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黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

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第67話 残る轍

 その日の授業を終えた三人は、旧演習場へ向かった。


 使われなくなった武器庫の軒下で、小型の土人形が待っている。


 背負った筒から出てきた紙には、三行だけ記されていた。


『黒い獣の搬入経路を調査中』


『三名は兵学府内で待機』


『特にエアハルトは、単独で学府外へ出ないこと』


「僕だけ名指しだ」


 リュカは紙を裏返した。


「ずいぶん信用されてるね」


「狙われているからだ」


 ローディスが即座に答える。


「分かってるよ。もう少し遠回しに言ってくれてもいいと思っただけ」


「遠回しに書いて、お前が都合よく読み違えたら困るんだろう」


 セイルが土人形の筒を覗く。


 追加の紙は入っていない。


「調査員が動いているなら、僕たちが外へ出る方が邪魔になる。君の脚も、まだ何が起きるか分からない」


「二人とも、今日は僕に厳しくない?」


「昨日止めると約束した」


「僕は、借りを勝手に消すなと言った」


 二人の返事に、リュカは小さく肩をすくめた。


「はいはい。大人しくしてますよ」


 土人形が、確認を求めるように首を傾げる。


 リュカは紙の余白へ、了承を意味する短い印を書いた。


「これでいい?」


 土人形は紙を筒へ戻し、三人へ背を向けた。


 短い脚で草の間を進み、崩れた石壁の向こうへ消える。


「大人しく、か」


 セイルが言った。


「何か言いたそうだね」


「そのつもりなら、まず長靴を替えた方がいい。きついまま歩けば、足を痛めるよ」


「心配してくれるなら、買ってくれてもいいんだよ」


「心配と支払いは別だ」


 セイルは即座に断った。


「学府の購買部で探せ。外へは出るな」


 ローディスにも念を押され、リュカは不満そうに口を尖らせた。


 だが、正門へ向かおうとはしなかった。


     ◇


 欠けた車輪が残した傷は、帝都南側の大通りまで続いていた。


 石畳の角へ、一定の間隔で浅い線が刻まれている。


 人と荷車が増える大通りでは、古い傷と新しい傷が重なり、肉眼だけで見分けるのは難しい。


 エヴァは道端へ膝をついた。


 今日の姿は、灰色の作業着を着た道路補修の職人だ。焦茶色の髪を頭布へ押し込み、頬には薄い土埃を貼りつけている。


 指先で石畳の傷をなぞる。


「ここで右へ曲がってる」


「傷は前にも続いている」


 隣に立つディルクが言った。


 監察官の制服は外套で隠しているが、立ち姿までは隠せていない。道を行く者が、無意識に二人を避けて通る。


 さらに後方を、平服の監察局員四人が間隔を空けてついてきていた。追跡先を刺激しないよう、二人が合図するまでは近づかない手筈になっている。


「そっちは古いわ。溝に黒い汚れが入ってる。こっちは削れた石の色がまだ薄い」


 エヴァは立ち上がり、右手の細い路地へ入った。


 石畳の傷は、十歩ほど先でまた見つかった。


 大通りを避けるように、南東へ折れている。


「運び込んだときだけじゃない」


 エヴァは足を止めない。


「空になった荷車を南倉庫へ戻した者も、人目を避けてる」


「荷を下ろした後まで見つかりたくなかったということか」


「あるいは、荷車そのものを見られたくなかった」


 路地を三つ抜けたところで、傷は土の道へ出た。


 帝都の外壁に近い一帯には、使われなくなった厩舎や飼料小屋が並んでいる。軍馬の管理場所が北側へ移されてから、空き家になった建物も多い。


 乾いた土の上に、片側だけ深く沈んだ轍が残っていた。


「車輪の欠けだけではなく、軸も歪んでいたようだな」


 ディルクがしゃがみ込む。


「重い檻を長く載せたせいかもしれないわね」


 エヴァは周囲を見回した。


 風向きが変わる。


 焦げた木と、油の臭いが届いた。


 二人は同時に顔を上げる。


 轍の先にある古い厩舎から、細い煙が昇っていた。


 ディルクが煙を見上げる。


「処分が早いな」


「私たちが遅かったのよ」


 エヴァは作業着の袖口へ指を入れた。


 細い針を一本、指の間へ滑らせる。


 ディルクが外套の留め具を外した。


「正面から入る」


「裏へ回れとは言わないのね」


「中に何人いるか分からん。離れて逃がす方が危険だ」


「同感」


 二人は厩舎へ走った。


 入口の戸は半分外されている。


 その奥で、一台の荷車が燃えていた。


 荷台の板は外され、車輪と車軸が積み重ねられている。油をかけられた炎が木材の隙間を走り、片方だけ欠けた鉄枠を赤く染めていた。


 火のそばに男が二人いる。


 一人は背が高く痩せ、汚れた革の前掛けを着けていた。もう一人は太い首と丸い肩を持ち、手に油壺を持っている。


 扉を蹴り開ける音に、二人が振り返った。


「軍務監察局だ!」


 ディルクが外套を開き、制服と徽章を見せる。


「火から離れ、両手を見せろ!」


 痩せた男は両手を上げた。


 太い男は、油壺を炎へ投げ込んだ。


 火が膨らむ。


 同時に、男は厩舎の裏口へ走った。


 エヴァが床へ片手をつく。


 短い精霊語が、炎の音へ混じった。


 土間から薄い泥が盛り上がり、男の靴底へまとわりつく。


 一歩目が沈んだ。


 二歩目で足首を取られ、太い身体が前へ倒れる。


 男は泥へ手をつき、立ち上がろうとした。


 その袖口へ、エヴァの針が刺さる。


 針は皮膚へ届かず、布と地面を縫い止めた。


「動けば、次は腕に刺さるわ」


 太い男の動きが止まる。


 ディルクは痩せた男を壁へ向かせ、武器を持っていないことを確かめた。


「水を!」


 外で見張っていた監察局員へ声を飛ばす。


 桶を持った者たちが駆け込み、燃える荷車へ水を浴びせた。


 エヴァも水の精霊へ短く願う。


 床へこぼれていた水が薄い幕になり、燃え残った車軸を覆った。


 炎が白い蒸気へ変わっていく。


「燃やせと言われただけだ!」


 泥へ倒れた男が叫んだ。


「俺たちは、中身なんて知らない!」


「誰に言われた」


 ディルクが尋ねる。


「軍人だ。ちゃんと制服を着てた」


 太い男が答えた。


「名前は」


「知らねえ。聞くなと言われた」


「顔は見たな」


 男は答えを止めた。


 エヴァが針を一本、袖から追加する。


「見たのね」


「若い男だ!」


 痩せた男が先に答えた。


 壁へ向けたまま、早口で続ける。


「二十代くらいで、頬が痩せてた。軍務官の服を着て、革鞄を左に抱えてた。右手で、何度も襟を直してたよ」


 エヴァの指が止まる。


 上層資料室から革鞄を運び出した、若い軍務官。


 記録の上では、演習より前に帝都を離れ、今も北西軍団へ向かっている男。


「いつ会った」


 エヴァが尋ねる。


「最初は四日前だ。ここに覆いをかけた檻が置いてあって、南倉庫まで運べと言われた。昨日の夕方、また同じ男が来て、荷車をここへ戻して燃やせって」


「同じ顔だった?」


「同じだ。間違いない」


 太い男も、泥の上で何度も頷いた。


「檻の中を見たか」


 ディルクが訊く。


「見るなと言われた。けど、途中で動いた。犬みたいな声もした」


「鉄輪をつけた者は」


「知らねえよ。俺たちが来たときには、檻には布が掛かってた。軍務官から鍵を受け取って、荷車へ載せただけだ」


 ディルクは監察局員へ、二人を別々に拘束するよう命じた。


 エヴァは半ば焼けた車輪の前へしゃがむ。


 鉄枠の欠けは、石室へ持ち込んだ石片の傷と合う。


 荷台の焦げ残りには、黒い毛が数本貼りついていた。


「同じ男が、四日前と昨日に来た」


 ディルクが低く言う。


「宿駅の記録が正しいなら、その男は帝都にいない」


「記録の方だけが北西へ進んでる」


 エヴァは立ち上がった。


「人の顔を借りて歩く何かが、軍務院の中にいる」


「まだ推測だ」


「ええ」


 エヴァは否定しなかった。


「だから、この二人には生きたまま、見たことだけを話してもらう」


 厩舎の外へ、拘束された男たちが連れ出されていく。


 炎は消えた。


 荷車も、車輪も、証人も残った。


 これまでのように、すべてを紙の誤りへ戻すことはできない。


 帝都にいないはずの顔が、今度は人の記憶に残っていた。


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