
隣の倉庫で、ディルクは腕を組んだまま裏扉を見ていた。
「来ないか」
「来るわ」
船頭の姿をしたエヴァは、空の酒瓶を抱えたまま東を見た。
一人の男が、水路沿いを歩いてくる。
二十代ほどの若い軍務官だった。
痩せた頬。短く整えられた淡い髪。革鞄を左脇に抱え、空いた右手で襟元を直している。
エヴァが上層資料室から追った者と、同じ顔。
捕らえた三人も、その肖像を命令者として選んでいる。
人事記録にも、その顔を持つ軍務官は載っている。だが、北西へ運ばれたのは通行証だけで、記録に記された人物が実在するかどうかさえ確認できていなかった。
男は周囲を窺わなかった。
人気のない水路沿いを散歩するように進み、革袋の前で足を止める。
「探していた相手が、自分から来るとはね」
エヴァが船頭の髭を剥がした。
若い軍務官は、驚きもせず彼女を見る。
「君たちが私を待っていると知ったから来た。それだけだ」
隣の倉庫からディルクが出る。
検査所の屋根では、エレオノーラが黒い杖を構えていた。
「袋から離れろ」
ディルクの命令に、男は素直に一歩退いた。
「回収役の話では、袋だけを置いて立ち去る手筈でした」
エレオノーラが言う。
「受け取る者は、誰にも姿を見せないはずです」
「予定を変えた」
男は三人を順に見た。
「灰より、誰がここまで来るかを見たくなった」
ディルクが剣を抜く。
「我々を知っているのか」
「ディルク・ハーゼ。エレオノーラ・フォン・シュタイン。それから、上層資料室から私を追った女」
「船頭姿の感想まで聞かせてくれる?」
エヴァは酒瓶を落とした。
瓶が石畳で割れる。
零れた水が薄く広がった。
「両手を見える位置へ置け」
ディルクが距離を詰める。
「命令書の偽造、証拠の隠滅、帝国兵への不正な指示。聞きたいことがある」
「三人が同じ顔を選んだ。それだけで私を捕らえるのか」
「お前が人事記録にある軍務官本人なのかも含めて、話してもらう」
「答える義務はないな」
男の右手が、襟元から離れた。
徒手だった。
それでも、ディルクは剣先を下げない。
「膝をつけ」
「断る」
エヴァの指が動き、酒瓶に刻んでいた紋章へマナが通る。
割れた瓶の水が石畳を走り、男の両足へ絡みつく。
同時に、船頭の袖から二本の鉄串が放たれた。
一本は右肩。
もう一本は、逃げ道となる左側の石畳。
男は右肩へ来た鉄串だけを革鞄で受けた。
鞄を貫いた串が、中へ食い込む。
エヴァが細縄を引く。
男は鞄を手放さなかった。
逆に縄を掴み、一息に引く。
エヴァの身体が石壁から浮いた。
彼女は自分から前へ跳び、引かれる勢いへ乗せて短剣を抜く。
刃が男の喉へ走った。
男は鞄を捨てた。
空いた手がエヴァの手首を掴む。刃先を僅かに外へ逸らし、そのまま身体を入れ替えた。
エヴァの集中が途切れ、男の足首へ巻きついていた水が石畳へ崩れる。
エヴァの背が、ディルクの剣の前へ出る。
ディルクは斬撃を止めた。
その一瞬に、男の踵がディルクの手首を打つ。
剣が石畳へ落ちた。
屋根から、エレオノーラの発した短い精霊語が降る。
土の精霊へ、男の動きを封じるよう願いを伝えた。
石畳が盛り上がり、男の両脚を左右から挟んだ。
さらに二本の石柱が伸びる。
男は捕らえたエヴァを放し、最初の石柱へ片足を載せた。
せり上がる力を利用して跳ぶ。
二本目の石柱を蹴り、検査所の屋根へ上がった。
エレオノーラが杖を横へ払う。
屋根瓦の下から土が噴き出し、壁となって男の行く手を塞いだ。
男は止まらない。
エレオノーラの懐へ踏み込み、杖を持つ右手の指を一本ずつ外すように捻った。
杖が落ちる。
左の掌底が、エレオノーラの胸当てを打った。
息を失った彼女の身体が瓦へ転がる。
男は追撃しなかった。
屋根へ上がったディルクが、拾った剣を両手で振り下ろす。
男は半歩だけ退いた。
刃が鼻先を通る。
二撃目の横薙ぎを、落ちていた杖で受けた。
木が割れる。
折れた杖の半分をディルクの脇へ差し込み、剣を振り切った腕ごと持ち上げる。
ディルクの足が屋根から離れた。
その身体が、追って上がったエヴァへ投げつけられる。
二人は激突し、瓦を割って転がった。
エレオノーラが息を取り戻す。
片手を屋根へつき、発声式の精霊語を紡ごうとした。
男が折れた杖を投げる。
先端はエレオノーラの頬を掠め、背後の屋根へ深く刺さった。
次は外さない。
そう告げるには十分だった。
エレオノーラの声が止まる。
男は屋根の上で三人を見下ろした。
ディルクは剣を離していない。
エヴァも、倒れた姿勢のまま次の鉄串へ指を掛けている。
エレオノーラは折れた杖を拾おうとしていた。
「まだ続けるか」
「お前が立っている限りはな」
ディルクが答えた。
男は小さく笑った。
「監察官は、それでいい」
屋根から裏扉の前へ降りる。
三人はすぐには追えなかった。
男がその気なら、杖の先端はエレオノーラの頬ではなく喉へ刺さっていた。
ディルクの剣を奪い、倒れた二人へ振り下ろすこともできた。
「なぜ殺さない」
エヴァが尋ねた。
「帝国には、腐った命令を嗅ぎ回る監察官が要る。高位の精霊術師も、腕の立つ追跡者も、育てるには金と時間が掛かる」
男は革袋を拾った。
「国に必要な人材を三人も失えば、国益を損なう。私には何の得もない」
「帝国を傷つけている側が言うこと?」
「傷を取り除くために、肉を切ることはある」
「六本指の異形に、あの根を山へ運ばせたことも?」
エヴァの問いに、男は僅かに口角を上げた。
「そうだ。あの根は、生命を取り込んで育ち、土地へ広がる。戦略兵器として使うなら便利な性質だ。実地での試験は必要だった」
「その試験に、竜人の村を選んだのですか」
エレオノーラの声が低くなる。
「竜人は、血授を受けていない人族より強靱だ。何より、人族を好まない竜族の庇護下にいる。いずれ敵となる可能性がある以上、根がどれほど通じるかも、彼ら自身の戦闘能力も知らねばならない」
「六本指は、俺たちが魔族と呼んでいる側の存在だ」
ディルクが男を見据える。
「なぜ、お前の命令に従った」
「人語で意思を交わせる相手なら、従わせる方法は人族と変わらない。利益を与えるか、恐怖を植えつけるか、逆らえない力を示すかだ」
「帝都防衛演習の地下にいた獣も、あなたが従わせたのですか」
エレオノーラが尋ねた。
「そうだ。あの獣も私が用意した」
「あの獣を演習場へ持ち込ませた目的は何ですか」
「帝国の次代を担う若者が、想定外の敵を前にどこまで戦えるか。誰か一人が狙われたとき、残る者がどう動くか。得るものの多い試験だったよ」
「地下の声は、エアハルトを器と呼びました。ヴァルガという名も口にしています」
エレオノーラは男の表情を見逃すまいとした。
「あれは、何を意味していたのですか」
「反応を見るために、意味があるように聞こえる言葉を混ぜた」
「ヴァルガという名にも、意味はないと?」
「名前らしい音を一つ与えれば、人は勝手に由来を探し、何かを隠している者は自分の秘密と結びつける。君が今も気にしているなら、十分に役目を果たした」
エレオノーラは答えなかった。
男の言葉が真実だという証拠はない。
だが、嘘だと断じる材料もなかった。
「北の村も、帝都防衛演習も、帝国の命令で行われたことではないのですね」
エレオノーラが確かめる。
「当然だ。どちらも私が決めた。帝国の意思と混同されては困る」
「ですが、帝国の軍務官が竜人の村を実験に使ったと知られれば、竜族は帝国そのものの敵対行為と受け取るかもしれません」
ディルクの指摘にも、男は顔色を変えなかった。
「それを避けるために、誰にも知られないよう進めた。ところが君たちは証拠を拾い、村と竜族へ届けようとしている。余計なことをしてくれたものだ」
男は三人を見回した。
「竜族には、帝国が企てたことではなく、帝国内の一個人が行ったことだと伝えてくれ。事実に反してはいない」
革袋の口を開き、中の灰を指で擦る。
「これは偽物だな」
「本物を渡すと思ったのか」
ディルクが立ち上がる。
「いや。君たちがそこまで愚かでないことを確かめに来た」
男は革袋をその場へ落とした。
「捕らえた者の証言をつなぎ、ここで待てば私へ届く。そう考えたか?」
「実際、あなたは来たでしょう」
「私が来ると決めたからだ。君たちが辿り着いたわけではない」
男は水路沿いへ歩き出した。
角には、軍政総監府の通行標を掲げた黒い馬車が止まっている。
御者台の兵士は前を向いたまま、扉だけを開いた。
ディルクは追おうとした。
だが、腫れ始めた右手では剣を握り直せない。エヴァとエレオノーラも、すぐに走り出せる状態ではなかった。
馬車は既に速度を上げている。
男が乗り込む。
黒い馬車は、帝都中央へ向かって走り去った。
◇
検査所に残ったのは、偽物の灰と三人の傷だった。
骨を折られた者はいない。
エレオノーラの胸当ては僅かにへこみ、ディルクの右手首は腫れ、エヴァの背には石壁へ打ちつけられた痛みが残った。
どれも、狙って抑えられた損傷だった。
エヴァは屋根から回収した鉄串を袖へ戻す。
「竜人の村も、私たちも、国へ何をもたらすかでしか見ていないのね」
「帝国を自分の物のように話していた」
ディルクは去った馬車の方角を見る。
「村人を危険へ晒しながら、監察官と精霊術師は惜しむ。人の価値を、国へ何をもたらすかだけで量っている」
「少なくとも、帝国を滅ぼすことが目的ではありません」
エレオノーラは折れた杖を拾った。
「内部から利用し、思いどおりの形へ変えようとしている。そう考えるべきです」
若い軍務官として記録された男。
偽造されていない命令書。
本物の承認印。
軍政総監府の通行標。
こちらが調べる先には、既に相手の手が届いていた。
「捜査は、ここで打ち切る」
ディルクが言った。
「諦めるの?」
エヴァが尋ねる。
「違う。これ以上こちらから動けば、誰を守り、何を残そうとしているかまで教えることになる」
ディルクは偽物の灰が入った袋を拾った。
「回収役と旧厩舎の二人を別々の場所へ移す。革筒も証言記録も分ける。保管先は、この場にいる三人も一つずつしか知らない形にする」
「通常の命令経路は使えません」
エレオノーラが折れた杖を抱える。
「移送を命じた時点で、次の場所まで知られる可能性があります」
「だから、書面には残さない。今夜の報告も、待ち伏せが失敗した事実までだ。相手の発言と戦い方は、私たちの記憶にだけ置く」
エヴァは水路へ目を向けた。
「竜人の村には、もう一度警告を送る。あの男は、まだ山と竜族を測る価値があると思っている」
「兵学府にもです」
エレオノーラが続けた。
「帝都防衛演習に参加した生徒たちは、既に一度利用されています」
ディルクは頷いた。
追えば、相手が敷いた道を歩くことになる。
ならば今は、次に奪われるものを減らす。
◇
夜明け前、黒い馬車が軍政総監府の地下車寄せへ入った。
若い軍務官を乗せたまま、扉が閉じる。
しばらくして、軍政総監の執務室へ続く内扉が開いた。
撫でつけた黒髪と細い口髭を持つ壮年の男が、濡れた手袋を外しながら入ってくる。
机の前では、コンラートが待っていた。
「三人は」
「期待以上だ。負けると分かっても、誰も武器を捨てなかった」
アウレウスは椅子へ腰を下ろす。
「殺さなかったのですね」
「あれらを育てるために、帝国がどれだけ費やしたと思う」
机には、ディルクとエレオノーラの人事記録と、旧貨物検査所周辺の地図が開かれている。
「価値のあるものを、理由もなく壊す趣味はない」
「それに、考えてもみたまえ。あの三人は、竜族や竜人にも害をなす私を追っている。その過程で山の者たちとの協力も始まった。敵を同じくすれば、互いに手を貸す理由が生まれる」
アウレウスは机上の地図で、竜族の山を指した。
「長く人族の国とは距離を置いてきた竜族と竜人が、帝国との協力に応じるなら、その利益は計り知れない」
「ですが灰の回収には失敗しました」
「構わない。革筒の中身より、誰が追っているかを知る方が重要だった」
アウレウスは、若い軍務官の肖像を伏せた。
「彼らは、追跡を続けるでしょうか」
「ハーゼは、そこまで愚かではない。しばらく止まる」
軍政総監は笑った。
「追うことをやめた者は、次に守るものを選ぶ。何を隠し、どこへ人を置くか。それを見れば、彼らが失いたくないものが分かる」




