第69話 旅する名前
帝都防衛演習が中止されてから、三日が過ぎた。
朝の合同授業を終えた五人は、マレーネに呼ばれて教員棟の応接室へ集められていた。
中央の長机には、大きな木箱が一つ置かれている。
蓋には帝国軍政総監府の焼き印があり、脇には封書と、五人分の小さな革袋が並んでいた。
「先ほど、総監府から届きました」
マレーネが封書を示す。
「使者の身元と命令書は門衛が確認し、荷は教員が受け取りました。使者は学府内へ入れていません」
「ずいぶん厳重ですね」
ニナが言った。
「演習の後、学園長から門衛と担当教員へ、一時的な通達が出ています」
マレーネは、総監府の焼き印へ目を落とした。
「中止に至った経緯を調べている者から、軍の命令書が悪用された疑いがあると連絡があったそうです。軍に限らず、学府外から来る人と荷は、名乗る所属だけで信用しないように、と」
マレーネは封を切り、中の書面へ目を通した。
「軍政総監から、演習へ招いた五名への見舞いです。治療費と破損した装備の補填については、別途、学府へ正式な書類が届いています」
五つの革袋を、それぞれの前へ置く。
ローディスが紐を緩めると、中には銀貨と一枚の引換札が入っていた。
「俺は大剣を壊していません」
「制服と防具の修繕費です」
マレーネが答える。
「ベルグの制服は肩と脇が裂けています。そのまま着続けるつもりでしたか」
ローディスは自分の肩を見る。
縫い直された布の上からでも、黒い獣に弾かれた跡は分かった。
「まだ着られます」
「着られることと、直さなくてよいことは別です」
隣で、セイルが自分の引換札を灯りへ透かした。
「僕の杖は無事だけれど」
「紋章板の留め具が歪んでいます。点検費用として申告されています」
「誰がそこまで見たんですか」
「医務棟へ装備確認に来た教員です。軍政総監ではありません」
先回りした返答に、セイルは引換札を下ろした。
「私たちにもあるんですか」
ニナが革袋を持ち上げる。
「フェルナーは制服と靴。ケルンは手首の治療と、落とした槍の石突きと演習用の穂先覆いを直す費用です」
「槍は落としただけです」
トビアスが言った。
「石畳を引きずられた。石突きが歪み、穂先の覆いも欠けている」
壁際に立っていたザイツが答えた。
「申告したのは俺だ。受け取れ」
「はい」
トビアスは素直に革袋を置いた。
最後の一つを、リュカが両手で持ち上げる。
「僕の分だけ、少し重い気がするなあ」
「長靴一足分が含まれています」
「予備の靴まで見舞ってくれるなんて、軍政総監閣下は親切だね」
明るい声とは反対に、リュカの指は袋を開かなかった。
ローディスが横から袋を取り、机へ置く。
「今履いているものは、足に合っていない。補填がなくても替えるべきだ」
「僕の銀貨なのに、使い道まで決まってるの?」
「足を痛めれば、訓練にも支障が出るよ」
セイルがリュカの爪先を見て言った。
リュカは革袋と二人の顔を交互に見て、嬉しそうに笑った。
「二人とも、随分優しいね」
「心配させたくないなら、足に合うものに替えろ」
ローディスが答えた。
リュカは困ったように笑い、革袋を自分の前へ戻した。
「分かったよ。今度は足に合うものを選ぶ」
「今度は?」
セイルが聞き返す。
「今もちゃんと入ってるよ」
「入るかどうかを聞いているんじゃない」
マレーネが木箱の留め金を外した。
中には焼き菓子、干し肉、果物の砂糖煮が、五人分に分けて詰められている。
「こちらが見舞いの品です。毒物と精霊術の痕跡がないことは、教員二名が確認しています」
「そこまで調べたんですか」
ニナが目を丸くする。
「調べるよう、学園長から指示がありました」
「食べてもいいんですよね?」
ローディスが尋ねる。
「今すぐ全部食べないのであれば」
マレーネの許可を聞き、ローディスは五つに分けられた包みを見比べた。
「同じ量だ」
「何を期待していたの?」
ニナが笑う。
「確認しただけだ」
窓の外で、翼が風を叩く音がした。
青緑色の影が窓枠へ降り、胸を張る。
「フィル」
ローディスが窓を開ける。
フィルは部屋へ入る前に木箱を見つけ、迷わずその蓋へ降りた。
「これは五人への見舞いだよ」
セイルが言う。
フィルは革鞄を前脚で叩いた。
「先に手紙を出せば、分けてもらえるかもしれないよ」
リュカが窓辺へ近づく。
フィルは少し考えてから、自分で鞄の口を開いた。
中には、角の形を押した封蝋の手紙が一通入っている。
ローディスが受け取り、三人で宛名を確かめた。
村長ドルガから、ローディス、セイル、リュカへ。
「授業に関係する内容ではありませんね」
マレーネはそう言うと、木箱を閉じた。
「返事は放課後に読みなさい。見舞いの品も、そのときに分けること」
「一つだけでも?」
ローディスが尋ねる。
「ベルグ」
「放課後まで待ちます」
フィルだけが、閉じられた箱を前脚で何度も叩いていた。
◇
帝都から北西へ七つ目の宿駅では、二人の旅人が遅い昼食を取っていた。
一人は、四十代ほどの大柄な男だった。日に焼けた顔の左頬へ浅い刀傷が走り、厚手の旅外套から革鎧の肩だけが覗いている。
向かいに座るのは、二十代後半ほどの女性だ。濃い茶髪を首の後ろで束ね、細身の身体を砂色の外套で包んでいる。腰には短剣が一本あるだけで、軍人には見えない。
二人とも、ディルクが監察局から選んだ監察官だった。
大柄な男はハンス・ベルナー。
女性はクララ・フォークト。
帝都を発ってから、互いの名を呼んだのは人目のない場所だけだ。
食堂の窓から、宿駅の厩を見張る。
記録どおりなら、若い軍務官は今朝ここを発ち、八つ目の宿駅へ向かっている。
二人は街道を急ぎ、途中で追いつくつもりだった。
だが、朝から行き違った軍の騎馬は三騎だけ。
いずれも若い軍務官ではなかった。
「街道を外れたと思うか」
ハンスがパンをちぎりながら尋ねる。
「急ぐなら、雪解け前の脇道は使わない」
クララは水を一口だけ飲んだ。
「それに、馬の交換記録がある。ここには来てる」
二人は食事を終えると、宿駅の事務所へ向かった。
旅人用の通行証を見せ、帝都から来た伝令を捜していると告げる。
応対した駅吏は、日に焼けた丸顔の男だった。太い指には墨が染み、机の上には今朝までの通過簿が開かれている。
「軍務官殿なら、日の出前に出られました」
「顔を見たのか」
ハンスが尋ねる。
「いえ。私は馬の手配をしただけで」
「誰に渡した」
「北西軍団の伝令兵です」
駅吏は厩を指した。
「前の宿駅から来た伝令兵が筒を運び、ここで次の者へ渡しました。馬も、そのときに替えています」
「軍務官本人は、どこにいた」
クララが尋ねる。
駅吏の丸い顔から、愛想が消えた。
「筒の中に、軍務官殿の通行証と移動命令が入っていました」
「本人について聞いている」
「ですから、伝令兵が――」
「伝令兵は軍務官本人だったのか」
駅吏は口を閉じた。
ハンスが外套の内側から監察官章を出す。
机の陰で、駅吏にだけ見える高さへ掲げた。
「通過簿と馬の交換記録を見せろ。声を上げるな」
駅吏の喉が動いた。
戸口を一度確認してから、机の下の箱を開ける。
通過簿には、若い軍務官の名前が記されていた。
到着時刻。
出発時刻。
交換した馬の番号。
確認した通行証と、移動命令の番号。
どれも欠けていない。
「書いたのは、あなた?」
クララが尋ねる。
「はい」
「誰の名を記録するか、どう決めたの」
「通行証の名です」
「馬へ乗った者の名は」
「伝令兵の交代表に」
駅吏は別の帳面を出した。
前の宿駅から来た兵と、次の宿駅へ向かった兵の名が、それぞれ異なる欄に記されている。
どちらも若い軍務官ではない。
クララは二冊を並べた。
「軍務官本人を見ていないのに、本人が通過したと報告したのね」
「書類を運ぶ場合も、持ち主の名で通過を記録します。軍務院からの優先移送命令があれば、いつもそうです」
「人ではなく、書類の移動記録か」
ハンスが低く言った。
「ですが、正式な命令でした。封印も番号も正しかった」
駅吏は額の汗を拭う。
「軍務官殿は別の馬車で移動し、通行証だけを先に送っているのだと思っていました」
「そう記録へ書いたか」
「いいえ」
「なら、今のは事実ではなく、あなたの推測だ」
クララの声は変わらなかった。
駅吏は俯いた。
「六つ目の宿駅も、同じ扱いをしたはずです。筒は、そちらから届きました」
「最初に筒を受け取った宿駅は」
「分かりません。引継票には、一つ前しか記されませんから」
人が旅をしていたのではない。
封じた革筒が、馬と伝令兵を替えながら北西へ運ばれている。
宿駅では筒の中にある通行証の名を、通過簿へ写す。
そうして、誰も顔を見たことのない軍務官が、記録の上だけで帝都から遠ざかっていた。
クララは通過簿の時刻、馬の番号、二人の伝令兵の名を書き写した。
「筒は今、どこにあるの」
「次の宿駅へ向かっています」
ハンスが窓の外を見る。
北西へ続く街道には、低い雲が垂れ込めていた。
「追うぞ」
「人ではなく?」
クララが写しを懐へ入れる。
「今は、名前を運んでいる筒だ」
二人が事務所を出た後、駅吏は通過簿を見下ろした。
記された名前は、少しも変わっていない。
その人物だけが、一度もここへ来ていなかった。




