第71話 次に届くために
夜明け前、ローディスは扉を叩く音で目を覚ました。
三度。
急かすほど強くはない。それでも、こんな時刻に訪ねてくる相手は限られていた。
寝台を降り、壁へ立て掛けていた大剣を手に取る。
「誰だ」
「僕だよ」
扉の向こうから、リュカの声がした。
ローディスが扉を開けると、リュカは寝巻の上へ制服の外套だけを羽織って立っていた。亜麻色の髪は整えられておらず、額へ細く張りついている。
口元には、いつもの笑みがあった。
だが、淡い緑の目からは眠気よりも濃い疲労が覗いていた。
「足か」
ローディスが尋ねる。
笑みが、僅かに止まった。
「どうして分かったの?」
「そのために来た顔をしている」
「僕は、そんなに分かりやすかったかな」
「今はな」
リュカは否定しなかった。
ローディスは大剣を戻し、制服の上着を掴んだ。
「セイルを起こす」
「まだ早いよ」
「だから俺だけに話すつもりだったのか」
「そういうわけじゃ――」
「二人へ話すために来たんだろう」
リュカはしばらく黙り、困ったように笑った。
「君は、こういうときだけ察しがいいね」
「こういうとき以外も悪くない」
二人で廊下を進み、向かいの棟にあるセイルの部屋を訪ねた。
最初の一度では返事がない。
二度目で、扉の奥から何かへぶつかる音がした。
「誰」
「俺だ」
「朝になってから来て」
「リュカもいる」
少しの間を置いて、鍵が外れた。
セイルはシャツの釦を一つ掛け違えたまま、青灰色の目を細めている。
「その組み合わせでこの時刻に来るなら、ろくな話じゃないね」
「僕まで一緒に数えられるのは心外だなあ」
「原因の顔をしているよ」
セイルの視線が、リュカの顔から長靴へ下りた。
「入って。廊下で話すことじゃなさそうだ」
◇
リュカは、夢で見たものをすべて話すことはできなかった。
研究所の場所を割り出せる情報や、そこを逃げてから組織に保護されるまでの経緯を話せば、二人は実験者を追えるようになる。関わった者が今も残っていれば、ローディスとセイルまで狙われるかもしれない。
そして、危険だけが理由ではなかった。
白い実験室の記憶は、口にするだけで再びそこへ引き戻されるような恐怖を伴った。
だが、何も語らなければ、ローディスとセイルにとって翠嵐谷の住民は「実験材料にされた人々」のままだ。そう呼ばれる前には、一人ずつに暮らしがあり、笑い声があり、リュカと過ごした時間があった。
夢の一部しか語れないのなら、せめて彼らが生きていた頃から始めたかった。
「夢は、村が襲われたところから始まったわけじゃないんだ」
リュカは両手を組み、膝の上へ置いた。
「最初に見たのは、壊される前の翠嵐谷だった」
翠嵐谷は、住民のほとんどが互いの顔と名前を知っている、小さな村だったという。
どの家の子供が迷子になっても、見つけた大人が家まで連れ帰ることができた。誰かが病で寝込めば、頼まれる前に食事や薪が窓辺へ届いた。
住民は家を訪ねるとき、扉を叩く代わりに、窓辺へ吊るされた木片を風で鳴らした。鳴らし方にはそれぞれ癖があり、姿が見えなくても誰が来たのか分かった。
「静かに一度鳴らす人もいれば、返事をするまで何度も鳴らす人もいた。子供は他人の鳴らし方を真似して、家の人が窓を開けたら逃げるんだ」
「君もやったのか」
ローディスが尋ねる。
「僕は、見つからない場所で見ていただけだよ」
「一緒に逃げたんだね」
セイルが言った。
「昔のことだから、よく覚えてないなあ」
リュカは懐かしそうに目を細めた。
「誰かが喧嘩をすれば、その日のうちに村中が知ってた。悪口まで正確に伝わるのに、翌朝になると、どちらかの家の前に仲直りの菓子が置いてある。隠し事には向かないけど、一人で困り続けることも難しい村だったよ」
その村で暮らした日々の中から、夢は一つの記憶を選んでいた。
「夢の中で、昔のことを一つ思い出した」
「僕は、風の精霊との契約に七回断られたんだ」
「七回も?」
セイルが聞き返す。
「谷では、もっと早く認められる子も多かったよ。僕より年下の子が先に契約して、目の前で得意そうに浮かんでみせるんだ。悔しくて、次の日も、その次の日も同じ言葉を繰り返した」
リュカは、遠い昔の自分を呆れるように笑った。
「でも、何度頼んでも風は動かなかった。精霊語の発音は間違っていない。それなのに、僕の髪一本さえ揺らしてくれなかった」
「何が悪かったんだ」
ローディスが尋ねる。
「僕は、飛ばせてほしいとしか考えていなかったんだよ。あの子より高く、あの子より速く。風の精霊に頼んでいるつもりで、見ていたのは競争相手の背中だけだった」
八度目の朝。
リュカは契約の言葉を口にせず、崖の途中にある狭い足場へ座っていた。
先に契約した子供たちの声を聞くのが嫌で、学び舎へ行かなかったのだという。
「風がずっと吹いてた。強くなったり、弱くなったり、崖にぶつかって向きを変えたりしてね。僕は初めて、自分を飛ばしてもらうことを忘れて、それを聞いてた」
リュカの組んだ指から、力が抜けていく。
「そうしたら、頬を一度だけ撫でられた。声は聞こえなかったけど、もう一度話してもいいと言われた気がした」
「それで承認されたの?」
「うん。今度は、誰かに勝たせてほしいとは願わなかった。一緒に空を渡りたい、と伝えた」
口元に浮かんだ笑みは、怒りを隠すために作ったものとは違っていた。
「契約できた日は、全然うまく飛べなかったよ。喜んで風を強くしすぎて、干してあった服を全部、谷底の川へ落とした。持ち主には追いかけられたし、先に契約した子たちは腹を抱えて笑ってた」
リュカは、川へ落ちた服の色まで思い出すように目を細めた。
「谷の人間は、皆、風の精霊と契約していたのか」
ローディスが尋ねる。
「僕が知っている大人は、一人残らずね。子供は契約できる歳も、認められるまでの時間も違ったけど、いつか風と一緒に生きることを前提に精霊語を習ってた」
「ほかの土地では、一つの属性の契約者がそこまで集まることはないよ」
セイルが言った。
「谷では、それが普通だったんだ。遊ぶときは、契約できた子が僕たちを置いて先へ飛んでいくこともあったよ。でも、遠くへ出るときや風の強い日は、まだ契約できていない子を一人にはしなかった。大人も、自分の子供だけじゃなく、近くにいる子を風で支えた。誰の風に助けられたのか分からないことも多かったよ」
「谷は、いつも飛んで暮らしていたわけじゃない。季節の変わり目には、風がほとんど止まる日があったんだ」
「そんな日は、どうしていたの?」
セイルが尋ねる。
「みんな、谷底へ降りてきたよ。普段は別々の高さで暮らしている人たちが、川沿いの狭い道へ集まるんだ」
空を使えない日は、不便なはずだった。
けれど、翠嵐谷の住民はその日を嫌っていなかったという。
谷底には朝から長い机が並べられた。普段は崖の上にある店も地上へ小さな露店を出し、焼いた木の実や菓子、繕った衣服を持ち寄った。
大人たちは、風の強い日には後回しにしていた橋や階段を直す。子供たちは、その脇に積まれた板の間を走り回った。
「飛べる子も、その日だけはみんな歩いた。朝から晩まで坂と階段を使うから、次の日には脚が痛くなるんだ。風と契約する前の僕は、少しだけ嬉しかったよ」
「どうして?」
ローディスが尋ねる。
「その日だけは、誰も僕を置いて空へ行かなかったから」
リュカは照れたように笑う。
「僕たちが勝手に店の菓子へ手を出すと、誰の親かなんて関係なく、近くにいる大人が叱った。逃げても、道の先にいる別の人へ話が伝わってる。空を飛べないのに、悪いことだけは風より早く広まるんだ」
「君が、何度も叱られていたことは分かったよ」
セイルが言った。
「最後には余った料理を全部、一つの鍋へ入れた。見た目は毎回ひどかったけど、同じ味になったことは一度もなかった」
「うまかったのか」
「ローディスなら三杯は食べたと思う」
「答えになっていない」
「僕は好きだったよ」
リュカの声が、そこで少しだけ低くなった。
「風が戻れば、次の日からみんな別々の高さへ帰っていく。でも、風の止まった日だけは、村が全部、同じ地面の上にあったんだ」
「君にも、そんな時期があったんだね」
セイルが言った。
「今の僕からは想像できない?」
「七度断られても諦めなかったところは、今も変わってないよ」
リュカは声を立てて笑った。
その笑いが消えた後、部屋には早朝の静けさが戻った。
「あのとき僕を笑った子も、服を拾えって怒鳴った人も、もういない」
声は震えなかった。
それでも、二人は何も挟まず、その言葉が置かれた場所を空けていた。
やがて、セイルが静かに口を開いた。
「今の話で、一つ気になることがある。契約を申し込むには精霊語を学ばなければならない。承認された後も、飛び続けるには精霊へ渡せるだけのマナが要る」
セイルは掛け違えた釦から手を離し、リュカを見た。
「一人なら、珍しくない。でも、一つの村に契約できる人間がそれほど集まっていたなら、話は別だ」
ローディスの表情が険しくなる。
「村人全員が実験材料にされたと言っていたな」
「うん」
「襲った者は、最初から谷の人間を選んだのか」
リュカの右手が、左の手首を掴んだ。
セイルは断定を避けながら、言葉を続ける。
「魂を身体へ定着させる実験に、どんな条件が必要だったのかは分からない。でも、精霊から承認を得られる資質と、術を使い続けられるマナの量が関係していた可能性はある」
「だから、契約者が多い翠嵐谷を狙った?」
「可能性の話だよ。でも、翠嵐谷が偶然選ばれたと考えるより、契約者の多さとマナを狙われたと考える方が筋は通る」
リュカは俯いた。
右脚の紋章へ熱はない。
それでも、手首を掴む指へ力がこもり、爪の先が白くなっていた。
「僕たちが、飛べたから」
掠れた声が落ちる。
「精霊に認めてもらえたから、あの人たちは谷を選んだのかもしれないんだね」
「まだ決まったわけじゃない」
ローディスが言った。
「決めつければ、違ったときに本当の理由を見落とす」
「分かってるよ」
リュカは一度目を閉じ、手首から指を離した。
「でも、その可能性も報告書へ書く。実験した者を探すなら、僕たちがどうして選ばれたかも必要だから」
「夢の中で、村のみんなの声を久しぶりに聞いた。でも、その声が消えたあと、景色は白い実験室へ変わった」
リュカはそこで一度息を吸い、故郷の他愛ない思い出の後に続いたものを語った。
白い台へ手足を固定されたこと。
脚の皮膚へ紋章を刻まれ、身体の内側へ自分ではない魂を押し込まれたこと。
近くの部屋から村人たちの声が聞こえても、助けに行くことも、自分の耳を塞ぐこともできなかったこと。
実験のない夜にも扉が開き、大人たちが泣き声を笑ったこと。
そこで何をされたのか、リュカはすべてを言葉にはしなかった。ただ、人としてではなく、苦痛を与えても構わない物として扱われたとだけ伝えた。
やがて怒りの中で拘束を引き千切り、研究員を一人ずつ殺し、最後に研究所へ火を放ったこと。
夢の中では、燃える白い壁の向こうに軍政総監の顔をした男が立っていた。男は足の中にいるものをヴァルガと呼び、もっと怒れと告げた。
それが過去に本当に聞いた言葉ではなく、夢が作ったものだということも、リュカは二人へ伝えた。
穏やかな村の記憶から始まった夢は、焼け落ちる実験施設まで続いた。
「その夢から目を覚ましたとき、脚が変わっていた」
リュカは長靴の上から、右の脛へ手を置いた。
「地下でセイルを襲った獣を蹴ったときと、よく似た形にね。敵はいなかった。夢を見て、怒っただけだよ」
「今は戻っているのか」
「見た目は」
ローディスが寝台脇の椅子を引いた。
「脱げ」
「朝から男三人で、ずいぶん大胆だね」
「長靴をだ」
「分かってるよ」
リュカが右の長靴を脱ぐ。
寝巻の裾を膝まで上げると、細い脚へ刻まれた紋章が現れた。赤い光はない。筋肉も骨も、目に見える範囲では普段の形へ戻っている。
セイルは机上灯を近づけ、紋章の線を目で追った。
「触れても?」
「痛くはないよ」
指先で足首の周りを確かめる。
腫れも熱もなかった。
「どのくらいで戻った?」
「正確には分からない。長靴を履いて、二人のところへ来ようとしている間には」
「怒りが収まっても、すぐには戻らなかったんだね」
「うん」
リュカは、自分の右足へ目を落とした。
「地下で一度、あれを大きく使った。それから、前より境目が緩くなった気がする」
「気がする、で済ませる話じゃない」
ローディスが言った。
「医務棟へ行くぞ」
「見せて、どう説明するの?」
「脚が勝手に変形したと――」
「それを言えば、地下で何が起きたかも話すことになる」
セイルが止めた。
「教員と軍には、三人の連携で獣の顎を砕いたと説明している。今になってリュカの脚が変わったと明かせば、あの説明まで疑われるよ」
ローディスは口を閉じた。
「でも、放ってはおけない」
「組織へ報告する。身体と魂の両方を調べられて、軍へ情報を渡さない相手を手配してもらう」
セイルは机の紙を一枚引き寄せた。
「変化した時刻、戻るまでの時間、痛みや熱の有無。覚えているうちに書いて」
「君、寝起きでも容赦がないね」
「笑って誤魔化すなら、質問を増やすよ」
リュカは笑みを残したまま、紙を受け取った。
ペン先を置く前に、その手が止まる。
「夢の中で、あの男が言ったんだ。もっと怒れって」
「実際に聞いた言葉か?」
ローディスが尋ねる。
「違う。夢の中だけだよ。あの人が本当にそう言ったわけじゃない」
「なら、事実と夢を分けて書くべきだね」
セイルが紙の上部へ線を引く。
「こっちに実際に起きたこと。下に夢で見たこと」
「夢まで報告するの?」
「足が夢の怒りへ反応したなら、切り離せない」
リュカは小さく息を吐き、書き始めた。
ローディスは、その横顔を見ていた。
いつもの笑みはある。
けれど、それが平気だから浮かべるものではないと、今は知っている。
「リュカ」
「何?」
「次も、こうして話せ」
ペン先が止まった。
「変わってからじゃない。変わりそうだと思った時点でだ」
「分かったよ」
「笑って答えるな」
リュカは口元へ手を当てた。
ゆっくりと笑みを消す。
「分かった。次は、もっと早く話す」
今度の声を、ローディスは疑わなかった。
◇
報告書を書き終えると、三人は旧演習場の使われなくなった武器庫へ向かった。
軒下には、掌ほどの平たい石が埋め込まれている。片面は何の印もない灰色で、裏には三本の溝が刻まれていた。
リュカが石を裏返し、溝のある面を上へ向ける。
それが、宵衛へ報告を渡したいと知らせる合図だった。
三人が小型ゴーレムを呼び出せるわけではない。ゴーレムは朝夕の決まった時刻に地中から軒下の印を確かめ、石が裏返っていたときだけ姿を見せる。
朝の鐘が鳴る少し前、土の中から掌ほどの頭が現れた。
小型ゴーレムはリュカから報告書を受け取り、背中の筒へ収める。リュカが石を元へ戻すと、ゴーレムも音を立てず地中へ沈んでいった。
三人は人目の少ない旧演習場へ移った。
リュカの脚が本当に戻っているか確かめるためだったが、全力で動かすことはしない。歩行、軽い走り、踏み込み。異常があれば、すぐに止める。
リュカは石床を一周し、二人の前へ戻った。
「痛みはないよ。長靴も昨日より楽かな」
「昨日より、で比べるな」
ローディスが言った。
「新しい長靴が届くまでは訓練量を落とすべきだね」
セイルは杖の石突きで、地面に三つの円を描いた。
「それと、僕たちも考えないといけない」
「僕の足を?」
「僕たち自身をだよ」
セイルは中央の円へ、黒い獣と書いた。
「地下では、ローディスが獣の正面を止めて、僕が口と脚を凍らせた。それでも、最後に獣を倒せる力を出したのはリュカだった」
「二人が止めてくれなければ、僕も蹴れなかったよ」
「それは分かっている。でも、次も君が変わるのを待つわけにはいかない」
セイルは一つ目の円から、二つ目へ線を引いた。
「僕の氷は、黒い風に何度も散らされた。近づかせないために撃った氷は遅く、広く凍らせればローディスの動きまで邪魔になる」
「俺は、硬い鱗へ大剣を弾かれた」
ローディスも続けた。
「獣を押さえる間、大剣を手放せなかった。別の方向からセイルを狙われても、届かなかった」
「それで、どうするの?」
リュカが二人を見る。
セイルは、地面へ書いた黒い獣の文字を靴底で消した。
「風の精霊と契約する」
リュカの目が僅かに見開かれた。
「氷そのものを大きくするだけじゃ、同じように散らされる。だったら、作った氷を風で押し出す。槍にして、相手が動くより先に届かせる」
「風は、願ったものを真っ直ぐ運んでくれるとは限らないよ」
リュカの声から、冗談が消えていた。
「強く押せば速くなる。でも、少し向きがずれれば、遠くへ行くほど外れる。水や氷と同時に頼むなら、精霊へ伝えることも増える」
「知ってる」
「まだ契約もしてないのに?」
「今朝、君の故郷の話を聞いたから、簡単じゃないことくらいはね」
セイルは杖を持ち直した。
「だから、君に教えてほしい。風の精霊へ、どういう言葉で願いを伝えていたのか」
リュカは答えなかった。
風の精霊と契約した者ばかりが暮らす谷。
そこを飛び交っていた者の中で、生き残ったのは自分だけだと、彼は信じている。
「嫌なら、別の教本を探す」
セイルが言った。
「嫌じゃないよ」
リュカは、石床へ視線を落とした。
「僕が覚えている言葉でよければ、教える」
やがて顔を上げたとき、柔らかな笑みが戻っていた。
「ただし、授業料は高いよ。谷では空を飛べない子供に、毎日お菓子を一つ渡す決まりだったんだ」
「今作った決まりでしょう」
「ばれた?」
「菓子なら俺の見舞い品を分ける」
ローディスが言った。
「どうして君が払うの」
「俺も教わる」
セイルとリュカが、同時にローディスを見た。
「風と契約するの?」
「違う。俺は金だ」
ローディスは背負っていた大剣を抜き、石床へ置いた。
峰を厚くした刃には、黒い獣の牙を受けた浅い傷が残っている。
「剣を増やしたいの?」
リュカが尋ねた。
「必要なときに、必要な形へ変えたい」
ローディスは傷へ指を添えた。
「大剣を投げれば、手元から武器がなくなる。刃が折れれば、また買い直すことになる。盾が必要でも、俺が持ち替えている間に敵は待たない」
「金の精霊に、金属を作ってもらうつもり?」
セイルが尋ねる。
「いや。金の精霊術について、昨日までの俺より少し詳しい同級生がそう言うなら、その願い方は間違いなんだろう」
「何もないところから金属を出してもらうのは難しい。土から取り出すにしても、混じっているものを選り分けて、熱して、形を整える必要がある」
「なら、最初から金属を持つ」
ローディスは大剣を持ち上げた。
「欠けた箇所へ継ぐ。長さを変える。要らない分を外して投げる。投げた後は、また戻す」
「言うほど簡単じゃないよ」
「簡単なら、今までにやっている」
迷いのない返答に、セイルは肩をすくめた。
「まずは金の精霊に認められてからだね」
「その前に、金属を知らなければならない」
ローディスが大剣を鞘へ戻す。
「放課後、赤槌工房へ行く」
「ガルドさんなら、最初に剣の手入れを怠ったと怒りそうだね」
リュカが刃の傷を思い出すように言った。
「その後で教えてくれる」
「断られる可能性は考えないの?」
「そのときは、教えると言うまで通う」
セイルが小さく笑った。
「金の精霊より先に、店主の方が折れそうだ」
◇
放課後、三人は〈赤槌工房〉を訪れた。
炉の前では、ガルド・アイゼンが赤く熱した鉄を打っている。
一打ごとに火花が散り、壁へ掛けられた剣や胸当てへ短い光を走らせた。
槌が止まるまで、ローディスは声をかけなかった。
ガルドは鉄を水槽へ沈め、立ち上った蒸気の向こうから三人を見る。
「今日は何を折った」
「折っていません」
「なら、折る前に来たか。少しは利口になったな」
ローディスは大剣を作業台へ置いた。
ガルドが刃の傷を一瞥する。
「でかい牙でも受けたか」
「似たものです」
「刃で受けずに峰へ逃がした。前よりはましだ」
太い指が、傷の深さを確かめる。
「研ぎ直せば済む。三日置いていけ」
「今日は、それだけではありません」
ローディスは、大剣の横へ小さな鉄片を置いた。
「金の精霊と契約したい。金属と武器の構造を教えてください」
ガルドの手が止まった。
リュカは隣で何も言わず、穏やかに笑っている。
「精霊術師に鞍替えか」
「剣士のままです」
「だったら、剣を振ってろ」
「振るために必要です」
ローディスは引かなかった。
「武器を失っても戦えるようにする。刃が届かないなら、届く形へ変える。そのために、金属がどう作られ、どこまで形を変えて耐えられるのか知りたい」
ガルドはしばらくローディスを見ていた。
やがて、作業台の下から二本の細い鉄棒を取り出す。
見た目は同じ長さ、同じ太さだった。
「持て」
ローディスは一本ずつ手に取った。
「違いは」
「右の方が僅かに重い」
「ほかは」
表面を見る。
指で弾き、音を聞く。
両端を持って、少しだけ力を加える。
「左の方が曲がる。右は硬い」
「どちらで剣を作る」
ローディスはすぐには答えなかった。
「使い方によります」
ガルドの口元が、僅かに持ち上がった。
「最初からその答えが出るなら、見込みがないわけじゃねえ」
二本の鉄棒を取り返し、片方を炉の脇へ、もう片方を水槽の横へ置く。
「明日の放課後から来い。最初の一週間は槌も剣も持たせん」
「何をするんですか」
「鉄を見て、触って、重さを量る。炭の種類と、火の色を覚える」
「契約は」
「金属なら何でも同じに見える奴が、金の精霊へ何を頼む」
ガルドは鼻で笑った。
「精霊に認められるか心配するのは、その後だ」
ローディスは、二本の鉄棒を見比べた。
「分かりました」
「返事だけはいいな。剣は三日後だ。それまで代わりを貸してやる」
「ありがとうございます」
話が決まると、ガルドはセイルへ顔を向けた。
「お前は何だ。そっちも剣を鍛えたいと言うんじゃねえだろうな」
「僕は風の精霊と契約します」
「うちは鍛冶屋だぞ」
「分かっています。ローディスが投げた武器を風で押すなら、どこまで力を加えても壊れないか聞きに来ました」
ガルドは天井を仰いだ。
「契約もしてねえうちから、二人で俺の仕事を増やす相談か」
「将来の客ですよ」
「金を払う客になってから言え」
セイルは銀貨袋へ手を置いた。
「相談料はいくらですか」
「そういうところだけ早えな、お前は」
工房へ、ガルドの大きな声が響いた。
炉の火は、まだ赤く燃えている。
風も、金も、二人を認めたわけではない。
それでも、次に届くための一歩は、そこから始まった。




