第73話 薄くなった境界
夜の旧演習場へ、四つの火が降りてきた。
初めは、星の下に赤い点が並んでいるように見えた。
火は次第に大きくなり、輪郭を持つ。
四基の〈推進環〉が左右へ二つずつ広がり、中心から細い火柱を噴き出していた。その間に、白衣を着た女性が浮かんでいる。
腰まで届く淡い金髪が、火柱の生む風に揺れていた。
アーデルハイト・フォスは石床の上で速度を落としたが、足は地面へ着けなかった。
「久しぶりね、可愛い護衛さんたち」
「どうして、あなたが」
セイルが尋ねる。
「失礼ね。私ほど命と魂の境目に詳しい美女を、ほかに何人知っているの?」
「質問への答えになっていません」
「依頼を受けて来た。それで十分でしょう」
アーデルハイトは地面から半歩ほど浮いたまま、三人の前へ進んだ。
「依頼元を尋ねない。私も、あなたたちが誰へ報告書を送ったのか聞かない。お互い、知らなくていいことは大切にしましょう」
宵衛の一員なのか。
組織から秘密を守れる研究者として雇われただけなのか。
ローディスにもセイルにも、判断はできなかった。
リュカは普段どおりに微笑んでいる。
「僕の身体を調べるんだよね」
「ええ。以前から興味はあったけれど、今回は触っても怒られない許可をもらっているわ」
「言い方を選んでください」
セイルが言った。
「あなたは相変わらず美人ね。研究所へ来る気になった?」
「なりません」
アーデルハイトは残念そうに肩を落とした後、表情を変えた。
「冗談はここまで。エアハルト、脚を見せて」
リュカが観覧席の低い段へ座り、両方の長靴を脱ぐ。
寝巻ではなく制服を着ている。それでも、両脚の足首から膝下へ伸びる紋章が露出すると、朝の記憶がローディスの中へ戻った。
「触れるわよ」
「どうぞ」
アーデルハイトの首を囲っていたU字型の装具が、頭上へ浮かんだ。
装具の両端に青白い雷が走る。
彼女の思考を雷の流れとして拾い、内部に刻まれた紋章から必要なものを選ぶための装具だった。
考えただけで精霊術が起きているように見えるが、実際には雷の精霊術を介し、選択された紋章へマナを流している。
背後の推進環が一つ、アーデルハイトの右手へ移動した。
輪の内側から四本の細い金属棒が伸び、リュカの両脚を囲む。
「今から命の精霊に、身体の形とマナの流れをなぞってもらう。痛みはないはずだけれど、熱や怒りを感じたらすぐ言いなさい」
「怒りも?」
「あなたの場合は、そちらの方が重要よ」
アーデルハイトは淡い青の目を細めた。
意識を集中させる。
彼女の視線は皮膚に刻まれた紋章ではなく、その周囲へ集まる命の精霊を追っていた。
通常の人族には見えないものを、エルヴィン・ノアの血を引く彼女は、意識を傾けることで見ることができる。
金属棒の先に、淡い緑の光が灯った。
命の精霊の力が、皮膚、筋肉、骨、血の流れを順に辿る。
光は両足首の紋章へ近づくたび、細く歪んだ。右脚をなぞった光の方が、その歪みは僅かに大きい。
「身体は正常」
アーデルハイトが呟く。
「少なくとも、今の形はね。骨にも筋肉にも、無理に変形した後の損傷が残っていない」
「変形したこと自体が、なかったという意味ですか」
ローディスが尋ねる。
「逆よ。壊して作り直した痕跡まで、きれいに消されている」
金属棒の一本が、右足首の外側で止まった。
「ここから先は、身体の検査だけでは見えない」
アーデルハイトは鞄から、透明な板を取り出した。
掌ほどの板には、髪より細い線で多数の紋章が刻まれている。
それをリュカの足元へ立てると、脚を囲む四本の金属棒から板へ光が流れた。
複雑な線の一部だけが赤く染まる。
「この紋章は、外から魂を押さえつけているだけじゃない」
「どういうこと?」
リュカが尋ねる。
「あなたの魂と、脚に入れられた魂。その境を作っている」
アーデルハイトは赤くなった線を指で示した。
「境界を壁だと思わない方がいいわ。細い水路の集まりに近い。向こうから流れ込むものを散らし、あなたの側から漏れるものを戻している」
アーデルハイトは、左右の脚に刻まれた紋章を交互に見た。
「外から入れた魂を両脚へ分けたことにも、意味がありそうね」
「分けたから、僕の魂は残った?」
「推測だけれどね。一か所へまとめて定着させれば、そこからあなたの魂を呑み込んでいたかもしれない。二つに分けて本人の魂の中心から離し、それぞれを紋章で囲った。侵蝕を両側へ散らしたから、あなたはあなたのままでいられた可能性がある」
「助けるために刻んだ紋章だったのか」
ローディスの声が低くなる。
「実験を成功させるためでしょうね。結果として、この子の魂も守っただけよ」
「怒りも、その水路を通る?」
セイルが尋ねる。
「おそらくは。感情だけでなく、力も、身体を作り替えるための情報もね」
セイルは透明な板を見た。
「地下で一度、大きな力が流れた。それで水路が広がったんですか」
「近いわ」
アーデルハイトは、赤く染まった線の一部を爪でなぞった。
「紋章は壊れていない。今も大量のマナを使って、境を保とうとしている。でも、刻まれた紋章に対して、力の通り道が広すぎる。細い水路として働けなくなっている箇所があるわ」
アーデルハイトは検査板と、リュカの右脚を見比べた。
「両脚とも影響を受けているけれど、特に右側が広い。二度とも形が変わったのが右脚だったせいでしょうね」
「だから、夢の怒りだけでも脚が変わった」
ローディスが言った。
「可能性は高い。本来なら細い水路で散らすはずのものが、広がった箇所を通って身体まで届いている」
リュカは自分の足を見る。
「元に戻せる?」
「今すぐ紋章を狭めれば、向こう側から流れ込んでいる力も止められるかもしれない」
「なら――」
「同時に、あなたの脚が今の形を保てなくなるかもしれない」
ローディスの言葉を、アーデルハイトが遮った。
「二つの魂は、長い間この身体の中で釣り合ってきた。どこまでがあなたのものか、外から切り分ける方法はない。境界を強く閉じることが、脚だけを奪うのか、命まで止めるのかも分からない」
「魂を移し替えることは?」
セイルが尋ねた。
「できる者がいたとしても、今の状態で試すべきではないわね」
アーデルハイトは即答した。
「器から魂を取り出すのと、絡み合った二つを剥がすのは違う。片方だけを掴んだつもりで、両方とも壊す可能性がある」
セイルはそれ以上聞かなかった。
模造体へ魂を移した学園長の姿が、頭をよぎった。
しかし、ここでその名を出せば、リュカの秘密と学園長への疑念を、アーデルハイトへ同時に渡すことになる。
「今できることは」
ローディスが尋ねる。
「記録すること。変化の前に何を感じたか、どこから形が変わったか、戻るまでどれだけかかったか」
「今朝から始めてるよ」
リュカが答えた。
「優秀ね。それから、変化を無理に起こさないこと」
アーデルハイトは鞄から細い足環を出した。
黒い金属の表面に、赤と青の小石が一つずつ埋め込まれている。
「これは抑える装具じゃない。紋章へ流れるマナが急に増えたら赤、身体の作り替えが始まったら青が光る。本人が気づくより少し早く、周りへ知らせるだけ」
「作ってきたんですか」
ローディスが足環を見る。
「依頼を受けてから急いでね。研究用の検知環を調整しただけだから、代金を取れる出来ではないわ」
「取らないんですか」
セイルが尋ねる。
「今回は依頼元へ請求するもの」
「安心しました」
「あなた、私を何だと思ってるの?」
「料金の相談を後回しにすると危険な人です」
アーデルハイトは否定せず、足環をリュカの右足首へ巻いた。
「変化が大きかった側へ着けておく。両脚の紋章はつながっているから、境を流れるマナの増加なら、これ一つでも拾えるわ」
「二人も色を覚えて。赤だけなら、まず本人へ声をかける。青まで点いたら、距離を取った上で、エアハルトが誰を見ているか確かめなさい」
「取り押さえなくていいのか」
「力で押さえれば、抵抗する怒りを増やすかもしれない。前に戻れたときと同じように、本人が守ろうとしていたものを思い出させる方がいい」
ローディスは、黒い獣へなお蹴りを落とそうとしたリュカを思い出した。
「分かりました」
「僕が二人を敵だと思ったら?」
リュカが尋ねる。
「そのときは逃げなさい。あなたを壊さずに止められる保証は、この二人にも私にもない」
アーデルハイトは淡々と答えた。
リュカの笑みが消える。
「冗談ではなく?」
「命を扱うときに、できない約束はしないわ」
しばらく誰も話さなかった。
足環の二つの石は、どちらも光っていない。
アーデルハイトは検査用の板を鞄へ戻した。
「ただし、今すぐあなたが消えるわけではない。境界は薄くなったけれど、まだ働いている。今朝、自分から二人へ話しに行けたことも大きい」
「身体の問題なのに?」
「怒りの中で、自分と向こうの区別がつくかどうかは、身体だけの話じゃないでしょう」
アーデルハイトは再び浮かび上がった。
「一人で抱え込まない。変化を力として使おうとしない。記録を続ける。まずはそれで、次の検査まで生きていなさい」
「次もあなたが来るの?」
「私以外に、この美しい仕事を任せたい?」
「腕の話なら、お願いしたいかな」
「見る目があるじゃない」
アーデルハイトの背後で、四基の推進環へ火が灯った。
「ああ、それと」
飛び立つ前に、彼女はローディスへ顔を向ける。
「金の精霊と契約したいんですって?」
「なぜ知っているんですか」
「昼に研究用の金具を注文しに寄ったの。ガルドから、炭を割るだけで日を暮らせそうな弟子が来たと聞いたわ」
ローディスは眉を寄せた。
「弟子とは言われていません」
「否定するところはそこなのね」
アーデルハイトは楽しそうに笑った。
「契約できたら研究所へ来なさい。金を動かせても、戦いながら形を選ぶ暇がなければ役に立たない。あなた向きの補助具を考えてあげる」
「思考だけで術を使う装具ですか」
「あれは雷の精霊と契約している私だから使えるものよ。金だけでは動かせない」
ローディスの問いを、アーデルハイトははっきり否定した。
「別の方法を考える。まずは金の精霊に認められてからね」
四本の火柱が伸びる。
アーデルハイトは夜空へ舞い上がり、学府の外へ消えた。
◇
同じ夜、八つ目の宿駅へ一人の兵士が現れた。
北西軍団の外套を着た、三十代半ばほどの男だった。短い黒髪の下に細い眉があり、右の耳たぶが半分欠けている。
男は事務室へ入ると、老書記官へ一枚の札を見せた。
革筒の受領札と同じ形だった。
「雪は東へ解ける」
命令書に記された合言葉を口にする。
老書記官は、普段どおりを装って棚へ向かった。
「少々お待ちを。封の確認を」
「必要ない。受け取った時点で確認したはずだ」
「規則ですので」
棚の箱へ手を伸ばす。
男の視線が、箱の縁で止まった。
監察局の細い封印に気づいた。
「触るな」
声が変わる。
老書記官が手を止めた。
男は一歩下がり、外套の内側へ手を入れる。
扉の脇に隠れていたハンスが、腕を掴んだ。
男は身体を捻り、反対の手で短剣を抜く。
クララが机を蹴った。
机の端が男の膝へ当たり、体勢が崩れる。
短剣の柄を掴んだまま、ハンスが腕を背中へ回した。
「放せ!」
「革筒を受け取りに来ただけの兵が、どうして監察局の封を見て逃げる」
男は答えず、歯を食いしばった。
クララが外套を調べる。
内側から、受領札とは別の紙が出てきた。
革筒を回収後、宿駅の外で焼却すること。
中身は確認せず、灰が残らないまで燃やすこと。
命令を受けた者の名も、発令者の署名もない。
ただし、末尾には北西軍団連絡所の受領印が押されていた。
「名前を運んだ後は、筒ごと消すつもりだったのね」
クララが言った。
「何の話だ」
「知らないなら、誰からその紙を受け取ったか話せるでしょう」
男は黙った。
ハンスが床へ押さえつけたまま、老書記官を見る。
「縄を」
老書記官は震える手で、荷物を束ねる縄を取り出した。
兵士の両手を縛る。
クララは焼却命令を布へ包み、革筒とは別の証拠袋へ収めた。
本人が北西へ移動したという記録。
実際に運ばれた通行証。
その通行証を、筒ごと焼こうとした兵士。
偽りの旅を作った仕組みは、これで一つにつながった。
「帝都へ戻る」
クララが言った。
「こいつも連れてか」
「生きたまま。ディルクに、名前ではなく本人を確認してもらう」
ハンスは拘束した兵士を立たせた。
存在しない旅人の代わりに、今度は一人の証人が帝都への道を歩き始める。




