第66話 鉄輪の下
帝都防衛演習が中止された翌朝、兵学府の正門には二人の教員が立っていた。
登校してくる生徒の顔と名前を一人ずつ確認し、昨日の演習へ参加した者には、その場で医務棟へ向かうよう告げている。
ローディスたち五人も例外ではなかった。
「傷が増えていたら、今日の授業は受けさせん」
医務棟の前で待っていたザイツが言った。
「一晩寝て痛みが出ることもある。昨日平気だったという返事は聞かん。今の状態を話せ」
「右手首が少し痛みます」
トビアスが真っ先に答えた。
昨日までなら、平気だと言い張っていただろう。
「槍を握ると?」
「痛みます」
「今日は握るな」
トビアスは悔しそうに口を結んだが、頷いた。
ニナには外傷がなく、ローディスの打撲も悪化していなかった。セイルは背中の痛みとマナの消耗が残っているため、精霊術実技への参加を禁じられた。
最後に診察室から出てきたリュカは、右足だけ昨日とは別の長靴を履いていた。
使い込まれた革には細かな傷があり、左右で僅かに色が違う。
「ずいぶん早く用意したね」
セイルが足元を見る。
「前に使ってた予備だよ。少しきついけど、布靴で授業を受けたら目立つからね」
「もう十分目立ってると思うけど」
「穴に落ちた三人の中で、僕だけ無傷だったから?」
「長靴が内側から裂けたからだよ」
リュカは聞こえなかったように微笑んだ。
五人が教室へ入ると、すでに来ていた生徒たちの声が止まった。
視線が、包帯の巻かれたローディスの身体へ集まる。
次に、杖を持たずに入ってきたセイル。
最後に、何事もなかったように歩くリュカへ移った。
「何がいたんだ?」
一人が尋ねた。
「地下に穴があったって、本当か?」
「演習が止まったのは、お前たちが落ちたからなのか?」
次々に飛んでくる声へ、ローディスは足を止めた。
「調査中だ。俺たちから話していいことは、まだ決まっていない」
「黒い獣がいたって聞いたぞ」
「それも、誰から聞いた話か確かめた方がいいね」
セイルが答える。
「昨日のうちに、僕たちが三十人の暗殺者と戦ったことになっていたから」
「三十人もいたの?」
リュカが目を丸くする。
「僕は一人も見てないなあ。二人とも、僕が気を失ってる間に倒した?」
「お前は最後まで起きていただろう」
ローディスの返事に、教室の空気が僅かに緩んだ。
ニナは自分の席へ向かう途中で振り返った。
「先生たちが調べてるんだから、今は待とう。違う話が広がったら、調査の邪魔になるよ」
昨日、何もできなかったと俯いていた声ではない。
教室の後ろでは、トビアスが槍を壁へ立て掛けていた。右手を使わず、左手だけで倒れない位置を探している。
エルザがその槍を受け取り、壁の留め具へ固定した。
「今日だけ」
「分かってる」
「明日も痛かったら、明日も」
「……分かってる」
トビアスは不満そうだったが、槍を取り返そうとはしなかった。
始業の鐘が鳴る。
入ってきたマレーネは、教壇へ教本を置く前に五人を見た。
「昨日の出来事について、今ここで質問は受けません」
教室内に残っていた囁きが消える。
「知っていることと、聞いたことと、想像したことを混ぜないように。調査中の出来事を面白半分に広めれば、守れるはずの人間を危険へ晒すことがあります」
黒板へ、いつもの硬い字で日付を書く。
「五人は医務担当者の指示に従ってください。それ以外は通常どおり授業を始めます」
何もなかったようには扱わない。
だが、特別な英雄として壇上へ立たせることもしない。
ローディスは教本を開いた。
隣ではセイルが杖のない机へ指を置き、リュカは少しきつい長靴の爪先を机の下へ隠していた。
午前の授業が終わると、教室の戸口へ事務員が現れた。
「ベルグ。面会者が来ています」
学府は昨夜のうちに、演習へ参加した五人について、登録されている家族へ事故と負傷の程度を知らせていた。
案内された面会室で待っていたのは、ローディスより頭一つ低い女性だった。
焦茶色の髪を襟元でひとつに束ね、淡い緑の目を不安そうに伏せている。華奢な肩には帝国衛兵の濃紺の外套を掛けていたが、両手で抱えた布包みの方が似合って見えた。ただし、その指には弓弦を引き続けた者の硬い跡がある。
「母さん」
イーダ・ベルグは息子の顔を見るなり立ち上がった。
「顔は切っていないのね」
「打撲だけだ。もう診てもらった」
「打撲だけ、ではありません」
弱々しく聞こえる声だったが、ローディスを椅子へ座らせる手に迷いはなかった。包帯の位置を一つずつ確かめ、最後に両肩へ触れる。
「学府から、演習中に地下へ落ちて、正体の分からない生き物に襲われたと連絡が来ました。あなたが兵学府を選んだときから、怪我をしないとは思っていません。でも、演習で想定されていない危険まで、仕方がないとは思いません」
付き添ってきたマレーネへ向き直る。
「調査中でお話しいただけないことがあるのは分かります。それでも、なぜ生徒が巻き込まれたのか、再び同じことが起きないよう何をするのか。分かった時点で、家族にも説明してください」
「必ず」
マレーネは短く答えた。
イーダはそれ以上追及せず、ようやく椅子へ座った。膝の上で握っていた手を開き、息を吐く。
「ごめんなさい。顔を見るまで、きちんと話せる自信がなかったの」
「十分話していた」
「お父さんにも、私が先に行くと伝えました。勤務を代わってもらえたら、顔を見に来るそうです」
持ってきた布包みには、まだ温かい焼き菓子が入っていた。一人で食べ切るには多い。
「一緒にいたお友達にも渡して。皆さんのご家族も、心配しているでしょうから」
面会室の外で待っていたセイルが、僅かに目を逸らした。
「うちは、その心配はいりません」
「ご家族へ連絡が届いていないの?」
イーダが尋ねる。
「登録されている父には届いているはずです。帝国の宮廷精霊術師ですから、帝都にもいます」
セイルは淡々と答えた。
「母が亡くなるときにも、仕事を理由に帰らなかった人です。それ以来、僕からも連絡していません。向こうが今さら学府へ来るとは思えませんね」
部屋が静かになる。
イーダは慰めの言葉を探すように唇を開き、やめた。代わりに布包みから焼き菓子を一つ取り、セイルへ差し出す。
「では、これは私があなたを心配した分です。受け取ってください」
セイルは焼き菓子とイーダの顔を見比べた。
「そういう分け方をされると、断りにくいですね」
「母さんは、こういうときは強引だ」
「あなたの大切なお友達だもの。私にとっても大切な子たちなのだから当然だわ」
リュカも一つ受け取り、大げさに両手を合わせる。
「ローディスが立っていられたのは、きっとお母様が丈夫に育ててくれたおかげです。僕たちは大変助けられました」
「お前はまた、話を大きくする」
「命に関わるところは少しも大きくしてないよ」
その言葉に、イーダは一瞬だけ息を止めた。
それでも息子を連れて帰るとは言わなかった。ローディスの手を両手で包み、真っ直ぐに見上げる。
「人を守りたいというあなたを、止めるつもりはありません。ただ、あなたを守りたいと思う人がいることも忘れないで。必ず帰ってきてください」
「ああ」
ローディスは、迷わず頷いた。
◇
同じ頃、黒い獣は窓のない石室に横たわっていた。
帝国軍の施療施設。その地下にある、危険な生物を治療しながら拘束するための部屋だった。
四肢は革帯で台へ留められ、砕けた顎には薄い金属板が添えられている。
頭部には、まだ鉄輪が残っていた。
命の精霊術師が二人、獣の左右へ立つ。
一人が傷を塞ぎ、もう一人が頭蓋の内側へ伸びた金色の糸と血管の位置を確かめていた。
エレオノーラは黒石の杖を手に、台から三歩離れた場所にいる。
その隣にはディルクが立っていた。
「始めます」
鉄輪側に立つ術師が告げた。
術師の指先から、薄い緑の光が広がる。
鉄輪の留め具へ細い工具が差し込まれた。
金属が軋む。
獣の四肢が強張り、革帯が鳴った。
「押さえつけないでください」
エレオノーラが兵士たちへ言う。
「革帯が外れない限り、力を加えないように。怯えさせれば動きが大きくなります」
獣の黒い瞳が、周囲をせわしなく追う。
金色には変わらない。
最初の留め具が外れた。
鉄輪が僅かに浮く。
その下から現れたのは、毛の失われた皮膚と、頭蓋へ食い込んだ四本の細い針だった。
針の中心へ、金色の糸が束ねられている。
「輪そのものではなく、こちらが深く入っています」
術師が言った。
「一本ずつ抜きます。出血を止めながら、傷を閉じます」
二本目の留め具が外れる。
針が一本、引き抜かれた。
獣の喉から低い音が漏れた。
唸り声ではない。
痛みに耐える音だった。
エレオノーラは杖を下げたまま、獣へ声をかける。
「動かないでください。あれを外しています」
獣の耳が、声の方へ動いた。
「言葉が分かるのか」
ディルクが尋ねる。
「まだ判断できません」
エレオノーラは獣から目を逸らさない。
「ただ、声と動作を結びつけている可能性はあります」
二本目。
三本目。
針が抜けるたび、命の精霊術が傷口を塞いでいく。
最後の一本へ工具が触れたとき、金色の糸が震えた。
術師の手が止まる。
「マナが動きました」
エレオノーラが杖を上げる。
「どちらからですか」
「糸の内側です。ごく僅かですが、残っています」
切断され、壁からも離れた糸。
それでも、完全には空になっていなかった。
金色の光が針へ集まる。
獣の瞳が、一瞬だけ金色に染まった。
四肢が革帯を引き、台が軋む。
「抜いてください!」
エレオノーラの声と同時に、術師が最後の針を引き抜いた。
もう一人が傷へ両手を重ねる。
緑の光が広がり、噴き出しかけた血を止めた。
床へ落ちた針の先で、金色の糸が細く縮む。
獣の瞳から、金色が消えた。
拘束台の上で荒い呼吸を繰り返しながら、獣は外された鉄輪を見た。
そして、逃げるのではなく、残った力で首を伸ばした。
砕けた顎を開き、鉄輪へ牙を立てようとする。
「鉄輪から離れて!」
エレオノーラの杖が床を打った。
土の帯が鉄輪を包み、獣の口が届かない場所へ引く。
獣は追おうとした。
革帯に阻まれると、爪で台を掻いた。
「輪を壊そうとしたのか」
ディルクが鉄輪を見る。
「少なくとも、取り戻そうとした動きではありません」
エレオノーラが答えた。
石室の扉が、三度叩かれた。
入ってきたのは、灰色の作業着を着た薄い顔の女だった。
髪も目も、帝都のどこにでもいる焦茶色に変えている。
エヴァは扉を閉めると、懐から汚れた布片を取り出した。
「演習用の荷が置かれていた南倉庫で、帳面にない荷車を一台見つけたわ」
「また書類か」
ディルクの声に、疲労が滲む。
「いいえ。今回は空の荷台よ」
エヴァは布片を掲げた。
「御者台の下に挟まっていたの。獣の毛と、乾いた血がついてる」
ディルクの表情が変わる。
「この獣を運んだ荷車か」
「その可能性が高いわ。車輪の片方に新しい欠けがあった。同じ間隔の傷が、南倉庫から地下水路へ向かう石畳に残ってる」
エヴァは獣から距離を取り、布片を床へ置いた。
黒い鼻が動く。
一度。
二度。
獣の身体が強張った。
鉄輪を見たときとは違う。
耳を伏せ、台の上で布片から遠ざかろうとする。
「覚えているみたいね」
エヴァが言った。
エレオノーラは獣の正面へ立った。
「これを持っていた者が、あなたに鉄輪をつけましたか」
獣は答えない。
だが、布片を見たまま、喉の奥で低い音を漏らした。
エレオノーラが布片を右へ動かす。
獣の目も右へ動いた。
左へ戻す。
視線が追う。
「偶然ではなさそうです」
「荷車はどこから来た」
ディルクが尋ねる。
「それを調べるために来たの」
エヴァは作業着の袖から、小さな石片を出した。
片面に、車輪の鉄枠が擦れた新しい跡がある。
「欠けた車輪は、南倉庫へ入る前から傷を残していた。石畳を戻れば、運び込んだ経路を追えるわ」
「時間が経てば、他の車輪に踏み消される」
ディルクが言った。
エヴァはディルクを見た。
「だから、今から行く。監察官は?」
「行く。道路の一部を調べる理由なら、監察局の名で作れる」
エヴァは布片を畳み直した。
「輪を外せたなら、この獣はしばらくここで守って。運んだ人間の方は、私たちが見つける」
黒い獣が、もう一度だけ低く鳴いた。
人の言葉を理解したのか。
布に残った臭いへ怯えただけなのか。
まだ、誰にも断定はできない。
だが、鉄輪の下に残っていた傷は、獣が自ら望んで従っていたのではないと語っていた。
そして今度は、紙の上ではない道が、罠を作った者の側へ伸びていた。




