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黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

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第63話 演習の外

 暗闇の中で、風が下から吹き上がった。


 金色の糸の一端はリュカの足首へ絡み、もう一端は崩落孔の壁に開いた亀裂へ潜り込んでいる。


 身体が石壁へ引き寄せられた。


 リュカは腰の短剣を抜いた。


 鍔元の赤い封印紐へ指を掛け、引き切る。刃を包んでいた演習用の覆いが外れ、崩落孔の底へ落ちていった。


 演習中なら失格となる行為だった。


 だが、術式も発声もなく崩れた地面と、足首を壁へ引く金色の糸は、すでに演習の範囲ではない。


 露出した短剣の刃を、糸へ当てる。


 細い糸は切れない。金属を擦ったような音だけが散った。


「リュカ!」


 頭上からローディスの声が近づく。


「こっちへ来ないでって言うには、もう遅いね!」


 リュカは壁を蹴った。


 糸に引かれる力を利用し、石壁へ足から飛び込む。右足で壁を踏み砕き、その反動で身体を捻った。


 短剣を持つ手ではなく、左手で糸を掴む。


 掌が焼けるように熱を持った。


 それでも握り込み、力任せに引く。


 金色の糸が僅かに弛んだ。


「セイル、下だ!」


 落下しながら、ローディスが叫ぶ。


「見えてるよ!」


 セイルは杖を真下へ向けた。


 指先の紋章へマナを流す。


 水が暗闇を裂いて壁へ広がり、石の凹凸を覆った。続いて火の精霊へ願い、広がった水から熱を退けてもらう。


 氷が斜めの壁を作る。


 ローディスは大剣を抜き、鍔元の赤い封印紐を引き切った。


 外れた刃覆いが、暗闇へ吸い込まれる。


 剥き出しになった刃を、石壁の亀裂へ突き立てた。


 火花が散る。


 落下の勢いに押され、刃が壁を削りながら下へ滑った。


 速度が僅かに落ちる。


 ローディスの肩が氷の斜面へぶつかった。身体を横へ転がし、片手でリュカの外套を掴む。


 直後、セイルも氷へ落ちた。


 三人の重さに耐えきれず、氷の斜面が砕ける。


 水と氷片に押し流され、三人はさらに下へ落ちた。


 今度の落下は短かった。


 水の溜まった石床へ、ローディスの背中から叩きつけられる。


「ぐっ……」


 その上へリュカが落ち、最後にセイルの膝がローディスの脇腹へ入った。


「重い」


 ローディスが呻く。


「僕は軽い方だよ」


 リュカが答える。


「比較する相手を選んでる場合かい」


 セイルはローディスの上から退き、杖を拾った。


 火の精霊へ短く願い、杖先のすぐ前へ小さな炎を留める。揺れる橙色の明かりが、三人と濡れた石壁を照らした。


 杖の先に刻んだ紋章へマナを流し、水を細い帯にして周囲へ巡らせる。炎の届かない先で水が石へ触れる音を頼りに、空間の広さを測った。


「壁は左右に二歩。天井は……高いね。落ちてきた穴は、もう塞がってる」


 頭上から、石同士が擦れる重い音が続いていた。


 ローディスは起き上がり、自分の肩と脇腹を確かめる。


「骨は折れていない。二人は」


「僕も平気」


 リュカは左の掌を開いた。


 赤く焼け、皮膚が細く裂けている。


 足首には、糸が食い込んだ輪状の傷が残っていた。


「平気な手には見えないね」


 セイルが言う。


「これくらいなら、すぐ動けるよ」


「糸はどうした」


 ローディスが周囲へ大剣を向ける。


「途中で消えた。切れた感じはしなかったな」


 リュカは足首を擦った。


「僕をここまで運べれば、それでよかったみたいだ」


 三人が黙る。


 落ちた場所には、自然に崩れた土も、剥き出しの岩もなかった。


 左右の壁は切り揃えた石で組まれ、床の中央には細い水路が通っている。長く使われていないらしく、水は足首にも届かないほど浅かった。


「帝都の地下に、こんな場所があるのか」


 ローディスが尋ねる。


「古い導水路かもしれない」


 セイルは壁へ触れた。


「今の地図には載っていなかった。でも、石組み自体は新しくない」


「偶然、真上を通ったわけじゃなさそうだね」


 リュカが言う。


 誰も否定しなかった。


     ◇


 地上では、ニナが崩落孔を塞いだ石へ手を伸ばしかけていた。


「触るな」


 ザイツの声に止められ、手を引く。


 ザイツは右腕でトビアスを引き上げると、その場へ膝をついた。


「二人とも、怪我は」


「ありません」


 ニナが答えた。


「俺もです」


 トビアスは右手首を押さえながら、塞がった地面を見る。


「三人が下にいます。早く掘らないと」


「闇雲に石を外せば、下へ落ちる」


 ザイツは立ち上がり、演習用の笛を三度短く吹いた。


 付近の誘導員と兵士が振り返る。


「実際の崩落だ! この区画の演習を止めろ! 住民役を東の通りへ退避させろ!」


 演習のために鳴っていた鐘へ、人の声が重なった。


 屋根の上から、鉄色の外套が飛び降りる。


 エレオノーラは黒石の杖を地面へ突き、崩落地点の前で目を閉じた。


 短い精霊語を発する。


 石畳の隙間から細かな砂が浮き上がり、地面の上へ幾重もの線を描いた。


「三人が落ちました」


 ニナが言う。


「リュカ君が私を戻して、その後にローディス君とセイル君も」


「崩れる前に、何か見えましたか」


 エレオノーラが尋ねる。


「いいえ。音がして、地面が持ち上がって……」


「底から、すごい風が噴き上がりました」


 トビアスが続けた。


「セイルの水を散らして、それから、金色の何かがリュカの足を掴みました」


 エレオノーラの銀色の眉が動く。


「精霊語は」


「聞いていません」


 ニナが答える。


「紋章も光っていませんでした」


 エレオノーラは杖を握り直した。


 地面へ描かれた砂の線は、崩落孔を中心に不自然な円を作っている。


「地面が崩れたのではありません。下から切り離され、持ち上げられています」


「土の精霊術ですか」


 ニナが尋ねた。


「少なくとも、私が知る術式ではありません」


 エレオノーラは周囲の兵士へ顔を向けた。


「救助班と、地下水路の管理図を。石は上から退けますが、三人の位置が分かるまで大きく動かしてはいけません」


 ザイツが短く頷く。


「フェルナー、ケルン。お前たちは治療所へ行け」


「怪我はありません」


 トビアスが言った。


「怪我の有無を決めるのは治療担当だ。それに、見たことを一つずつ書き残せ。今の記憶を後から混ぜるな」


「先生は?」


 ニナが尋ねる。


「ここに残る」


 ザイツは塞がった穴から目を離さなかった。


「あいつらを連れて帰るまでが、俺の監督だ」


     ◇


 地下では、セイルが頭上へ向けて水を伸ばしていた。


 水は石の隙間へ入り込むが、途中で流れを止められる。


「駄目だ。隙間が狭すぎる。無理に凍らせて広げれば、全部落ちてくる」


「上へ声は届くか」


 ローディスが尋ねる。


「試してみるよ」


 セイルは水を細い管状にまとめ、塞がった隙間へ差し込んだ。


「先生! 聞こえますか!」


 声は水の管へ響いたが、返事はない。


 セイルは水を戻した。


「向こう側まで通っていない。地上から掘るにも時間が掛かる」


「なら、別の出口を探す」


 ローディスが大剣を背負い直す。


「待っていれば、先生たちが来るかもしれないよ」


 リュカが言った。


「ここへお前を引き込んだものも来るかもしれない」


 ローディスは暗い水路の奥を見た。


「そっちの方が早そうだね」


 リュカは笑ったが、その目は暗い水路の奥へ向いたままだった。


 セイルが二人の間に杖を上げる。


「地上の救助を待つにしても、周囲の確認は必要だ。ただし、曲がり角を一つ進むたびに戻れる道を残す。氷で印を付けるよ」


「分かった」


 ローディスが先頭に立つ。


 その後ろをリュカ、最後尾をセイルが進んだ。


 十歩ごとに、セイルが壁へ薄い氷片を貼り付ける。


 導水路は緩やかに下っていた。


 壁の苔は乾き、床の水も次第に少なくなる。長く放置された場所に見える一方、足元の泥には新しい擦れ跡が続いていた。


「何かを運んだ跡だ」


 ローディスがしゃがみ込む。


 二本の平行した溝。車輪ほど細くはなく、重い箱か檻を引きずったように幅がある。


「上の演習準備に紛れて運んだのかな」


 リュカが言う。


「断定はできないよ」


 セイルが答える。


「でも、泥が乾いていない。最近ここを使った者がいるのは確かだ」


 三人は足跡を重ねないよう、溝の脇を進んだ。


 やがて、前方に淡い明かりが見えた。


 灯火の色ではない。


 天井に嵌められた小さな石が、青白く光っている。


「マナ灯(まなとう)だ」


 セイルが声を落とす。


「放置された水路にしては、親切だね」


 リュカも小声で返す。


 ローディスは大剣へ手を掛けた。


 導水路の先は、円形の貯水槽へつながっていた。


 水は抜かれ、底には乾いた石床が広がっている。反対側には、地上へ続くと思われる鉄扉があった。


 そして中央には、一つの檻が置かれていた。


 人の背丈を超える鉄格子。


 その中で、黒い獣が伏せている。


 狼に似た輪郭だった。


 だが、横たわった状態でもローディスの腰ほどの高さがある。黒い毛の間には硬い鱗が混じり、前脚の爪は石床へ食い込んでいた。


 頭部には鉄の輪が嵌められている。


 貯水槽の壁に開いた穴から、金色の糸が伸びている。


 糸の先は、獣の頭部に嵌められた輪へつながっていた。


「さっきの糸だ」


 ローディスが言う。


「同じ色には見える」


 セイルは断定を避けた。


 リュカだけは檻ではなく、その向こうの鉄扉を見ている。


「出口まで、ずいぶん分かりやすいね」


 三人が貯水槽へ入ると、背後で重い音が響いた。


 導水路を塞ぐ鉄板が、天井から落ちている。


 戻り道が閉ざされた。


 黒い獣が頭を上げる。


 瞳は金色だった。


 唇が持ち上がり、人の指ほどもある牙が並ぶ。


 その頭部の鉄輪から、声がした。


「確認を始める」


 男とも女ともつかない声が、幾重にも重なっている。


 三人は、その響きを知っていた。


 六本指の異形へ命令していた声と、よく似ている。


「何を確認する」


 ローディスが檻の前へ出る。


「ローディス、返事をする必要はない」


 セイルが制した。


 重なる声は、二人を無視した。


「器は壊すな」


 檻の金具が、一つずつ外れていく。


「残りは、好きに食え」


 リュカの笑顔が消えた。


 黒い獣の視線は、ローディスとセイルだけを見ている。


 鉄格子が持ち上がった。


 獣が石床を蹴る。


 リュカの足元で、乾いた石が砕けた。


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