第70話 醒め残る怒り
放課後、ローディスたちは旧演習場の観覧席へ集まった。
セイルが開いた手紙の旁で、フィルが焼き菓子を前脚の間へ抱えている。五人分の見舞いの品から、ローディスが一枚だけ分けたものだ。
「ひとつだけだぞ」
ローディスは念を押した。
フィルは返事の代わりに、菓子を口の奥へ押し込んだ。
「彼にとっては、十枚でもひとつかもしれないよ」
リュカが言った。
「箱は学府で預かってもらう」
「賢明だね」
「読むよ」
セイルが二人を黙らせ、ドルガの返書へ目を戻した。
三人が送った中間報告は、エルナからグレンガルドへ伝えられた。
山で見つかった壺の留め具は、村長の封を施した箱に保管し続ける。帝国の使者が調べに来る場合は、事前にフィルを通じて訪問者の名と目的を伝えること。連絡なく現れた者には、帝国の正規の所属を名乗っても証拠を見せない。
それは、軍が敵だと断じたからではない。
帝国の命令で山へ運ばれたと断定するにも、帝国と無関係の者が軍の名を使ったと退けるにも、証拠を失えば確かめられないからだと書かれていた。
「ここまでは、前に決めたとおりだね」
セイルは一枚目をローディスへ渡した。
「でも、竜族にも伝わった」
ローディスが手紙の続きへ目を落とす。
「グレンガルドが動くの?」
リュカが尋ねた。
「まだ村の周りを調べるだけらしい。六本指の跡と同じ臭いや、壺を運んだ跡が他の山にないか、近くの竜へ聞いている」
セイルが答えた。
「帝国へ来るとは書いていないんだな」
ローディスが確かめる。
「うん。今は、お互いの場所で調べる」
セイルが二枚目を開いた。
こちらはエルナが書いたものだった。
黒い獣について、竜人の村に思い当たる言い伝えはない。グレンガルドが確認した近隣の竜族にも、黒い毛と鱗を持つ獣を見た者はいなかった。
ただし、山の外で捕らえたものを山の知識だけで決めつけるつもりはない。傷つけずに保護できているなら、生きている間に調べろ、と結ばれていた。
「エルナらしいね。僕たちへの文句は?」
リュカが笑う。
「ないよ」
セイルが答えた。
「おかしいな。一枚くらい余計に入っていると思ったのに」
「次に会うときまで取っておくつもりなんじゃない?」
セイルが手紙を畳む。
「それは嫌だなあ」
フィルは三人の話に興味を失ったように、ローディスの包みへ鼻先を近づけた。
「これは俺のだ」
ローディスが包みを背中へ隠す。
フィルの尾が、不満そうに石床を打った。
帝都と山は、まだ同じ答えへは辿り着いていない。
それでも、一度失われかけた連絡の道は、小さな翼によってつながっていた。
◇
八つ目の宿駅へ向かう街道で、ハンスとクララは北西軍団の伝令兵に追いついた。
伝令兵は二十歳ばかりの青年だった。背中へ固定した革筒のほかには、短剣と水筒しか持っていない。
ハンスが監察官章を見せると、青年はすぐに馬を止めた。
「運んでいる筒を確認する」
「引き継ぎの宿駅まで開封禁止です」
「その命令を発した者は」
伝令兵は胸元から小さな木札を出した。
「宿駅の黒板に掲示された、軍務院の優先輸送命令です。六つ目の宿駅で番号を写し、七つ目で筒を受け取りました」
クララが木札を読む。
命令番号。交代場所。開封を禁じる一文。
発令者の名はない。
「あなたは、筒の中身を知っている?」
「いいえ」
「誰に渡す」
「八つ目の宿駅で、次の伝令兵へ」
「最後はどこまで運ぶ命令だ」
「分かりません。伝令兵は、一区間ずつ担当します」
ハンスは青年の表情を見た。
命令への不安はある。しかし、引き継がれた荷を次へ運ぶことそのものに、疑問を抱いてはいない。
「封を確かめる」
ハンスが手を出した。
伝令兵は一瞬迷ったが、監察官章と木札を見比べ、革筒を渡した。
封蝋には、軍務院の輸送印が押されている。
クララは自分の指で触れず、薄い布を間に挟んで封を調べた。
「押し直した跡はない」
「開けますか」
伝令兵が尋ねた。
「開ければ、この兵も俺たちも、命令違反として記録に残る」
ハンスは革筒を返さず、クララを見た。
「中身だけを持ち帰っても、北西へ人が移動したという記録が虚偽だとは証明できない」
クララは封蝋を見たまま言った。
「筒を止めれば、次に受け取る者が動く」
ハンスが八つ目の宿駅へ続く道を見た。
クララは革筒を伝令兵へ返した。
「私たちも八つ目の宿駅まで行く。何も知らないふりをして、指示どおり渡して」
「受け取る者も命令を知らなかったら?」
「その次を追う」
伝令兵は木札を握りしめた。
「私は、何を運んでいるんですか」
「人を運んだことにするための書類だ」
ハンスが答えた。
「あなたが運び始めたものじゃない。でも、ここから先は、何も知らなかったことにはできないよ」
クララの言葉に、伝令兵はゆっくりとうなずいた。
三騎は、低い雲の下を八つ目の宿駅へ向かった。
革筒の中では、そこにいない男の名前が、まだ北西へ旅を続けていた。
◇
その夜、リュカは夢の中で、故郷の風を聞いた。
翠嵐谷は、切り立った岩壁の間に作られた村だった。
谷底の細い川を挟み、左右の崖へ家々が階段状に築かれている。岩をくり抜いた家もあれば、崖から張り出す太い梁の上へ建てられた家もあった。
谷底から見上げれば、家の窓と風を孕んだ布が、翠色の岩肌へ点々と連なっていた。
岩壁には狭い階段と吊り橋が渡されていたが、それを使う者は少なかった。
誰もが、風の中を行き交っていた。
市場の店主が、精霊語を一節口にし、野菜の入った籠を風に載せて対岸へ送る。
窓から身を投げた職人が、吹き上がる風に外套を孕ませ、三軒下の工房へ降りる。
学び舎の子供たちは、帰りの鐘が鳴ると同時に窓から飛び出した。互いの風をぶつけ、押し返された者を笑いながら、崖の間を飛び回っている。
風の精霊と契約して間もない幼い子は、大人の手を握り、地面からほんの少し浮かぶだけで声を上げて喜んでいた。
リュカも、その中にいた。
風を受けて家の屋根から踏み出し、谷の中央を横切る。足の下に道などなくても、行きたい場所へはどこへでも行けた。
彼にとって空は、見上げるものではなかった。
村の誰もが毎日使う、もう一つの道だった。
家々の間には、食事の匂いと、子供たちの声が満ちていた。
次の瞬間、風は血の匂いを運んでいた。
家の壁が崩れる。
鎧を着た男たちが、倒れた者の手足を縛り、荷台へ投げる。
リュカは駆けていた。
誰かを助けようとしたのか。
逃げようとしたのか。
もう思い出せない。
背中へ衝撃が落ち、土と岩の色が反転した。
目を開けると、手首と足首は冷たい台へ固定されていた。
天井は白い。
床も白い。
白い衣の大人たちだけが、名も顔も持っていなかった。
足の皮膚へ、紋章が一本ずつ刻まれる。
精霊語が流れ込む。
冷たいものが魂の周りを取り囲み、その外側から、熱い何かが肉を押し広げようとする。
台の上で声を失っても、大人たちは手を止めなかった。
実験のない夜にも、扉は開いた。
酒臭い息。
鍵を閉める音。
逃げられないように肩を押さえる手と、泣くたびに大きく硬くなる大人たちの下卑た劣情。
彼らが愉しむほど、リュカには苦痛と恐怖だけが積み重なった。
夢は、その先を形にしない。
只、人ではなく、実験材料ですらなく、大人たちが退屈を埋めるための物にされた感触だけが残った。
やがて、足の奥で何かが目を開けた。
怒りだった。
村を壊した者への怒り。
村人を材料にした者への怒り。
自分の泣く声を笑った者への怒り。
それらを見ながら、助けられなかった自分への怒り。
どこまでがリュカ自身のもので、どこからが足の中にいる何かのものか、分からなくなった。
固定具が千切れる。
人の骨が折れる。
白い壁が赤く染まる。
逃げる研究員の背中へ追いつき、一人ずつ、一人ずつ、動かなくなるまで壊した。
火は、最後につけた。
炎が白い建物を舐め、天井を落としていく。
その向こうに、あの金色の目があった。
貯水槽の壁の奥から、学府で握手を求めた男が見ている。
「ヴァルガ」
男が呼ぶ。
「もっと怒れ」
リュカは、自分の叫び声で目を覚ました。
暗い寮室で、息が喉に張りついている。
身体を起こそうとして、動かなかった。
足の指が、寝台の木板へ食い込んでいる。
布団の下で、両脚の紋章が赤く光っていた。
右の脇は、人の脚の形から少しだけ外れている。筋が皮膚の下へ盛り上がり、足首の骨が寝巻の布を押し上げていた。
セイルを殺されかけたときと同じ変化だった。
ただし、今は戦いの中でもない。
目の前に敵もいない。
夢の中で怒っただけだ。
リュカは胸へ手を当て、息を数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
怒りは、もう夢の中へ去っている。
リュカは口元へ触れ、強ばった頰をゆっくりと持ち上げた。
怒りに呑まれてはいけない。
怒りに顔を奪われたままでは、自分と足の中にいる何かの境が、また分からなくなる。
だから、いつでも笑みを絶やさない。
それは誰かに教えられたものではない。研究所を焼いたあの日から、怒りに自分の顔まで渡さないために、リュカが自分へ課した決め事だった。
暗い寮室で、いつもの笑みを作る。
それでも、右脚は元に戻らない。
寝台から足を抜くために、手で指を一本ずつ開かなければならなかった。
力を抑え込んできた境界が、あの地下で一度開いた。
閉じたつもりでいた。
だが、前よりもどこかが薄い。
紋章の赤い光が消えた後も、足元の木板には指の形のへこみが五つ残った。
リュカは、それを寝具で隠そうとした。
手が止まる。
何も知らずに巻き込まれる方が危険だと、ローディスに言われた。
話せる範囲を話すと、自分で認めた。
リュカは長靴を履いた。
まだ右足の形が戻りきらず、少しきつい。
外は、ようやく空の端が白み始めていた。
リュカは寝台を隠さず、ローディスとセイルのもとへ向かった。




