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黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

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第72話 返事のない風

 翌日の朝、セイルは旧演習場の中央へ細い棒を一本立て、その先へ白い布を結んだ。


 布は東から吹く風を受け、緩やかに西へなびいている。


「風はあるね」


 リュカが言った。


「見れば分かるよ」


 セイルは杖を石床へ置き、手にした紙へ目を落とした。


 書いたのは、風の精霊へ伝える内容を自分なりに整理した覚え書きだった。


 精霊語そのものは、火や水へ願いを伝えるために日頃から使っている。新しい属性の精霊へ契約を申し込む言葉も、学府の授業で学んでいた。


 リュカから教わるのは言葉ではない。


 風とともに暮らしていた翠嵐谷の人々が、どのように風へ向き合い、何を伝えていたのかだった。


「もう一度、最初から確認するよ」


 リュカは紙を覗き込んだ。


「精霊語なら、僕が直すところはないよ。僕が教えられるのは、谷のみんなが風へどう向き合っていたかだけ。セイルが風の精霊に認められるかは、僕には決められない」


「分かってる」


「認めてもらえなくても、風が嫌っているとは限らない。聞いているけど、まだ決めていないこともある」


「君の七回も?」


「たぶんね。当時は、無視されたと思ってたけど」


 リュカは白い布を見る。


「僕たちには、契約していても精霊の声そのものは聞こえない。だから願いの最後に、承認するなら目の前の布を自分へ向けてほしいと加える」


 東風を受けた布は、セイルから見て左へ流れている。


 契約が認められれば、風向きに逆らい、手前へ動く。


「随分、頼りない合否の出し方だね」


「合否じゃないよ」


 リュカの声から笑みが消えた。


「契約は試験じゃない。正しい答えを出せば、必ず承認されるものでもない」


「……そうだったね」


 セイルは紙を畳んだ。


 精霊語で、風へ呼びかける。


 自分はすでに水と火の精霊から力を借りていること。


 二つの力で氷を作り、仲間を運び、敵を止めてきたこと。


 だが、作った氷を必要な速さで遠くへ届けられず、守りたい相手へ敵を近づけたこと。


 風の力で氷を運びたい。


 霧と蒸気の流れを操り、味方を巻き込まずに力を使いたい。


 願いを伝えるたび、白い布は風に揺れた。


 最後に、承認するなら自分へ向けてほしいと頼む。


 セイルは口を閉じた。


 東からの風が、演習場を通り抜ける。


 白い布は左へなびいたまま、向きを変えなかった。


「言葉は間違ってなかった?」


「僕が聞いた限りではね」


「聞こえていなかった可能性は」


「風は、ここにいる」


 リュカが自分の髪へ触れる。


「届いてはいると思う」


 セイルは布を見た。


「つまり、断られた」


「返事を保留されたのかもしれない」


「慰めなら要らないよ」


「僕は七回断られたんだよ。今さら一回で落ち込む相手を慰めると思う?」


 セイルは紙を開き直した。


「もう一度やる」


「同じ言葉なら、同じことしか伝わらないよ」


「言い方を変える」


「言葉の形だけ変えても、願っていることが同じなら変わらないよ」


「なら、何が足りないの」


 リュカはすぐには答えなかった。


「セイルは、風にしてほしいことを全部話した」


「必要でしょう」


「でも、風と何をしたいかは話してない」


 セイルの眉が寄る。


「同じ意味じゃないの?」


「僕も七回目までは、同じだと思ってたよ」


 リュカは白い布の結び目を解いた。


「今日はここまで。次は、風を術の部品として扱わずに、何を願いたいのか考えてきて」


「水と火を組み合わせてきた僕に、それを言う?」


「だから言ってるんだよ」


 布を畳み、セイルへ渡す。


「風は、氷を飛ばすためだけに存在してるわけじゃないからね」


 朝の授業を告げる鐘が鳴った。


 セイルは返事をしない風へ背を向け、白い布を杖と一緒に抱えた。


     ◇


 放課後、ローディスは〈赤槌工房〉の炉の前にいた。


 借りた大剣は壁際へ置かれている。


 代わりに両手で持っているのは、煤に汚れた鉄籠だった。


「次」


 ガルドが言う。


 ローディスは籠から黒い塊を一つ取り出し、作業台へ置いた。


「木炭」


「見りゃ分かる。どれだ」


 作業台には、色も大きさもよく似た炭が六つ並んでいる。


 ローディスは一つずつ持ち、重さを比べた。表面を指で擦り、欠けた箇所の細かさを見る。


「右から二つ目」


「理由は」


「軽い。割れ目が細かく、火が回りやすい」


「半分だ」


 ガルドは選ばれた炭と、左端の炭を炉へ放り込んだ。


 鞴(ふいご)を踏む。


 二つの炭が赤くなり、やがて一方だけが細かく崩れた。


「火が回るのと、長く保つのは別だ。刃のどこを熱するかでも選ぶ炭は変わる」


 ローディスは崩れた炭を見た。


「もう一度お願いします」


「同じ炭は出さん。裏へ行って割ってこい」


 工房の裏庭には、炭の入った麻袋が三つ積まれていた。


 ローディスは斧を受け取り、太い炭を同じ大きさへ割っていく。


 十個目で、形が揃っていないと戻された。


 二十個目で、大きさだけ見て割るなと怒鳴られた。


 三十個目を作る頃には、制服の袖も顔も黒くなっていた。


「剣を振る方が楽そうだね」


 裏口から、リュカが顔を覗かせた。


「セイルはどうした」


「図書室で、風へ何を願うのか考え直してるよ」


「契約は」


「返事なし」


 ローディスの斧が止まる。


「落ち込んでいたか」


「言葉を選ぶために教本を五冊積んでた。いつもどおりだよ」


 ローディスは次の炭へ斧を入れた。


「お前は、どうしてここにいる」


「組織から返事が来た」


 斧が止まる。


 リュカは声を落とした。


「今夜、旧演習場で診てもらえる。身体じゃなくて、魂の方をね」


「誰が来る」


「書いてなかった。僕たち三人以外に見られない場所へ来いって」


 ローディスは斧を置いた。


「俺も行く」


「だから知らせに来たんだよ」


 工房の中から、ガルドの声が飛ぶ。


「ベルグ! 炭を割るのに日が暮れるまでかける気か!」


「すぐ戻ります」


 ローディスは返事をし、再び斧を握った。


 リュカが立ち去ろうとする。


「リュカ」


「何?」


「一人で先に行くな」


 リュカは振り返り、少しだけ笑った。


「今朝、約束したばかりだよ」


「確認しただけだ」


「分かってる。セイルを連れて、ここへ迎えに来るよ」


 今度は、ローディスも斧を振る手を止めなかった。


     ◇


 北西へ八つ目の宿駅で、革筒の旅は終わった。


 伝令兵が筒を渡した相手は、駅務を預かる老書記官だった。


 灰色の髪を後ろへ撫でつけ、鼻の上へ丸い眼鏡を載せている。左手の指先には、長年染み込んだ墨の色が残っていた。


 ハンスとクララは食堂の隅から受け渡しを見届けた。


 書記官は革筒を事務室へ運び、扉を閉める。


 二人はすぐに後を追った。


 ハンスが監察官章を示す。


「その筒を開ける前に、命令書を見せろ」


 老書記官は驚いたが、抵抗はしなかった。


「開ける前、ですか」


「中身を知っているのか」


「いいえ。ここで移送を終え、封を確かめて保管するよう命じられています」


 机の引き出しから、一枚の書面を出す。


 軍務院の輸送印。


 革筒の番号。


 受領後は開封せず、北西軍団から回収者が来るまで保管するという指示。


「回収者の名前は」


 クララが尋ねる。


「記されていません。合言葉と、受領札の形だけです」


「これまでにも同じ荷を預かったことは?」


「三度あります。いずれも数日後に回収されました」


「誰が来た」


 書記官は首を振った。


「毎回違う兵でした。命令書と同じ合言葉を述べ、受領札を渡しました」


 ハンスは扉の前に立ち、クララを見た。


「待てば、今回も来る」


「来るとは限らない。途中で私たちに見られたことが伝わっていればね」


 クララは命令書を布越しに持ち、灯りへ透かした。


「でも、これだけでも人が移動していない証拠にはなる」


 書面には、革筒を運べとは書かれている。


 若い軍務官を護送せよとも、本人を確認せよとも、一度も書かれていない。


 それでも各宿駅は、筒に収められた通行証の名を、人の移動として記録していた。


「筒を開けますか」


 老書記官が尋ねた。


 ハンスは答えず、窓の外を見た。


 宿駅の門には、北西軍団へ続く街道が伸びている。


「開ければ、仕組みを作った者に気づかれたと知らせる」


「開けなくても、回収者を待つ間に中身を替えられるかもしれない」


 クララが言った。


「なら、筒は封じたまま、駅ごと押さえる」


 ハンスは老書記官へ向き直った。


「今日から、この事務室へ入る者と、筒を受け取りに来る者をすべて記録しろ。普段どおりに振る舞え」


「私が疑われたら」


「帝都へ避難させる。だが、今すぐ筒を動かせば、相手は別の道へ逃げる」


 クララは革筒と命令書を別々の箱へ入れ、それぞれに監察局の細い封印を加えた。


 元の軍務院印は壊していない。


 外から見れば、筒はこれまでどおり保管されている。


「これで、名前だけが北西へ旅したことは証明できる」


 クララは二つの箱を棚へ戻した。


「次は、この名前を迎えに来る者を待つ」


 存在しない旅人は、八つ目の宿駅で足を止めた。


 その代わり、旅を終わらせるはずだった誰かのために、二人の監察官が扉の向こうで待ち始めた。


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