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黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

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第64話 怒りの輪郭

 乾いた石が砕ける音とともに、リュカが飛び出した。


 黒い獣がローディスへ届くより先に、その横腹へ蹴りを放つ。


 獣は空中で身体を捻り、蹴りを避けた。


 リュカへ爪も牙も向けない。


 着地すると同時にリュカの脇を抜け、なおもローディスへ飛びかかった。


 大剣が横へ振られる。


 刃は獣の首を捉えたが、黒毛に混じる鱗へ弾かれた。


 硬い音が貯水槽に響く。


 獣は着地と同時に身体を沈め、ローディスの左脚へ噛みつこうとした。


 ローディスは大剣を縦に差し込み、上下の牙を刃で受け止める。


「こいつ、俺たちだけを見ている!」


 獣の金色の目は、すぐそばにいるリュカへ一度も向かなかった。


 リュカが再び側頭部へ蹴りを放つと、獣はローディスの大剣を離して後ろへ跳んだ。


 反撃はしない。


 リュカとの距離だけを取り、今度はセイルへ頭を向ける。


「命令を理解してるみたいだね」


 セイルが獣の動きを追いながら言う。


 セイルは杖を床へ向けた。


 水が石床を走る。


 獣の前脚へ巻きついた瞬間、火の精霊が水から熱を退けた。


 氷が両脚を覆う。


「止めた!」


 セイルが叫ぶ。


 だが、獣の胸が大きく膨らんだ。


 口の奥に、黒い靄が集まる。


「伏せろ!」


 リュカの声と同時に、獣が黒い風を吐いた。


 空気の塊が貯水槽を横切る。


 床の水が飛沫となって舞い、獣の脚を覆っていた氷へ無数の亀裂が走った。


 セイルは杖を両手で支えたが、身体ごと後ろへ押し流される。


 背中が石壁へぶつかった。


「セイル!」


 ローディスが獣へ踏み込む。


 砕けた氷から前脚を引き抜く瞬間を狙い、大剣の腹で鼻先を殴った。


 獣の巨体が横へ揺れる。


 ローディスは追撃せず、セイルとの間へ立った。


「動けるか」


「息が詰まっただけだよ」


 セイルは壁へ手をつきながら立ち上がる。


「それより、あの風だ。水だけじゃなく、氷まで内側から割られた」


「魔術か?」


 ローディスが尋ねる。


「その可能性は高い。マナは動いた。でも、精霊へ願いを伝える声も、紋章もなかった」


 獣が低く唸る。


 頭部の鉄輪へつながった金色の糸が、弦のように張っていた。


 糸は壁の穴へ続き、時折、脈打つように光っている。


「あの輪を外そう」


 リュカが言った。


「声も糸も、あそこにつながってる」


「外せば止まる保証は?」


 セイルが問い返す。


「ないよ。でも、ほかに分かりやすいものがない」


「十分だ」


 ローディスは大剣を構えた。


「俺が口を止める。セイルは脚。リュカが輪を壊せ」


「僕が一番危なくない役でいいのかな」


 リュカが笑う。


「獣がお前を避けるなら、その方が確実だ」


 ローディスは獣から目を離さない。


「不満なら、終わった後で聞く」


「分かったよ」


 リュカの笑みが僅かに深くなった。


「二人とも、壊されないでね」


 獣が再び胸を膨らませる。


 セイルは杖の紋章板を親指で切り替えた。


 黒い風が吐き出される直前、獣の口内へ水を放つ。


 風に押し戻されるより先に、水から熱を奪った。


 牙の間で氷が膨らむ。


 獣の口が半ば閉じた。


 漏れた黒い風が左右へ逸れ、石壁を叩く。


「今だ!」


 ローディスが正面から踏み込んだ。


 大剣を獣の口へ差し入れ、氷ごと上下の顎を押し開く。


 刃を噛む牙が軋んだ。


 獣が首を振るたび、ローディスの足が床を滑る。


 セイルは残った水を後脚へ回し、床ごと凍らせた。


 前へも後ろへも動けなくなった獣の横を、リュカが駆け抜ける。


 頭部へ片足を掛けた。


 短剣を鉄輪と鱗の隙間へ差し込み、捻る。


 鉄輪が僅かに浮いた。


 その下には、毛も鱗もなかった。


 金色の糸が何本も皮膚へ食い込み、頭蓋の内側へ根を伸ばしている。


「これは――」


 リュカが息を止めた。


 壁へ続く糸が、強く光った。


 獣の身体が跳ねる。


 凍りついた後脚の皮膚が裂け、血を流しながら氷から抜けた。


 リュカを振り落とし、ローディスごと大剣を横へ弾く。


 ローディスの巨体が石床を転がった。


 獣は追わない。


 身体を反転させ、壁際のセイルへ走る。


 セイルは杖を向けたが、紋章板へ指を掛けるより獣の方が速かった。


 前脚が杖を打つ。


 新しい杖が手を離れ、床を滑った。


 獣の口から、砕けた氷が落ちる。


 開いた顎が、セイルの首へ迫った。


「やめろ!」


 リュカが叫んだ。


 足首の傷が熱を持つ。


 両脚に刻まれた紋章が、衣服の下から赤く透けた。


 普段なら、内側から押し寄せるものを鎮めるための紋章だった。


 だが今は、流れ込む怒りを抑えきれない。


 セイルの首へ牙が届く。


 その光景を見た瞬間、リュカの右脚の肉が動いた。


 筋肉が皮膚の下で束を組み替える。


 脛が僅かに伸び、足首が太くなる。耐えきれなくなった長靴の縫い目が裂けた。


 石床を踏み砕く。


 次の瞬間には、リュカの姿が消えていた。


 獣の牙が閉じる直前、その下顎へ右足が突き上がる。


 骨の砕ける音がした。


 獣の巨体が宙へ浮く。


 天井へ背中から叩きつけられ、石片とともに落ちてきた。


 リュカは着地すると、倒れた獣へ向かって再び踏み込んだ。


「リュカ、待て!」


 ローディスが後ろから肩を掴む。


 止まらない。


 ローディスの足が、石床を二歩滑った。


「もうセイルには届かない!」


 その言葉で、リュカの足が止まった。


 獣は横倒しになり、砕けた顎から血を流している。


 胸は、まだ僅かに上下していた。


 セイルが首元を押さえながら、獣から距離を取る。


「噛まれてないよ」


 掠れた声だった。


「君の蹴りで、心臓が止まりかけたけどね」


 リュカが振り返る。


 淡い緑の目は二人を映していたが、呼吸は荒い。


「……本当に?」


「首はつながってる。見れば分かるだろう」


 セイルは皮肉を返した。


 リュカの右脚が、ゆっくり元の細さへ戻り始める。


 裂けた長靴の間から見える皮膚には、赤い紋章が浮かんでいた。


 やがて光が薄れ、紋章も衣服の下へ沈む。


「今のは」


 ローディスが尋ねる。


 リュカは答えようとしたが、その前に重なる声が笑った。


「怒りに応じ、器の肉体まで作り替える。定着は想定以上だ」


 貯水槽の壁に開いた穴から聞こえる。


「誰だ!」


 ローディスが怒鳴る。


「次は、どこまでが器で、どこからがヴァルガかを――」


「次はないよ」


 セイルが杖を拾い、壁の穴へ向けた。


 細い水が穴へ入り込む。


 壁穴の手前に露出していた金色の糸を包み、そのまま凍結した。


 氷の中で糸が激しく震える。


 壁の奥へ引き戻されようとした糸が、凍りついた箇所で大きく撓む。


 次の瞬間、壁穴の縁で糸が切れた。穴の奥へ続く側だけが、暗がりへ逃げていく。


 重なる声も消えた。


 獣の鉄輪につながった側は、力を失って床へ落ちた。切れた先端だけが氷に閉じ込められている。


 セイルはその先端から、凍りついた一部を慎重に折り取った。


「持って帰れる」


 その声に、わずかな安堵が混じる。


「輪も外せるか」


 ローディスが獣のそばへ屈んだ。


「無理に抜けば、頭の中を傷つける。ここでは触らない方がいい」


 セイルが答える。


 三人は獣の四肢を氷で床へ固定した。さらに首の左右へ氷の塊を作り、砕けた顎へ触れないよう頭の動きだけを封じた。


 壁とのつながりを断たれた金色の糸から、ゆっくりと光が失われていく。


 それに伴うように、獣の金色の瞳からも光が消えた。


 黒い瞳が、怯えたように三人を見る。


 低い鳴き声を漏らし、動かなくなった。


「命令されていただけか」


 ローディスが、獣の頭に残る鉄輪を見下ろす。


「そう見える。でも、まだ断定はできない」


 セイルは切り取った金色の糸だけを、さらに薄い氷で覆った。


 リュカは獣のそばに膝をつく。


 左手を伸ばしかけ、焼けた掌を見て止めた。


「僕たちを襲ったことも、忘れてはいけないけどね」


 その声から、先ほどの怒りは消えていた。


     ◇


 鉄扉の向こうから、規則正しく金属を叩く音が聞こえた。


 三度。


 間を置いて、さらに三度。


「軍の救助合図だ」


 ローディスが立ち上がる。


 扉へ近づき、大剣の柄で同じ回数を返した。


 外から声が聞こえる。


「中にいるのは誰ですか!」


 エレオノーラの声だった。


「ベルグ、クローデン、エアハルトです! 三人とも生きています!」


 ローディスが答える。


「扉から離れてください!」


 三人が下がる。


 扉の縁へ土色の光が走り、周囲の石がゆっくり外側へ動いた。


 鉄扉ごと壁の一部が抜ける。


 黒石の杖を構えたエレオノーラと、松明を持つ救助兵たちが姿を現した。


 その後ろにはザイツもいる。


 ザイツは三人の姿を順に見た。


 ローディスの汚れた制服。


 首元を押さえるセイル。


 左手を負傷し、右の長靴が裂けたリュカ。


「報告は後だ。歩けるか」


「はい」


 ローディスが答える。


「それと、これを」


 セイルが、氷で覆った金色の糸を示した。


「壁の奥と、あの獣の鉄輪をつないでいました。声を伝え、命令するためのものだと思います。壁の奥へ続く側は逃げました。鉄輪側はまだ獣につながっていますが、その先端から断片を確保しました」


 エレオノーラは素手で触れず、兵士へ金属箱を用意させた。


「獣は生きていますか」


「拘束しています」


 セイルが答え、獣の頭を指した。


「鉄輪は頭へ食い込んでいます。無理に外せば危険だと判断して、そのままです」


 エレオノーラは頷き、救助隊の後方にいた命の精霊術師へ顔を向けた。


「獣の搬送を。鉄輪には触れず、状態を保ってください」


 それから、氷に閉じ込められた糸を指す。


「そちらは素手で触れないよう、金属箱へ収容します」


 エレオノーラは檻と獣、床に残る戦闘の跡へ視線を巡らせた。


「この区画を閉鎖するだけでは足りない」


 ザイツが言う。


「何者かが生徒を狙って地下へ引き込み、正体不明の獣を放った。帝都防衛演習そのものを止めるよう、学府から要求します」


「私からも軍務院へ通告します」


 エレオノーラは黒石の杖を握り直した。


「これは、もう演習ではありません」


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