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黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

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第73話 薄くなった境界

 夜の旧演習場へ、四つの火が降りてきた。


 初めは、星の下に赤い点が並んでいるように見えた。


 火は次第に大きくなり、輪郭を持つ。


 四基の〈推進環〉が左右へ二つずつ広がり、中心から細い火柱を噴き出していた。その間に、白衣を着た女性が浮かんでいる。


 腰まで届く淡い金髪が、火柱の生む風に揺れていた。


 アーデルハイト・フォスは石床の上で速度を落としたが、足は地面へ着けなかった。


「久しぶりね、可愛い護衛さんたち」


「どうして、あなたが」


 セイルが尋ねる。


「失礼ね。私ほど命と魂の境目に詳しい美女を、ほかに何人知っているの?」


「質問への答えになっていません」


「依頼を受けて来た。それで十分でしょう」


 アーデルハイトは地面から半歩ほど浮いたまま、三人の前へ進んだ。


「依頼元を尋ねない。私も、あなたたちが誰へ報告書を送ったのか聞かない。お互い、知らなくていいことは大切にしましょう」


 宵衛の一員なのか。


 組織から秘密を守れる研究者として雇われただけなのか。


 ローディスにもセイルにも、判断はできなかった。


 リュカは普段どおりに微笑んでいる。


「僕の身体を調べるんだよね」


「ええ。以前から興味はあったけれど、今回は触っても怒られない許可をもらっているわ」


「言い方を選んでください」


 セイルが言った。


「あなたは相変わらず美人ね。研究所へ来る気になった?」


「なりません」


 アーデルハイトは残念そうに肩を落とした後、表情を変えた。


「冗談はここまで。エアハルト、脚を見せて」


 リュカが観覧席の低い段へ座り、両方の長靴を脱ぐ。


 寝巻ではなく制服を着ている。それでも、両脚の足首から膝下へ伸びる紋章が露出すると、朝の記憶がローディスの中へ戻った。


「触れるわよ」


「どうぞ」


 アーデルハイトの首を囲っていたU字型の装具が、頭上へ浮かんだ。


 装具の両端に青白い雷が走る。


 彼女の思考を雷の流れとして拾い、内部に刻まれた紋章から必要なものを選ぶための装具だった。


 考えただけで精霊術が起きているように見えるが、実際には雷の精霊術を介し、選択された紋章へマナを流している。


 背後の推進環が一つ、アーデルハイトの右手へ移動した。


 輪の内側から四本の細い金属棒が伸び、リュカの両脚を囲む。


「今から命の精霊に、身体の形とマナの流れをなぞってもらう。痛みはないはずだけれど、熱や怒りを感じたらすぐ言いなさい」


「怒りも?」


「あなたの場合は、そちらの方が重要よ」


 アーデルハイトは淡い青の目を細めた。


 意識を集中させる。


 彼女の視線は皮膚に刻まれた紋章ではなく、その周囲へ集まる命の精霊を追っていた。


 通常の人族には見えないものを、エルヴィン・ノアの血を引く彼女は、意識を傾けることで見ることができる。


 金属棒の先に、淡い緑の光が灯った。


 命の精霊の力が、皮膚、筋肉、骨、血の流れを順に辿る。


 光は両足首の紋章へ近づくたび、細く歪んだ。右脚をなぞった光の方が、その歪みは僅かに大きい。


「身体は正常」


 アーデルハイトが呟く。


「少なくとも、今の形はね。骨にも筋肉にも、無理に変形した後の損傷が残っていない」


「変形したこと自体が、なかったという意味ですか」


 ローディスが尋ねる。


「逆よ。壊して作り直した痕跡まで、きれいに消されている」


 金属棒の一本が、右足首の外側で止まった。


「ここから先は、身体の検査だけでは見えない」


 アーデルハイトは鞄から、透明な板を取り出した。


 掌ほどの板には、髪より細い線で多数の紋章が刻まれている。


 それをリュカの足元へ立てると、脚を囲む四本の金属棒から板へ光が流れた。


 複雑な線の一部だけが赤く染まる。


「この紋章は、外から魂を押さえつけているだけじゃない」


「どういうこと?」


 リュカが尋ねる。


「あなたの魂と、脚に入れられた魂。その境を作っている」


 アーデルハイトは赤くなった線を指で示した。


「境界を壁だと思わない方がいいわ。細い水路の集まりに近い。向こうから流れ込むものを散らし、あなたの側から漏れるものを戻している」


 アーデルハイトは、左右の脚に刻まれた紋章を交互に見た。


「外から入れた魂を両脚へ分けたことにも、意味がありそうね」


「分けたから、僕の魂は残った?」


「推測だけれどね。一か所へまとめて定着させれば、そこからあなたの魂を呑み込んでいたかもしれない。二つに分けて本人の魂の中心から離し、それぞれを紋章で囲った。侵蝕を両側へ散らしたから、あなたはあなたのままでいられた可能性がある」


「助けるために刻んだ紋章だったのか」


 ローディスの声が低くなる。


「実験を成功させるためでしょうね。結果として、この子の魂も守っただけよ」


「怒りも、その水路を通る?」


 セイルが尋ねる。


「おそらくは。感情だけでなく、力も、身体を作り替えるための情報もね」


 セイルは透明な板を見た。


「地下で一度、大きな力が流れた。それで水路が広がったんですか」


「近いわ」


 アーデルハイトは、赤く染まった線の一部を爪でなぞった。


「紋章は壊れていない。今も大量のマナを使って、境を保とうとしている。でも、刻まれた紋章に対して、力の通り道が広すぎる。細い水路として働けなくなっている箇所があるわ」


 アーデルハイトは検査板と、リュカの右脚を見比べた。


「両脚とも影響を受けているけれど、特に右側が広い。二度とも形が変わったのが右脚だったせいでしょうね」


「だから、夢の怒りだけでも脚が変わった」


 ローディスが言った。


「可能性は高い。本来なら細い水路で散らすはずのものが、広がった箇所を通って身体まで届いている」


 リュカは自分の足を見る。


「元に戻せる?」


「今すぐ紋章を狭めれば、向こう側から流れ込んでいる力も止められるかもしれない」


「なら――」


「同時に、あなたの脚が今の形を保てなくなるかもしれない」


 ローディスの言葉を、アーデルハイトが遮った。


「二つの魂は、長い間この身体の中で釣り合ってきた。どこまでがあなたのものか、外から切り分ける方法はない。境界を強く閉じることが、脚だけを奪うのか、命まで止めるのかも分からない」


「魂を移し替えることは?」


 セイルが尋ねた。


「できる者がいたとしても、今の状態で試すべきではないわね」


 アーデルハイトは即答した。


「器から魂を取り出すのと、絡み合った二つを剥がすのは違う。片方だけを掴んだつもりで、両方とも壊す可能性がある」


 セイルはそれ以上聞かなかった。


 模造体へ魂を移した学園長の姿が、頭をよぎった。


 しかし、ここでその名を出せば、リュカの秘密と学園長への疑念を、アーデルハイトへ同時に渡すことになる。


「今できることは」


 ローディスが尋ねる。


「記録すること。変化の前に何を感じたか、どこから形が変わったか、戻るまでどれだけかかったか」


「今朝から始めてるよ」


 リュカが答えた。


「優秀ね。それから、変化を無理に起こさないこと」


 アーデルハイトは鞄から細い足環を出した。


 黒い金属の表面に、赤と青の小石が一つずつ埋め込まれている。


「これは抑える装具じゃない。紋章へ流れるマナが急に増えたら赤、身体の作り替えが始まったら青が光る。本人が気づくより少し早く、周りへ知らせるだけ」


「作ってきたんですか」


 ローディスが足環を見る。


「依頼を受けてから急いでね。研究用の検知環を調整しただけだから、代金を取れる出来ではないわ」


「取らないんですか」


 セイルが尋ねる。


「今回は依頼元へ請求するもの」


「安心しました」


「あなた、私を何だと思ってるの?」


「料金の相談を後回しにすると危険な人です」


 アーデルハイトは否定せず、足環をリュカの右足首へ巻いた。


「変化が大きかった側へ着けておく。両脚の紋章はつながっているから、境を流れるマナの増加なら、これ一つでも拾えるわ」


「二人も色を覚えて。赤だけなら、まず本人へ声をかける。青まで点いたら、距離を取った上で、エアハルトが誰を見ているか確かめなさい」


「取り押さえなくていいのか」


「力で押さえれば、抵抗する怒りを増やすかもしれない。前に戻れたときと同じように、本人が守ろうとしていたものを思い出させる方がいい」


 ローディスは、黒い獣へなお蹴りを落とそうとしたリュカを思い出した。


「分かりました」


「僕が二人を敵だと思ったら?」


 リュカが尋ねる。


「そのときは逃げなさい。あなたを壊さずに止められる保証は、この二人にも私にもない」


 アーデルハイトは淡々と答えた。


 リュカの笑みが消える。


「冗談ではなく?」


「命を扱うときに、できない約束はしないわ」


 しばらく誰も話さなかった。


 足環の二つの石は、どちらも光っていない。


 アーデルハイトは検査用の板を鞄へ戻した。


「ただし、今すぐあなたが消えるわけではない。境界は薄くなったけれど、まだ働いている。今朝、自分から二人へ話しに行けたことも大きい」


「身体の問題なのに?」


「怒りの中で、自分と向こうの区別がつくかどうかは、身体だけの話じゃないでしょう」


 アーデルハイトは再び浮かび上がった。


「一人で抱え込まない。変化を力として使おうとしない。記録を続ける。まずはそれで、次の検査まで生きていなさい」


「次もあなたが来るの?」


「私以外に、この美しい仕事を任せたい?」


「腕の話なら、お願いしたいかな」


「見る目があるじゃない」


 アーデルハイトの背後で、四基の推進環へ火が灯った。


「ああ、それと」


 飛び立つ前に、彼女はローディスへ顔を向ける。


「金の精霊と契約したいんですって?」


「なぜ知っているんですか」


「昼に研究用の金具を注文しに寄ったの。ガルドから、炭を割るだけで日を暮らせそうな弟子が来たと聞いたわ」


 ローディスは眉を寄せた。


「弟子とは言われていません」


「否定するところはそこなのね」


 アーデルハイトは楽しそうに笑った。


「契約できたら研究所へ来なさい。金を動かせても、戦いながら形を選ぶ暇がなければ役に立たない。あなた向きの補助具を考えてあげる」


「思考だけで術を使う装具ですか」


「あれは雷の精霊と契約している私だから使えるものよ。金だけでは動かせない」


 ローディスの問いを、アーデルハイトははっきり否定した。


「別の方法を考える。まずは金の精霊に認められてからね」


 四本の火柱が伸びる。


 アーデルハイトは夜空へ舞い上がり、学府の外へ消えた。


     ◇


 同じ夜、八つ目の宿駅へ一人の兵士が現れた。


 北西軍団の外套を着た、三十代半ばほどの男だった。短い黒髪の下に細い眉があり、右の耳たぶが半分欠けている。


 男は事務室へ入ると、老書記官へ一枚の札を見せた。


 革筒の受領札と同じ形だった。


「雪は東へ解ける」


 命令書に記された合言葉を口にする。


 老書記官は、普段どおりを装って棚へ向かった。


「少々お待ちを。封の確認を」


「必要ない。受け取った時点で確認したはずだ」


「規則ですので」


 棚の箱へ手を伸ばす。


 男の視線が、箱の縁で止まった。


 監察局の細い封印に気づいた。


「触るな」


 声が変わる。


 老書記官が手を止めた。


 男は一歩下がり、外套の内側へ手を入れる。


 扉の脇に隠れていたハンスが、腕を掴んだ。


 男は身体を捻り、反対の手で短剣を抜く。


 クララが机を蹴った。


 机の端が男の膝へ当たり、体勢が崩れる。


 短剣の柄を掴んだまま、ハンスが腕を背中へ回した。


「放せ!」


「革筒を受け取りに来ただけの兵が、どうして監察局の封を見て逃げる」


 男は答えず、歯を食いしばった。


 クララが外套を調べる。


 内側から、受領札とは別の紙が出てきた。


 革筒を回収後、宿駅の外で焼却すること。


 中身は確認せず、灰が残らないまで燃やすこと。


 命令を受けた者の名も、発令者の署名もない。


 ただし、末尾には北西軍団連絡所の受領印が押されていた。


「名前を運んだ後は、筒ごと消すつもりだったのね」


 クララが言った。


「何の話だ」


「知らないなら、誰からその紙を受け取ったか話せるでしょう」


 男は黙った。


 ハンスが床へ押さえつけたまま、老書記官を見る。


「縄を」


 老書記官は震える手で、荷物を束ねる縄を取り出した。


 兵士の両手を縛る。


 クララは焼却命令を布へ包み、革筒とは別の証拠袋へ収めた。


 本人が北西へ移動したという記録。


 実際に運ばれた通行証。


 その通行証を、筒ごと焼こうとした兵士。


 偽りの旅を作った仕組みは、これで一つにつながった。


「帝都へ戻る」


 クララが言った。


「こいつも連れてか」


「生きたまま。ディルクに、名前ではなく本人を確認してもらう」


 ハンスは拘束した兵士を立たせた。


 存在しない旅人の代わりに、今度は一人の証人が帝都への道を歩き始める。


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