第68話 捨てられる顔
荷車を焼いていた二人は、別々の部屋へ入れられた。
扉の前には監察局員が立ち、食事も水も別の者が運ぶ。二人が言葉を交わす機会は、拘束されてから一度も与えられていない。
先に太い男の部屋へ入ったのは、白髪を短く切った老書記官だった。
背を丸め、紙束を胸へ抱えている。
「軍務官の顔について、もう一度お聞きします」
乾いた声も、皺の寄った指も、昨日まで道路職人の姿をしていたエヴァとは結びつかない。
「昨日、話しただろ」
「二人の証言を照らし合わせるためです。相手の方が何を話したかは、お伝えしません」
エヴァは机へ六枚の肖像画を並べた。
いずれも二十代ほどの軍務官で、痩せた頬、短い髪、細い目を持つ。似た特徴の者を、軍務院の在籍記録から選ばせたものだ。
「この中にいますか」
男の指は、三枚目で止まった。
「こいつだ」
「間違いありませんか」
「ああ。もっと無表情だったけどな」
「他に覚えていることは」
「昨日も言った。革鞄を左に抱えて、右手で襟を触ってた」
「声は」
「普通だよ。低くも高くもない。怒鳴らねえのに、逆らったらまずいと思わせる声だった」
エヴァは三枚目を裏返した。
ほかの肖像画は、順番を崩して重ねる。
「報酬を渡した手は」
「右だ」
「硬貨を数えましたか」
「数えた。約束どおりだった」
「では、最後に。四日前と昨日で、顔、声、仕草に違いはありませんでしたか」
男はしばらく考えた。
「なかった」
エヴァは礼だけを告げ、部屋を出た。
向かいの部屋では、黒髪の若い男性書記官が、痩せた男へ同じ六枚を見せている。
土と水の精霊術で輪郭と肌を変え、衣服と姿勢まで替えたエヴァだった。
肖像画の順番も入れ替えてある。
痩せた男が選んだのは、五枚目に置かれた同じ顔だった。
「こいつです。革鞄も持ってた」
「利き手は分かりますか」
「そこまでは。でも、鞄は左で抱えて、右手で襟を直してました」
「報酬を渡した手は」
「右です」
「四日前と昨日で、違うところは」
「ありません」
答えまで同じだった。
◇
隣室で待っていたディルクは、二枚の聴取記録を机へ並べた。
選んだ肖像。
鞄を抱えた腕。
襟へ触れる癖。
報酬を渡した手。
顔を見た日。
互いに相談できない状態で、二人の証言は一致している。
「虚偽をそろえた可能性は低いな」
ディルクが言った。
エヴァは老書記官の顔へ戻っていた。
「どちらも、相手が先に話した内容を探ろうとした。でも、こちらからは何も教えてないわ」
「この男の現在地は」
「今朝も北西から通過報告が届いてる。記録の上では、帝都から七つ目の宿駅を出たところよ」
ディルクは、選ばれた肖像画を見下ろした。
「同じ人間が、同じ日に二つの場所へいたことになる」
「記録上の移動が偽物か、帝都にいた方が偽物」
「あるいは両方だ」
部屋の扉が開いた。
入ってきたエレオノーラが、二人の間にある肖像画を見る。
「確認は取れましたか」
「二人とも同じ顔を選んだ」
ディルクが記録を渡す。
「軍務院でエヴァが見た男とも一致する。だが、本人の移動記録は今も北西へ伸び続けている」
「魔術による肉体変化」
エレオノーラは静かに言った。
「可能性の一つです。近年の戦闘記録には、契約者が腕や皮膚を変化させた例があります。ただし、別人の顔を正確に再現できるという記録はありません」
「精霊術では」
ディルクがエヴァを見る。
「似せることはできるわ。私も輪郭と色は変えてる。でも、近くで見られれば限界がある。骨格、声、瞬きの癖、身体に染みついた動作。全部を同じ人間にするには、術だけでは足りない」
老書記官の頬を指で押す。
薄い土膜が僅かにへこみ、すぐに戻った。
「何より、私は元の人間を観察しなければ真似できない。記憶まで手に入るわけじゃないもの」
「少なくとも、若い軍務官しか知らないはずの情報を使っている」
ディルクは上層資料室から始まった一連の経路を思い返す。
入室手順。
内部便の時刻。
軍務官しか知らない保管場所。
「姿だけでは、あそこまで自然に動けん」
「本人が協力している可能性も残ります」
エレオノーラが言う。
「本人と、よく似た別人が役割を分けている可能性も。今の段階で、人ではないものが顔を奪ったと記録することはできません」
「分かっている」
ディルクは二枚の記録を重ねた。
「だが、若い軍務官の身柄確認は必要だ。宿駅へ監察官を送る」
「その命令は、通常の経路へ流さない方がいいわね」
「監察局から二人だけ選ぶ。行き先は出発後に伝える」
エヴァは頷いた。
「帝都側は私が追う。男が立ち寄った場所と、顔を知る人間を探す」
「兵学府の三人には」
エレオノーラが尋ねる。
「まだ知らせない」
ディルクが答えた。
「エアハルトを狙った者が、顔を替えて近づける可能性がある。今知らせても、警戒すべき顔を増やすだけだ。捜査へ加えるつもりがないなら、確かな情報が出るまで待たせる」
エヴァが頷く。
「学生を捜査へ巻き込まないという判断なら、賛成よ」
ディルクは額の古傷へ指を当てた。
「今は、学園長にだけ警戒を求める。教員と門衛には、身元確認を強化させろ。理由は伏せる」
「分かりました」
エレオノーラが肖像画を裏返す。
紙の上から、若い軍務官の顔が消えた。
◇
北方の山を、青緑色の小さな影が越えた。
フィルは竜人の村へ降りると、村長の家の屋根を前脚で二度叩いた。
戸口から出てきたエルナが、琥珀色の目を細める。
「帰ってきたのね」
フィルは胸を張り、首から提げた革鞄を示した。
エルナが竜語で許しを求めてから鞄を開く。中には、三人の名が記された一通の手紙が入っていた。
家の中で、ドルガが封を切る。
山から持ち出した証拠は、正式な軍命を示した回収班へ渡されたこと。
しかし、その命令には、現場からの報告より先に証拠の数が書かれていたこと。
軍の内部で命令と記録が悪用された疑いがあり、現在も調査が続いていること。
そして帝都では、正体不明の黒い獣が、人の作った器具によって操られているのが見つかったこと。
二つの事件を同じ者が起こした証拠はない。それでも、村で起きたことを終わったものにはしない。
手紙の最後には、村に残した壺の留め具を、帝国から誰かが訪ねてきても渡さないでほしいと書かれていた。
「帝国の軍人が、山へ黒いものを運んだの?」
エルナが尋ねる。
「まだ、そうだと決まったわけではない」
ドルガは手紙を折り直した。
「軍の名と仕組みを使った者がいる。それが軍そのものなのか、軍へ紛れた何者かなのかを調べている、と書いてある」
「人族は、ずいぶん面倒な分かれ方をするのね」
「竜人も同じだ。村を出た者の罪まで、村に残る全員の罪にはしない」
エルナは返事をせず、炉のそばに置かれた鉄の留め具へ目を向けた。
油紙と獣皮で包まれ、村長の印を加えた箱へ収めてある。あの日から、ドルガとエルナ以外は触れていない。
「グレンガルドにも知らせるわ」
「そうしろ。帝国から調べに来る者がいても、先にフィルを通して名を知らせるよう返事を書く」
ドルガが新しい紙を広げる。
フィルは役目を終えたように炉の前へ座り、焼かれていた肉へ鼻先を向けた。
「返事を運んでからよ」
エルナが皿を遠ざける。
フィルは不満そうに翼を鳴らした。
それでも革鞄を外そうとはしなかった。
◇
帝都では、その日の午後、ディルクとエレオノーラが軍政総監府から呼び出しを受けた。
帝都防衛演習の地下へ正体不明の獣が運び込まれ、参加した学生が襲われた。軍政総監が事態を重く見て、自ら捜査状況を確認するという名目だった。
断れば、疑っていると自分から教えることになる。
二人は帝国軍務院の最上階にある執務室へ赴き、机の前に立った。
「先に、学生たちの容体を聞かせてくれ」
軍政総監は、まだ調査書へ手を伸ばさなかった。
「私が推薦して招いた一年生だ。五人とも、後に残る負傷はないのか」
「地上に残った二名を含め、命に別状はありません。地下へ落ちた三名も、治療後に学府へ戻っています」
エレオノーラが答えた。
「そうか」
軍政総監は息を吐き、眉間の皺を僅かに緩めた。
「演習へ参加させた側として、治療費と破損した装備の補填は総監府で負担する。見舞いの品も学府へ届けさせよう」
「学府へは、総監府から正式にお伝えください。補填の手続きは、私も確認します」
エレオノーラは一礼した。
自ら罠を用意した者が口にしているとは知らなければ、被害を受けた学生へ責任を果たそうとする上官にしか見えなかった。
「地下へあの獣を運んだ荷車は見つかったそうだな」
軍政総監が尋ねる。
「焼却されていました。現場にいた二名を確保し、事情を確認しています」
ディルクが答えた。
「何か聞き出せたか」
「証言の照合中です。先入観を避けるため、確認が終わるまでは内容を捜査担当者以外へ広げません」
軍政総監は追及せず、指先で机を一度叩いた。
「慎重なのは結構だ。だが、演習経路へあの獣を運び込めた以上、軍の施設か人員が使われた可能性がある。監察局だけで抱える規模ではない」
「現在、搬入記録を確認しています」
「それだけでは足りまい。倉庫、人員、演習計画の変更履歴も調べろ。軍政総監府を含め、関係部署には私から協力を命じる」
男は用意していた命令書へ署名し、ディルクへ差し出した。
「必要な人員があれば申請したまえ。帝都防衛演習で学生まで危険に晒された。軍の内側に原因があるなら、隠す理由はない」
協力を断る理由はなかった。
同時に、この命令書があるからといって、目の前の男を疑いから外す理由もない。
「承知しました」
ディルクは敬礼した。
エレオノーラもそれに続き、二人で執務室を退出する。
扉が閉じるまで、軍政総監は調査書から目を上げなかった。
足音が遠ざかる。
そこで初めて、男は机の脇に置かれた鏡へ顔を向けた。
鏡に映る頬が、音もなく沈んだ。
鏡に映っているのは、二十代ほどの若い軍務官だった。
痩せた頬。
目立たない目鼻。
何度も襟へ触れる右手。
ただ似せて作った顔ではない。
アウレウスは、かつてこの軍務官の魂を奪った。
奪った魂から得られるのは、姿だけではない。その者が蓄えた知識も記憶も、身体へ染みついた癖さえも、自らのものとして使うことができる。
だからアウレウスは、襟へ触れる仕草を真似ているのではなかった。
軍務官本人と同じ記憶に従って、同じ指を動かしていた。
部屋の奥で待っていた副官が、改めて口を開いた。
「捕らえられた二人は、別々の聴取で同じ顔を選びました。監察局は、あの軍務官の姿を追うものと思われます」
副官は鏡の中の顔を見た。
「証人の口を封じますか」
「必要ない」
アウレウスは鏡の中で、若い軍務官の顔を撫でた。
「あの二人が知っているのは、この顔だけだ」
頬の輪郭が沈む。
若い皮膚に皺が走り、顎が広がった。
髪が黒く染まり、後方へ撫でつけられていく。
口元には細い髭が現れた。
鏡の中へ戻ったのは、帝国軍政総監の顔だった。
「監察局がこの男を追うほど、北西へ続く記録が役に立つ」
「しかし、別人の姿へ変わる者がいる可能性まで、疑われる恐れはあります」
「今は、数ある可能性の一つにすぎん。隠すために証人を殺せば、顔より大きな痕跡が残る」
アウレウスは鏡から副官へ目を移した。
「仮に姿を変える何者かを疑ったとしても、彼らは若い軍務官だけでなく、目にするすべての顔を調べなければならなくなる。疑う相手が増えるほど、追うべき一人からは遠ざかる」
アウレウスは机へ置かれた一枚の紙を見る。
そこには、黒い獣との戦闘で得られた結果だけが記されている。
怒りに応じ、ヴァルガは器の肉体を作り替えた。
器は力へ呑まれかけたが、仲間の声で戻った。
魂の精霊術による防壁も、まだ機能している。
「疑いが仮説のうちは、まだ利用できる。確信へ変わる前に、疑われた顔を捨てればよい」
紙を灯火へ近づける。
炎が端を舐め、文字を黒く縮ませた。
「この顔へ辿り着いた者が追えるのは、ここまでだ。次の顔まで結びつけさせはしない」
燃えた紙が、銀の皿へ落ちる。
「ヴァルガは目覚めた。今は、それで十分だ」
若い軍務官の顔は、もうどこにも残っていない。
それでも帝国中の記録だけが、存在しない男を北西へ運び続けていた。




