第74話 風の行き先
翌日の放課後、セイルは教室の窓を開けたまま、本を読んでいた。
頁の上には、古い風車の断面図が描かれている。
「風の精霊と契約したいのに、風車を作るの?」
向かいの席から、ニナが本を覗き込んだ。
「作らないよ。風がどこへ抜けたがるのかを見てる」
「昨日までのセイルなら、羽根を速く回す方法を調べていそう」
「僕を何だと思ってるんだ」
「結果を急いで、途中を省く人」
ニナは迷わず答えた。
隣で帰り支度をしていたトビアスが、笑いを噛み殺す。
「否定しないんですか」
「二人とも、僕への敬意が足りないね」
セイルは窓辺へ細い紙片を垂らした。
外から入った風に押され、紙片は教室の内側へ揺れる。ところが、窓枠の下では一度沈み、床近くを通って開いた扉へ流れた。
風は、窓から入った方向へ真っ直ぐ進んではいない。
机や人を避け、通れる場所を選びながら出口へ向かっている。
「風を真っ直ぐ飛ばす方法ではなく、曲がる理由を調べてるのね」
ニナが言った。
「真っ直ぐ進ませることばかり考えていたから、断られたのかもしれない」
「何を理由に承認するかなんて、精霊にしか分からないでしょう」
「分からないから、前と同じ頼み方はしないんだよ」
セイルは本を閉じた。
紙片は床すれすれを流れ、扉の外へ消えていった。
◇
旧演習場の中央には、昨日と同じ細い棒が立っていた。
棒の先には、風向きを見るための白い布が結ばれている。
空は薄く曇っていた。西から吹く風は弱く、布の端を時折持ち上げるだけだった。
ローディスは観覧席に腰を下ろし、借り物の大剣を膝へ置いている。
リュカはその隣で、右の長靴の上から足環の位置を確かめた。赤と青の石は革に隠れ、外からは見えない。
「今日は、何を頼むの?」
リュカが尋ねる。
「まだ言葉にすると逃げそうだから、聞いていて」
「風より先に、君の考えが逃げないといいね」
「黙っていてくれる?」
セイルは棒の前へ立った。
杖は持っているが、地面へ先端を下ろしたままにする。術を起こすためではなく、契約を申し込むために来た。
目を閉じる。
窓から入り、机を避け、扉へ抜けた風を思い出した。
氷の槍を飛ばしたい。
霧を運びたい。
蒸気の逃げ道を作りたい。
どれも、セイルが風にさせたいことだった。
必要なのは、その先だった。
セイルは精霊語で呼びかけた。
「僕には、届かせたい場所がある。けれど、君を一本の道へ閉じ込めたくはない」
白い布が、西風に押されて東へ傾く。
「僕の術を運ぶ道を、君に選んでほしい。僕も、君が通りたい場所を塞がない。一緒に、届く道を探してほしい」
風は止まらない。
布も、東へ傾いたままだった。
セイルは目を開けずに待った。
返事を急かさない。
自分からマナを流し込むこともしない。
頬を撫でていた風が、一度だけ途切れた。
次の瞬間、白い布が西へ跳ねた。
吹いている風とは、反対の方向だった。
布は棒の先から解け、セイルの肩を一周し、差し出していない左手へ落ちた。
掌の上で、布の端が小さく持ち上がる。
「返事だよ」
リュカが言った。
セイルは、ようやく息を吐いた。
「聞こえなくても、分かるものなんだね」
「君が決めた印だからね」
風の精霊の姿も、声も、セイルには知覚できない。
それでも、風へ意識を向けた先に、昨日まではなかった細い道が生まれている。
セイルは杖を持ち上げた。
「試すのか」
ローディスが立ち上がる。
「小さくね」
杖の先に、水滴が一つ浮かぶ。
セイルは火の精霊へ熱を退けるよう願い、水滴を親指ほどの氷へ変えた。
次に、契約を受け入れたばかりの風へ、氷を運ぶ道を頼む。
正面ではない。
正面の標的柱を回り、奥の土壁へ届く道。
氷が杖先を離れた。
勢いは弱い。真っ直ぐ飛ぶ代わりに左へ逸れ、標的柱の縁を回り込む。
だが、そこで落ちた。
土の上を二度跳ね、ローディスの靴先で止まる。
「届いてないね」
リュカが微笑む。
「最初から成功するとは思ってないよ」
「昨日は一度で契約できると思っていたのに?」
「昨日の僕へ言ってくれ」
ローディスが足元の氷を拾った。
「柱は回った」
「威力はないけどね」
「なら、次は落ちる場所を遠ざければいい」
セイルはローディスから氷を受け取った。
「君まで、ずいぶん気長になったね」
「俺は今、炭を同じ大きさに割るだけで二日使っている」
「説得力がある」
セイルが頷く。
リュカが声を立てて笑った。
その笑いに反応するように、セイルの掌の布がもう一度揺れた。
◇
三日後、ローディスは〈赤槌工房〉の作業台で、一本の鉄棒を見つめていた。
長さは肘から指先ほど。刃にも、槍の穂先にもなっていない。
端だけが赤く熱せられている。
「叩け」
ガルドが言った。
ローディスは小槌を振り下ろした。
甲高い音が工房へ響く。
赤い鉄が、僅かに潰れた。
「もう一度だ」
同じ場所を叩く。
今度は端が薄く延びたが、片側へ曲がった。
「力を入れすぎたか」
「違う。鉄がどっちへ逃げたか見てねえ」
ガルドは大きな指で、歪んだ箇所を示した。
「殴れば小さくなるんじゃない。押し出された分だけ、別の場所へ動く。剣を振るときと同じ力で叩いてりゃ、欲しい形より先に鉄が逃げるぞ」
ローディスは槌を握り直した。
金の精霊へ武器を作ってもらう。
そう考えていたときには、金属は命じた形へ変わるものだと思っていた。
だが、熱も、厚みも、打つ向きも知らずに形だけを願えば、精霊へ伝えられるのは剣や槍という名前だけだ。
「今日は、これを何にするんですか」
「お前が決めろ」
「剣には短すぎます」
「だから剣しか知らねえ奴は困るんだ」
ガルドは作業台の下を顎で示した。
折れた留め具、曲がった釘、鍋の取っ手。武器ではない金属が箱へ積まれている。
ローディスは鉄棒を見直した。
「鉤にします」
「何に使う」
「武器を失ったとき、落ちている物を引き寄せるために」
「戦うことから離れられねえな」
「戦うために習っています」
ガルドは鼻を鳴らした。
「なら、使える物にしろ。形だけ鉤でも、引いた瞬間に伸びりゃ屑鉄だ」
ローディスは再び鉄へ槌を落とした。
一度ごとに、逃げた金属の行き先を見る。
鉄はまだ、願いどおりの形にはならない。
それでも、何も知らずに剣だけを求めていたときより、金へ伝えたい言葉は増えていた。
◇
同じ日の夕刻、帝国軍務監察局の地下取調室に、八つ目の宿駅で捕らえられた兵士が座っていた。
両手は机の上で枷につながれている。
正面にはディルク、壁際にはエレオノーラが立っていた。
ハンスとクララは、持ち帰った革筒と焼却命令を隣室で記録官へ引き渡している。
「命令を渡した者の名は知らない」
兵士は同じ答えを繰り返した。
「顔は」
ディルクが尋ねる。
「覚えている」
机へ五枚の肖像が並べられた。
兵士の目が、そのうち一枚で止まる。
エヴァが二人の証人へ見せたものと、同じ若い軍務官の顔だった。
「こいつだ」
「どこで会った」
「帝都西側の、使われていない貨物検査所だ。焼いた灰を持って、同じ場所へ戻れと言われた」
「誰に渡す」
「裏口へ袋を置けとだけ。受け取る奴の顔は知らない」
ディルクは肖像から目を上げた。
「いつだ」
「明後日の夜だ」
壁際で、エレオノーラが僅かに身じろぎした。
記録では北西へ向かった男が、帝都で黒い獣の搬送を命じ、さらに北西で焼かせる革筒の処分まで手配していた。
同じ顔を使った者が、証拠の戻る場所も指定している。
「その検査所は、まだ相手の手の内です」
エレオノーラが言った。
「兵を並べれば来ないでしょう」
「並べるつもりはない」
ディルクは立ち上がった。
「灰は用意する。この男にも、予定どおり戻ってもらう」
兵士の顔から血の気が引いた。
「俺を囮にするのか」
「証拠を焼く仕事だと知りながら引き受けたのは、お前だ」
「戻れば殺される」
「だから、我々が先に入る」
取調室の扉が開いた。
入ってきたのは、北西から戻った二人の監察官ではない。
薄い顔立ちの若い女性だった。
どこにでもいそうな茶色の髪を首の後ろで束ね、灰色の事務服を着ている。だが、その歩幅には音がない。
「裏口へ袋を置いた後、あなたはどちらへ歩くよう言われたの」
エヴァが兵士へ尋ねた。
「西の水路沿いだ。鐘が二度鳴るまで、振り返るなと」
「なら、振り返らずに歩いて。あなたの代わりに、私が後ろを見る」
エヴァは机の肖像を伏せた。
名前だけを北西へ旅させた者は、まだ帝都にいる。
今度はこちらから、その帰り道を辿る番だった。




