第65話 残された名前
演習開始を告げた鐘は、予定より早く止んだ。
代わりに帝都南側の街路を行き交っているのは、演習中止を伝える短い鐘と、退避を命じる兵士たちの声だった。
倉庫区画の広場には、白い天幕がいくつも張られている。
その一つで、リュカは長椅子に腰掛けていた。
右足には代わりの布靴が履かされている。裂けた長靴は、泥と血のついたまま椅子の下へ置かれていた。
命の精霊術師が、リュカの左手へ薄い緑の光を落とす。
裂けた掌の皮膚が寄り、赤く焼けていた部分へ新しい皮膚が広がっていく。
「これで手は塞がりました。足首の傷も浅いものです」
術師はリュカの右脚へ視線を落とした。
「骨と筋肉に異常はありません。長靴が裂けた理由までは分かりませんが」
「少し、育ち盛りだったのかもしれません」
リュカが微笑む。
術師は笑わなかった。
「一息の間に靴を破るほど育つ学生は、担当したことがありません」
「では、僕が最初ですね」
隣の長椅子で、セイルが小さく息を吐いた。
背中へ塗り薬を伸ばされながら、呆れた目をリュカへ向けている。
「その記録は、あまり誇らない方がいいよ」
「無事に成長したんだから、喜んでくれてもいいと思うけどなあ」
「長靴の買い直しまで僕に相談しなければ、好きに喜べばいい」
天幕の入口で、大きな影が動いた。
上半身へ包帯を巻かれたローディスが、治療を終えて戻ってくる。
「骨には異常がないそうだ」
「君はいつも、それで済むね」
「今回はお前も同じだろう」
再び天幕の布が持ち上がった。
「三人とも!」
最初に顔を出したのはニナだった。
結んでいた栗色の髪は半ば解け、制服の膝と袖には石の粉がついている。その後ろから、右手首へ布を巻いたトビアスが続いた。
ニナは三人の姿を順に確かめる。
ローディスの包帯。セイルが押さえている背中。リュカの左手と、椅子の下で裂けている長靴。
「本当に、大丈夫なの?」
「三人とも生きてるよ。ローディスなんて、いつもどおり頑丈だ」
リュカが笑顔で答えた。
「お前の方がひどい靴をしている」
「靴は生き物に数えなくていいと思うなあ」
ニナは笑わなかった。
「私を戻したせいで、リュカ君が落ちた」
リュカの笑みが僅かに薄くなる。
「違うよ。ニナを戻した後で、別のものに引かれたんだ。順番を一緒にしないで」
「でも、私は助けてもらっただけで……」
「崩れる前に声を上げた。地上に残って、見たものを先生たちへ話した。おかげで救助が鉄扉まで来られた」
リュカは左手の指を一本ずつ立てた。
「素晴らしい活躍だね。あの短い時間で、僕たちを落とした犯人より先に救助隊を動かしたんだから」
「そこまで大げさに言わなくてもいいよ」
「僕は控えめに言ってるつもりだけどなあ」
ニナはようやく、少しだけ息を吐いた。
トビアスは天幕へ入ってから、一度も三人の顔をまともに見ていなかった。
「俺は、何もしてない」
巻かれた右手首を、左手で握っている。
「落ちかけて先生に引っ張ってもらって、三人が落ちるのを見てただけだ。槍も持ってたのに」
「穴へ飛び込めばよかったと思っているのか」
ローディスが尋ねる。
「少しは」
「やめておけ。俺たちも、無事に着地できる確信があって飛び込んだわけじゃない」
「でも、二人は行った」
「リュカと組んで戦ってきたからだ。お前が同じ判断をする必要はない」
セイルも長椅子から口を挟む。
「地上に残る人間がいなければ、僕たちは今も鉄扉の内側だった。全員で落ちるのは、勇敢ではなく救助対象を増やすだけだよ」
「分かってる。分かってるけど、悔しいんだ」
トビアスが初めて顔を上げた。
「次に同じことがあったら、せめて足を引っ張られないようにする」
「同じことは起きない方がいいね」
セイルが返す。
「それでも起きたら、そのときは頼むよ」
トビアスは強く頷いた。
命の精霊術師が天幕へ戻り、ニナとトビアスへ治療確認の続きを告げた。
「外で待ってるから」
ニナはそう言い残し、トビアスとともに天幕を出ていった。
ローディスはリュカの前に立った。
淡い緑の目が、いつもの笑みを浮かべたまま見返してくる。
「俺たちだけで話せるか」
命の精霊術師は三人を見回した。
「長くは駄目です。クローデンはマナを消耗しています。エアハルトも、身体に異常がなくても休息は必要です」
「分かりました」
ローディスが答える。
術師が天幕を出ると、外の喧騒が布越しに遠ざかった。
三人の間へ沈黙が落ちる。
リュカは治ったばかりの左手を開き、ゆっくり握った。
「ヴァルガ」
声にしても、足から返事はなかった。
「聞いたことは?」
セイルが尋ねる。
「ないよ。実験のときも、研究員はそんな名前を呼ばなかった」
「なら、あの声は君より詳しい」
「そうみたいだね」
リュカは椅子の下にある長靴を見た。
右足の形に沿っていた革が、内側から引き裂かれている。
「僕の脚に何を入れたのか。どう変わるのか。あの声は知っていた」
「軍政総監がお前に触れた直後、脚の紋章が熱を持った」
ローディスが言う。
「その軍政総監が俺たちを演習へ推薦した。今日の罠は、お前だけを地下へ引き込んだ」
「そして、声は君を待っていた」
セイルが続ける。
「偶然で片づけるには、もう数が多すぎる」
リュカの笑みが薄くなった。
「軍政総監本人が、全部やったと言いたいの?」
「まだ言えない。本人が関わったのか、推薦を利用した別の誰かがいるのかも分からない」
セイルは慎重に答えた。
「ただ、君の過去を知る者が、軍政総監府に近い場所にいる可能性は高い」
「十分だ」
ローディスの声は低かった。
「次に会っても、一人で近づくな」
「卒業後の誘いを受けるつもりは、もともとないよ」
「誘いの話だけではない」
ローディスはリュカから目を逸らさない。
「お前はさっき、俺が掴んでも止まらなかった」
リュカの指が動きを止めた。
「……うん」
「獣はもう倒れていた。セイルにも届かなかった。それでも、お前はもう一度蹴ろうとした」
「分かってる」
返事から笑みが消える。
「止められなかったら、殺してた」
セイルは首元へ触れた。
牙の跡はない。けれど、獣の息が触れた感覚はまだ皮膚に残っていた。
「その前に、君が来なければ僕が死んでいた」
リュカが顔を上げる。
「助けたことと、その後に止まれなかったことは別だよ。後だけを残して、前までなかったことにしないでくれる?」
「ずいぶん優しいね」
「借りを勝手に消されると、収支が合わないだけだ」
セイルは淡々と答えた。
ローディスが腕を組む。
「怒ったのは、お前だと思うか」
リュカはすぐには答えなかった。
「セイルが食われそうになった。やめろって思った。そこまでは、僕だよ」
布靴の爪先が、僅かに床を擦る。
「でも、その後は分からない。怒りが大きくなりすぎて、僕が怒っているのか、脚の中から流れ込んできたのか、区別がつかなかった」
「声は、怒りに応じたと言った」
セイルが口を開く。
「ヴァルガが最初から怒りを作ったのではなく、君の怒りへ反応して力を流した可能性がある」
「僕が怒らなければ、出てこない?」
「そこまでは分からない。ただ、今日の順番はそうだった」
「なら、怒らなければ安全だね」
リュカの口元へ、ようやく笑みが戻る。
「簡単に言うな」
ローディスが即座に返した。
「お前はさっき、俺たちを狙われて怒った。次も同じことをされる」
「そのときは、また止めてくれる?」
「止める」
迷いのない返事だった。
「僕も手伝うよ。次は首を狙われていなければね」
「二人がかりかあ。僕も人気者になったなあ」
軽口はいつもと同じだった。
けれど、リュカの右足は椅子の下で動かない。
天幕の外から、靴音が近づいた。
「入ります」
エレオノーラが布を持ち上げる。
その後ろにはザイツがいた。顔には、疲労の色が濃く残っている。
「治療が終わり次第、三人には別々に話を聞きます」
エレオノーラは告げた。
「ただし、その前に確認しておくことがあります。地下で聞いた声は、獣の口から出ていましたか」
「いいえ」
セイルが答える。
「最初は鉄輪から聞こえました。糸を切った後は、壁の穴からです」
「声は、何と言っていましたか」
三人の視線が一度だけ交わる。
「僕を、器と呼んだよ」
リュカが自分で答えた。
「それから、ヴァルガ。僕にも聞き覚えのない名前だけどね」
エレオノーラの表情は変わらなかった。
「知っている名ですか」
リュカが尋ねる。
「いいえ。少なくとも、私が確認した軍の記録にはありません」
エレオノーラはそこで言葉を切った。
「獣の顎は、誰が砕いたのですか」
「セイルが口の中を凍らせ、俺が大剣で下から押さえた」
ローディスが答える。
「最後に、リュカが蹴った」
「三人の攻撃が重なった結果だと」
「そうです」
エレオノーラの視線が、椅子の下の長靴へ移る。
「その長靴は」
「落ちるときに、金色の糸へ足首を引かれたからね。たぶん、そのときに裂けたんじゃないかなあ」
リュカは困ったように笑った。
「破れていると気づいたのは、戦いが終わってからだけどね」
エレオノーラは長靴から三人へ視線を戻した。
「分かりました。後ほど、三人から別々に同じ順序を確認します」
「この内容は、通常の演習記録とは分けますか」
ザイツが尋ねる。
「地下での罠、獣、金色の糸、声の内容は、すべて調査記録へ残します。ただし閲覧者は救助と調査の担当者に限ります」
エレオノーラの声は平坦だった。
「声がエアハルトを何者だと考えているのか、ヴァルガが何を指すのか。推測は事実と分けてください」
「事情聴取が長くなりそうだね」
「隠し事がなければ、必要な分だけで終わる」
ザイツの言葉に、リュカは笑顔だけを返した。
◇
広場の端には、厚い布で覆われた荷車が停められていた。
黒い獣は荷台の鉄枠へ固定され、命の精霊術師二人と武装兵四人が周囲を固めている。
砕けた顎には、傷を塞ぐ緑の光が細く流れていた。
首の左右を支える木枠が頭を固定している。鉄輪と、そこから垂れた金色の糸は外されていない。
黒い瞳だけが、近づくエレオノーラを追った。
牙を剥く様子はない。
「初見の結果です」
命の精霊術師の一人が、記録板を差し出した。
「帝国内で確認されている狼や犬とは、骨格も内臓の位置も異なります。鱗は後から貼り付けたものではなく、皮膚から生えています」
「魔物ですか」
「可能性は高いですが、断定には比較資料が必要です」
術師は獣の胸へ目を向けた。
「体内のマナが大きく減っています。三人の証言にある黒い風で消費した可能性が高い。精霊術の痕跡もありません。自らのマナで起こした魔術と考えるのが自然です」
「鉄輪との関係は」
「壁との接続が切れた後、鉄輪から獣へ流れ込むマナも、獣から外へ出ていくマナも確認されていません。少なくとも今は、力を与える道具には見えません」
エレオノーラは布越しに鉄輪を見た。
「命令を伝え、意思を抑えるためのもの」
「その可能性があります。ただ、糸は頭蓋の内側まで入り込んでいます。外すなら、設備と複数の命の精霊術師が必要です」
「生かしたまま運びます」
エレオノーラは即答した。
「糸の断片とは別々の場所へ保管してください。担当者名、移動時刻、封印の確認者を一つずつ残す。命令だけで受け渡さず、必ず双方が記録へ署名するように」
「承知しました」
術師が荷車へ戻る。
入れ替わるように、ザイツが歩いてきた。
「三人は」
「重傷ではありません。事情聴取を終えれば、今日は学府へ戻せます」
ザイツの肩から、僅かに力が抜けた。
「五人を預かって、三人を地下で失いかけた」
「警戒させていたつもりで、俺自身が決められた演習経路を安全だと思い込んでいた。崩落の兆候にも、生徒より先に気づけなかった」
「私もです」
エレオノーラは否定しなかった。
「地下構造の調査は演習開始前にも行われています。現在の図面にない空間がある可能性を、確認済みという言葉だけで除外しました」
「学生へ反省を求める前に、監督側がやることがある」
「ええ。演習計画、地下調査、資材搬入、参加者選定。すべてを最初から確認します」
「演習の再開を求める声が出ている」
「誰からですか」
「予定どおり実施した区画には異常がなく、一部の事故で帝都全域の訓練を止めるべきではない、と」
エレオノーラは荷車を見た。
黒い獣の頭部には、人の手で作られた鉄輪が食い込んでいる。
「事故ではありません」
「分かっている」
ザイツの返事は短かった。
「学府の参加者は、全員引き上げさせる。軍が続けるなら、学生抜きでやればいい」
「こちらも、宮廷精霊術師の安全確認が終わるまで再開を認めません」
二人の視線の先で、荷車がゆっくり動き出した。
黒い獣は暴れない。
遠ざかる天幕の中では、三人の事情聴取が始まろうとしている。
残された名が、誰のものなのか。
その名を知る声が、帝国のどこに潜んでいるのか。
答えを知る者だけが、すでに次の結果を待っていた。




