第72話 返事のない風
翌日の朝、セイルは旧演習場の中央へ細い棒を一本立て、その先へ白い布を結んだ。
布は東から吹く風を受け、緩やかに西へなびいている。
「風はあるね」
リュカが言った。
「見れば分かるよ」
セイルは杖を石床へ置き、手にした紙へ目を落とした。
書いたのは、風の精霊へ伝える内容を自分なりに整理した覚え書きだった。
精霊語そのものは、火や水へ願いを伝えるために日頃から使っている。新しい属性の精霊へ契約を申し込む言葉も、学府の授業で学んでいた。
リュカから教わるのは言葉ではない。
風とともに暮らしていた翠嵐谷の人々が、どのように風へ向き合い、何を伝えていたのかだった。
「もう一度、最初から確認するよ」
リュカは紙を覗き込んだ。
「精霊語なら、僕が直すところはないよ。僕が教えられるのは、谷のみんなが風へどう向き合っていたかだけ。セイルが風の精霊に認められるかは、僕には決められない」
「分かってる」
「認めてもらえなくても、風が嫌っているとは限らない。聞いているけど、まだ決めていないこともある」
「君の七回も?」
「たぶんね。当時は、無視されたと思ってたけど」
リュカは白い布を見る。
「僕たちには、契約していても精霊の声そのものは聞こえない。だから願いの最後に、承認するなら目の前の布を自分へ向けてほしいと加える」
東風を受けた布は、セイルから見て左へ流れている。
契約が認められれば、風向きに逆らい、手前へ動く。
「随分、頼りない合否の出し方だね」
「合否じゃないよ」
リュカの声から笑みが消えた。
「契約は試験じゃない。正しい答えを出せば、必ず承認されるものでもない」
「……そうだったね」
セイルは紙を畳んだ。
精霊語で、風へ呼びかける。
自分はすでに水と火の精霊から力を借りていること。
二つの力で氷を作り、仲間を運び、敵を止めてきたこと。
だが、作った氷を必要な速さで遠くへ届けられず、守りたい相手へ敵を近づけたこと。
風の力で氷を運びたい。
霧と蒸気の流れを操り、味方を巻き込まずに力を使いたい。
願いを伝えるたび、白い布は風に揺れた。
最後に、承認するなら自分へ向けてほしいと頼む。
セイルは口を閉じた。
東からの風が、演習場を通り抜ける。
白い布は左へなびいたまま、向きを変えなかった。
「言葉は間違ってなかった?」
「僕が聞いた限りではね」
「聞こえていなかった可能性は」
「風は、ここにいる」
リュカが自分の髪へ触れる。
「届いてはいると思う」
セイルは布を見た。
「つまり、断られた」
「返事を保留されたのかもしれない」
「慰めなら要らないよ」
「僕は七回断られたんだよ。今さら一回で落ち込む相手を慰めると思う?」
セイルは紙を開き直した。
「もう一度やる」
「同じ言葉なら、同じことしか伝わらないよ」
「言い方を変える」
「言葉の形だけ変えても、願っていることが同じなら変わらないよ」
「なら、何が足りないの」
リュカはすぐには答えなかった。
「セイルは、風にしてほしいことを全部話した」
「必要でしょう」
「でも、風と何をしたいかは話してない」
セイルの眉が寄る。
「同じ意味じゃないの?」
「僕も七回目までは、同じだと思ってたよ」
リュカは白い布の結び目を解いた。
「今日はここまで。次は、風を術の部品として扱わずに、何を願いたいのか考えてきて」
「水と火を組み合わせてきた僕に、それを言う?」
「だから言ってるんだよ」
布を畳み、セイルへ渡す。
「風は、氷を飛ばすためだけに存在してるわけじゃないからね」
朝の授業を告げる鐘が鳴った。
セイルは返事をしない風へ背を向け、白い布を杖と一緒に抱えた。
◇
放課後、ローディスは〈赤槌工房〉の炉の前にいた。
借りた大剣は壁際へ置かれている。
代わりに両手で持っているのは、煤に汚れた鉄籠だった。
「次」
ガルドが言う。
ローディスは籠から黒い塊を一つ取り出し、作業台へ置いた。
「木炭」
「見りゃ分かる。どれだ」
作業台には、色も大きさもよく似た炭が六つ並んでいる。
ローディスは一つずつ持ち、重さを比べた。表面を指で擦り、欠けた箇所の細かさを見る。
「右から二つ目」
「理由は」
「軽い。割れ目が細かく、火が回りやすい」
「半分だ」
ガルドは選ばれた炭と、左端の炭を炉へ放り込んだ。
鞴を踏む。
二つの炭が赤くなり、やがて一方だけが細かく崩れた。
「火が回るのと、長く保つのは別だ。刃のどこを熱するかでも選ぶ炭は変わる」
ローディスは崩れた炭を見た。
「もう一度お願いします」
「同じ炭は出さん。裏へ行って割ってこい」
工房の裏庭には、炭の入った麻袋が三つ積まれていた。
ローディスは斧を受け取り、太い炭を同じ大きさへ割っていく。
十個目で、形が揃っていないと戻された。
二十個目で、大きさだけ見て割るなと怒鳴られた。
三十個目を作る頃には、制服の袖も顔も黒くなっていた。
「剣を振る方が楽そうだね」
裏口から、リュカが顔を覗かせた。
「セイルはどうした」
「図書室で、風へ何を願うのか考え直してるよ」
「契約は」
「返事なし」
ローディスの斧が止まる。
「落ち込んでいたか」
「言葉を選ぶために教本を五冊積んでた。いつもどおりだよ」
ローディスは次の炭へ斧を入れた。
「お前は、どうしてここにいる」
「組織から返事が来た」
斧が止まる。
リュカは声を落とした。
「今夜、旧演習場で診てもらえる。身体じゃなくて、魂の方をね」
「誰が来る」
「書いてなかった。僕たち三人以外に見られない場所へ来いって」
ローディスは斧を置いた。
「俺も行く」
「だから知らせに来たんだよ」
工房の中から、ガルドの声が飛ぶ。
「ベルグ! 炭を割るのに日が暮れるまでかける気か!」
「すぐ戻ります」
ローディスは返事をし、再び斧を握った。
リュカが立ち去ろうとする。
「リュカ」
「何?」
「一人で先に行くな」
リュカは振り返り、少しだけ笑った。
「今朝、約束したばかりだよ」
「確認しただけだ」
「分かってる。セイルを連れて、ここへ迎えに来るよ」
今度は、ローディスも斧を振る手を止めなかった。
◇
北西へ八つ目の宿駅で、革筒の旅は終わった。
伝令兵が筒を渡した相手は、駅務を預かる老書記官だった。
灰色の髪を後ろへ撫でつけ、鼻の上へ丸い眼鏡を載せている。左手の指先には、長年染み込んだ墨の色が残っていた。
ハンスとクララは食堂の隅から受け渡しを見届けた。
書記官は革筒を事務室へ運び、扉を閉める。
二人はすぐに後を追った。
ハンスが監察官章を示す。
「その筒を開ける前に、命令書を見せろ」
老書記官は驚いたが、抵抗はしなかった。
「開ける前、ですか」
「中身を知っているのか」
「いいえ。ここで移送を終え、封を確かめて保管するよう命じられています」
机の引き出しから、一枚の書面を出す。
軍務院の輸送印。
革筒の番号。
受領後は開封せず、北西軍団から回収者が来るまで保管するという指示。
「回収者の名前は」
クララが尋ねる。
「記されていません。合言葉と、受領札の形だけです」
「これまでにも同じ荷を預かったことは?」
「三度あります。いずれも数日後に回収されました」
「誰が来た」
書記官は首を振った。
「毎回違う兵でした。命令書と同じ合言葉を述べ、受領札を渡しました」
ハンスは扉の前に立ち、クララを見た。
「待てば、今回も来る」
「来るとは限らない。途中で私たちに見られたことが伝わっていればね」
クララは命令書を布越しに持ち、灯りへ透かした。
「でも、これだけでも人が移動していない証拠にはなる」
書面には、革筒を運べとは書かれている。
若い軍務官を護送せよとも、本人を確認せよとも、一度も書かれていない。
それでも各宿駅は、筒に収められた通行証の名を、人の移動として記録していた。
「筒を開けますか」
老書記官が尋ねた。
ハンスは答えず、窓の外を見た。
宿駅の門には、北西軍団へ続く街道が伸びている。
「開ければ、仕組みを作った者に気づかれたと知らせる」
「開けなくても、回収者を待つ間に中身を替えられるかもしれない」
クララが言った。
「なら、筒は封じたまま、駅ごと押さえる」
ハンスは老書記官へ向き直った。
「今日から、この事務室へ入る者と、筒を受け取りに来る者をすべて記録しろ。普段どおりに振る舞え」
「私が疑われたら」
「帝都へ避難させる。だが、今すぐ筒を動かせば、相手は別の道へ逃げる」
クララは革筒と命令書を別々の箱へ入れ、それぞれに監察局の細い封印を加えた。
元の軍務院印は壊していない。
外から見れば、筒はこれまでどおり保管されている。
「これで、名前だけが北西へ旅したことは証明できる」
クララは二つの箱を棚へ戻した。
「次は、この名前を迎えに来る者を待つ」
存在しない旅人は、八つ目の宿駅で足を止めた。
その代わり、旅を終わらせるはずだった誰かのために、二人の監察官が扉の向こうで待ち始めた。




