↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
71/90

第71話 次に届くために

 夜明け前、ローディスは扉を叩く音で目を覚ました。


 三度。


 急かすほど強くはない。それでも、こんな時刻に訪ねてくる相手は限られていた。


 寝台を降り、壁へ立て掛けていた大剣を手に取る。


「誰だ」


「僕だよ」


 扉の向こうから、リュカの声がした。


 ローディスが扉を開けると、リュカは寝巻の上へ制服の外套だけを羽織って立っていた。亜麻色の髪は整えられておらず、額へ細く張りついている。


 口元には、いつもの笑みがあった。


 だが、淡い緑の目からは眠気よりも濃い疲労が覗いていた。


「足か」


 ローディスが尋ねる。


 笑みが、僅かに止まった。


「どうして分かったの?」


「そのために来た顔をしている」


「僕は、そんなに分かりやすかったかな」


「今はな」


 リュカは否定しなかった。


 ローディスは大剣を戻し、制服の上着を掴んだ。


「セイルを起こす」


「まだ早いよ」


「だから俺だけに話すつもりだったのか」


「そういうわけじゃ――」


「二人へ話すために来たんだろう」


 リュカはしばらく黙り、困ったように笑った。


「君は、こういうときだけ察しがいいね」


「こういうとき以外も悪くない」


 二人で廊下を進み、向かいの棟にあるセイルの部屋を訪ねた。


 最初の一度では返事がない。


 二度目で、扉の奥から何かへぶつかる音がした。


「誰」


「俺だ」


「朝になってから来て」


「リュカもいる」


 少しの間を置いて、鍵が外れた。


 セイルはシャツの釦を一つ掛け違えたまま、青灰色の目を細めている。


「その組み合わせでこの時刻に来るなら、ろくな話じゃないね」


「僕まで一緒に数えられるのは心外だなあ」


「原因の顔をしているよ」


 セイルの視線が、リュカの顔から長靴へ下りた。


「入って。廊下で話すことじゃなさそうだ」


     ◇


 リュカは、夢で見たものをすべて話すことはできなかった。


 研究所の場所を割り出せる情報や、そこを逃げてから組織に保護されるまでの経緯を話せば、二人は実験者を追えるようになる。関わった者が今も残っていれば、ローディスとセイルまで狙われるかもしれない。


 そして、危険だけが理由ではなかった。


 白い実験室の記憶は、口にするだけで再びそこへ引き戻されるような恐怖を伴った。


 だが、何も語らなければ、ローディスとセイルにとって翠嵐谷の住民は「実験材料にされた人々」のままだ。そう呼ばれる前には、一人ずつに暮らしがあり、笑い声があり、リュカと過ごした時間があった。


 夢の一部しか語れないのなら、せめて彼らが生きていた頃から始めたかった。


「夢は、村が襲われたところから始まったわけじゃないんだ」


 リュカは両手を組み、膝の上へ置いた。


「最初に見たのは、壊される前の翠嵐谷だった」


 翠嵐谷は、住民のほとんどが互いの顔と名前を知っている、小さな村だったという。


 どの家の子供が迷子になっても、見つけた大人が家まで連れ帰ることができた。誰かが病で寝込めば、頼まれる前に食事や薪が窓辺へ届いた。


 住民は家を訪ねるとき、扉を叩く代わりに、窓辺へ吊るされた木片を風で鳴らした。鳴らし方にはそれぞれ癖があり、姿が見えなくても誰が来たのか分かった。


「静かに一度鳴らす人もいれば、返事をするまで何度も鳴らす人もいた。子供は他人の鳴らし方を真似して、家の人が窓を開けたら逃げるんだ」


「君もやったのか」


 ローディスが尋ねる。


「僕は、見つからない場所で見ていただけだよ」


「一緒に逃げたんだね」


 セイルが言った。


「昔のことだから、よく覚えてないなあ」


 リュカは懐かしそうに目を細めた。


「誰かが喧嘩をすれば、その日のうちに村中が知ってた。悪口まで正確に伝わるのに、翌朝になると、どちらかの家の前に仲直りの菓子が置いてある。隠し事には向かないけど、一人で困り続けることも難しい村だったよ」


 その村で暮らした日々の中から、夢は一つの記憶を選んでいた。


「夢の中で、昔のことを一つ思い出した」


「僕は、風の精霊との契約に七回断られたんだ」


「七回も?」


 セイルが聞き返す。


「谷では、もっと早く認められる子も多かったよ。僕より年下の子が先に契約して、目の前で得意そうに浮かんでみせるんだ。悔しくて、次の日も、その次の日も同じ言葉を繰り返した」


 リュカは、遠い昔の自分を呆れるように笑った。


「でも、何度頼んでも風は動かなかった。精霊語の発音は間違っていない。それなのに、僕の髪一本さえ揺らしてくれなかった」


「何が悪かったんだ」


 ローディスが尋ねる。


「僕は、飛ばせてほしいとしか考えていなかったんだよ。あの子より高く、あの子より速く。風の精霊に頼んでいるつもりで、見ていたのは競争相手の背中だけだった」


 八度目の朝。


 リュカは契約の言葉を口にせず、崖の途中にある狭い足場へ座っていた。


 先に契約した子供たちの声を聞くのが嫌で、学び舎へ行かなかったのだという。


「風がずっと吹いてた。強くなったり、弱くなったり、崖にぶつかって向きを変えたりしてね。僕は初めて、自分を飛ばしてもらうことを忘れて、それを聞いてた」


 リュカの組んだ指から、力が抜けていく。


「そうしたら、頬を一度だけ撫でられた。声は聞こえなかったけど、もう一度話してもいいと言われた気がした」


「それで承認されたの?」


「うん。今度は、誰かに勝たせてほしいとは願わなかった。一緒に空を渡りたい、と伝えた」


 口元に浮かんだ笑みは、怒りを隠すために作ったものとは違っていた。


「契約できた日は、全然うまく飛べなかったよ。喜んで風を強くしすぎて、干してあった服を全部、谷底の川へ落とした。持ち主には追いかけられたし、先に契約した子たちは腹を抱えて笑ってた」


 リュカは、川へ落ちた服の色まで思い出すように目を細めた。


「谷の人間は、皆、風の精霊と契約していたのか」


 ローディスが尋ねる。


「僕が知っている大人は、一人残らずね。子供は契約できる歳も、認められるまでの時間も違ったけど、いつか風と一緒に生きることを前提に精霊語を習ってた」


「ほかの土地では、一つの属性の契約者がそこまで集まることはないよ」


 セイルが言った。


「谷では、それが普通だったんだ。遊ぶときは、契約できた子が僕たちを置いて先へ飛んでいくこともあったよ。でも、遠くへ出るときや風の強い日は、まだ契約できていない子を一人にはしなかった。大人も、自分の子供だけじゃなく、近くにいる子を風で支えた。誰の風に助けられたのか分からないことも多かったよ」


「谷は、いつも飛んで暮らしていたわけじゃない。季節の変わり目には、風がほとんど止まる日があったんだ」


「そんな日は、どうしていたの?」


 セイルが尋ねる。


「みんな、谷底へ降りてきたよ。普段は別々の高さで暮らしている人たちが、川沿いの狭い道へ集まるんだ」


 空を使えない日は、不便なはずだった。


 けれど、翠嵐谷の住民はその日を嫌っていなかったという。


 谷底には朝から長い机が並べられた。普段は崖の上にある店も地上へ小さな露店を出し、焼いた木の実や菓子、繕った衣服を持ち寄った。


 大人たちは、風の強い日には後回しにしていた橋や階段を直す。子供たちは、その脇に積まれた板の間を走り回った。


「飛べる子も、その日だけはみんな歩いた。朝から晩まで坂と階段を使うから、次の日には脚が痛くなるんだ。風と契約する前の僕は、少しだけ嬉しかったよ」


「どうして?」


 ローディスが尋ねる。


「その日だけは、誰も僕を置いて空へ行かなかったから」


 リュカは照れたように笑う。


「僕たちが勝手に店の菓子へ手を出すと、誰の親かなんて関係なく、近くにいる大人が叱った。逃げても、道の先にいる別の人へ話が伝わってる。空を飛べないのに、悪いことだけは風より早く広まるんだ」


「君が、何度も叱られていたことは分かったよ」


 セイルが言った。


「最後には余った料理を全部、一つの鍋へ入れた。見た目は毎回ひどかったけど、同じ味になったことは一度もなかった」


「うまかったのか」


「ローディスなら三杯は食べたと思う」


「答えになっていない」


「僕は好きだったよ」


 リュカの声が、そこで少しだけ低くなった。


「風が戻れば、次の日からみんな別々の高さへ帰っていく。でも、風の止まった日だけは、村が全部、同じ地面の上にあったんだ」


「君にも、そんな時期があったんだね」


 セイルが言った。


「今の僕からは想像できない?」


「七度断られても諦めなかったところは、今も変わってないよ」


 リュカは声を立てて笑った。


 その笑いが消えた後、部屋には早朝の静けさが戻った。


「あのとき僕を笑った子も、服を拾えって怒鳴った人も、もういない」


 声は震えなかった。


 それでも、二人は何も挟まず、その言葉が置かれた場所を空けていた。


 やがて、セイルが静かに口を開いた。


「今の話で、一つ気になることがある。契約を申し込むには精霊語を学ばなければならない。承認された後も、飛び続けるには精霊へ渡せるだけのマナが要る」


 セイルは掛け違えた釦から手を離し、リュカを見た。


「一人なら、珍しくない。でも、一つの村に契約できる人間がそれほど集まっていたなら、話は別だ」


 ローディスの表情が険しくなる。


「村人全員が実験材料にされたと言っていたな」


「うん」


「襲った者は、最初から谷の人間を選んだのか」


 リュカの右手が、左の手首を掴んだ。


 セイルは断定を避けながら、言葉を続ける。


「魂を身体へ定着させる実験に、どんな条件が必要だったのかは分からない。でも、精霊から承認を得られる資質と、術を使い続けられるマナの量が関係していた可能性はある」


「だから、契約者が多い翠嵐谷を狙った?」


「可能性の話だよ。でも、翠嵐谷が偶然選ばれたと考えるより、契約者の多さとマナを狙われたと考える方が筋は通る」


 リュカは俯いた。


 右脚の紋章へ熱はない。


 それでも、手首を掴む指へ力がこもり、爪の先が白くなっていた。


「僕たちが、飛べたから」


 掠れた声が落ちる。


「精霊に認めてもらえたから、あの人たちは谷を選んだのかもしれないんだね」


「まだ決まったわけじゃない」


 ローディスが言った。


「決めつければ、違ったときに本当の理由を見落とす」


「分かってるよ」


 リュカは一度目を閉じ、手首から指を離した。


「でも、その可能性も報告書へ書く。実験した者を探すなら、僕たちがどうして選ばれたかも必要だから」


「夢の中で、村のみんなの声を久しぶりに聞いた。でも、その声が消えたあと、景色は白い実験室へ変わった」


 リュカはそこで一度息を吸い、故郷の他愛ない思い出の後に続いたものを語った。


 白い台へ手足を固定されたこと。


 脚の皮膚へ紋章を刻まれ、身体の内側へ自分ではない魂を押し込まれたこと。


 近くの部屋から村人たちの声が聞こえても、助けに行くことも、自分の耳を塞ぐこともできなかったこと。


 実験のない夜にも扉が開き、大人たちが泣き声を笑ったこと。


 そこで何をされたのか、リュカはすべてを言葉にはしなかった。ただ、人としてではなく、苦痛を与えても構わない物として扱われたとだけ伝えた。


 やがて怒りの中で拘束を引き千切り、研究員を一人ずつ殺し、最後に研究所へ火を放ったこと。


 夢の中では、燃える白い壁の向こうに軍政総監の顔をした男が立っていた。男は足の中にいるものをヴァルガと呼び、もっと怒れと告げた。


 それが過去に本当に聞いた言葉ではなく、夢が作ったものだということも、リュカは二人へ伝えた。


 穏やかな村の記憶から始まった夢は、焼け落ちる実験施設まで続いた。


「その夢から目を覚ましたとき、脚が変わっていた」


 リュカは長靴の上から、右の脛へ手を置いた。


「地下でセイルを襲った獣を蹴ったときと、よく似た形にね。敵はいなかった。夢を見て、怒っただけだよ」


「今は戻っているのか」


「見た目は」


 ローディスが寝台脇の椅子を引いた。


「脱げ」


「朝から男三人で、ずいぶん大胆だね」


「長靴をだ」


「分かってるよ」


 リュカが右の長靴を脱ぐ。


 寝巻の裾を膝まで上げると、細い脚へ刻まれた紋章が現れた。赤い光はない。筋肉も骨も、目に見える範囲では普段の形へ戻っている。


 セイルは机上灯を近づけ、紋章の線を目で追った。


「触れても?」


「痛くはないよ」


 指先で足首の周りを確かめる。


 腫れも熱もなかった。


「どのくらいで戻った?」


「正確には分からない。長靴を履いて、二人のところへ来ようとしている間には」


「怒りが収まっても、すぐには戻らなかったんだね」


「うん」


 リュカは、自分の右足へ目を落とした。


「地下で一度、あれを大きく使った。それから、前より境目が緩くなった気がする」


「気がする、で済ませる話じゃない」


 ローディスが言った。


「医務棟へ行くぞ」


「見せて、どう説明するの?」


「脚が勝手に変形したと――」


「それを言えば、地下で何が起きたかも話すことになる」


 セイルが止めた。


「教員と軍には、三人の連携で獣の顎を砕いたと説明している。今になってリュカの脚が変わったと明かせば、あの説明まで疑われるよ」


 ローディスは口を閉じた。


「でも、放ってはおけない」


「組織へ報告する。身体と魂の両方を調べられて、軍へ情報を渡さない相手を手配してもらう」


 セイルは机の紙を一枚引き寄せた。


「変化した時刻、戻るまでの時間、痛みや熱の有無。覚えているうちに書いて」


「君、寝起きでも容赦がないね」


「笑って誤魔化すなら、質問を増やすよ」


 リュカは笑みを残したまま、紙を受け取った。


 ペン先を置く前に、その手が止まる。


「夢の中で、あの男が言ったんだ。もっと怒れって」


「実際に聞いた言葉か?」


 ローディスが尋ねる。


「違う。夢の中だけだよ。あの人が本当にそう言ったわけじゃない」


「なら、事実と夢を分けて書くべきだね」


 セイルが紙の上部へ線を引く。


「こっちに実際に起きたこと。下に夢で見たこと」


「夢まで報告するの?」


「足が夢の怒りへ反応したなら、切り離せない」


 リュカは小さく息を吐き、書き始めた。


 ローディスは、その横顔を見ていた。


 いつもの笑みはある。


 けれど、それが平気だから浮かべるものではないと、今は知っている。


「リュカ」


「何?」


「次も、こうして話せ」


 ペン先が止まった。


「変わってからじゃない。変わりそうだと思った時点でだ」


「分かったよ」


「笑って答えるな」


 リュカは口元へ手を当てた。


 ゆっくりと笑みを消す。


「分かった。次は、もっと早く話す」


 今度の声を、ローディスは疑わなかった。


     ◇


 報告書を書き終えると、三人は旧演習場の使われなくなった武器庫へ向かった。


 軒下には、掌ほどの平たい石が埋め込まれている。片面は何の印もない灰色で、裏には三本の溝が刻まれていた。


 リュカが石を裏返し、溝のある面を上へ向ける。


 それが、宵衛へ報告を渡したいと知らせる合図だった。


 三人が小型ゴーレムを呼び出せるわけではない。ゴーレムは朝夕の決まった時刻に地中から軒下の印を確かめ、石が裏返っていたときだけ姿を見せる。


 朝の鐘が鳴る少し前、土の中から掌ほどの頭が現れた。


 小型ゴーレムはリュカから報告書を受け取り、背中の筒へ収める。リュカが石を元へ戻すと、ゴーレムも音を立てず地中へ沈んでいった。


 三人は人目の少ない旧演習場へ移った。


 リュカの脚が本当に戻っているか確かめるためだったが、全力で動かすことはしない。歩行、軽い走り、踏み込み。異常があれば、すぐに止める。


 リュカは石床を一周し、二人の前へ戻った。


「痛みはないよ。長靴も昨日より楽かな」


「昨日より、で比べるな」


 ローディスが言った。


「新しい長靴が届くまでは訓練量を落とすべきだね」


 セイルは杖の石突きで、地面に三つの円を描いた。


「それと、僕たちも考えないといけない」


「僕の足を?」


「僕たち自身をだよ」


 セイルは中央の円へ、黒い獣と書いた。


「地下では、ローディスが獣の正面を止めて、僕が口と脚を凍らせた。それでも、最後に獣を倒せる力を出したのはリュカだった」


「二人が止めてくれなければ、僕も蹴れなかったよ」


「それは分かっている。でも、次も君が変わるのを待つわけにはいかない」


 セイルは一つ目の円から、二つ目へ線を引いた。


「僕の氷は、黒い風に何度も散らされた。近づかせないために撃った氷は遅く、広く凍らせればローディスの動きまで邪魔になる」


「俺は、硬い鱗へ大剣を弾かれた」


 ローディスも続けた。


「獣を押さえる間、大剣を手放せなかった。別の方向からセイルを狙われても、届かなかった」


「それで、どうするの?」


 リュカが二人を見る。


 セイルは、地面へ書いた黒い獣の文字を靴底で消した。


「風の精霊と契約する」


 リュカの目が僅かに見開かれた。


「氷そのものを大きくするだけじゃ、同じように散らされる。だったら、作った氷を風で押し出す。槍にして、相手が動くより先に届かせる」


「風は、願ったものを真っ直ぐ運んでくれるとは限らないよ」


 リュカの声から、冗談が消えていた。


「強く押せば速くなる。でも、少し向きがずれれば、遠くへ行くほど外れる。水や氷と同時に頼むなら、精霊へ伝えることも増える」


「知ってる」


「まだ契約もしてないのに?」


「今朝、君の故郷の話を聞いたから、簡単じゃないことくらいはね」


 セイルは杖を持ち直した。


「だから、君に教えてほしい。風の精霊へ、どういう言葉で願いを伝えていたのか」


 リュカは答えなかった。


 風の精霊と契約した者ばかりが暮らす谷。


 そこを飛び交っていた者の中で、生き残ったのは自分だけだと、彼は信じている。


「嫌なら、別の教本を探す」


 セイルが言った。


「嫌じゃないよ」


 リュカは、石床へ視線を落とした。


「僕が覚えている言葉でよければ、教える」


 やがて顔を上げたとき、柔らかな笑みが戻っていた。


「ただし、授業料は高いよ。谷では空を飛べない子供に、毎日お菓子を一つ渡す決まりだったんだ」


「今作った決まりでしょう」


「ばれた?」


「菓子なら俺の見舞い品を分ける」


 ローディスが言った。


「どうして君が払うの」


「俺も教わる」


 セイルとリュカが、同時にローディスを見た。


「風と契約するの?」


「違う。俺は金だ」


 ローディスは背負っていた大剣を抜き、石床へ置いた。


 峰を厚くした刃には、黒い獣の牙を受けた浅い傷が残っている。


「剣を増やしたいの?」


 リュカが尋ねた。


「必要なときに、必要な形へ変えたい」


 ローディスは傷へ指を添えた。


「大剣を投げれば、手元から武器がなくなる。刃が折れれば、また買い直すことになる。盾が必要でも、俺が持ち替えている間に敵は待たない」


「金の精霊に、金属を作ってもらうつもり?」


 セイルが尋ねる。


「いや。金の精霊術について、昨日までの俺より少し詳しい同級生がそう言うなら、その願い方は間違いなんだろう」


「何もないところから金属を出してもらうのは難しい。土から取り出すにしても、混じっているものを選り分けて、熱して、形を整える必要がある」


「なら、最初から金属を持つ」


 ローディスは大剣を持ち上げた。


「欠けた箇所へ継ぐ。長さを変える。要らない分を外して投げる。投げた後は、また戻す」


「言うほど簡単じゃないよ」


「簡単なら、今までにやっている」


 迷いのない返答に、セイルは肩をすくめた。


「まずは金の精霊に認められてからだね」


「その前に、金属を知らなければならない」


 ローディスが大剣を鞘へ戻す。


「放課後、赤槌工房へ行く」


「ガルドさんなら、最初に剣の手入れを怠ったと怒りそうだね」


 リュカが刃の傷を思い出すように言った。


「その後で教えてくれる」


「断られる可能性は考えないの?」


「そのときは、教えると言うまで通う」


 セイルが小さく笑った。


「金の精霊より先に、店主の方が折れそうだ」


     ◇


 放課後、三人は〈赤槌工房〉を訪れた。


 炉の前では、ガルド・アイゼンが赤く熱した鉄を打っている。


 一打ごとに火花が散り、壁へ掛けられた剣や胸当てへ短い光を走らせた。


 槌が止まるまで、ローディスは声をかけなかった。


 ガルドは鉄を水槽へ沈め、立ち上った蒸気の向こうから三人を見る。


「今日は何を折った」


「折っていません」


「なら、折る前に来たか。少しは利口になったな」


 ローディスは大剣を作業台へ置いた。


 ガルドが刃の傷を一瞥する。


「でかい牙でも受けたか」


「似たものです」


「刃で受けずに峰へ逃がした。前よりはましだ」


 太い指が、傷の深さを確かめる。


「研ぎ直せば済む。三日置いていけ」


「今日は、それだけではありません」


 ローディスは、大剣の横へ小さな鉄片を置いた。


「金の精霊と契約したい。金属と武器の構造を教えてください」


 ガルドの手が止まった。


 リュカは隣で何も言わず、穏やかに笑っている。


「精霊術師に鞍替えか」


「剣士のままです」


「だったら、剣を振ってろ」


「振るために必要です」


 ローディスは引かなかった。


「武器を失っても戦えるようにする。刃が届かないなら、届く形へ変える。そのために、金属がどう作られ、どこまで形を変えて耐えられるのか知りたい」


 ガルドはしばらくローディスを見ていた。


 やがて、作業台の下から二本の細い鉄棒を取り出す。


 見た目は同じ長さ、同じ太さだった。


「持て」


 ローディスは一本ずつ手に取った。


「違いは」


「右の方が僅かに重い」


「ほかは」


 表面を見る。


 指で弾き、音を聞く。


 両端を持って、少しだけ力を加える。


「左の方が曲がる。右は硬い」


「どちらで剣を作る」


 ローディスはすぐには答えなかった。


「使い方によります」


 ガルドの口元が、僅かに持ち上がった。


「最初からその答えが出るなら、見込みがないわけじゃねえ」


 二本の鉄棒を取り返し、片方を炉の脇へ、もう片方を水槽の横へ置く。


「明日の放課後から来い。最初の一週間は槌も剣も持たせん」


「何をするんですか」


「鉄を見て、触って、重さを量る。炭の種類と、火の色を覚える」


「契約は」


「金属なら何でも同じに見える奴が、金の精霊へ何を頼む」


 ガルドは鼻で笑った。


「精霊に認められるか心配するのは、その後だ」


 ローディスは、二本の鉄棒を見比べた。


「分かりました」


「返事だけはいいな。剣は三日後だ。それまで代わりを貸してやる」


「ありがとうございます」


 話が決まると、ガルドはセイルへ顔を向けた。


「お前は何だ。そっちも剣を鍛えたいと言うんじゃねえだろうな」


「僕は風の精霊と契約します」


「うちは鍛冶屋だぞ」


「分かっています。ローディスが投げた武器を風で押すなら、どこまで力を加えても壊れないか聞きに来ました」


 ガルドは天井を仰いだ。


「契約もしてねえうちから、二人で俺の仕事を増やす相談か」


「将来の客ですよ」


「金を払う客になってから言え」


 セイルは銀貨袋へ手を置いた。


「相談料はいくらですか」


「そういうところだけ早えな、お前は」


 工房へ、ガルドの大きな声が響いた。


 炉の火は、まだ赤く燃えている。


 風も、金も、二人を認めたわけではない。


 それでも、次に届くための一歩は、そこから始まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。